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機能回復に個人差
この女性のように、比較的若い年代でがんを発症すると、治療と妊娠・出産の時期が重なる場合がある。抗がん剤治療は9割の患者で月経が止まるとされ、ホルモン療法は一時的に閉経後と同じ状態になる。一般的に30代半ば以降、卵子の数・質が低下する。治療終了後に月経が再開する人もいれば、早く閉経を迎えてしまう人もいて、卵巣機能の回復は個人差が大きい。ここ数年間で、既存の生殖補助医療を使って将来の妊娠・出産希望に応える態勢が整いつつある。日本がん・生殖医療学会理事長の鈴木直・聖マリアンナ医大教授はまずは治療が優先とした上で、「看護師や臨床心理士、薬剤師らも理解を深め、支援態勢を作ることが大切だ」と話す。(10月21日 朝日新聞 がんと暮らしより)
Nov 02, 2016 09:38

営業離れて闘病に集中
●前向きな考えに励まされた 私は、10代の頃から複数の精神疾患があり、胃や腎臓などの病気もあります。体調や気分に波がある中、アルバイトや派遣社員として働いてきました。就職のために資格も取得しました。現在は体調が悪化し、障害者年金と生活保護を受けて暮らしています。がんの治療中に解雇されたという記事(「働く」前編)では、闘病中は精神的にも肉体的にもつらいのに、さらに仕事まで失ってどれほど苦しんだかと思うと心が痛みました。でも、(記事の男性は)「現状を変えていこう」と前向きに考え、資格を取り、再就職を果たしました。こういう状況でもがんばれることに励まされました。病気であることへの社会の偏見を感じることもあります。障害者や生活保護受給者への理解や支援が進むことを願っています。(埼玉県 女性 37歳) ●職場で経験伝えたい 2011年、37歳のときにたまたま受けた胸部CT検査がきっかけで肺腺がんが見つかりました。転移もわかり、手術後に抗がん剤治療を受けました。半年間の休職後、営業職から内勤に異動。営業職から離れたくない思いはありましたが、病気と闘うことに集中しました。2013年には脳への転移が見つかり、休職を繰り返しながら3回の放射線治療装置「ガンマナイフ」による治療と1回の手術を受けました。現在もステロイド剤を内服中で、残る脳腫瘍を経過観察しています。確定診断の時は動揺し、悔し涙も流しました。その後は、「やるしかない」という強い気持ちとともに、適度な鈍感力が大切だと感じています。「5年生存」「息子の結婚式に出る」など短中長期の目標を立て、自分でコントロールできないことには逆らわず、状況に応じて調整していきたいと思います。「がん」という言葉に触れる機会はあっても、多くの人にとっては「対岸の火事」。職場でも自分の経験を話し、早期発見への啓発にも役立てられればと考えています。東京都 男性 42歳。(4月8日 朝日新聞 患者を生きる がん 読者編より)
Aug 02, 2016 14:23

同じ患者としてうれしく
●彼の姿、学生にも伝えたい 連載で紹介された広田圭さんが大学生だった時、教えた教員です。記事を読み、13年前のことが鮮明に思い出されました。大きい教室で講義中のことでした。帽子をかぶったままの数人の学生が目に付き、「帽子を脱いでくれ」と大声で叫びました。講義を終えて研究室に帰ると、広田君がドアをノックして入ってきました。がんになったこと、抗がん剤治療の副作用で髪が抜けたこと。帽子を取れないわけを切々と訴えてきたのです。悩んでいる学生がいることを知らずに言ってはならないことを言った、未熟な教員でした。とても悪いことをしたと後悔しました。広田君はその後も研究室を訪ねてくれ、進路の話をしたり、帰省するとお土産を持参してくれたりするようになりました。大学には、就職が決まらず困っている学生もいます。どんな時でも気持ひとつ。希望を持ってがんばってきたからこそ今がある。そんな彼の姿を、講義でも紹介したいと思います。福岡県 山崎勇治 70歳。 ●若い患者の前向きな姿、励み 私は2年前に大腸がんが見つかり、手術を受けました。がんになったことの精神的なショックは大きく、「生活習慣が悪かったから?」などと自問自答し、自分を責めました。周囲と比べて「負け組」という気分にもなりました。がんでも部位や進行度によって状況は異なるのに、がん全体へのイメージが悪いと思います。2人に1人ががんになるという時代でも、心は穏やかではありません。手術後、地域の情報欄などを見て、がん患者の集まりがあるということがわかり、体験者の声を聞きたくて参加しました。もっと大変な思いをしている方の話を聞いたり、紹介してもらった講演を聞きにいったりして、疑問点を質問し、自分で納得していきました。連載で紹介された患者さんは若くしてがんになった後も、社会に役立つ仕事をしようと前向きに生きる仕事をしようと前向きに生きる姿がすばらしいと思いました。同じ患者としてうけしく、励みになりました。千葉県 女性63歳。(4月7日 朝日新聞 患者を生きる 読者編より)
Jul 26, 2016 09:51

心のケア 家族にも必要
●置き去りになっていた心 昨年11月、50歳の夫を急性骨髄性白血病で亡くしました。春に病気がわかり、7カ月間の入院のほとんどを無菌室で過ごしました。面会は家族だけ。私は毎日仕事が終わると病室に行きました。せめて夕食だけでもおしゃべりしながら食べてほしかったからです。夫は、大量の抗がん剤治療、末梢血幹細胞移植と激しい苦痛を伴う治療を立て続けに受けました。「うちに帰るためだから」と泣き言一つ言わないで頑張っていました。痛みがひどく眠れない日も続きましたが、取り乱すことなく、静かに痛みと闘っていました。亡くなった後は葬儀などをこなさなければなりませんでした。でも、状況が落ち着きだすと、心が平静ではいられなくなりました。治療中は「支えなければ」という思いが先に立って、心が置き去りになっていたと思います。自分の気持を話せば、「いつまでも泣いていたらダメ」「成仏できない」と誰からも言われてしまい、何も言えなくなります。患者の家族は悲しみを隠して生きていかなければなりません。家族にも心のケアは必要だと思います。愛知県 水口和枝 50歳。 ●つらい気持、打ち明けた 6年前に食道がんと診断され、手術を受けました。手術後、流動食をとれるようになった頃に腸閉塞になり、再手術になりました。それから、つらい日がたくさんありました。今となってはどうしてそんなことを考えたのだろうと思いますが、当時は「この年でがんになって、もう生きていてもしょうがない」と思いました。気持がどんどん落ち込み、夜も寝られず、見回りの看護師さんの手を握って、つらい気持を打ち明けて泣きました。看護師さんが医師に進言してくださり、診療内科の診察を手配してもらいました。薬を飲んだら、少しずつ前向きになって治療を受けることができました。やはり、患者にとって精神的なケアは大切だと思います。今も診療内科に通い、ヘルパーさんの手を借りて、91歳の夫の世話をしながら暮らしています。大阪府 筵井宏子 83歳。 (4月5日 朝日新聞 患者を生きる 読者編2より)
Jun 12, 2016 09:55

闘病の決意 短歌に込め
●短歌に重ねた夫との時間 今も携帯電話の待ち受け画面にメモしている短歌があります。一日が過ぎれば一日減っていく君との時間 もうすぐ夏至だ (乳がんで亡くなった)歌人河野裕子さんの旦那さん(永田和宏さん)の歌です。5年前、53歳だった主人が末期のすい臓がんを宣告され、治療はせず自宅で過ごしていた頃に知りました。私は会社を休み、一緒に過ごしました。「ああ、おいしいねえ」と好きなものを食べ、「海が見たい」とドライブ。本当にきままに自由に、でも残された時間は悲しいまでも確実に減っていく。そんな日々でした。この歌を知って、あまりにも気持が分かりすぎて怖いくらいでした。ただ、覚悟は持てました。一日一日を、普通に、本当に普通に過ごすしかないし、それが最善なのだと。主人はその年の6月に旅立ちました。夏に向かう頃、この歌とともに、あの覚悟と、主人の「おいしいねえ」を思い出します。 愛媛県 矢野景子 49歳 ●気持を言葉にできた 8年前に子宮体がんの手術を受けました。手術後、抗がん剤治療中に、姉に勧められて短歌を詠み始めました。その後、再発して放射線治療も受けました。 癌病めば尚背を伸ばし歩み行く我に光れる春の白雲 病院の窓から見た光景に、「負けてはいられない」と決意し、最初に生まれた歌です。短歌で気持を言葉にできると、晴れやかな気分になりました。歌がなかったら、闘病を乗り切ることは出来なかったかもしれません。連載中の「短歌とがんは相性がいい」という言葉はその通りだと思います。真剣に死を見つめ、絶望と希望を味わうからでしょう。ベッドの上でもできることがあれば、患者にとって大きな支えになると思います。今も再発が不安になることもありますが、明る区元気に過ごしています。いつか歌集を出すことが夢の一つです。大阪府 関原和子 66歳 (4月4日 朝日新聞 患者を生きる 読者編より)
Jun 07, 2016 16:00

園長就任 直後に再発
東京都江東区で保育士として長年働いてきた国井京子さん(56)は、卵巣がんの2度の手術と抗がん剤治療を経て2008年1月、約1年ぶりに職場復帰した。短時間勤務から始める選択肢もあったが、最初からフルタイム勤務にした。心配する同僚には、「つらいときは、自分からつらいと言うし、耐えられなかったら休日をとるから、以前と同じように接して」と伝えた。園児たちに囲まれていると、「私がいる場所はここなんだ。私を必要としてくれているのは、この子らなんだ」と、胸がいっぱいになった。病気を経験したことで、「命はいただきもの」という思いが強くなった。その瞬間瞬間を、思い切り楽しそうに過ごしている園児たちを見るだけで、いとおしくなった。それから約6年。2014年4月に、江東区立亀戸保育園の園長に就任した。しかし、その3カ月後、定期的に受けていた腫瘍マーカーの数値が上がっていた。PET検査を受けると、腹膜にがんが見つかった。9月に手術を受け、摘出した組織を調べたところ、原発の卵巣がんが転移したものだった。仕事を続けるため、その後の4カ月間の抗がん剤治療は通院を選んだ。朝6時に病院に着き、できるだけ速い順番をとって約6時間の点滴治療を受けた。職場に戻るのは夕方になった。副作用の吐き気や脱力感がひどい時は通院や通勤にタクシーを使った。昨年2月に抗がん剤治療が終わり、経過観察を続けている。「職場の理解や医学の進歩、そして家族の支えがあって、今の私がある」と感じている。公務員のために条件が恵まれていたことは感謝している。がん患者が増え続ける中、きちんと休職でき、給与も保証されることが当たり前の社会になってほしいと思う。部下の保育士が、がんで休職することも経験した。復職したその保育士には、自らの経験をもとにアドバイスの言葉をかけた。「つらいときはいつでも言って、休んでね。いつでも休日をとってもらうから。言ってもらえないと私たちにはわからないし、自分の体のケアは、自分しかできないから」。(3月31日 朝日新聞 患者を生きる 働く・後編3より)
Jun 05, 2016 10:52

