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がん細胞、狙い撃ち
鹿児島大学(鹿児島市)は25日、がん細胞だけを狙って死滅させる新たなウイルス治療薬の治験を骨肉腫などの患者で始めると発表した。正常な細胞は傷つけないため、副作用が少ないと期待され、将来的にはさまざまながんの治療に使うことを目指している。治療は、実際に人に使って試す臨床試験。かぜの原因となるウイルスの一つ、アデノウイルスの遺伝子を組み替えた薬を使う。ほとんどの種類のがん細胞にある遺伝子「サバイビン」を見つけ、感染する性質がある。このウイルスを針で腫瘍に注入すると、がん細胞中で増え、機能を低下させながら死滅させる。鹿児島大大学院医歯学総合研究所の小財健一郎教授(遺伝子治療)らのチームが開発した。がん細胞をウイルスに感染させて破壊する「ウイルス療法」の一つ。ウイルス療法は手術、抗がん剤、放射線治療に次ぐがんの第4の治療法と期待されるが、世界でも実用例はない。鹿児島大が開発した薬は特定の遺伝子を目印にがん細胞を探すため、転移したものを含め全身のがんに効果が期待できるという。今回の治験はこのウイルスを世界で始めて人に使う試験。11月をめどに厚生労働省に治験計画書を提出し、承認されれば、来年1月にも同大病院で治験を始める方針だ。(5月26日 朝日新聞より転載)
May 28, 2015 08:10

子宮頸がんワクチン問題 自治体が救済策
国が子宮頸がんワクチンの推奨をやめてから、来月で丸2年になる。「健康異常」を訴える声が相次ぐなか、自治体が独自に医療費を支給したり、大規模な健康調査に乗り出したりする動きが広がっている。痛みやしびれ、脱力、記憶障害・・・。接種後に始まった多様な症状で日常生活を送れなくなった女子生徒らを対象に、愛知県の碧南、刈谷、知立の3市は21日、医療費の自己負担分と医療手当てについて、診断書が出た時期にさかのぼって、7月1日から支給を始めると発表した。3市ともそれぞれ数人の患者がいるという。こうした支給制度を全国に先駆けて立ち上げたのは横浜市だ。昨年6月から始まり、今年3月末までに24人に1274万円の支給を決めた。体調を崩し、市に相談した患者は、約70人を数える。推奨の中止ガ出た2013年6月当初は半年ほどで国の見解が出ると見られたため、市も国の出方を見守っていた。だが2014年に入っても国の動きはなく、市への相談は増えた。当時ざっと20人。各地の病院を転々としてきた人が多かった。「市単独で医療費支給ができないか」。健康福祉局で検討が始まったのは2月ごろからだ。「国に副反応と認定されたわけではない。因果関係も証明されていない」。「被害救済は本来は国の仕事だ」。そんな慎重論も出た。それでも3月に支援の方針が決まったのは「接種した人が症状を訴える以上、寄り添うのが市の役目」(岩田真美・健康安全医務監)との理由だ。市議会が全会一致で国に治療法の確立などを求める意見書を出したことも追い風となった。中3の時に接種した次女(18)に症状が出た横浜市泉区の山田真美子さん(50)は1月に横浜市に申請し4月に約130万円を支給された。静岡県の国立病院などに9回入院し、髄液検査やステロイドの集中投与治療を受けるなどした治療費の自己負担分だ。薬剤などの副作用の被害者救済制度を担う「医薬品医療機器総合機構」には、2013年10月に請求を受理されたが結論は出ていない。山田さんだけでなく、4月末までに86件の請求が寄せられたが支給が決まったのは18件だけ。9件は不支給で、大半はまだ審査中だ。1年以上結論を待っている人も少なくない。山田さんは言う。「全国には娘と同じような症状に苦しんでいる女生徒が何十人もいるのに、いまだ医療費さえ支給されていない。それに比べると、横浜市の制度はありがたい」。
(5月22日 朝日新聞より転載)
May 26, 2015 18:43

クリーム・デライト Cream Delight
1983年作出。作出国ニュージーランド。グランデフローラ系。8センチ位で、四季咲性。微妙なニュアンスのシャンパンカラーとエレガントさが特徴で、花持ちが良く、育てやすい。ウエーブのかかる花弁とソフトクリームアプリコットの色合いが美しい。

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May 24, 2015 10:33

グラミス・ キャッスル Glamis Castle
イングリッシュローズ、オールドローズ・ハイブリッド系。デービッド・オースチン作出。香りはミルラ香の中香で、強健。真っ白い中大輪の花で、連続開花性は素晴らしい。

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May 24, 2015 10:13

エリナ Elina
1983年イギリス。パトリック・ディクソン作出。クリームイエローで、花は約12センチ。花付きも良く、香りは中香。強健で非常に育てやすいので初心者におすすめ。

