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救急外来で怒られて
4年前の夏、74歳の母が小腸がんで亡くなりました。突然の腹痛に襲われ、一晩我慢しても治まらなかったので明け方に病院に行ったところ、便秘という診断でした。翌日早朝も腹痛が来て、今度は別の病院でX線写真を撮りましたが、やはり便秘とのこと。薬を飲んでも治まらず、次の明け方、また痛みが増したので再び同じ病院に行くと、「こんな事で救急外来に来られても困る」と医師に怒られました。ところが10時の診察開始を待って検査を受けると、末期の小腸がんで腸が破裂し、骨や肝臓にも転移しており、「余命、1、2週間」と告げられました。状況をのみ込めない中、医師から「この病院にはずっとは入院できない。1カ月後には出てもらいます」と言われました。せかされるように手術を受けたものの、開けて閉じただけでした。自宅に連れ帰り、孫の誕生会など有意義な1カ月を過ごして息を引き取りました。在宅診療の医師は夜中にも駆けつけてくださり、感謝しています。医師にもいろいろ、と痛感しました。神奈川県 女性 50歳。(6月27日 朝日新聞 患者を生きる 消化器 読者編より)

Jun 30, 2013 10:29

子育てに追われ、つい
7年前、胃がんが見つかりました。その1年ほど前から、胃のあたりがキリキリ痛むなど体の不調を感じていましたが、放置していました。子育て真っ最中で忙しかったし、何よりも健康への過信はあったからです。頻繁に「げっぷ」が出て、人と話をするのにも難渋するようになってから、さすがに変だと病院に行きました。血液検査でヘモグロビン量が通常の半分以下とわかり、おなかを触診した医師が、すぐに大学病院への紹介状を書いてくれました。結果は、スキルス胃がん。かなり進行していて幸い手術はできましたが、胃の5分の4を失いました。その後4年間は抗がん剤をのみ、心身ともにつらい日々を過ごしました。スキルス胃がんは胃の粘膜の下を広がっていくので見つけにくいうえ、進行が速く、若い女性に多いそうです。不調のサインを見落とさず、早めの受診が大切だと痛感しました。(6月25日 朝日新聞 患者を生きる 消化器 読者編より)
Jun 29, 2013 07:24

陽性反応、10年間も放置
昨年2月、大腸がんが見つかりました。定期健康診断で便の潜血反応が陽性と出て、内視鏡の精密検査を受けたところ、手術が必要だと言われました。実は過去10年ほど、検診で毎年のように潜血反応は出ていたのですが、精密検査を受けずにきました。20年以上前、初めての人間ドックで結腸にポリープが見つかり、それを機に何度か内視鏡検査を受けたとき、苦しいし痛いしで、いつしか敬遠するようになっていたのです。最近の内視鏡検査は鎮痛剤の使用で楽に済むと聞いたことから、今回は、思い切って受けることにしました。実際、全く苦痛がなく驚きました。手術も、へその下とその脇に小さな穴を2カ所あけ、内視鏡と器具を入れての、「腹腔鏡手術」でしたが、術後の経過がよく、病人らしいのは当日と翌日ぐらい。これなら心配することなく、精密検査も早く受けておれば、と思いました。神奈川県 中村浩 67歳。(6月25日 朝日新聞 患者を生きる 消化器 読者編より)
Jun 28, 2013 08:01

抗がん剤、3種に増える
日本膵臓学界は、改訂作業中の13年版「診療ガイドライン」で、できるだけ病理診断することを求めている。しかし、膵臓の組織を散るのは難しく、もっぱらCTなどの画像で診断することが多い。画像をもとに手術した「病変部」の5~10%は、結果的に良好だったという。切除できないがんに対しては、抗がん剤と放射線療法を組み合わせた方法などをとる。肝臓などに転移していると、抗がん剤単独の治療となる。新ガイドラインでは勧められる抗がん剤が1種類から3種類になる。山口幸二・産業医科大教授は「選択肢が増えた。ほかにも有力な化学療法が2つあり、国内で治験が進んでいる」と期待する。ただ抗がん剤での根治は一般的に望めない。モルヒネなどで痛みを和らげたり、カウンセリングで精神面をケアしたりする支持療法が、どの段階の患者にも必要だとしている。膵がんの撲滅を目指し、患者を支援するNPO法人「パンキャンジャパン」のウエブサイト(http://pancan.jp/)には、全国の専門病院などが掲載されている。(6月16日 朝日新聞 患者を生きる 消化器 膵がん より)
Jun 27, 2013 07:42

