神奈川県に住む主婦渡辺久子さん(68)の元に、封書が届いたのは、2006年夏のことだった。2年前に退職した県内の自動車部品会社からだった。「費用を3年間負担するので、肺の検診を受けてほしい」と書かれていた。ブレーキの組み立てや製品チェックを担当していたが、部品にアスベスト(石綿)を使っていた時期もあったという。渡辺さんはかつての同僚と一緒に、神奈川県立循環器呼吸器病センター(横浜市)でX線検査などを受けた。「今にして思えばあの検診の案内が、病気が見つかるきっかけになった」と振り返る。その年の検査では異常は見つからなかった。3回目の検査を受けた2008年9月、医師から「右の肺に影が写っているので、詳しく検査しましょう」と告げられた。がんの可能性を示す血液中の腫瘍マーカーの値が高かった。CTを使った詳しい検査でも、腫瘍はがんの疑いが強まった。腫瘍は、右の肺の「中葉」にできていた。ただ、気管支鏡で肺の組織を取る検査では、がんの細胞を捉えることはできなかった。胸に影があるとわかって以来、「影が大きくなって、体のあちこちに飛んで行くのでは」と気が気でなかった。「石綿のせいか」と気にはなったが、医師からは「石綿の影響でなるのは中皮腫というがんですが、渡辺さんは違いますよ」と言われた。58歳で早期退職するまでの28年間、大きな病気をしたことはなく、たばこも吸わない。せきや息苦しさもなかった。「どうして肺がんなんだろう」。12月中旬、同センターで手術を受けた。右胸に4カ所穴を開け、胸腔鏡を入れて患部の状態を確かめながら、中葉を摘出した。病理検査の結果、肺を覆う胸膜に達する「胸膜播種」の状態だった。手術では取り切れない腫瘍が体内に残っている可能性が高いという。現在の診断基準では胸膜播種があると、病気の進行度合いを示す病期は「ステージ4」に該当し、5年生存率は1割を切る。「手術で、悪い影がきれいに取れたらいいな」。渡辺さんの希望は、かなわなかった。(8月4日 朝日新聞 患者を生きる 副作用と向き合うより)