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May 24, 2015 10:11

アルティシモ Altissimo
1966年、フランスのデルバール作出。花は8cm~10cmで、平咲き。微香で香りは余りない。マットな質感で雨にも強く、枝は硬め。赤一重の花が美しく、他の草花にも良く合う。強健で育てやすい品種。

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May 23, 2015 20:27

アドミラル・ロドニー Admiral Rodney
色の花色が大変美しい。香りも強く花付きも良い。ただ、樹勢が若干弱く、栽培が難しい。作出年1973年。作出国イギリス。名前は18世紀のイギリス海軍提督名Admiral Rodney にちなんでいる。
ハイブリッド ティー・ローズ系。

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May 23, 2015 20:10

「気持の力」戻った声
7週間の放射線治療を終えたが、肝心の声はほんのかすれ声程度しか出なかった。2014年9月、落語家の林家木久扇さん(77)は、声がれはいずれ治ると聞いていても、不安で仕方なかった。「このままだと落語家としての道は閉ざされる」。数週間後に、本格復帰となる寄席が控えていた。長男の二代目木久蔵さん(39)も出演予定で、「声が出なくても、姿だけでも見せてほしい」と言われていた。前日になっても、かすれ声のまま。長女でマネージャーの豊田佐久子さんは「明日は話すのは無理そうだ」と主催者に伝えた。寄席の翌日には、テレビ復帰となるバラエティ番組の収録もあった。「奇跡のようなできごと」は、寄席当日の朝に起きた。「あはよう」。家族に何気なく発した声。かすれてはいる。それでも、これまでと比べ物にならないくらい、しっかりしていた。「あら、声が出たんじゃない!」。「出たね」。「また出た!」。妻の武津子さん(68)と佐久子さん、弟子も居間に集まって歓声を上げた。「結婚してからこんなにうれしかったことはないわ」と武津子さんは涙ぐんだ。舞台では、がらがら声だがマイクを通して客席に届いた。笑いで返してくれる客席を見ながら、実感した。「戻ってきたんだ」。木久扇さんは「気持の力が大きかった」と振り返る。ある日突然回復することもあると聞いてはいたが、佐久子さんは「まさにプロ根性だと思った」と話す。人気テレビ番組「笑点」には、10月19日の放送から復帰。この日は77歳の誕生日だった。冒頭、復帰を報告した。「よく診てもらったら喉頭がん。頭の後ろからボカッと殴られて気絶しそうな感じでございました。『後頭、ガン』、なーんちゃってね」。自分の経験を笑ってもらい、がんでもめげずにやれことがあること、治して復帰する人がいることを知ってもらいたい。個人芸で身を立ててきた。だが、多くの人に支えられてきたと実感した。家族や弟子との関係、一つ一つの仕事でのつながりを大事にしたい。「残された人生、濃く生きていきたい」と胸に刻んでいる。(4月17日 朝日新聞 患者を生きる 木久扇の声より)

May 15, 2015 21:29

あの空席は僕の席だ
早期の喉頭がんと診断された林家木久扇さん(77)は2014年7月下旬、7週間の放射線治療を受けることになった。レギュラー番組「笑点」の出演や寄席は休まざるを得なかった。東京慈恵会医科大病院(東京都港区)に月~金曜の週5日通い始めた。治療に使われたのは、「リニアック」と呼ばれる放射線治療装置。放射線を当てる部位がずれないように目印を付けたマスクを、顔の形に合わせて作った。どんな治療かと緊張したが、放射は左右からそれぞれ20秒足らずで、痛くも熱くもない。1回の治療は3分ほどで終わった。治療が午前中に終わると、時間が空いた。治療後に通勤する人も多いというが、思うように声が出ない以上、落語家の商売はできない。予定表にキャンセルのバツ印が並ぶのが情けなかった。落語家になる前、志したのは漫画家だった。腕前を生かし、カレンダーに年賀状、雑誌の表紙のイラストを描く仕事に励んだ。小学生にもわかる本「学校寄席入門」の企画も進めた。電話で制作会社とやり取りする際は、長女でマネージャーの豊田佐久子さんに筆談を交えて伝え、代弁してもらった。妻の武津子さん(68)が「お父さん、病気なんだからゆっくりして」と止めるほどだった。毎週日曜夕方には、笑点のテレビ番組を見た。定位置の座布団は空席のままだったが、「テレビの世界はいくらでも代わりがきく酷な世界」だ。もし代役が出演して定着すれば、出番を失う。45年かけて築いたレギュラーの座。たとえ弟子でも、ほかの人がそこに座るのは嫌だった。「あの空席は僕の席だ」。寄席から笑いが起きていても、全然笑えなかった。8月中旬、内視鏡による検査で目に見える腫瘍は消えていることがわかった。一方、肝心の声は治療開始後、ますます出なくなっていた。放射線の副作用で喉頭や咽頭の粘膜炎が起き、声がれがひどくなった。のどの痛みも出る。「声は元に戻るが、いつ戻るかは個人差がある」と医師から言われた。だが、心配だった。「このまま一生出ないことだってあるんじゃないか」。がんの宣告よりも、絶望的な思いに襲われた。(4月16日 朝日新聞 患者を生きる 木久扇の声より)