難治がんの代表 膵がん
膵がんで亡くなる人は年間2万8千人(2011年)。がんの部位別では5番目だが、5年生存率では約6%で最低。「難治がんの代表」と言われる。リスクが高いのは、「家族に膵がんになった人がいる」「糖尿病や慢性膵炎など膵臓の病気がある」「喫煙や大量飲酒の嗜好がある」などが複数当てはまる人という。どんながんでも早く見つかれば、切除で治る可能性が高まる。だが、膵臓は腹部の奥深くにあり、症状が出にくい。2センチ以下の初期がんでは、約2割が無症状という報告もある。国立がん研究センター中央病院の奥坂拓志・肝胆膵内科科長は「腫瘍マーカーや超音波など、血液や画像の検査を定期的に受けてもらいたい」と話す。腹痛や黄疸、背中の痛み、全身の倦怠、嘔吐などの症状は、膵がんに特徴的なものとは言えない。加えて膵臓の周りには「防波堤」となる筋肉の層がなく、がんが広がりやすい。患者の約8割が切除が困難な状態になって見つかる。(6月16日 朝日新聞 患者を生きる 消化器 膵がん より)
Jun 26, 2013 07:35

再発なく6年、命拾った
6月21日、抗がん剤治療の中止を決めたことが告げられた。天にも昇るような思いだった。以来、丸6年。定期的に画像検査などで再発がないかどうか調べてもらったいる。2センチほどの影は残っているものの、今のところ兆候は見つかっていない。「非常にまれな例だ」と吉田さんは思う。診断した2004年当時、細胞を取り出して調べる方法は一般的でなかったという。9割以上の診断率がある画像での診断を、吉田さんもよりどころにした。考えられるのは、広がって見えた腫瘍の大半は炎症で、実は小さな早期のがんだった可能性があること。その小さながんに放射線がピンポイントで作用し、抗がん剤も相乗効果があったこと、などだ。いずれにしても、た田栗さんは感謝の思いでいっぱいでいる。そして、こう語ってくれた。「拾った命。私は運が強いんです。14歳で遭った(長崎の)原爆のときもラッキーだった。がんの恐怖から開放されたとは思っていないが、結局のところ、悲観せず、日々を楽しむことが大事だと思っています」。(6月15日 朝日新聞 患者を生きる 消化器 膵がん より)
Jun 25, 2013 07:52

抗がん剤治療中止へ
「治療を始めてかなり時間が経過しました。一時、治療を休んでみようかと考えています」。抗がん剤の点滴を受ける外来治療を続けていた田栗元美さん(82)は2007年5月下旬、川崎医大病院(倉敷市)の主治医、吉田浩司さん(44)から提案を受けた。膵がんと診断されてから2年半が経とうとしていた。放射線療法を受けた当初、副作用で4カ月入院したが、その後は2週間に1回の抗がん剤の点滴だけ。経過はよく、CT検査でがんは小さくなっていた。喜ばしいことだが、吉田さんははかりかねていた。経験上、田栗さんの段階まで進行した膵がん患者の余命は1年ほど。抗がん剤が効かなくなってがんが増殖したり、転移したりしても不思議はない。だが田栗さんの場合、悪化は全くなかった。がんは本当に死滅したのだろうか・・・・。画像では、がんと見られる影は残っている。だが膵がんに多い「かさぶた」のような組織だけかもしれない。膵がんがあると増える腫瘍マーカーを念のために検査したが、数値は正常だった。(6月15日 朝日新聞 患者を生きる 消化器 膵がん より)
Jun 24, 2013 07:54