復職するなら今しかない
東京都江東区で保育士をしていた国井京子さん(56)は2006年12月、進行した卵巣がんが見つかった。2度の手術と抗がん剤治療を経た約1年後、がん研有明病院婦人科副部長で主治医の宇津木久仁子さん(57)から「すばらしく抗がん剤が効き、がんがほとんど消えた」と告げられた。やっと復職の機会が訪れた。入院の当初から180日間(現行は90日間)取得した「病気休暇」は2007年7月で終わり、「病気休職」という別の制度に切り替わっていた。区職員の病気休暇では基本給が100%支給され、病気休職は最初の1年間が8割支給される。公務員として治療中も金銭的な支援を受けることができた。職場には迷惑をかけたくないとの思いがあり、できるだけ早く仕事に戻りたかった。宇津木さんには「ボランティアなどをして、ゆっくり過ごすのもいいわよ」と助言されていた。しかし、20年近く続けてきた保育士をやめるのは、自分の人生を否定するように思えた。「どれだけ生きられるかわからないけれど、もし余命があるのなら、保育士として生きたい」。2007年12月、当時勤務していた保育園の園長に「来月から復職したい」と連絡を入れた。しばらくして江東区の保育課と人事担当課の幹部2人が、主治医の宇津木さんのもとに現われた。2人は、国井さんが個人情報の公開に同意していることを示す文書を見せて、病状を尋ねてきた。「復職したいと言われているのですが、医師としてどう思われますか。体調は大丈夫ですか?」宇津木さんは、患者の復職をめぐって職場関係者の訪問を受けるのは初めてだった。担当者の話しぶりからは、国井さんが再び職場に戻れるようにという前向きな気持が感じられた。国井さんの仕事への熱意を踏まえ、宇津木さんはこう説明した。「いま働きたいと言っておられるなら、いますぐ復職させてあげてください。体力の回復を待っていると、その間に再発してしまうかもしれません。復職するなら、いましかありません」。2008年1月、国井さんは東陽保育園で、再び働き始めることになった。(3月30日 朝日新聞 患者を生きる 働く・後編より)
Jun 02, 2016 07:59

告知受け3世代同居へ
東京都江東区の区立亀戸幼稚園の園長、国井京子さん(56)は2006年12月、がんの定期検診で腹部のエコー検査を受け、その場で異常を指摘された。「下腹部に影があります。すぐに大きな病院に行ってください」。翌日、がん研有明病院で「進行した卵巣がんの疑い」と言われた。約2週間後、CTや腫瘍マーカーの結果をもとに、主治医の宇津木久仁子さん(57)から「首のリンパ節に転移があり、ステージ4の卵巣がん」と説明された。さらに、「治すことは難しく、1年後のことははっきりわかりません。万が一のことがあっても、子どもが困らないように準備を進めてください」と告げられた。当時、国井さんには3歳年上の夫と、大学生と小学生の娘2人がいた。保育士として働いていた保育園では3歳児を担当していたが、180日間の病気休暇を取得した。治療の合間に、宇津木さんの助言に従って働き始めた。まず江東区内の自宅マンションを売って、東京都中野区にある夫の実家を2世帯住宅に改築し、夫の両親と家族4人で同居することにした。自分が死んでも、夫は両親に助けてもらいながら子どもを育てていけると考えた。小学6年生だった次女(21)には、私立の中高一貫校を受験させることにした。自分が勉強の面倒をみられないと、3年後の高校受験を乗り切れるか不安だったからだ。準備期間は1カ月ほどだったが、無事に合格できた。卵巣がんの摘出手術は、2007年の1月末に受けた。翌2月上旬から始まった抗がん剤治療は、約半年続いた。8月に2度目の手術を受け、脾臓や大腸などに転移したがんを切除した。取り切れなかった膀胱などのがんは、12月までの抗がん剤治療で大幅に縮小した。この間に夫の実家の改築浩二が終わり、家族4人で引っ越した。治療や新たな暮らしが落ち着いてきた段階で考えたのは、仕事のことだった。保育士になって20年近く。ハイハイしていた乳児がつかまり立ちするなど、「成長の瞬間」に立ち会える喜びは、何ものにも代えがたかった。「復職」が頭に浮かんだ。(朝日新聞 3月29日 患者を生きる 働く・後編より)
May 01, 2016 21:13

車やめ自転車 気分爽快
肺がんの手術後に脳転移が見つかった愛知県の会社員の男性(58)は、新たな転移が発見されるたびに「サイバーナイフ」を使った放射線治療を受けた。仕事もこなし、家族と平穏な日々を送っていた。ところが2013年6月、「事件」が起きた。夜中、長女が低い響くような物音に気付いた。寝室で寝ていた男性の様子を見に行くと、ベッドの上でよだれを流してうなり声をあげていた。呼びかけに反応はなく、体を震わせていた。救急車が到着しても、男性は手足をばたつかせていた。5,6人の救急隊員に総がかりで担架に乗せられ、ベルトで体を固定された。愛知医科大学病院(愛知県長久手市)に向かう救急車の中で意識が戻った。発作のことは覚えていなかった。救急外来で診察に当たった脳神経外科の医師は「脳腫瘍から出血し、周りの脳神経が刺激を受けてけいれん発作が起きたのでしょう。脳腫瘍の患者さんには、時々あります」と家族に説明した。男性は2週間ほど入院し、薬物治療を受けた。運転中に発作を起こす可能性があるので、家族に説得されて車の運転をあきらめた。通勤も自転車に切り替えた。治療を受け続ける自分への「ご褒美」として、少し値が張るものを買った。通勤だけでなく、仕事の外回りにも自転車を使い、1日に40~50キロ走るようになった。自転車に乗っていると、爽快感から病気のことも忘れられた。95キロあった体重は半年ほどで70キロになり、服のサイズがXLからMになった。コレステロール値も改善し、呼吸器内科の主治医に「生活習慣病からは、いち早く開放されましたね」と言われた。ただ、がんの転移はその後も続いた。2014年7月には、肺への転移が見つかった。肺の腫瘍でも、サイバーナイフで放射線治療を受けた。腫瘍は縮小したが、3カ月ごとの検査は続いている。「またいずれ、サイバーナイフのお世話になるかもしれません。でも私は、病気になったのが、そんな技術がある時代だったことを、運がいいなと思っているんですよ」。(11月27日 朝日新聞 患者を生きる サイバーナイフより)
Feb 19, 2016 09:48

痛みも熱も感じない
肺がんの脳への転移が見つかった愛知県の会社員の男性(58)は、2011年9月下旬から総合青山病院(愛知県豊川市)で、放射線照射装置の「サイバーナイフ」を使った治療を受けることになった。主治医の水松真一郎さん(50)は諭すように説明した。「サイバーナイフは病気を根治させるというより、現在の生活レベルを落とさないようにすると思ってくださいね」。治療の日、男性は頭に固定具をつけ、ベッドに横たわった。頭上を長さ2メートルほどのロボットアームが動く。いろいろな方向に動き回り、「カチッ」と停止すると「ジー、ジー」という音を立てた。天井のスピーカーから、「動かないでください」「いまから照射します」と放射線技師の指示が届いた。放射線を照射した頭部には、痛みも熱も感じない。「本当に放射線が出ているのかな?」。室内には、あらかじめリクエストしておいた中島みゆきの曲が流れた。「旅人のうた」「地上の星」・・・・。頭の中の腫瘍がどんどん小さくなっていく様子をイメージしながら歌声を聞いた。治療は、脳の腫瘍1カ所につき15~30分ほどかかる。男性の腫瘍は6カ所あり、初回の照射は3時間ほどで終わった。終了1カ月後のCT検査やMRI検査では、放射線を照射した腫瘍は画像でとらえられないほど縮小したり、黒くなって壊死したりしていることが確認された。ただ、3カ月ごとの定期検査で、新たに脳に転移した腫瘍が相次いで発見された。まず2012年1月に4カ所見つかり、再びサイバーナイフによる治療を受けた。その後も、脳に腫瘍が見つかるたびにサイバーナイフを使った放射線治療を受け、2013年2月までに計3回、15カ所にのぼった。「転移して、治療して。転移して、治療して。こんな繰り返し、いつまで続くんですかね」。男性は水松さんにそうこぼしたこともあった。それでも以前と同じように仕事をこなし、家族と一緒に暮らせている。「サイバーナイフのおかげで生かさせてもらっている」。治療を続けているうちに、そう実感するようになっていった。(11月26日 朝日新聞 患者を生きる サイバーナイフより)

Feb 18, 2016 09:34

「魔法のよう」治療に気力
肺がんの手術から2年あまりたった2011年9月。愛知県に住む会社員の男性(58)は、脳への転移を告げられた。通院先の愛知医科大学病院(愛知県長久手市)で、「サイバーナイフ」を用いた放射線治療を選択肢の一つとして示された。病院から帰宅すると、インターネットで「サイバーナイフ」について調べた。「特定部分にだけ放射線を当てがん細胞を攻撃する定位放射線治療のひとつ。周囲の正常な組織への悪影響を減らし、腫瘍に強く正確に照射できる」。そんな説明文をネット上で見つけた。脳腫瘍だけでなく、肺や肝臓のがんを治療できるのが特徴と書かれていた。「ナイフというから、電気マスのようなものでがんを切り取るのかと思ったわ」。妻(54)からそう言われた男性は、こんな返事をした。「なんだか、魔法のような治療法だな。説明を読んだだけで、治りそうな気分になってきた」。男性は数日後、河村敏紀特認教授(62)から詳しく説明された。放射線による治療には、頭部全体に照射する「全脳照射」という方法がある。ただ、正常な細胞にも放射線が当たるので、基本的に1回しかできない。これに対し、サイバーナイフは、腫瘍に集中した照射ができるという。「がん細胞を狙って当てるので、新たな病変が発生しても繰り返し照射し治療できます」。全脳照射かサイバーナイフか。治療方法は主要の数、大きさ、位置、年齢などを考慮して決められる。この10年ほどの日本放射線腫瘍学会などの報告によると、サイバーナイフは比較的腫瘍の数が少ない患者に対して選択される。男性の腫瘍は6カ所。今後も発生する可能性があった。河村さんは「サイバーナイフをお勧めします」と言った。男性は、紹介された総合青山病院(愛知県豊川市)で、サイバーナイフによる治療を受けることにした。約1週間後に受診すると、その日のうちに放射線を当てる時に使うプラシチック製の固定具を作製した。完成した仮面のような固定具を見た瞬間、「よし。やるぞ」と気力がわいてきた。(11月25日 朝日新聞 患者を生きる サイバーナイフより)
Feb 14, 2016 09:48