May 14, 2015 08:13

「笑点」無欠席の目標が
「こんな小さいがんのために、残りの人生を棒に振るなんて」。2014年7月上旬、喉頭がんの疑いを告げられた、落語家の林家木久扇さん(77)は不安だった。人気テレビ番組「笑点」や寄席を休み出番を失ったら?収入は途絶え、弟子は離散、家族も路頭に迷う。悪い想像が駆け巡った。病気の進行度を示すステージは4段階のうち「2」。早期の喉頭がんと診断された。笑点のレギュラーになって45年。一度も休んだことがなかった。2000年、早期の胃がんになった。入院は約1カ月。看護師に付き添われ、点滴を付けたまま病院から番組の収録に向かった。人を笑わせる仕事でもあり、イメージを考え、退院後も病気を隠し通した。母親が亡くなったときも、笑顔で舞台に上がった。笑点は今年5月に放送開始50年目を迎える。無欠席でその日を迎えることが目標だった。治療は、放射線を中心にすることになった。人前に出る落語家という仕事。東京慈恵会医科大病院(東京都港区)耳鼻咽喉科の主治医、加藤孝邦さん(66)は、病気を治すことはもちろん、声をきちんと残し、見た目にも大きな影響が出ないことを考慮した。初期の喉頭がんの場合、放射線治療の効果は高く、喉頭をそのまま残せて自然な声を残せる。抗がん剤を合わせて使うこともある。がんが進むと手術も選択肢になる。喉頭の部分切除や全摘出をする。全摘出の場合、声は失われる。左右の声帯が振動することで声が出るが、木久扇さんは声帯付近に腫瘍ができてうまく振動しなくなり、声の出が悪くなっていた。放射線治療が始まると、副作用で一時的にもっと声がれがひどくなる恐れもある。声が出ない以上、仕事は休まざるを得ない。笑点は2014年7月20日放送分を最後に休むことにした。寄席や地方公演の予定もキャンセルした。「より一層おもしろくなって皆様の前に帰ってまいります」。放送翌日、報道各社にファクスを送り、病気を公表した。翌日から週5日の通院治療が始まった。「一刻も早く自分の場所に戻ってみせる」。自分に言い聞かせた。(4月15日 朝日新聞 患者を生きる 木久扇の声より)
May 13, 2015 08:02

商売道具の「のど」に異変
おなじみのオープニング曲に合わせ、舞台上手から落語家の林屋木久扇さん(77)が登場した。黄色の着物姿。客席から、拍手がわき起こった。日本テレビ系の長寿番組「笑点」の大喜利。40年以上レギュラーを務める古参メンバーの一人だ。東京・日本橋の雑貨問屋に生まれた。初めは漫画家を志した。指導を受けた漫画家の紹介で1960年に落語の道に入った。1972年、林家木久蔵として真打に昇進。「木久蔵ラーメン」を商品化するなど、事業も手がけた。二代目木久蔵を襲名した長男の宏寿さん(39)ら10人の弟子を抱える。「毎日しゃべっていないとだめ。笑点も客席も、お風呂に入ったり歯を磨いたりするのと同じくらい欠かせないもの」。そんな木久扇さんに昨年6月ごろ、異変が起きた。商売道具の「のど」だった。寄席の高座で話し始めても、終わる頃にか声がかれた。「コホンコホン」。かすれたようなせきも出るようになった。風邪薬をのんでも良くならなかった。7月初め、笑点の収録日。急きょ隣に座る三遊亭好楽さんに、ネタを耳打ちし、代わりに話してもらうことにした。見慣れぬ演出に客席から笑いが起きる。司会の桂歌丸さんも「木久ちゃんにも助手がつくようになった」とちゃかして盛り上げた。でも、もどかしくてたまらなかった。「なぜ、声が出ないんだ?」。7月上旬、以前に胃がんの手術を受けた東京慈恵会医科大病院(東京都港区)を受診した。検査の結果、「喉頭がんが強く疑われます」と耳鼻咽喉科客員教授の加藤孝邦さん(66)が言った。喉頭はのどの一部で、舌の付け根から気管までの部分。左右一対の声帯があり、空気で振動することで声が出る。内視鏡で撮った写真には、声帯がある声門付近に白いものが写っていた。大きさは1センチほどで、悪性腫瘍の疑いがあるという。「これっぽっちのものが、がんなのか」。真っ先に浮かんだのは仕事のこと。いくら名が売れても保障はない商売だ。「笑点の座布団も寄席の出番も、他の人に取られてしまうんじゃないか」。焦りと不安が駆け巡った。(4月14日 朝日新聞 患者を生きる 目久扇の声より)
May 12, 2015 08:49