腸炎に感染 入院長引く
「いつの間に かくも痩せ細りたり これがわが身かと 突き出したあばら骨をじっとみつめる」と詠んだ。絶食が2週間続いた頃、採取した組織の検査でサイトメガロウイルス腸炎にかかっていることが判明した。放射線治療による抗がん剤の副作用で免疫力が落ち、感染したらしい。抗ウイルス作用がある点滴治療を受けると体調はようやく上向いた。当初の予定より2カ月遅れた4月、退院して我が家に戻った。人生が再スタートしたような気分だった。「悔いのないよう楽しもう」と趣味の家庭菜園に精を出し、好きな焼酎を飲んだ。2週間に1度通院し、外来で抗がん剤を点滴した。マイカーで誰に気兼ねすることなく通えたため、苦にならなかった。主治医の吉田浩司さんからは「点滴後、気分が悪くなることがあります」と注意されたが、支障が出たことはなかった。半年が過ぎ、1年がたった。気がつけば体重はもとあった60キロを超えていた。周囲に「膵がんで入院していた」と言っても、信じてくれないような血色の良い笑顔を取り戻していた。(6月14日 朝日新聞 患者を生きる 消化器 膵がん より)
Jun 23, 2013 08:37

退院のめどが立たない
腹痛や発熱の副作用に耐え、田栗元美さん(82)は2005年2月、入院している川崎医大病院(倉敷市)で全28回の放射線治療を終えた。放射線の担当医はCT画像を示し、「5センチほどあった直径が、半分の3センチほどになっている」と説明した。入院当初の説明どおりならば、これで来院し、抗がん剤の点滴を主とした外来治療に切り替わるはずだった。ところが、退院のめどは立たなかった。午後になると、腹痛とともに熱が上がる。鎮痛と解熱のために座薬を入れると汗をかき、着替える。この繰り返しが、日々、未明まで続いた。大腸カメラや超音波の検査で、大腸に潰瘍があることがわかった。肛門に近い「S状結腸」を中心に、軽い炎症も広がっているという。「もう一つ病気を抱えてしまった。2倍の戦いが始まるのか」と覚悟した。絶食が始まった。栄養は点滴のみ。食事という生活のリズムが失われ、時が消えてなくなったような気がした。体重は減り続け、43キロまで痩せた。(6月14日 朝日新聞 患者を生きる 消化器 膵がん より)
Jun 22, 2013 07:55

放射線・・・よぎる被曝体験
その後も4年ほど長崎で暮らし、就職して宮崎、岡山へと移り住んだ。元気だったが、脊椎が少し変形していた。そのせいで時折、腰が痛んだ。被曝による運動機能障害と認められ、43歳のときに被爆者手帳を受け取り、いまも持っている。治療のためには、やむを得ない。でも、ただでさえ人より多く放射線を浴びている。これ以上浴びて大丈夫なのかという不安が、頭の片隅にあった。放射線治療を始めると、すぐに副作用が出た。血液検査で血小板や白血球の数が下がっていた。抗がん剤の服用を中断し、数が減らないようにする注射を打った。37度前半の微熱が続いた。抵抗力が落ちており、マスクを付けた。2週目に入ると、毎朝、枕カバーに付いた抜け毛が気になった。「頭には浴びていないのに・・・・」。被曝体験を思い出して怖くなった。終盤は腹痛と発熱が続き、座薬と解熱剤の投与を受けた。食欲がなく、栄養剤の点滴も常用されるようになった。それでも、「今が胸突き八丁」と励まされ、耐えた。2月14日、放射線治療が終わった。全28回、ほぼスケジュール通りだった。(6月13日 朝日新聞 患者を生きる 消化器 膵がん より)
Jun 21, 2013 07:27

放射線療法
大みそかに積もった雪が、日光を浴びて輝いていた。2005年元旦。膵がんと診断されたばかりの田栗元美さん(82)は、入院中の川崎医大病院(岡山県倉敷市)から一時帰宅し、新年を自宅で迎えた。おせち料理は控えめだったが、故郷長崎のちくわ、昆布巻きなど珍味もあった。焼酎のお湯割りを少々、おそ代わりに飲んだ。この数カ月で体重が8キロ減った以外、がんであることを感じない正月だった。4日に病院に戻った。この日から放射線療法が始まった。目的は、がんを小さくして手術ができるようにすることだ。おなかの中央と左右のわき腹に目印が付けられ、それぞれの方向から1日1回、数秒づつ照射する。これを週に5日、約1カ月半続けるとの説明だった。だが「放射線」には抵抗があった。1945年8月9日、14歳で被曝した。爆心地から約2キロ。生死が混在していた。「幸運」にも生き延びた。(6月13日 朝日新聞 患者を生きる 消化器 膵がん より)
Jun 20, 2013 07:40