手術の2年後 脳に転移
せきがなかなか止まらず、たんが多いのが気になった。愛知県に住む会社員の男性(58)は52歳だった2009年2月、近所の医院の勧めもあり、愛知医科大学病院(愛知県長久手市)の呼吸器内科でCTやPET検査を受けた。右肺に6センチの腫瘍が見つかった。数日後、気管支鏡などの詳しい結果を聞きに行った。「ステージ3の肺腺がんです」。医師からそう告げられた。がんの告知はもっと重々しい雰囲気だろうと思っていたが、あっさりとした医師の説明に拍子抜けした。医師はすぐに手術内容を語り、最後にこう付け加えた。「5年後の生存率は50%です。リンパ節転移はありますが、腫瘍が1カ所なので手術ができます」。がんを宣告されたものの、「手術ができる」という医師の言葉に、男性はホっとした。「まだまだやりたいことがあるから、しっかり治してもらうよ」。男性は妻(54)に伝えた。5月に手術を受け、約7時間かけて腫瘍を摘出した。手術後、妻は医師から切除したばかりのがん組織を見せられた。黒っぽい、いかにも「悪役」という感じのする腫瘍だった。「さわってみますか?」と医師に促され、ゴム手袋をして指でつつくと、見た目よりゴツゴツして硬かったという。退院後は職場に復帰し、以前を変らず外回りも積極的に引き受けた。食欲もあって体調は良く、がんになる前と変らない日々が続いた。「5年間、転移がない状態が続けば、安心できますよ」。医師からはそう言われていた。しかし、手術から2年あまりたった2011年9月、病院の検査で再び異変が見つかった。がんが脳に転移していた。腫瘍は6カ所あり、いずれも数ミリの大きさだった。「またがんばって、がんと闘うしかないな」。診察室で医師から転移を告げられたのに、男性は自分が平静なのに少し驚いていた。今回は手術以外の治療法の治療法になるという。医師は「ひとつの選択肢として、放射線を使った最近注目のサイバーナイフという治療法があるのですが」と切り出した。サイバーナイフ・・・・。初めて聞く言葉だった。(11月24日 朝日新聞 患者を生きる サイバーナイフより)
Feb 10, 2016 15:03

早期切除なら高い生存率
肺カルチノイドは肺がんの一種だ。患者数は少なく、新たに診療される肺がん患者全体の1%未満と推定されている。ただ、一般的な肺がんに比べて悪性度は低いとされ、病気の進行は比較的ゆっくりしている。早期に発見し、手術で切除すれば、治るケースが多い。国立がん研究センターによると、受診患者の平均は50代だが、30代で発症する人もいる。男女差はほとんどないとみられる。喫煙歴との関連は、他の種類の肺がんに比べて低いとされている。肺カルチノイドには、悪性度が低い「定型」と高めの「非定型」とがある。約8割の患者が「定型」という。初期の場合は、自覚症状がないことも珍しくない。健康診断などで胸部のX線検査を受けた際に、丸くて濃い影が見つかり、治療のきっかけになるケースが多い。病気が進行すると、せきやたんが増える。肺の中枢に腫瘍ができた場合、肺葉がつぶれる「無気肺」になったり、腫瘍から出血して血痰が出たりすることがある。このほか、顔面の紅潮や下痢などの症状がみられるケースもある。肺カルチノイドと通常の肺がんとを判別するには、組織を採って調べることが必要だ。また、肺の腫瘍を切除する手術を受けた人が、手術の病理検査で肺カルチノイドと判明するケースも多い。肺カルチノイドの治療は、手術で腫瘍を取り除くのが基本だが、ほかの臓器への転移がある場合は抗がん剤による治療が行われる。連載で紹介した金子哲雄さんの場合は末期で、肺の腫瘍の直径が約9センチと大きく、骨にも転移していた。このため、手術で取り除くことができず、腫瘍を縮小させようと、周囲の血管をふさぐ治療法を選択した。欧州で行われた調査によると、肺カルチノイドの腫瘍を切除した患者の5年生存率は、早期の1期では約90%、2期で75~85%、進行した3期で約50%という。国立がん研究センター中央病院(東京都中央区)の大江裕一郎副院長'(呼吸器内科)は「他の肺がんと同様に、手術が可能な早い段階で発見することが大切だ」と話している。(11月21日 朝日新聞 患者を生きる 金子哲雄の旅立ち 情報編より)

Feb 03, 2016 09:20

「今も一緒」 志引き継ぐ
肺カルチノイドの治療を続けていた流通ジャーナリストの金子哲雄さんは2012年8月、呼吸困難で一時危篤状態になり、「死期が近づいている」と悟った。そして、自分の人生や闘病の経緯を一冊の本にまとめる作業を始めた。この頃には、体力も限界に近づいていた。自分の足で歩くことはできなくなり、キャスター付きのいすに座り、妻の稚子さん(48)に押してもらって部屋を移動した。そんな状態でも、雑誌社やテレビ局からの電話取材を受け続けた。9月下旬、死後に発売されることになる闘病記「僕の死に方 エンディングダイアリー500日」の原稿を書き終えた。「自分は最後まで、自分に正直に生きてきた。濃い人生だった。そのことを、誇りに思う」と原稿につづった。「ここにいて!」。10月1日早朝、稚子さんは哲雄さんの切羽詰った声を聞いた。そのとき、「今日が最後かもしれない」と感じ、涙で肩をふるわせ、横で見守った。「稚ちゃん、泣いちゃだめだよ。死んでも僕が守るから」。翌2日の午前1時過ぎ。穏やかな表情で旅立った。「ありがとう、お疲れ様」。稚子さんはそっと声をかけた。自ら準備した通りに、5日、浄土宗心光院(東京都港区)で葬儀・告別式が行われた。「41年間、お世話になり、ありがとうございました」生前に本人が準備していた会葬礼状が、参列者に配られた。闘病記は11月下旬に刊行された。「終活」がこの年の流行語トップ10に選ばれ、哲雄さんらが受賞者となった。哲雄さんは普段から人とのつながりや仕事を大切にして生き、同じように、死に対しても真摯に向き合った。「死ぬことと、生きることは同じ」。哲雄さんが残した言葉は、激しい喪失感と悲しみに襲われた稚子さんにとって、心の支えになった。哲雄さんから「引継ぎ」を受けた宿題をやらないと・・・。そう感じた稚子さんは、死に直面した患者らの心の痛みに寄り添う活動を2013年8月から始めた。「今も一緒に、生きている」。全国各地を講演で回りながら、稚子さんはそう感じている。(11月20日 朝日新聞 患者を生きる 金子哲雄の旅立ちより)
Jan 27, 2016 09:37

迫る最期 死後の準備
流通ジャーナリストの金子哲雄さんは2011年6月に肺がんの一種「肺カルチノイド」の末期と診断されてからも、雑誌の執筆だけでなく、テレビやラジオの出演にも精力的に散り組んでいた。肺にできた腫瘍のまわりの血管をふさぐ治療は繰り返し受けた。その結果、腫瘍は縮小し、圧迫されて6ミリの細さになっていた気管は14ミリに広がった。しかし、病状は容赦なく進み、体の痛みにも悩まされるようになった。2011年末ごろから、骨への転移の影響で、腰の痛みが激しくなった。体を動かすたびに激痛が走り、立つことも歩くこともつらい。翌2012年2月、大阪市内のクリニックで、腰に放射線を当てる治療を受け始めた。この頃、自宅近くの野崎クリニック(東京都江東区)に週1回ほど通院し、骨転移の治療薬などの点滴も受けるようになった。ネット上では「激やせした」と指摘されることもあったが、出演したテレビ番組では「ダイエットの効果です」などと話し、明るく振る舞い続けた。「テレビの中にいる元気な自分こそが本来の自分だ」。そう確信していた。だが、病気は進行し、2012年7月上旬には酸素を鼻から吸いながら自宅で過ごすようになった。野崎クリニックの看護師、嵯峨崎泰子さん(50)らが週3回ほど自宅に来て、日々の体調や痛みなど様々な相談に乗ってくれた。7月中旬、せきが「ゼー、ゼー」とした音に変り、黄色いたんが絡むようになった。「命取りになるから」と用心していた肺炎の発症だった。8月中旬、ニッポン放送のラジオ番組に出演したのが、家から外に出て仕事をする最後の機会となった。このころから、痛みを抑える医療用麻薬の貼り薬を使っても、骨転移に伴うひざやひじ、頭部の痛みがうまく抑えられないようになった。8月下旬の早朝、胸が突然苦しくなり、呼吸困難で一時的に危篤状態に陥った。「死期が近くまで迫っている」。そう悟った金子さんは、遺言を完成させ、自分の葬儀やお墓の準備を始めた。葬儀社の社長や住職らと相次いで会い、死後の手続きを整えていった。(11月17日 朝日新聞 患者を生きる 金子哲雄の旅立ち より)
Jan 23, 2016 13:51

