流通ジャーナリストの金子哲雄さんは2011年6月に肺がんの一種「肺カルチノイド」の末期と診断されてからも、雑誌の執筆だけでなく、テレビやラジオの出演にも精力的に散り組んでいた。肺にできた腫瘍のまわりの血管をふさぐ治療は繰り返し受けた。その結果、腫瘍は縮小し、圧迫されて6ミリの細さになっていた気管は14ミリに広がった。しかし、病状は容赦なく進み、体の痛みにも悩まされるようになった。2011年末ごろから、骨への転移の影響で、腰の痛みが激しくなった。体を動かすたびに激痛が走り、立つことも歩くこともつらい。翌2012年2月、大阪市内のクリニックで、腰に放射線を当てる治療を受け始めた。この頃、自宅近くの野崎クリニック(東京都江東区)に週1回ほど通院し、骨転移の治療薬などの点滴も受けるようになった。ネット上では「激やせした」と指摘されることもあったが、出演したテレビ番組では「ダイエットの効果です」などと話し、明るく振る舞い続けた。「テレビの中にいる元気な自分こそが本来の自分だ」。そう確信していた。だが、病気は進行し、2012年7月上旬には酸素を鼻から吸いながら自宅で過ごすようになった。野崎クリニックの看護師、嵯峨崎泰子さん(50)らが週3回ほど自宅に来て、日々の体調や痛みなど様々な相談に乗ってくれた。7月中旬、せきが「ゼー、ゼー」とした音に変り、黄色いたんが絡むようになった。「命取りになるから」と用心していた肺炎の発症だった。8月中旬、ニッポン放送のラジオ番組に出演したのが、家から外に出て仕事をする最後の機会となった。このころから、痛みを抑える医療用麻薬の貼り薬を使っても、骨転移に伴うひざやひじ、頭部の痛みがうまく抑えられないようになった。8月下旬の早朝、胸が突然苦しくなり、呼吸困難で一時的に危篤状態に陥った。「死期が近くまで迫っている」。そう悟った金子さんは、遺言を完成させ、自分の葬儀やお墓の準備を始めた。葬儀社の社長や住職らと相次いで会い、死後の手続きを整えていった。(11月17日 朝日新聞 患者を生きる 金子哲雄の旅立ち より)