急な宣告、でも「頑張る」
礼子さんは「主人には隠せません。先生から、はよ、言うてください」と申し出た。28日。初診日に続いて2度目の点滴治療を受けた後、田栗さんは診察室に呼ばれた。吉田さんのほかに担当医もいて、CT画像が準備されていた。吉田さんは画像を示しながら言う。「灰色に写っている部分には異常があり、我々はこれを通常『がん』と呼びます」。いきなりの「宣告」だった。異常な影の大きさは5センチほど。膵臓の内にとどまらず背中側に広がり、腹腔動脈の周囲まで及んでいる。手術で切除するのは難しい状態。肝臓など他の臓器への転移はない。確か、こんな説明だった。「がんを抑えるため、すでに抗がん剤の治療を始めています。年明けから放射線治療を併用します。がんばってください」と吉田さんは結んだ。絶望感は不思議となかった。落ち着いた口調で理路整然と説明されたかも知れない。「がんばりますから、よろしくお願いします」。それ以外に付け加えることはなかった。(6月12日 朝日新聞 患者を生きる 消化器 膵がん より)
Jun 19, 2013 07:46

膵臓に異常
膵臓の一部に腫れが見つかった岡山県倉敷市の田栗元美さん(82)は2004年12月22日、精密検査を受けるために市内の川崎医大病院に向かった。肝胆膵内科の吉田浩司さん(44)が主治医になった。問診とおなかの超音波検査をし、前の病院で撮ったCT画像と合わせ、「膵臓に異常があることは間違いないようです」と言った。祝日をはさみ、24日に入院することが決まった。膵臓は、消化液である膵液や、血糖を調節するホルモンなどを分泌する左右に細長い臓器。胃の裏側にあり、脾臓や肝臓、十二指腸、太い血管に囲まれている。体の奥に位置しているため、当時、異常がある細胞を直接とって診断する方法は一般的とな言えなかった。診断はCTなど画像によるものが主だ。田栗さんは入院後、内視鏡を使ったX線写真を撮った。ただ、「胃に隠れて完全には写っていなかった」と言われた。その夜、妻の礼子さん(76)とこども2人が、吉田さんに呼ばれた。吉田さんは「膵がんであることを本人に伝えるかどうか」を尋ねた。(6月12日 朝日新聞 患者を生きる 消化器 膵がん より)
Jun 18, 2013 07:43

胆管がん 3人労災 大阪以外で初認定
印刷工場で働いていて胆管がんになった人や遺族から労災請求が相次いでいる問題で、厚生労働省は13日、新たに宮城県の2人と、愛知県で働いていた1人の計3人を労災認定することを決めた。大阪以外での労災認定は初めて。認定者は合計20人になった。宮城の2人は同じ事業場で印刷機の洗浄作業をしていた30代と40代の男性。勤務先は東日本大震災で失われたが、この日の専門家検討会が、洗浄液に含まれる薬品「1,2ジクロロプロパン」に長時間、高濃度でさらされたことが発症原因になったと認めた。愛知で働いていた40代の男性も、洗浄液に含まれる薬品「ジクロロメタン」に長時間、高濃度でさらされたことが原因だと認定した。ジクロロメタンの原因認定は初めて。(6月14日 朝日新聞)
Jun 17, 2013 07:45