治療の日々 笑顔忘れず
流通ジャーナリストの金子哲雄さんは、2011年6月に肺がんの一種「肺カルチノイド」と診断された。ただ、厳しい現実をすぐには受け入れられなかった。健康には自信があった。たばこは吸わないし、酒もほとんど飲まない。食事にも配慮していた。趣味はサイクリングで、時間があれば体を動かしていた。しかし、肺にできた腫瘍は肝臓や骨にも転移しており、有効な治療法は見当たらないという。納得できずにいたところ、腫瘍を縮小させたり、死滅させたりするために周囲の血管をふさぐ治療を大阪のクリニックが行っていることを、知人の紹介で知った。公的医療保険を使って治療が受けられることも分かり、8月初め、ゲートタワーIGTクリニック(大阪府泉佐野市)を訪ねた。肺の腫瘍は血管や気管を巻き込んで大きくなっており、院長の掘信一さん(66)は「病期は4期」と診断した。その上で「この病気は進行が遅い。治療する時間的な猶予はある。手を尽くします」と話した。「命がつながった」。掘さんの言葉を聞いた金子さんは、心が救われる思いだった。治療は8月下旬から始まり、1回2時間ほど。まず、脚の付け根の動脈からカテーテルを入れ、肺の腫瘍の周囲の血管に抗がん剤を入れる。これに続いて、腫瘍への血液の流れを止める「塞栓物質」を送り込んだ。この治療を繰り返し受けるために、仕事を続けながら、自宅のある東京とクリニックがある大阪とを行き来する日々が始まった。金子さんは、看護師や事務員の数を下調べしたうえで、自分が好きな老舗のあんパンを手土産として持ってきた。「体がしんどいときに、そこまで気を使わなくても・・・・」。どんな状況でもニコニコと明るく、周囲への気配りを忘れない金子さん。その姿に、掘さんは強く心を打たれた。金子さんは全力で治療と仕事に取り組み、自身の病状は、限られた関係者以外、公表しなかった。「公表すれば、仕事への影響が出るし、周囲にも気を使わせてしまう」。そう考えた。(11月18日 朝日新聞 患者を生きる 金子哲雄の旅立ち より)
Jan 13, 2016 15:04

「僕、死んじゃうんだ・・・」
むせかえるような激しいせきが、止まらなくなった。流通ジャーナリストの金子哲雄さんが、体調の異変をかんじたのは2011年。40歳のころだった。身ぶり手ぶりを交え、お得な買物情報を分かりやすく解説するスタイルがお茶の間で人気を呼んでいた。テレビやラジオの出演をこなす多忙な日々の最中だった。ただ、鏡を見ても顔色は悪くない。「大丈夫。忙しいから、ちょっと疲れているだけ」。そう自分に言い聞かせた。一方、妻の稚子さん(48)はいやな予感がした。「絶対におかしい。検査して」。苦しそうにせきをする様子を見て、哲雄さんに強く勧めた。「年のため、検査を受けてみようか」。6月上旬、都内の病院で胸部のCT検査を受けた。数日後、検査の結果を医師から告げられた。「末期の肺がんです」。突然の宣告。全身から力が抜けていくのが分かった。「僕、死んじゃうんだ・・・」。哲雄さんから電話で連絡を受けた稚子さんも、「うそでしょ」と返事するのがやっとだった。病状を詳しく調べるため、肺の細胞を取る検査を、都内の別の病院で受けた。6月上旬、肺がんの一種「肺カルチノイド」と診断された。初めて聞く病名だった。画像診断の結果、直径約9センチの腫瘍が、左右の肺にまたがるように広がっていることが分かった。肺カルチノイドは比較的進行が遅い病気だ。しかし、すでに肝臓や腰の骨にも転移していて手術や放射線治療は難しい状態で、化学療法の効果も見込めないという。思えば、せきのほかに、顔がむくむ症状も出ていた。腫瘍によって静脈が圧迫され、血行が悪くなったのがむくみの原因だった。これといった治療法はない・・・。医師の言葉に納得できず、都内の大学病院などを回ったが、答えは同じだった。見捨てられたように感じ、落胆と怒りの気持でいっぱいになった。「なぜ、自分がこんな目にあわなくてはならないんだろう」。現実を受け入れられず、自宅の部屋に戻ると涙が止まらなくなった。(11月17日 朝日新聞 患者を生きる 金子哲雄の旅立ち より)
Jan 09, 2016 09:51

今を楽しみながら
甲状腺がんが肺に転移した愛知県一宮市の女性(44)は2012年5月、検査により「放射性ヨウ素内用療法」では十分な治療効果がないことが分かった。同じ頃、愛知県がんセンター中央病院では、転移などで手術ができない甲状腺がんを対象に、新しい分子標的薬の効果や安全性を確認する臨床試験(治験)が始まっていた。医師から情報提供を受けた女性は、この治験に参加することを決めた。治験では1日1回、決まった時間に錠剤を飲む。6月中旬から服用が始まった。しばらくして、薬の副作用に見舞われた。下痢が続き、体がふわふわする。ふわふわとした感じは、ふだん120程度の最高血圧が160に上がったためだった。「体の中でいったい、何が起きているんだろう」。怖くなった。同センターの主治医、谷口浩也薬物療法部医長(37)のもとを定期的に訪れた。血圧を抑える薬も飲むようになった。副作用がひどくなると、服用を休んで、薬の量を段階的に減らした。開始から3カ月後のCT検査では、肺の腫瘍が縮小していた。しかし、女性はもともと、がんの症状がなかった。「薬を飲むことで、なんでこんなつらい思いをしなくちゃいけないのか」。そんな疑問にかられることもあった。治験に参加してから3年が経った今年5月、新薬はレンビマ(一般名レンバチニブ)という名前で発売されることが決まった。「これからは、いつでも薬が買えるようになるので、しばらく薬を休みたいです」。女性は谷口さんに伝えた。谷口さんは「いまは進行がゆっくりでも、この先ずっとそうとは限りません。3カ月に1度、必ず検査を受けに来てください」と応じた。女性は今、子育てに忙しい日々を送りながら、休日は家族でキャンプに出かけるなどしてリフレッシュを心がけている。この秋に受けた検査では、転移した腫瘍は大きくなっていなかった。ただ、この先、がんが進めば服薬を再開する可能性はある。「定期的に検査をうけながら、今できることを楽しみながら、病気と長く共存していきたい」。そう考えている。(11月13日 朝日新聞 患者を生きる 甲状腺と新薬より)
Jan 03, 2016 10:13

我が子と離れる治療悩む
甲状腺がんが肺に転移しているとわかった愛知県一宮市の女性(44)は、2012年1月、愛知県がんセンター中央病院を訪れた。当時主治医だった四日市羽津医療センターの梅枝覚・副院長(63)が紹介状を書いてくれた。医師からは甲状腺がんが転移した場合の治療として「放射性ヨウ素内用療法」の説明を受けた。転移した肺のがん細胞は、甲状腺がんと似た性質を持っている。治療は甲状腺の組織がヨウ素を取り込む性質を利用して、放射性ヨウ素が入ったカプセルを服用し、体の中からがん細胞に放射線を当てる。女性の場合、肺の腫瘍の数が多くて手術ができないため、「唯一の治療法」になるという。ただ、甲状腺が残っていると、治療のためのヨウ素が甲状腺に集まってしまう。まずは甲状腺をすべて摘出する手術を受けた。愛知県がんセンターにはヨウ素内用療法の専用設備がなかったため、東海地方の別の病院を受診することになった。そこで治療にあたっての注意点を聞き、女性は強いショックを受けた。放射性ヨウ素を服用すると、1週間ほど隔離病棟へ入院する必要がある。さらに退院後も内服したヨウ素からわずかな量の放射線が出るため、1~3週間は、子どもと蜜に接することや添い寝など、近くで一緒に長時間過ごすことができない。15分以上は子どもを抱かないようにして、半年間は妊娠を避ける必要もある。女性は2歳の我が子を思い浮かべて考えた。「1カ月近くも子どもをだっこせずに離れているなんて、できるわけがない」。とっさに質問した。「治療をしないで病気を放置したら、どうなりますか」。「進行すればの話ですが、呼吸が苦しくなる症状が出るでしょう」という答えが返ってきた。5月、まずは微量のヨウ素を体内に入れて、肺に取り込まれるかどうか、試すことになった。しかし、肺のがん細胞にヨウ素は十分取り込まれなかった。治療を実施しても、あまり効果は望めないという診断結果だった。「これで治療を受けない理由ができた」。我が子と離れる心配がなくなり、女性は内心、ホッとした。(11月12日 朝日新聞 患者を生きる 甲状腺と新薬より)
Dec 23, 2015 09:10

結婚・出産 10年目の転移
甲状腺がんの一種、乳頭がんと診断され、2002年に甲状腺の一部を摘出する手術を受けた愛知県一宮市の女性(44)は、その後も定期的に検査を受けた。「忘れた頃に再発することがありますから」。主治医の四日市羽津医療センター副院長、梅枝覚さん(63)は毎年CT検査を受ける必要性について、そう説明した。当時、地方銀行の総合職として働いていた女性は、東海地方を転勤しながら忙しい毎日を送っていた。休日は同僚らと山登りを楽しんだ。「悪い部分は手術で全部取った」と思いながら、がんのことを考えることもなくなった。手術から4年後の2006年に結婚。銀行を退職し、7月に夫(45)の赴任先の米オハイオ州に移り住んだ。梅枝さんは「甲状腺ホルモンのバランスが崩れないよう、薬はしっかり飲み続けてくださいね」と言って送り出してくれた。2010年3月に米国で長男(5)を出産した。年に一度帰国するたびにCT検査は受け続けた。渡米から5年後の2011年、夫の赴任期間が終わって帰国。その年の秋に受けた人間ドックのX線検査で「肺に影がある」という結果が届いた。「肺炎?結核かなあ?」。心のどこかで、「がん」の可能性を打ち消そうとしていた。すぐに梅枝さんの元を訪れた。PET検査の結果、肺の「影」は腫瘍である可能性が高まった。12月下旬、胸腔鏡を使って肺の細胞を取る検査を受けた。腫瘍が肺がんなのか、甲状腺がんの転移なのかを調べるためだった。数日後、女性は梅枝さんから病理検査の結果を告げられた。「肺の腫瘍は、甲状腺がんが転移したものでした」。「がんの治療は、もう終わったものだと思っていたのに・・・・」。信じられない思いだった。梅枝さんは「甲状腺のがんの性質を持つので、進行は遅いと思いますが、腫瘍が多いので放置しないほうがいいでしょう」と続けた。2002年にがんが見つかった時と違うのは、家族の存在だった。夜、当時1歳の長男(5)の顔を見るのがつらくなった。「この子の成長を、いつまで見続けられるだろう」。(11月11日 朝日新聞 患者を生きる 甲状腺と新薬より)
Dec 19, 2015 10:49