新番組諦め 臍帯血移植
2013年3月、急性リンパ性白血病を再発した大塚範一さん(66)は、直前までフジテレビ系の新番組「アゲるテレビ」の準備に追われていた。約1年半ぶりの復帰を前にした無常な再発だった。「なんで、このタイミングなの、と。でも、スタートしてからだったら、また途中降板であんなに迷惑をかけたから、これでよかったのかな、とも思ったりね」。都内の大学病院に再入院した大塚さんは、骨髄移植でなく、臍帯血移植を受けることになった。使うのは、母親と胎児を結ぶへその緒(臍帯)と胎盤の血液の中にある造血幹細胞。成人の骨髄中のものに比べて増殖能力が高く、拒絶反応を起こしにくいため、HLA型(白血球の型)が完全に一致しなくても使える。高齢の患者は、骨髄移植での定着率がよいとされる血縁者も高齢でドナー(提供者)になれない場合が多いが、臍帯血ならドナーが見つかりやすい。6月、大塚さんの体内にHLA型が合った女の子の臍帯血が移植された。25~30ccほどの液体を腕から点滴で入れたあと、1カ月ほど無菌室で過ごした。移植はうまくいき、B型だった大塚さんの血液型はドナーの女の子と同じA型に変った。臍帯血移植を世界でもっとも多く手がける、虎の門病院(東京都港区)血液内科の内田直之医長は、「HLA型などの条件さえ合えば、移植決定の翌日にでも移植前治療が開始できる早さが最大の利点」という。移植された細胞が患者の体を攻撃するGVH病が起こりにくく、ドナーへのリスクもない。同病院が血液がんの患者に行う年150件ほどの移植のうち3分の2が臍帯血という。ただ、骨髄移植に比べると、臍帯血には造血幹細胞の数が少ないため、造血の回復の早さ、生着率などで若干不利な部分もある、との指摘もある。移植から今年6月で2年。4週間に1度、定期検査を受け、単発のテレビやラジオの番組にときどき出演するが、「完全復帰」はまだまだだ。ただ、大塚さんはこう話す。「僕はテレビの仕事しかできない。絶対に治るとう確信はありませんが、絶対に闘ってやるという覚悟はできているんです」。(4月10日 朝日新聞 患者を生きる 大塚範一の闘いより)
May 11, 2015 08:05

患者にウケるコントを
2014年1月、約8時間の手術で胃と小腸のがんを取り除いた元お笑いコンビ「ゆーとぴあ」の城後光義さん(65)は、いまでも手術の日のことをよく思い出す。病室から手術室への移動にはストレッチャーは使わず、自分で歩いて向かった。エレベーターの扉が開くと、ガラス張りの手術室が並び、動き回る医師や看護師の姿が見えた。城後さんがいちばん奥の手術室に入ると、医師らがあいさつをしてきた。「麻酔担当の○○です」「外科医の○○です」。「芸人の私には、まるでコントのセットのように見えました。もう少しで、じゃあ本番行こうか、と言いそうになったよ」。いま、城後さんは今年初めから新しい相棒となった中村有志さん(58)と「がんコント」という新たな分野に挑戦している。「ゆーとぴあの時代から医師と患者のコントはやっていたけど、よく『病気を笑いにするな』としかられた。でも、四つのがんと闘ったんだから、文句は言わせない。ネタはいっぱい仕入れたから、僕にしかできない『がんコント』ができると思うんです。たとえば、銭湯で背中に大きな手術痕がある男性に出会ったシーンでの、こんなやりとり。城後さんが気をかける。「肺がんでしょ。医者はいい仕事してますね。どこの病院?」「あなた、なんなんですか」「この部分が惜しい。ちょっと縫い目が乱れていますね」「けんか売っているんですか」。くるりと向き直って背中の手術痕を見せ、「きっちり、縫い目がそろっていないと、ね」。城後さんは話す。「むかしは離婚したと言うことが恥ずかしかったけど、いまの若い人は明るく『離婚しちゃった』って言うでしょ。がんも同じです。『がんになって胃が半分になりました』と笑いながら言えるようになる」。がんの手術から約1年3カ月。胃が小さくなったので、食事を何度も小分けにして食べなければいけないが、経過は順調だ。「がんはやっぱり、とんでもなく怖い。だからこそ、がん患者が明るく笑える『がんコント』。やりますからね」。(5月9日 朝日新聞 患者を生きる 闘病も笑いにより)
May 10, 2015 08:01