乳がん予防で乳房切除 鹿児島の病院、実施へ
健康な人が乳がんになるのを防ぐために行う乳房の予防的切除について、鹿児島市の相良病院が切除手術を行うことになった。同病院の倫理委員会が13日、了承した。乳がんの予防的切除は、聖路加国際病院(東京)がすでに承認。がん研有明病院(同)も承認に向けて準備中だという。相良病院の倫理委員会は生命倫理が専門の大学教授や医師、看護師、患者代表ら14人で構成。13日の審議は1人が欠席したが、全会一致で承認した。予防的切除の対象となるのは、特定の遺伝子に変異があり、遺伝性乳がんのリスクが高いとわかった人。本人が予防的切除を望めば、手術を実施するかどうかを、そのつど倫理委員会で審議する。予防的切除には保険が適用されないため、乳房再建も含めると費用は約180万円かかる。(6月14日 朝日新聞)
Jun 16, 2013 07:31

人工乳房に保険適用
乳がん患者が乳房を切除した後、乳房再建に必要な人工乳房や再建手術に公的医療保険が使えるようになる。厚生労働省の中央社会保険医療競技会が12日、了承した。これまで自己負担で100万円以上かかっていたが、7月以降、大幅に軽減される。対象は乳がんで乳房の乳腺を全摘しや患者。毎年約6万人が乳がんになり、約4割が乳房を全摘している。これまでの乳房再建は、自分の腹部や背中の皮膚や脂肪を移植する方法しか保険が使えなかった。この手法は、体の健康な部分を切らなければならず、傷痕が残る欠点もあった。新たに保険適用される乳房再建術は、がんの切除後、まず皮膚の下に器具を入れて、周囲の皮膚や筋肉などを膨らませ、数カ月後にシリコーンでできた人工乳房をいれる。今回、米系医薬品会社アラガン・ジャパン(東京都)の人工乳房などに保険が適用され、手術や麻酔などの関連費用すべてに保険が使えるようになる。高額療養費制度も使えるようになり、所得により異なるが、負担額は従来の1~2割程度になる見通しだ。(6月13日 朝日新聞)
Jun 15, 2013 07:48

膵がんの告知
ほどなくセンターを受診し、腹部を中心にX線撮影やCT、胆嚢・膵臓のMRIなど、約2週間かけて徹底的に調べてもらった。さすがに疲れた。気づくと、体重が7キロ減っていた。12月21日。妻の礼子さん(76)と一緒に検査結果を聞きに行った。診察室に入ると、採尿をしてくるよう、医師に言われた。診察室には、礼子さんだけが残った。用を済ませて戻ると、「膵臓の一部に腫れが認められます。精密検査が必要です」と言われた。川崎医大病院(倉敷市)を紹介され、CT画像のフィルムを受け取った。「肝臓なら焼酎の飲み過ぎだろうけど、膵臓か・・・・・」。膵臓の病気は治りづらく、やっかいだということは知っていた。それでも、ようやく核心に迫れるとの思いの方が強かった。「あす病院へ行こう」と決め、いつも通り、運転して帰った。実は、採尿で中座した際、礼子さんは医師から「膵がんだ」と告げられていた。頭が真っ白になる思いだったが、「主人に知れて、動揺させては運転が危ない」と平静を装った。妻のそんな胸中を、知るよしもなかった。(6月11日 朝日新聞 患者を生きる 消化器 膵がん より)
Jun 14, 2013 07:40

みぞおち痛い 何なんだ
20代半ばでは軟式野球で国体に出た。50歳を過ぎてフルマラソンを走った。体を動かすことが好きな岡山県倉敷市の田栗元美さん(82)は、散歩が日課。これまで、大病にかかることなく暮らしてきた。だから2004年9月、73歳でおなかが張るようになっても、理由がわからなかった。「ただ苦しい。便も出にくい」。腰痛の治療に通っていたクリニックに相談すると、便秘薬、浣腸薬を処方された。おなかの張りは、それでおさまった。だが、みぞおち付近がまだ痛い。再び相談に行くと、胃の詳しい検査ができる別の医院を紹介された。ところが内視鏡で調べてもらっても、異常は見つからなかった。もらった胃薬を飲み続けたが、痛みは消えない。ずっと相談してきたクリニックも、次の策を示してくれない。「いったい、何なんだ」。1カ月ほど悶々と過ごしていると、娘が「もっと大きな病院で診てもらったほうが」と、市内にある倉敷成人病センターの検診案内書をもってきた。(6月11日 朝日新聞 患者を生きる 消化器 膵がん より)
Jun 13, 2013 07:51

