2012年の10月、奈良県の有川勝己さん(41)は経営すと設備関係の会社で外のやぶを何とはなしに眺めながら用を足していた。「わーっ。なんや。これー」。下を向くと、尿が真っ赤に染まっていた。すぐに従業員を呼ぶ。「ただごとじゃない。すぐ病院に行ったほうがいい」と言われた。翌日、自宅近くの総合病院を受診した。膀胱鏡とCT、MRIの検査を受けた。痛みも自覚症状もない。有川さんは知らなかったが、突然、血尿が出るのが膀胱がんの特長だ。「仕事先とかいろいろなところに迷惑をかけたくない」。検査結果が出る前から目の前が真っ暗になった。妻の由佳理さん(42)も呼ばれ、膀胱がんと宣告された。それもリンパ節に転移があるステージ4の進行したがん。覚悟はしていたが、衝撃だった。由佳理さんは「まだ30代の夫が、まさかがんになるなんて」と激しく動揺した。転移がないステージ2、3では膀胱を取る全摘手術が標準治療だ。通常は手術をしないステージ4でも、化学療法がよく効く患者の場合は「全摘」を検討する。有川さんには化学療法を試した後に全摘という方針が伝えられた。全摘しても治るかどうかは半々との説明だった。化学療法を受けるため、11月に入院した。病室には由佳理さんのママ友たちが折ってくれた千羽鶴が飾られた。「まだ38なのに膀胱がなくなるのか」。膀胱がなくなると、かわりの袋を付けることになる。「昔ほど不便じゃない」と医師から説明を受けたが抵抗はあった。病室で「パパはどうしたいの?」とたずねる由佳理さんに「膀胱を取りたくない」と訴えた。由佳理さんや親族たちは全摘手術を受けてほしいと思っていた。だが、有川さんの意思は固かった。由佳理さんは元看護師の友人から「そういうときは、セカンドオピニオンを聞くという手段がある」と助言された。由佳理さんが友人とネットなどを調べているうちに大阪医科大の東治人教授(52)らが膀胱の温存手術をしていることを知った。入院中の有川さんに代わり、由佳理さんらが会いにいくことになった。(8月18日 朝日新聞 患者を生きる 膀胱取らずに治す より)