術後に痛みと吐き気
元お笑いコンビ「ゆーとぴあ」の城後光義さん(65)は2014年1月16日、東京共済病院(東京都目黒区)でがんの手術を受けた。外科系診療部長の後小路世士夫さん(54)ら2人の医師が手術を担当した。まず、胃の中央から下部に至るがんを取り除く手術から始めた。切り取った胃の腫瘍の食道側にがんが残っていないか調べるため、手術と並行して組織の病理検査をした。後小路さんらは「がんが浸潤しているので、もう少し切り足したほうが安全」と判断した。さらに15ミリほど筒状に追加切除することにし、胃全体の半分近く切り取った。この段階で問題が出てきた。胃の切除範囲が大きくなったため、十二指腸と胃との距離が広がり、つなぐのが難しくなった。そこで、ひとまず胃は接合せずにそのままの状態にし、小腸の手術に取りかかった。こびし大の腫瘍は小腸の上部にある空腸にあった。3ミリほど横を動脈が走っているため、慎重にはがしながら切除した。この段階で医師らが話し合い、小腸と胃をつなぐことにした。十二指腸は入口部分を塞ぎ、そのまま体内に残すことにした。後小路さんは「症例の多い胃がんについては、腫瘍の大きさや場所などを基準に当てはめて手術することができた。だが、空腸のがんは珍しいため、そのような基準がなく、開腹してその場でデザインを話し合いながら進めなければならなかった」と振り返る。8時間かかった手術は無事終わった。だが、城後さんは手術後に激しい痛みに襲われた。「地獄の痛みでしたね。医者役のコントでよく、人間、痛みでは死にません、って言っていましたが、いや、死にかけました」。また胃がんの再発を防ぐため、TS-1という抗がん剤を半年間飲み続けた。覚悟はしていたが、胃が口から飛び出すような吐き気に襲われた。「やめたい、って先生に言うと、やめてもいいですけど、再発しますよ、って言われて・・・」。後子路さんは話す。「城後さんは、いい加減に見えて、けっこうまじめ。優等生の患者ですよ」。(5月8日 朝日新聞 患者を生きる 闘病も笑いにより)
May 09, 2015 07:55

最後覚悟のゴムぱっちん
胃と小腸にがんが見つかった、元お笑いコンビ「ゆーとぴあ」の城後光義さん(65)は2014年1月2日、病院を抜け出し、東京の浅草演芸ホールにいた。手術を2週間後に控えていた。「新春!お笑い名人寄席」の楽屋で、出番直前まで栄養補給のために点滴を受けていた。本番になるといきなり持ち芸の「ゴムぱっちん」を披露。爆笑に包まれながら舞台を走り回った。「医者からはやめなさいと言われたけど、芸人は舞台で死ねば本望だから。でも、本当に死にそうだったな」。実は城後さん、このステージが人生最後の舞台になると考えていた。「もしかしたら、手術ができない可能性がある」。東京共済病院(東京都目黒区)の外科系診療部長、後小路世士夫医師(54)から、そう聞かされていたからだ。城後さんの胃がんは原発性だったが、小腸のがんは以前に切除した肺がんから転移したものだった。小腸はがんが出来にくいとされているが、城後さんが患った肺の「多形がん」の場合、小腸に転移することがあるという。腫瘍が大きく張り出し、小腸の空腸部分のほとんどをふさいでおり、栄養を極めて摂取しにくい状態になっていた。このため、がんを切除した後に腸などをつなぐのに不可欠なたんぱく質「アルブミン」の血中濃度が極端に低くなっていた。後小路医師は話す。「内臓の手術をする外科医がいちばん恐れるのが、切除した後の胃や腸がうまく接合せず、体内に内容物が流れ出すことです。くっつく可能性が低ければ、がんを切除できませんから」。いかに体内のアルブミンの量を増やすか。それが課題だった。城後さんは手術までの3週間、一日中、首元から管を入れ、点滴で栄養を補い続けた。それでもアルブミンの血中濃度は思うように高くならなかった。「開腹しても、状態によってはがんを切除できない可能性もある」との前提で、手術は2014年1月16日に行われた。胃の腫瘍は直径5センチ、小腸もこぶし大で予想以上に大きかった。このため、手術は何度も中断し、約8時間もかかった。(5月6日 朝日新聞 患者を生きる 闘病も笑いにより)
May 08, 2015 08:03