「私が助ける」妻の決断
その瞬間、妻の中でスイッチが入った。「子どもたちには父親が必要だ。絶対に私が助ける」。診察室を出るとすぐに電話をした。1年半前に生体肝移植の話を聞いた東京大病院。自分の肝臓が移植できるのか、検査を受けたい、と。「私、移植するって決めたよ」。妻は唐突に言った。「えっ、本当にいいの・・・・」。そう返すのが精一杯だった。東京大病院で検査した。移植を受ける夫の血液型はB型だ。臓器提供者の条件は拒絶反応が起こりにくいB型かO型。妻はO型なので適合していた。残る問題は、妻から必要な大きさの肝臓を取り出すことができるのか、ということだった。身長176センチの夫に対し、妻は154センチ。当然、肝臓も妻のほうが小さい。移植には、最低でも標準的な容積の40%にあたる肝臓が必要だ。妻の肝臓をCT撮影し、大きさを測定した。すると、十分な肝臓を残した上でギリギリの40%に相当する分を取り出せることがわかった。「移植できそうだよ」。妻の言葉に、光が差し込むような気持だった。「ひょっとしたら、元気だった頃のように戻れるかもしれない」。(6月6日 朝日新聞 患者を生きる 消化器 肝移植 より)
Jun 12, 2013 07:48

肝機能が急激に悪化
B型肝炎が進行し、肝硬変から肝臓がんを発症した神奈川県西部の男性(55)は、都内の商社に勤めながら、がんの再発と闘っていた。2006年1月、風邪をひいて39度の熱が続いた。すると、眼球の白目や全身の皮膚が黄色くなっていた。強い黄疸の症状が現れた。肝臓の治療を受けていた大西内科(埼玉県)を受診した。院長の大西久仁彦さん(66)は顔色を見るなり、「帰すわけにはいかない」。すぐに入院することになった。風邪が引き金となって肝機能が急激に悪化し、肝不全に陥っていた。意識障害が起こる「肝性脳症」になってもおかしくない状態だった。これまでに感じたことのない疲労感に包まれ、病室のベッドから動けなくなった。「子どもたちの成人した姿を見届けることは、もう無理なんだ・・・・」。中学生と高校生の娘を思い浮かべて、そう覚悟した。妻(51)は大西さんに呼ばれ、こう告げられた。「今までとわけが違う。下手をすると、余命はわずか1カ月しかない」。(6月6日 朝日新聞 患者を生きる 消化器 肝移植 より)
Jun 11, 2013 07:39

移植も選択肢
これといって痛みやだるさがあるわけでなく、仕事には出かけていた。ただ、いつまでこの生活が続けられるのか、先が見えない。不安だった。「根本的に治すには、生体肝移植という選択肢もあります」。ある時、大西さんからそう提案された。健康な人の肝臓の一部をもらう治療法だ。どんなものか知っておきたいと思い、2004年6月、紹介された東京大病院(東京都文京区)で診察を受けた。「移植の適応はありそうです」。担当した人工臓器移植外科准教授の菅原寧彦さん(47)は、肝臓のCT画像を見てこう説明した。「なるべく体の状態が良いときに移植をしたほうが、術後の経過もいいですよ」ときっぱり言った。妻(61)は「私はやらない」ときっぱり言った。肝臓を切り取る大きな手術は、想像しただけで怖かった。「それはそうだよな・・・・・」。妻の言葉は当然だと思った。夫とはいえ、他人に肝臓を分けるということは、簡単なことではない。それに自分自身、移植が必要なほど重症だとは、まだ思っていなかった。(6月5日 朝日新聞 患者を生きる 消化器 肝移植 より)
Jun 10, 2013 07:51