迷ったすえ切除を選んだ
愛知県一宮市に住む女性(44)は2002年、初めて受けた人間ドックでコレステロールの値が低いと指摘された。「コレステロール値って高いと良くないけれど、低いのも問題なのかしら?」。当時、31歳。東海地方の地方銀行で、総合職として働いていた。夜遅くまで働き、寝るためだけに帰宅するような毎日だった。ホルモンの分泌異常が疑われ、のどに超音波を当てて調べる検査を受けた。さらに三重県四日市市にある四日市社会保険病院(現・四日市羽津医療センター)で、のどに針を刺して採取した細胞を調べる検査を受けた。検査の結果、医師から告げられた。「甲状腺がんです」。甲状腺はのどにある臓器で、新陳代謝や成長にかかわるホルモンを分泌する。女性の場合、左側に1センチほどの腫瘍ができていた。「がん」という言葉に驚いたが、続く医師の言葉に戸惑った。「甲状腺がんの中でも、進行がゆっくりな乳頭がんというタイプです。手術をお勧めしますが、それほど緊急性はありません」。乳頭がんは甲状腺がんの85%を占める。進行が遅く、若い人ほど、経過がいいとされる。手術で腫瘍を取ればほとんどの場合、再発しない。腫瘍が1センチ以下なら取らずに経過をみることもある。迷ったすえ、「ずっとがんを持ったままでいるのは嫌なので、手術します」と答えた。手術では、甲状腺の約3分の2を切り取った。さらに、甲状腺の裏に四つある副甲状腺のうち二つを摘出した。手術後、首元に傷痕が残ったが、冬を迎える時期だったため、服で覆えばそれほど気にならなかった。ただ、摘出した甲状腺や副甲状腺の働きを補うため、毎日、複数の薬を飲むことになった。「これから一生、薬を飲み続けるなんて・・・」と感じる一方、早く治療を受けられて良かったという安心感も強かった。手術後は月1回通院し、血液検査でホルモンのバランスを確かめ、超音波検査で再発がないかどうか確かめた。検査の間隔は徐々にあき、がんを患ったことを振り返ることもほとんどなくなった。再び異変が起きたのは、その9年後だった。(11月10日 朝日新聞 患者を生きる 甲状腺と新薬より)

Dec 13, 2015 09:58

希少な症例 データ集約へ
胸腺は、左右の肺に囲まれた縦隔の一部で、胸骨の裏側あたりにある器官だ。子どもの頃は白血球の一種「Tリンパ球」を育てる機能があるが、徐々にその役割を終える。胸腺の細胞から発生する腫瘍がん「胸腺腫」で、腫瘍細胞が増殖するスピードは比較的遅い。国立がん研究センター中央病院呼吸器内科の後藤悌さん(38)によると、腫瘍が相当進行しない限り、症状が出ないことが多いという。胸腺腫は、患者数が極端に少ない「希少がん」の一つで、国内の患者は人口10万人あたり1人未満という推計もある。筋力が低下する「重症筋無力症」などの自己免疫疾患の合併症がみられることがある点も特徴だという。治療の基本は、腫瘍を含めて胸腺を切除する手術だ。名古屋市立大腫瘍・免疫外科の矢野智紀准教授(49)によると、患者の7割以上はステージ1、2の早期で見つかり、手術すれば治るケースが多いが、まれに再発する。従来は開胸による手術が主流だったが、最近は体への負担が少ない胸腔鏡を使った手術が増えているという。抗がん剤や放射線治療が行われる場合もあるが、症例数が少なく、標準的な治療法は確立されていない。患者数が多い病気に比べ、臨床試験が行なわれにくく、治療薬の開発も遅れている。こうした中、日本肺癌学会など関連4学会が、胸腺腫患者の症例を集めてデータベース化する取り組みを予定している。矢野さんは「まずはデータを集めて病気を知ることが大事。そこから治療法の確立につなげたい」と話す。厚生労働省も今年8月、希少がんに関する報告書をまとめ、情報集約や研究推進などの対策に乗り出した。一方、胸腺にできる腫瘍には、胸腺腫よりも希少な「胸腺がん」もある。細胞の増殖がより速く、ほかの臓器へも転移しやすい。連載で紹介した胸腺腫患者で、秋田県に住む近藤セツ子さん(60)らが先月立ち上げた胸腺腫・胸腺がんの患者会「ふたつば」では、患者同士の情報交換や悩みの共有を目指している。問合せは、メール(setuko3023819@yahoo.co.jp)で。(1月7日 朝日新聞 患者を生きる 胸腺腫情報編より)
Dec 09, 2015 08:54

悩み学ぶ 主治医を信頼
胸腺腫が再発した秋田県湯沢市の元小学校教諭、近藤セツ子さん(60)は、2010年夏から抗がん剤治療を受けた。しかし、胸膜に散らばった腫瘍への治療効果はほとんど確認できなかった。「このままで、いいのかな」。迷いも生まれていた。その頃、平鹿総合病院(同県横手市)の主治医、斉藤礼次郎さん(56)から、「別の病院にも、話を聞きに行ってみませんか」と、セカンドオピニオンを受けることを勧められた。斉藤さんは肺や食道専門の胸部外科医だが、患者数が極めて少ない希少がんである胸腺腫の患者は、年に数人担当する程度。胸腺腫の中でも近藤さんのように再発する患者自体が少なく、斉藤さん自身も症例数が比較的多い病院の医師の意見を聞いてみたかった。肺がんなど患者数が多いがんなら標準的な治療がガイドラインとして示されている場合が多い。だが、近藤さんのように希少がん患者の場合は、選択した治療が正しいのか判断する物差しが少ない。文献を探し、学会で同じような症例が取り上げられる時には足を運び、情報収集に取り組んでいた。セカンドオピニオンは、東京都内の症例数が比較的多い病院に聞きに行くことになった。「良い治療法が見つかれば、秋田から通うか、アパートでも借りて東京に住むことを考えよう」。対応した医師からは、いくつもの治療方針が示された。抗がん剤治療を続けるか、腫瘍が大きくなったら放射線治療をするか、しばらく経過観察をするか・・・・。「絶対的な治療法は、ここにもないんだ」。近藤さんはそれまで、症例数が少ない病院で治療を受けることに不安もあった。だが、どこであっても、いくつかの選択肢の中から主治医と相談しながら、治療を受けるしかないようだ。「悩みに悩んで、今もまだ悩んでいる。お互い一緒に勉強しているようなものです」と斉藤さん。近藤さんは、治療への迷いも含めて正直に話してくれる際等さんに、信頼を感じていた。現実的には、高齢の夫の両親もいる家を離れて治療を受けることも難しい。地元で治療を続ける決意が固まった。(11月5日 朝日新聞 患者を生きる 胸腺腫より)
Dec 02, 2015 08:34

苦しい治療 何のため 
「胸腺腫」の疑いと診断された秋田県湯沢市の元小学校教諭、近藤セツ子さん(60)は2008年5月中旬、平鹿総合病院(秋田県横手市)で手術を受けた。胸腔鏡を補助的に使った手術で、摘出された腫瘍は直径約6センチだった。胸腺を覆う幕の外にも腫瘍が広がる「浸潤」が見られ、進行度を示すステージは2。再発防止の放射線治療を受けることになった。胸部への放射線治療は週5日。胸のあたりの皮膚が副作用で、軽いやけど状態になった。食べたり飲んだりしても、食道や胃がしみるように痛む気がした。でも、約4週間後の治療後は、「もうこれでおしまい。治ってよかった」とうれしかった。8月には教壇に復帰した。だが、11月のCT検査で医師に「あやしいものがある」と告げられた。「再発かもしれない」という医師の言葉に、強いショックを受けた。手術からわずか半年。「あの手術や放射線治療は、いったい何だったんだろう・・・・」。結局。3カ月後に再び受けたCT検査で、再発でなにと診断されtが、その後も半年に1回ほどのペースで検査を受け続けた。「再発の疑いがある」。再び、そう告げられたのは、手術から約2年後の2010年6月だった。PET-CT画像で見ると、胸の周囲の何カ所かが赤く写っているのがわかった。肺と胸壁を包む胸膜に、がん細胞が散らばる「播種」という状態になっていた。画像でまざまざと見せ付けられ、「ああ、ついに来たか」と妙に納得した。腰椎への「骨転移」の可能性も指摘された。少し前から腰痛が気になっていたが、そのせいだったのか、とふに落ちた。7月に確定診断を兼ねた2回目の手術を受け、一部の腫瘍は切除し、手術後に抗がん剤治療を受けた。副作用で、吐き気や食欲不振、体のだるさに苦しんだ。髪は抜け落ち、頭皮もヒリヒリと痛んだ。タオルやガーゼでできた帽子をかぶった。腰椎への放射線治療で、腰の痛みはなくなった。しかし、抗がん剤の胸膜の播種への治療効果はほとんど見られなかった。「あんなに副作用に耐えて治療したのに。何のためにがんばったんだろう」。頭を抱えた。(11月4日 朝日新聞 患者を生きる 胸腺腫より)
Nov 30, 2015 10:07

初めて聞く場所に腫瘍?
50歳を過ぎたことだし年に一度は健康チェックを受けよう・・・。秋田県湯沢市に住む元小学校教諭の近藤セツ子さん(60)は2008年2月、そんな気持で受けた人間ドックで異常を指摘された。CT検査をしたところ、両肺に囲まれた「縦隔」という部分に、腫瘍の疑いがあると指摘された。ただ、「良性の可能性がある」とも言われた。40代で甲状腺がんの手術を受けたが、その後は状態が安定していた。以前、胆嚢にポリープが見つかったこともあるが、特に治療は必要なかった。そうした経緯もあり、今回もそれほど深刻に受け止めなかった。3月、自宅から車で30分ほどの横手市にある平鹿総合病院を受診した。甲状腺がんの再発の疑いも考慮され、CTなどの詳しい検査を受けた。後日、医師から結果を説明された。「胸腺腫の疑いがあります」。一瞬、頭が真っ白になった。「胸腺って何?どこにあるの?」。初めて聞く言葉だった。胸腺は縦隔の一部で、胸骨の裏側にある握りこぶしほどの器官。良性の場合もあり、診断と治療のため、手術を受けるよう勧められた。タイプによっては、手術後に放射線治療が必要になるという。「この先、どうなるんだろう」。病気へのイメージもわかず、漠然とした不安に駆られた。「悪いものがあるなら、とってもらうのが一番。手術をすれば、きっと大丈夫なんだ」。知識もなく、そう思うしかなかった。当時、小学校の特別支援学級の教師として、自閉症などの障害を抱えた子どもたちと向き合っていた。一人ひとりの個性や、その日の気分や状態に合わせて指導を組み立てる仕事を続けて約30年。どんなに経験をつんでも一筋縄ではいかない。難しくもあり、やりがいもあった。長く休めば周りに迷惑をかけると思ったが、やむを得ず3カ月の病気休暇をとることにした。仕事の整理や引継ぎに追われた。病気についてほとんど調べる余裕のないまま、手術の日を迎えた。患者数が極端に少ない「希少がん」との長い付き合いが、始まった。(11月3日 朝日新聞 患者を生きる 胸腺腫より)
Nov 26, 2015 08:33