「がん君、縁切りたいよ」
お笑いコンビ「ゆーとぴあ」で活躍した「ホープさん」こと城後光義さん(65)に初めてがんが見つかったのは2007年だった。念のため受けた検査で、大腸に8個のポリープが見つかった。内視鏡で切除して調べたところ、このうち3個が悪性腫瘍だった。2回目のがんが見つかったのは、舞台で咳が止まらず血痰が出て検査を受けたのがきっかけだった。2013年6月、国立がん研究センター中央病院(東京都中央区)で、「多形がん」というタイプの肺がんと診断された。当時、医師とコントのようなやりとりがあったという。「今すぐ、たばこをやめてください」。「先生、たばこをやめてまで長生きしたくないんです。いい芸人は長生きしないものですから」。「城後さん、たばこをやめないと手術ができません。手術ができなければ、余命は3カ月です」。「3カ月?すぐやめます」。7月、約8センチの腫瘍を取るため、左肺の上葉を切り取る手術を受けた。リンパ節への転移もなく、手術後の抗がん剤治療や放射線照射もなかった。1カ月ほどで退院し、「さあ、舞台で暴れ回るぞ」と張り切っていた。ところがその矢先に、胃と小腸に新たながんが見つかった。きちんと食事をとっても、どんどんやせていく。2013年の末、異変を感じてかかりつけの医院を受診し、東京共済病院(東京都目黒区)を紹介された。胃の中央から下部にかけてと、小腸のうち十二指腸に近い空腸と呼ばれる部分の2カ所にがんができていた。肺がんの手術の後に受けた検査で転移は見つからなかった。だが、多形がんの場合、急速に大きくなることがあるという。城後さんは思った。「がん君、君もよくがんばるな。俺はもう縁を切りたいんだよ。お前が死ぬか、俺が死なないと、別れられないんだな」。胃のがんは通常の切除出で対応できる。だが、問題は空腸のほうだった。がんの大きさはこぶしほどあり、動脈から3センチのところまで広がっていた。3度目のがんで、常がさんは初めて死を意識した。(5月5日朝日新聞 患者を生きる 闘病も笑いにより)
May 07, 2015 07:55

相談できる婦人科医を
子宮の入口、頚部にできる子宮頸がんは、国内で年間約1万人が新たに診断される。特に30代を中心とした世代で増えている。年間約2700人が亡くなる。主に性交渉で感染するヒトパピローマウイルス(HPV)が原因だ。HPVはごくありふれたウイルスで、性交渉の経験のある人の多くが感染するとみられている。HPVに感染した人のごく一部に、細胞が異常な状態になる前がん病変の「異形性」が起きる。通常は自然に治るが、さらにごく一部で時間をかけてがん化する。子宮頸がんは検診を定期的に受けることで、前がん病変の段階で見つけることができる。20歳以上の女性は2年に一度、検診を受けることが推奨されている。自治体が費用を助成している。慶応大の青木大輔教授(産婦人科)は「定期的に検診を受けると、子宮頸がんで死亡するリスクを最大8割下げられるという研究がある」と話す。検診は、子宮頸部の細胞をブラシでこすり取るなどの方法で調べる。前がん病変も軽度なら、定期的に経過を観察し様子を見るのが一般的だ。進行すると、子宮頸部の一部を切除する円錐切除術という手術などが必要だ。ほとんどの場合は治るが、早産などのリスクが高まるとの指摘もある。HPVの感染自体を減らすためにできたのが、HPVラクチンだ。2010年度から公費助成され、2013年に定期接種となった。だが、長期的な痛みなどに襲われる人が出たため、国は現在積極的な勧奨はせず、追跡して調べている。初期の子宮頸がんの治療は、円錐切除術か子宮全摘出術といった手術が一般的。妊娠を希望するかも考慮して治療法を決める。進行すると、手術のほか、放射線だけ、また放射線と抗がん剤を併用して治療する。子宮頸部の奥にある体部にできるのが子宮体がんだ。発生原因やがんができる仕組みは子宮頸がんと異なる。治療は子宮ろ卵巣・卵管などを摘出する手術が中心だ。多くの場合、月経時以外に出血などの症状がある。青木さんは「異変があったらすぐに相談できるかかりつけの産婦人科を持つことが大事だ」と話す。(5月2日 朝日新聞 患者を生きる 原千晶の願い・情報編より)
May 06, 2015 08:14