がん再発
B型肝炎ウイルスの感染を知ってから13年後・・・・。神奈川県西部の男性(55)は2001年、慢性肝炎、肝硬変を経て、肝臓がんを発症した。だが、肝機能の低下が著しいという理由で、行く先々の病院で治療を断られ続けた。1.5センチで見つかったがんは、約1年後に3.5センチになっていた。「もう、時間がない」。2003年2月、肝臓病の治療に実績があるという大西内科(埼玉県鶴ヶ島市)を訪ねた。血液検査で、血小板の数が極端に少ないことが分かった。治療中に出血して、さらに肝機能が悪くなる恐れもある。院長の大西久仁彦さん(66)は、リスクが最小限になるよう、複数の治療法を組み合わせた。肝臓の血管をゼラチン粒などで詰まらせ、がんを秤量攻めにする「肝動脈塞栓術」や皮膚の上から肝臓に針を刺して酢酸を入れ、がん細胞を死滅させる「酢酸注入療法」。1カ月半の治療後、がんは消えていた。しかし、喜びもつかの間だった。1年も経たずに再発。その後は治療と再発を繰り返した。(6月5日 朝日新聞 患者を生きる 消化器 肝移植 より)
Jun 09, 2013 08:13

肝炎から13年 がん発見
10年後。医師の懸念通り、慢性肝炎から肝硬変になっていることがわかった。肝臓が硬くなって機能が低下し、肝不全や肝臓がんになるリスクが一段と高まっていた。県内の病院を何軒か訪ねたが、「インターフェロンが効かなければ、ほかに有効な治療法はない」と言われた。「せめて、いまの状態を維持できれば」。好きだった酒もやめた。それから、3年が経った2001年。定期検査を受けていた病院で、肝臓に1.5センチのがんが見つかった。しかし、「うちでは治療できない」と主治医に告げられた。手術に耐えられないほど肝機能が落ちており、治療が引き金になって肝不全を起こし、命取りになるかもしれない、という説明だった。肝臓病の治療施設を、自分で探して回った。大学病院、がん専門病院、放射線の最先端施設・・・・。しかし、どこも同じ理由で門前払いされた。自分には妻と、小学生と中学生の2人の娘がいる。「死ぬわけにはいかない。せめてこの子たちが成人するまでは・・・・」。(6月4日 朝日新聞 患者を生きる 消化器 肝移植 より)
Jun 08, 2013 07:54

B型肝炎ウイルスが陽性
「B型肝炎ウイルス『陽性』です。医療機関を受診してください」。1988年、神奈川県西部の男性(55)の自宅に、1通の通知が届いた。数週間後、自宅の最寄り駅で献血をした。検査の結果、ウイルスの感染が判明したという内容だった。当時30歳。ソフトウエアを開発する技術者だった。残業が続くこともあったが、学生時代に登山で鍛えた体力には自信があった。ひとまず、地元の総合病院に行くことにした。診察した医師が言った。「ちゃんと治療しましょう。肝炎が慢性化すると、肝硬変や肝臓がんになることもある」。肝炎ウイルスは主に血液を介して感染するが、原因は特定できなかった。あまり実感がわかないまま、指示された通り、ウイルスの増殖を抑えるインターフェロンの治療を受けた。しかし、ウイルスは体から消えなかった。次にできることは、肝機能を改善する薬で進行を遅らせることを期待するくらいだった。漠然とした不安を抱えつつ、毎日を過ごしていた。(6月4日 朝日新聞 患者を生きる 消化器 肝移植 より)
Jun 07, 2013 08:22

がん切除 胸焼け消えた
手術直後は水を飲むのも止められ、点滴と氷をなめることで過ごした。少しずつおかゆやバナナなどを口にするようになった。25日に退院。その日、長男と病院16階のレストランで食事をした。おかゆだったが、ベッドの上ではない食事に満足だった。ずっと悩まされてきた胸焼けは、すっかりなくなっていた。退院から1週間ほど経つと、近所を散歩できるようになった。家族があれこれ気をつかってくれたが、掃除や洗濯、料理といった家事のほとんども自分でできるようになった。「軌道に乗ってきた」と前向きになれた。ただ、手術以降は体重が激減した。50キロ前後だったのが37キロまで減った。げっそりとして、肌のシワも前より気になる。「あばあさんの顔」に見えて、ショックだった。(5月10日 朝日新聞 患者を生きる 消化器 逆流性食道炎 より)
Jun 06, 2013 07:46