国に難病指定求める声
大腸に大量のポリープができる「家族性大腸腺腫症」(FAP)は、がん抑制遺伝子の「APC]に、生まれつき変異のある人がなる病気だ。国内の患者数は7千人ほど推定されている。この変異は、親から子に2分の1の確率で遺伝する。また、両親ともに遺伝子が正常なケースでも、まれに受精卵の段階でこの変異が起きることがある。APC遺伝子は一つの細胞に2個ずつあり、両方が変異すると、小さなポリープができる。このポリープが大きくなると一部ががん化する。一つの細胞で両方のAPC遺伝子が変異する確率は低く、一般の人では40、50代で大腸に1,2個ポリープができる程度だ。しかし、家族性大腸腺腫症の患者はすべての細胞で初めからAPC遺伝子が1個変異しており、残り1個の遺伝子に変異が起こるだけでポリープの原因になる。このため、40代半ばから大腸などに大量のポリープができる。大腸に100個以上のポリープがあることがこの病気の診断の目安で、遺伝子検査で確かめる。患者は十二指腸や胃にもポリープやがんができやすい。治療の基本は、大腸を取って小腸を肛門につなげる手術だ。症状によっては直腸を残す場合もあるが、直腸にもがんができやすい。大腸の切除手術後、小腸の一部が大腸の役割を果たすようになると、小腸にがんができる危険が高まるとされる。連載で紹介した大阪府の会社員の男性(30)は、石川消化器内科(大阪市)の石川秀樹院長(55)から大腸を取らずに内視鏡でポリープを取り続ける治療を受けている。この治療法は数カ月から1年に1回程度、定期的に受けなければならない。台帳を取らないので、普通の人とほぼ同じように生活できる利点がある。石川さんが特任教授を兼務している京都府立医科大や、国立がん研究センターが中心となって、患者220人を対象に、この治療法が大腸がんを防ぐ効果があるか調べる臨床試験を進めている。治療期間が長期にわたるため、患者らは治療費が助成される難病指定を厚生労働省に求めている。(10月31日 朝日新聞 患者を生きる ポリープとの闘い 情報編より)
Nov 23, 2015 09:09

生きた証しを残したい
「いつがんになるかわからない」。その不安が、頭から離れなかった。家族性大腸腺腫症になった大阪府の会社員の男性(30)は、2009年にポリープを取る治療を受け始めたものの、精神的に不安な状態が続いた。最初の診断から約3年たった2011年、一度だけ参加した患者会が、立ち直るきっかけになった。会では、ほかの患者から「大腸を取ってからが一人前だよ」と言われた。標準治療で大腸を摘出してからの苦労が大きいからだ。この言葉に男性は「大腸を取らなくても大変なのに」と反発した。周りの患者たちを見ていると、マイナス思考に陥っている自分の姿と重なっているように感じた。そして、無数のポリープを取り続けてくれている石川消化器内科院長の石川秀樹さん(55)のことを思った。「後ろ向きな自分の態度は失礼だ」。かりに長く生きられない運命だとしても、悔いを残さないようにしたい。そう思いながらできずにいたが、このときは素直に受け入れられた。やりたいことは何でもやっておこうと、、オートバイの大型免許を取った。九州一周や故郷の福島県までの旅路を楽しんだ。男性は今年9月下旬、二十数回目になる大腸のポリープを取る治療を受けた。その日、内視鏡で取ったのは175個。治療を受け始めたころは後で腹が痛くなったり、食事ができなくなったりしたが、最近は体が慣れたのか、平気になった。10月からは新たな臨床研究に参加している。ポリープの発生を抑える効果があるとされるアスピリンなどを飲むことで、病気の進行を遅くできるかどうかを確かめる研究だ。「病気について新しいことがわかるのなら、自分の体を使ってほしい」。ポリープを取る間隔をこれまでより長くできるかもしれないという期待もある。子どもに同じ思いをさせたくないし、自分もいつ死ぬかわからない。そんな状態で結婚や子どもを産むのは無理だろうと、あきらめている面がある。だからこそ、「自分が生きた証しを何か残したい」と強く思うようになった。その何かを見つけることが、いまの目標だ。(10月30日 朝日新聞 患者を生きる ポリープとの闘い より)
Nov 19, 2015 09:02

3,4カ月ごとに切除
「家族性大腸腺腫症」と診断された大阪府の会社員の男性(30)は、2009年2月に石川消化器内科(大阪市)を受診した。この病気は大腸に多数のポリープができる。院長の石川秀樹さん(55)は、次々にできるポリープを切除し続ける治療をしている。ポリープを取る際には、内視鏡を通して空気を入れ、圧力をかけ、折りたたまれている腸を広げる。強い痛みを感じた。初回は、1時間あまりかけて96個のポリープを取った。男性は痛みに耐えながら、石川さんがポリープを取る様子をモニター画面で見つめた。「こんなやり方で、何とかなるのだろうか。きりがないのではないか」。そんな思いも頭をよぎったが、大腸の全摘手術は避けたかった。手術を「先延ばし」にするため、この治療を続けることした。通常の治療では1年ほどの間隔でポリープを切除すればよいが、男性の場合はポリープの成長が速く、3、4カ月に1回通う必要があった。最初のころは治療後2、3日は体がつらく、腹がはったようになり、腸が痛んだ。金曜日に勤務を休んで治療を受け、土日は静養するようにした。いまのところ、ポリープは良性で、がんは見つかっていない。もし、がんが見つかったら大腸の摘出手術も検討しなければならないという。また、内視鏡で取るのが困難な十二指腸にポリープができた場合には、十二指腸の摘出手術も必要になる。この病気は2分の1の確率で子どもに遺伝する。自身もいつがんを発症するかわからない。男性は20代半ばのころ、付き合っていた女性に病気のことを打ち明けた。反応は「重い」だった。「だれかに知ってほしいという気持を一方的に押し付けてしまったんです」。女性とは間もなく別れた。2009年の帰省の際、父親(65)に石川さんの診断書を見せたら泣かれてしまった。「息子が母親と同じ病気になったことにショックを受けていたんです」。その後、父親とは病気の話ができなかった。悩みを相談できる相手もなく、男性は精神的に追い込まれていった。「治療に行かなければ、そのまま死ねるのではないか」。そんなことも考えた。(10月29日 朝日新聞 患者を生きる ポリープとの闘い より)
Nov 17, 2015 19:35

全摘手術するか悩む
大腸にたくさんのポリープができる「家族性大腸腺腫症」と2008年に診断された大阪府の会社員の男性(30)は10歳のとき、当時36歳の母親を大腸がんで亡くしていた。母親は当初、盲腸と診断されて入院したが、手術しても治らず、入退院を繰り返した。亡くなる前は、ほとんど物を食べられず、やせ衰えていた。やや持ち直して入院先の病院から一時帰宅できそうになったところで、急変してしまった。男性は3人兄弟の長男。すぐ下の弟(29)は大腸に異常がなかったが、末っ子の弟(27)は男性と同じ病気だった。このため、当時は単に大腸がんと診断された母親も、家族性大腸腺腫症だったことが間違いないという。消化器の専門医でも、この病気を診た経験のある医師は少ない。男性は、当時住んでいた兵庫県や実家の福島県にある病院を紹介されるままに次々と受診した。X線検査で1千~2千のポリープがあると診断された。さらに遺伝子の検査も受け、家族性大腸腺症の変異があることが確かめられた。この病気についてネットで情報を集めた。放置しておくと必ず大腸がんになることは、間違いなかった。医師からは、がんになるのを防ぐために大腸をすべて摘出するよう勧められた。しかし、大腸を取ってしまうと、1日10回ぐらい下痢をしたり、脱水症状を起こしやすくなったりすることがある。腸閉塞で命を落とす患者もいるという。この病気は胃や小腸にもポリープができるが、大腸を取ると、小腸にがんができる危険がさらに高まる。手術してもがんとの闘いが終わるわけではなかった。摘出手術を受ける決心がつかず、悩んでいたころ、ネットの情報交換の掲示板で知り合った同じ病気の患者から、大阪市にある石川消化器内科を教えられた。院長の石川秀樹さん(55)は、内視鏡で検査しながら一つひとつポリープを取る治療を試みている。メールで予約を取り、2009年2月に初めて受診した。「この治療は、全摘を先延ばしするためのものと考えてください」。石川さんは男性に、そう説明した。(10月28日 朝日新聞 患者を生きる ポリープとの闘いより)

Nov 11, 2015 08:26

治療の中心は外科手術
舌がんは3対2の比率で女性より男性に多く、50~70代で多発する。ただ、20~30代での発病も珍しくない。飲酒や喫煙、さらに義歯による舌表面への刺激でもリスクが高まると考えられている。今回の連載では、抗がん剤の舌動脈への注射と放射線を組み合わせた「動注化学放射線療法」を紹介した。だが、現在の標準治療の中心は外科手術による腫瘍の摘出だ。連載に登場した東京都の主婦(47)も、最初に受診した大学病院では手術を勧められた。国立がん研究センター東病院(千葉県柏市)が2001年までに行った363件の初回治療例の分析では、手術だけでの治療が92%を占める。腕、腹、足などの皮膚と筋肉を使って舌を再建する技術の進歩も、手術を選択しやすくしている。この10年は術後に抗がん剤治療や放射線治療を追加することが多くなってきている。手術と動注化学放射線療法の療法を扱っている国債医療福祉大学三田病院(東京都港区)頭頚部腫瘍センターの多田雄一郎准教授によると、同病院でも9割以上の舌がんは外科手術で治療されている。多田さんは「舌の3分の2以上を切除する必要があり、頚部リンパ節転移が明らかでない段階では、動注化学放射線療法が視野に入ってくる」と話す。普及が進まない理由について、1992年にこの治療法を開発した伊勢赤十字病院(三重県伊勢市)放射線科の不破信和部長は、①外科手術に比べまだ歴史が浅く改善すべき点が多い②舌がんの治療は外科医が担当することが多く、舌がんに習熟した放射線治療医が少ない③耳の近くを切開して舌動脈に細いカテーテルを挿入する手術など技術が必要、の3点を挙げる。一方、治療後のしゃべる機能の回復ぶりについては順調な患者が多いと指摘する外科医や放射線医もいる。陽子線治療には公的医療保険が適用されないが、厚生労働省から「先進医療」に認められており、入院費などは保険でカバーされる。ただ、南東北がん陽子線治療センターの中村達也・副センター長は「陽子線を使わなくても、X線だけでも動注化学放射線療法を行うことは可能」と話している。(10月24日 朝日新聞 患者を生きる 舌を残したい 情報編より)
Nov 09, 2015 08:24