患者会に救われた
子宮体がんが見つかった原千晶さん(41)は2010年1月、子宮を摘出する手術を受けた。リンパ節にも転移しており、手術後に抗がん剤の治療を始めた。2種類の抗がん剤の点滴を、3週間ごとに6回受けた。初回の点滴から約3週間後、頭皮がピリピリと張る感じがした。浴室でお湯をかけた瞬間、髪の毛が一気に抜けた。抗がん剤治療を重ねるたび、異なる副作用が出た。体に電気を流されているようなしびれ。ひどい便秘になったかと思えば下痢になる。よく眠れない。周囲に伝えづらい不快な感覚に苦しんだ。「がん患者になったんだな」。抗がん剤治療を受け、始めて実感した。そんな中でも、テレビの通販番組の仕事を受けた。かつらをかぶり、つけまつげをしてカメラの前に立つと、「気持がシャキっとした」。病気のことを忘れることができた。体力的にはきつかったが、精神的な支えになった。5月半ば、抗がん剤治療を終えた。その年の10月、ずっと支えてくれた恋人と結婚。がんで闘病していた事実とともに、公表した。原さんのブログには、がんの闘病を経験した女性たちから、コメントが書き込まれるようになった。それが縁で2011年7月、主に婦人科系のがん患者による「よつばの会」と立ち上げた。治療のことだけでなく、身近な話からほかでは言いづらい悩みまで共有できる場だ。自分にとっても力になった。2013年には、女性誌での連載をまとめた本を出版。闘病の記録だけでなく、心構え、治療と仕事の話、治療後の運動など、現実的な内容を盛り込むようにした。今年、治療終了から5年がたつ。経過観察のために病院に行く回数も減る。だが、また再発・転移するかもしれない。その覚悟はいつも持っている。一方で、子どもを産みたいという願いが摘み取られ、「なぜ私なの」という気持にとらわれることは今もある。二度のがん闘病を経験した30代。体のサインから目を背け、向き合おうとしなかった。「何でも人のせいにしていたのだと思う。自分の人生に責任を持ち、腹を据えて生きていこう」。闘病を経験して得たその思いが、今の生き方を支えている。(5月1日 朝日新聞 患者を生きる 原千晶の願いより)
May 05, 2015 08:01

情報求めず、医師を信頼
大塚範一さん(66)は、朝の情報番組「めざましテレビ」(フジテレビ系)では、様々な情報を扱うキャスターだった。しかし、入院中はあえて、急性リンパ性白血病に関する情報を求めなかった。病気に詳しい知人や白血病を経験した視聴者らが、医学情報や病院の評判を伝えてくれることもあった。でも、総合的には耳を貸さなかった。「赤ワインをたくさん飲んで免疫力を高めるポリフェノールをとりなさい」「がん細胞を防ぐ有機トマトのすばらしいものがあるから、よかったら届けます」。そんなアドバイスも聞き流した。「やっぱり、患者は医学的には門外漢であり、門外漢であるべきなんです。医師のいうことだけをしっかり守ろう、いい患者でいようとだけ考えました」。それが、大塚さんなりの病気との向き合い方だった。健康法や体験談などから、ひとつだけ「採用」した助言があるとすれば、「気持を明るく持ちなさい」ということだけだった。原因も予防法も未知の部分が多い白血病について、知れば知るほど気がめいり、明るく過ごすことができなくなるのではないか。「情報が、患者の闘う力をそぐこともあると思うんです」。セカンドオピニオンも求めなかった。大塚さんは「病気にも、縁や出会いがあるんです」と話す。首のリンパ節に小さなしこりがる段階で病気に気づき、体力が残っていた。最初に訪れたクリニックに、大学病院から医師が週1回診察に来ていて、その医師に診断してもらえた。白血病では日本でトップレベルとされる大学病院に入院できた。そしてしこりの「発見」から10日ほどで抗がん剤治療が始まった。「入院直後、知人の元プロ野球監督の星野仙一さんから、現代医学を信じてがんばれ、というメールをもらったんです。つらいとき、その言葉をよく思い出しました」と大塚さんは振り返る。2012年10月、11カ月に及ぶ抗がん剤治療を終えて退院した。しかし、5カ月後の2013年3月、定期検査で白血病の再発が分かった。テレビ復帰に向け、着々と準備を進めている時期だった。(4月9日 朝日新聞 患者を生きる 大塚範一の闘いより)
May 04, 2015 08:39

大塚範一の闘い 2
華やかなテレビの世界に身を置き、ゴルフとおいしい食べ物を楽しむ生活から、孤独な病室で大量の薬を浴びるように体内に入れる生活へ。「激変した生活に耐えられたのは、孝行時代の体験があったから」と大塚さんは話す。入学した東京都立両国高校は、当時は年50人ほどが東大に入る進学校。小中学高で「学力では向かうところ敵なし」だった大塚さんだが、どれだけ勉強しても、授業以外は全然勉強しないトップ10の生徒にかなわない。その両国高の上に都立の超進学高が何高もあった。「小さな存在でしかない自分は、与えられた場所で耐えるしかない」と悟ったという。治療中、唯一の楽しみは、「温泉、ゴルフ、おいしいもの」について考えることだったが、あるとき大失敗をしでかす。一時退院した後、病院に戻って血液検査をしたところ、生肉で感染することは多いカンピロバクター菌という食中毒菌が検出されたのだ。医師は首をかしげながら、「一時退院のとき、なにか鶏肉を食べませんでしたか」と尋ねた。思い当たったのは、焼き鳥屋で、突き出しの鶏肉の生のたたきを食べたことだった。カンピロバクター菌の細菌感染から胸の内側にヘルペスができ、眠れないほどの痛みが数週間続いた。抗がん剤治療も1カ月ほど中断された。後日、「11カ月の入院中、あのときは感染症が広がる可能性があり、一番のピンチでした」と医師から聞かされた。(4月8日 朝日新聞 患者を生きるより)
May 03, 2015 08:58