食道がんの手術
それでもなかなか決断できなかった。「食道の手術後は食事も大変」。テレビ番組で誰かが言っていたことが頭をよぎった。7月、セカンドオピニオンとして他の病院に電話で相談すると、「手術するのが良いですね」との意見。ようやく決心した。手術は8月8日に決まった。がんの部分だけなら内視鏡で切除できた。しかし、胃液の逆流は日常生活もままならないほどの状態。それを解決するためには、食道の炎症を起こしている部分も全て取ったほうがいい・・・・。河野さんの判断だった。手術では、首とおなかを切開し、食道を15センチほど切除した。手術は3時間ほどで終わった。(5月10日 朝日新聞 患者を生きる 消化器 逆流性食道炎 より)
Jun 05, 2013 07:27

逆流性食道炎
埼玉県上尾市の石戸幸子さん(81)は2006年4月、長く続く逆流性食道炎の影響で食道がんになった。がんの長さは3センチほど。幸い、早期がんだった。大きなショックはなかった。8年前に手術した乳がんは再発もなく、根治している。「がんは命を奪うかもしれない」との危機感は薄れていた。「もう年だし」という気持もあった。5月、都内に住む長男(50)と東京医科歯科大病院の主治医、河野辰幸さん(61)を訪ね、受診した。すると、その場で手術を勧められた。「手術ですか・・・・。夏と冬、どっちがいいですかね」そう尋ねると、「そんな事を言っていられない。待てる状態ではありません」と河野さんは語気を強めた。(5月10日 朝日新聞 患者を生きる 消化器 逆流性食道炎 より)
Jun 04, 2013 08:05

患者数の確保に懸念も
施設が乱立気味になるとの見方もある。重粒子線施設は千葉、兵庫、群馬にあるほか、同じ粒子線で同等の治療効果があるとされる陽子線施設も全国に7カ所ある。さらに全国10~20カ所で設置の検討が進んでいるとされる。「全国に立地することで、新規患者の掘り起こしにつながる」との声もあるが、国立がんセンター名誉総長で日本対がん協会の垣添忠生会長は「限られた患者の奪い合いになりかねない」と懸念する。ハイマットの収支計画は昨年秋、見直された。初期投資に必要な150億円に対し、民間からの寄付や出資が思うように集まらず、返済が必要な融資などが約40億円生じたためで、出資者への配当も減らす。ただ、患者の見込みは800人を維持したままで、この想定が崩れれば、さらなる見直しが必要になる。(6月1日 朝日新聞)
Jun 03, 2013 07:46

九州初のがん先端施設 
(九州国際重粒子線がん治療センターは6月1日から)診察を経て、8月に前立腺がんから治療を始め、頭頚部がんや肺がん、肝がんと対象を増やしていく。初年度200人、4年後には800人の患者受け入れを見込む。だが、経営が成り立つだけの患者数を確保できるかは未知数だ。粒子線治療が可能な患者は2020年には全国で約5万5千人、九州では人口比から6900人になるとハイマットは推計する。だが、厚生労働省によると、粒子線治療の実施件数は2011年度は約2381件(うち重粒子線873件)。治療可能な患者の1割も受けていないとみられるという。治療費が約300万円と高額ながら公的医療保険が適用されず、自己負担となることがネックだ。(6月1日 朝日新聞)
Jun 02, 2013 07:16

鳥栖・サガハイマットきょう開院
九州国際重粒子線がん治療センター(サガハイマット)=佐賀県鳥栖市=が1日から診察を始める。「切らずに治す」最先端の治療法で国内4カ所目、九州では初の施設だ。治療の選択肢が広がると、がん患者の期待は高いが、想定通り患者数を確保できるか懸念もある。ハイマットでの放射線治療は、炭素イオンを光速の60~80%まで加速してがん病巣にピンポイントで照射するというもの。従来のエックス線治療に比べると、体の深いところにあるがんでも、周りの正常細胞へのダメージを最小限に抑えて狙い撃ちできる。痛みもなく、通院も可能で、治療期間はエックス線の半分ほどで済むという。(6月1日 朝日新聞)
Jun 01, 2013 07:53


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