触診でわからないほどに
舌を切らずにがんを治療するため、東京都の主婦(47)は2014年4月上旬、南東北がん陽子線治療センター(福島県郡山市)に入院した。そして、4月中旬から「動注化学放射線療法」の治療が始まった。動注化学放射線療法は主として①舌動脈から舌に抗がん剤を送り込む②舌を含む頚部全体にX線を当てる③舌のがん細胞に陽子線を当てる、という3つの治療からなる。陽子線はX線に比べて、照射する変異を限定することができ、あごの骨がもろくなるなどの後遺症が出にくいと期待されている。まず週末に1回、抗がん剤を約5時間かけて舌に注入した。そして、月曜日から金曜日までX線を照射した。その繰り返しが4月中旬から5月中旬まで続いた。その後、より集中的にがん細胞を攻めるため、抗がん剤による治療と並行して陽子線の照射を5月下旬まで受けた。勝者回数はX線が20回、陽子線が13回だった。治療開始前に5センチだった舌の腫瘍は、治療後のMRIやPETの検査では検出できないほど縮小していた。触診でもわからないほどの開腹ぶりだった。約2カ月の入院で、もともと56キロあった体重は48キロに減ったが、6月10日に治療を終えて退院することができた。現在は3カ月に一度のペースで、南東北がん陽子線治療センターに通院して検査を受けている。心配していた副作用による抜け毛は、頭の上のほうがわずかに薄くなっただけで済んだ。ただ、自宅に戻った直後は舌全体に口内炎ができている状態だった。唾液も出にくく、食事をしても、まるで粘土を食べているようだった。それでも失われた味覚は、徐々に回復した。以前に味わったことのある食べ物の味が、少しずつ戻ってくる。「古くからの友人に再会するような、わくわく感でした」。退院から1カ月ほどたった7月上旬、家族で築地本願寺にお参りに行き、築地市場に寄ってマグロの刺身を食べてみた。しょうゆを付けたマグロを、恐る恐る口に運んだ。まだ舌はやけどをしたような」状態で、しょうゆはしみたが、治療前に味わったのと同じマグロの味だった。(10月23日 朝日新聞 患者を生きる 舌を残したい より)
Nov 08, 2015 08:14

主治医の言葉で前向きに
大学病院で舌がんと診断され、舌の切除手術を勧められた東京都の主婦(47)は2014年3月、南東北がん陽子線治療センター(福島県郡山市)で治療を受けることに決めた。なんとしても舌を残したまま治療したかった。ただ、不安がなかったわけではない。「両親を介護して見送り、孫の世話をしてからでないと、私は死ねないんです。少なくても、あと20年は欲しいんです」。主婦がそう訴えると、主治医の中村達也・副センター長(42)は「いま46歳ですから、20年では足りないでしょう。あと30年は必要でしょうから、しっかり治療しましょうよ」と笑顔で答えた。その言葉を聞いて、「がんばれば、あと30年も生きられるんだ」と前向きな気持になれた。4月上旬の入院を前に、主婦は5本ほどあった金歯を、いったん全て抜いた。舌がんの病巣に向けて照射した陽子線が、金歯に当たって思いがけない方向に飛び散る可能性があるためだった。そして、奮発して数万円のパジャマを買った。普段なら絶対に手を出さない高価なものだが、少しでも入院生活を楽しみ、前向きに取り組もうと思ったからだ。入院の翌日、「胃ろう」を作る手術を受けた。放射線を当てると舌がやけどをした状態になるので、1カ月ほどは口から食べられなくなる。腹部に傷が残るので抵抗感もあったが、中村さんからは「腕からの点滴でも栄養を取ることはできますが、より効率的に摂取して体力をつけるために、作ったほうがいいです」と勧められた。胃ろうの次は、2時間かかって抗がん剤を流し込むカテーテルを挿入する手術を受けた。耳の上の部分を1センチほど切開し、直径2ミリほどの管を舌動脈に入れる。この手術を積極的に手がけている医療機関は全国で5施設ほどで、医師も7、8人程度しかいない。X線と陽子線を照射するときに顔を固定するお面のようなプラスチック製の器具も作った。放射線を正確にがん細胞に当てるには患者一人ひとりの顔にぴったり合わせた固定具が必要という。こうして入院から3日目には一連の準備が整い、いよいよ「動注化学放射線療法」が始まった。(10月22日 朝日新聞 患者を生きる 舌を残したい より)
Nov 07, 2015 08:54

イレギュラーな治療法
舌がんが見つかった東京都の主婦(47)は2014年3月、受診した都内の大学病院で切除手術を勧められた。しかし、なんとか舌を切らずにがんを治療したい。セカンドオピニオンを受けられる病院をネットで探すうち、舌がん患者のブログから、南東北がん陽子線治療センター(福島県郡山市)のサイトにたどり着いた。サイトには「動注化学放射線療法」という聞き慣れない言葉が載っていた。舌に通じる動脈から抗がん剤を送り込み、同時に放射線治療でがんをたたくという。この病院でセカンドオピニオンを聞いてみたい。大学病院の担当医は快く紹介状を書いてくれた。「今では、セカンドオピニオン、サードオピニオンもふつうの時代ですから」。ただ、動注化学療法や陽子線治療について「あくまでイレギュラーな治療法」と言われた。現在の舌がんの標準治療は外科手術であることを改めて説明された。主婦は3月末、大学病院からもらった画像データを持って同センターを訪れた。診察に当たったのは放射線治療医の中村達也・副センター長(42)。動注化学放射線療法についてこう説明した。「舌に血液を送っている舌動脈に抗がん剤を流し込むと、舌のがん細胞を集中的に攻撃することができます。並行してX線と陽子線を照射すると、がん細胞がどんどん死滅していきます」。「舌の形が変らないので話す機能が影響を受けない」「顔のバランスが崩れない」といった利点がある一方、「放射線を舌に当てるので、しばらく味覚がなくなる」「舌が硬くなったり、骨が溶けたりすることもある」といったリスクもあるという。主婦は思い切って聞いてみた。「先生、治る可能性は、どれほどあるのでしょうか」。中村さんは答えた。「あなたの場合、肺などに遠隔転移がないので、舌を切らずに治せる見込みが十分にありますよ」。この言葉を聞き、主婦は「ここで治療を受けよう」と決めた。4月8日、次女(16)の高校の入学式に出席、翌9日に入院した。入院の朝には、センターに近い郡山市の「日吉神社」にお参りし、治療の無事を祈った。(10月21日 朝日新聞 患者を生きる 舌を残したい より)

Nov 01, 2015 10:17

「左半分切除」と言われ
東京都内に住む主婦(47)は2013年の年末、舌が腫れていることに気付いた。左縁がふくらみ、刺すような痛みも感じた。最初のうちは、金属の入れ歯が舌に当たって口内炎が出来たのかと思った。「ビタミンが足りないのだろう」と市販のビタミン剤を服用した。そして、口内炎用の薬を塗って治そうとした。しかし、腫れは引かない。翌年の2月下旬頃にはさらに大きくなり、痛みも激しくなった。ただ、次女(16)が高校受験だったこともあり。診察を受けるのを先延ばしにしていた。次女が都立高校の推薦入試に合格したのを見届け、2014年3月上旬、通い慣れた歯科医院を訪れた。「すぐに総合病院を受診してください」。舌を見た歯科医師にそう言われた。5日後、歯科医師が書いてくれた紹介状を持って、大学病院の口腔外科を受診した。舌を触診した大学病院の担当医師にはこう言われたという。「細胞を取って検査しないとはっきりとは言えませんが、たぶん舌がんです」。CTやPETなどを使った精密検査の結果、3月下旬、正式に腫瘍約5センチの舌がんと診断された。がんの進行度は4段階あるうちの「ステージ3」で、舌の左半分を切除することや、そのあと腕の筋肉の一部を使って舌を「再建」するいった治療法を担当医は淡々と説明した。主婦は「がん」という言葉よりも。「舌を切る」という説明にショックを受けた。実は主婦は、事前にパソコンの検索サイトに「舌がん」「手術」の単語を打ち込み、ヒットしたサイトを片っ端から読んでいた。「手術後に舌が3倍になったような気がして、息がしづらかった」「口を閉じられずによだれが出続け、一晩にティッシュペーパーを1箱使った」。そんなコメントに目が留まった。大学病院では「舌の一部切除」という以外に、別の治療方法の説明はほとんど受けなかったという。ただ、ネット上には、手術以外にも、抗がん剤治療や放射線の一種の陽子線治療など、様々な選択肢が紹介されていた。それを見て、「舌を切りたくない」と強く願うようになっていった。(10月20日 朝日新聞 患者を生きる 舌を残したい より)



Oct 28, 2015 12:30

大変な闘病記 勇気もらう
●「がんはしつこい」実感 大腸がんの転移と治療に関する連載「転移と手術」に登場する男性と、よく似たケースでした。「そうそう」「そうなんだよね」と記事を読むたびに過去を振り返っていました。2011年9月にS状結腸がんで手術しました。ステージ4で、すでに肝臓に転移。大腸の腫瘍は取りきり、現在まで再発はありません。問題は肝臓で、4、5個腫瘍があり、外科手術は体力的に無理との主治医の判断でラジオ波焼灼術を同年11月に行いました。その後3,4回この方法を行い、今のところ肝臓には大きな変化はありません。ところが、今年3月、記事の男性と同じように肺への転移が見つかりました。大橋巨泉さんが前にこのコーナーで指摘していたように、がんというのは本当にしつこいものだと思います。4月に手術し、幸い腫瘍は1カ所で、経過を見ることになり、3,4カ月ごとにCTやMRI検査を続けています。がんになって思うのは、なぜ早く検査しなかったのかという悔いです。兆候はあったのにほっておいたのです。今は前だけ向いて生きていこうと心に決めています。(神奈川県 男性 71歳) ●「機能残したい」に共感 脳腫瘍の方の記事は勇気づけられました。私も2年前、子宮体がんで手術と抗がん剤治療を受けました。今は仕事に復帰し、普通に社会生活を送っています。ただ、いつまたがんになるかわからないと思っています。脳腫瘍の方の記事を読み、私以上に大変ながんと闘っていらっしゃることを知りました。「また、がんになってとしても闘える」と思うことができました。脳腫瘍になった女性の「脳の機能を残したい」という思いが、とてもよくわかります。記事によると、ピアノを教えていらっしゃるとのことでした。こういう方に習いに行きたいと思いました。どうか、お大事に。千葉県 林洋子 56歳。(10月17日 朝日新聞 患者を生きる 読者編より)
Oct 27, 2015 08:24