逃げられると思ったが
子宮頸がんの治療後に再び体調が悪化した、タレントの原千晶さん(41)は2009年12月、婦人科クリニックで子宮の異常を指摘された。「この時がついに来てしまった。どうしよう」。後悔と恐怖が、一気に押し寄せた。以前に手術を受けた東京慈恵会医科大病院(東京都港区)に、月に1度検診に行く約束で、子宮を残す道を選んでいた。だが、3年ほど病院から足が遠のいていた。行きづらくて都内の別の病院を紹介してもらい、受診した。医師は診察し、言った。「どうしてこんなになるまで放っておいたの」。返す言葉もなかった。「がんの疑いが強い」と告げられた。検査の結果、子宮頸部の腺がんの疑いと診断された。2005年に見つかった扁平上皮がんとは異なるタイプで、悪性度が高いという。子宮などを摘出する手術の後、抗がん剤治療が必要だと説明された。5年前の、子宮を取るだけで済むという状況とは大違いだった。以前のカルテが必要だと言われ、東洋慈恵会医科大病院の落合和徳さん(66)に連絡した。「すぐにいらっしゃい」と落合さんは答えた。3年振りに訪ねた病院で、原さんは謝った。「勝手な行動を許してください。がんから逃げられると思っていました」。診察の後、落合さんは「必ずまたテレビに出られるようにしてあげるから」と言葉をかけた。「この人にゆだねよう」。原さんはここで手術を受けようと決めた。詳しい検査を受けたところ、子宮頸部近くにできた、子宮体がんであることがわかった。体がんは、子宮頸部の奥にある体部にできるがんで、頸がんとは発声原因も性質も全く異なるがんだ。手術までの間、気がかりだったのは、恋人との今後だった。お互い、結婚を意識していた。素直に気持を打ち明けた。「子どもが産めなくなる人と結婚するというのは、どうなの?」。彼の両親も、孫の顔を心待ちにしているに違いない。しかし、彼は言った。「子どもが産めなくなる運命が君にあったのなら、僕にもあったのだと思う」。2010年1月中旬。30歳のときにはどうしても決断できなかった、子宮摘出手術を受けた。(4月30日 朝日新聞 患者を生きる 原千晶の願いより)
May 02, 2015 07:46

遠のいた病院 痛み再発
子宮頸がんと診断された、タレントの原千晶さん(41)は、再発・転移を防ぐために子宮の摘出手術を受けると決めた。だが、どうしても迷いを振り切れなかった。2005年4月、東京慈恵会医科大病院(東京都港区)に入院する前日になって、主治医の落合和徳さん(66)に電話をして、手術をためらう気持を告げた。翌日、外来に行った。「とにかく、1カ月に1回、必ず検査を受けてください」と落合さん。手術を見送る代わりに、経過観察を続けることを原さんは約束した。それから、毎日欠かさず病院に通った。視診や触診、超音波検査などのほか、子宮頸部の細胞をブラシのようなものでこすり取る検査も定期的に受けた。だが、2年間病院に通い続けるうち、安心は過信へと変っていった。「いったい、いつまで病院に行かなきゃいけないのだろう」。生理はちゃんと来る。体調も悪くない。「このままがんから逃げ切れるかもしれない」。そう思った。子宮頸がんの主な原因が、性交渉によるウイルス感染だと知ったのもショックだった。同世代の友人たちは仕事に励んだり、家庭を持ったり、充実して幸せそうに見えた。「なんで私ばかり」。がんになったという事実を、無かったことにしたかった。2007年、新しい出会いもあった。出演したドラマのプロデューサーだった男性と交際を始めた。ドラマの撮影で忙しい日々が続き、頭の片隅で不安は感じつつ、病院から足が遠のいていった。再び体調に異変が現われたのは2009年夏ごろ。35歳のときだった。水のようなおりものが大量に出る。月経血の量も増えた。年末には、生理中に耐え切れないほどの腹痛に襲われた。運転していた車を路肩に止め、交際中の男性に電話して迎えに来てもらった。2時間ほど痛みに苦しんだ末、5年前に最初に受診した婦人科クリニックに駆け込んだ。診察した医師は「また、何かできています」と言った。尋常ではない雰囲気を感じ、「がんですか」と思い切ってたずねた。「はっきりしたことは言えませんが、一刻も早く大きな病院に行ってください」。血の気が、一気に引いていくのがわかった。(4月29日 朝日新聞 患者を生きる 原千晶の願いより)
May 01, 2015 07:57


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