早く検査受けていれば
●症状が出ても受診しにくい 風呂で体を洗っているt時に右の睾丸が硬いことに気付きました。2004年1月のことでした。痛みや腫れはまったくありませんでした。会社で忙しい部署にいたため様子を見ることにしましたが、その直後に残業の少ない部署に異動になりました。酒の席で、先輩のがんの話を聞き、急に気になり、泌尿器科を受診しました。検査結果は、おそらく精巣腫瘍。悪性の確率が高く、すぐに摘出手術をしたほうがよいとのことでした。入院して手術をし、術後に調べたところ、やはり悪性腫瘍でした。初期の発見で転移はなく、放射線治療も抗がん剤治療も必要ありませんでした。その後、再発も転移もしていません。若い人だと恥ずかしさもあり、痛くないので受診しないのもよくわかります。私の場合、異動がなければ、また、偶然先輩に会わなければ、半年近く受診が遅れたでしょう。すぐに病院に行かないと、危険な病気であることを、多くの人に知ってほしいと思います。(東京都 男性 61歳)
●進行早いタイプも 昨年4月に71歳で亡くなった父は非ホジキンリンパ種でした。一昨年の秋口から疲れが取れないと言い始め、腹部の不調も訴えるようになりました。11月に食欲がなくなって入院しましたが、2週間ほど原因が分からずじまい。ようやく悪性リンパ腫でないかという医師の見解が出て、血液内科の専門医がいる病院に転院しました。きつい抗がん剤治療が始まりました。強い副作用に耐えながら、身体の抵抗力が落ちるために生じたヘルペスにも苦しみ、みるみる痩せていきました。それでも最後まで生きるつもりでいました。地域の役員をたくさん引き受け、自分自身の趣味のカラオケやゴルフも大好きで人生を謳歌していた父。あまりに早い別れでした。もっと早く、PET検査を受けていれば、最初から血液内科のある病院に行っていれば。ただただ、悔やまれてなりません。進行の早いタイプもあるということをお伝えしたくてお便りしました。兵庫県 上田美穂 43歳。(10月16日 朝日新聞 患者を生きる 読者編より)
Oct 25, 2015 08:06

希望持ち続けるために
●高齢の母、全摘は不安 四国の実家で独り暮らしをしている母は5月下旬に血尿が出て、6月に「膀胱がん」と診断されました。7月下旬に膀胱の全摘手術を受けることになりました。しかし、80歳の母が今後自分でストーマ(人工膀胱)を扱えるのか、母も私も不安になり、本を読んだりして勉強しました。一方、病院では2週間近い入院中、ストーマの具体的な説明がなく、本人がストーマ生活をイメージできない状態で膀胱を失うことに疑問を感じました。そこで、膀胱を取らないですむ治療を積極的に行っている病院をインターネットで調べました。大阪医科大付属病院を見つけ、膀胱温存療法を主治医から申し込んでもらいました。通院のため、しばらく兵庫県の私の家に滞在する予定です。1カ月で母は5キロ以上やせたそうで、電車で2時間かけて大阪医科大まで連れて行くのも不安ですが、希望を持って治療に挑みたいと思います。(兵庫県 女性 43歳) ●効果高い治療に保険適用を 6年前、ステージ3の乳がんと診断されて、右乳房を全摘し、わきの下のリンパ節を3分の2摘出しました。抗がん剤と手術。治療を乗り越えたと思った1年後に、肝臓に転移が見つかりました。毎月入院して「肝動脈化学塞栓療法」という治療を受けました。膀胱がんの連載記事に出ていた「BOAI」と似た治療で、太ももから入れたカテーテルを通じて、高濃度の抗がん剤と塞栓物質を肝臓にじかに流し込むものです。1年半の間に再発、再々発。治療は7回にわたりました。3年が経ち、今は画像で治療痕が見えるだけです。今この時を生きていることに感謝しています。「BOAIの治療は約100万円の自費負担」という記事に、やり切れない思いです。「生きられる治療」を患者が自費負担の高さであきらめることがないように、、効果の高い治療こそ保険適用になることを願っています。東京都 伊東小百合 52歳。(10月15日 朝日新聞 患者を生きる 読者編より)

Oct 23, 2015 08:04

透析患者 定期検査を
●定期検査が重要 私は5年前、超音波検査で右の腎臓にがんが見つかり、摘出手術を受けました。今年1月、左の腎臓にも見つかり、3月に摘出しました。早期の発見で転移もなく、何とか元気にすごしています。私は約10年前から週3回の血液透析を受けています。しかし、「慢性腎不全や人工透析を受けている人は、一般の人と比べて10倍~数十倍も腎臓がんの発生率が高くなる」という情報については、よく知りませんでした。病院で定期的に検査を受けていたため、早期に発見できました。ただ、ハイリスクな透析患者でも、無症状なうちからチェックをしている医療機関は少ないようです。慢性腎不全の患者や透析患者は、自覚症状がなくても定期的な超音波やCTなどの画像検査で腎臓がんのチェックを受けることが極めて大切であることを十分に周知してほしいと思います。(広島県 男性 60歳) ●透析患者のリスク知って 私の夫(58)は、腎不全のため透析療法を始めて8年になります。今年4月、胆石の疑いがあり、近くの病院で数年ぶりに腹部の超音波検査を受けました。その検査で、右の腎臓に腫瘍が見つかりました。総合病院で詳しい検査を受け、腎臓がんと診断されました。7月に腎臓の摘出手術を受けました。周辺のリンパ節への転移が疑われ、現在も抗がん剤での治療を続けています。夫は腎臓がんになっても、血尿や痛みといった自覚症状は何もありませんでした。透析患者に腎臓がんが高率にできることを、私も夫も手術後に初めて知りました。前もってそのような情報を得て、定期的に検査を受けておけば、転移する前に発見できたのではないかと日々後悔しています。全国の数多くの透析患者さんやその家族に、夫と私たち家族の厳しい体験を少しでも役立てて頂ければ幸いです。愛知県 平山真理子 56歳。(10月14日 朝日新聞 患者を生きる 読者編より)
Oct 22, 2015 08:01

提供者が増える移植法
白血病は白血球のがんだ。白血球が骨髄でつくられる過程で、がん化して白血病細胞となる。病状の進み方で「急性」と「慢性」があり、がん化した白血球の種類によって「骨髄性」と「リンパ性」とに分けられる。連載で紹介した宮崎県日向市の女性(21)がなった「急性リンパ性白血病」は、発熱や貧血、疲れやすさなどの症状が出る。白血病細胞が増えることで正常な血小板が減ると、あざができたり、出血しやすくなったりする。治療は複数の抗がん剤を組み合わせた化学療法で、白血病細胞を一定数まで減らす「寛解導入療法」をする。8割ほどの人は「寛解」の状態になるが、再発する確立も高い。このため、寛解後も化学療法を追加したうえで、骨髄や臍帯血などからの造血幹細胞移植が検討される。最初の選択肢となるのが、血縁者からの骨髄移植。八つの白血球の型(HLA)がすべて一致するのが原則で、その確率は最も高いきょうだいでも25%しかいない。女性が再発後に受けた「ハプロ移植」は、HLAが半分だけ合う血縁者から提供を受ける。まだ研究の段階だ。兵庫医大は2005年から500人以上に実施し、国内最多となっている。自治医大血液科の神田善伸教授(48)は、ハプロ移植に利点に、提供できる人が増えることを挙げる。HLAは父母からそれぞれ半分ずつ受け継ぐため、型の半分が一致する確率は親子間なら100%、きょうだい間でも50%ある。また、この移植は型が違う分、移植した細胞の免疫が強く働き、白血病細胞を攻撃する力が増す。東京都立駒込病院血液内科の大橋一輝部長(53)によると、一般的な造血幹細胞移植の後に再発し、「打つ手がない」と言われた患者でも、延命の可能性が期待できるという。一方、正常な組織も攻撃されるので、下痢や黄疸などを起こす「移植片対宿主病(GVH病)」の危険がある。兵庫医大は、移植前の抗がん剤や放射線照射を軽くし、移植後のGVH病に体が耐えられるようにしておく。さらに、移植直後からステロイドで炎症を抑え、GVH病が重症化するのを防いでいるという。(10月10日 朝日新聞 患者を生きる 白血病 情報編より)
Oct 21, 2015 07:54

半分一致の母から移植
骨髄移植から1年9カ月後の2013年11月、宮崎県日向市の女性(21)は白血病が再発した。治療方針を話し合う場で、母親(48)の言葉に驚かされた。「お母さんが提供者になる。ハプロ移植をしよう」。聞いたこともない治療法だった。ハプロ移植は、両親からそれぞれ半分ずつ受け継ぐ八つのHLA型(白血病の型)のうち、半分合った骨髄を移植する。患者の両親は持病などがなければ100%提供者になれる。骨髄移植は完全一致が原則。ハプロ移植は白血球の型は違う分、免疫の力でがん細胞を攻撃する効果が大きく、再発して難治性の白血病でも治癒を目指せる可能性がある。その一方で、提供者の細胞が患者の体を攻撃する移植片対宿主病(GVH病)も激しく出る危険性がある。母親は以前、兵庫医大病院が、白血病を再発した患者にハプロ移植を実施しているのをテレビ番組で見たことがあった。「もし娘の病気が再発しても、まだこの選択がある」と考えていた。両親は、宮崎県立延岡病院の主治医の外山孝典さん(51)に紹介状を書いてもらい、兵庫医大血液内科の小川啓恭教授(63)を訪ねた。ハプロ移植に期待を抱きながらも、GVH病への懸念を伝えた。小川さんは「最近は薬でコントロールできるようになってきています。うちで治療しましょう」と応じた。母親から造血幹細胞を提供してもらってハプロ移植をすることが決まった。2014年2月、女性は兵庫医大病院へ転院した。母も5日間入院し、造血幹細胞を採取した。「型が少し違っても、お母さんの細胞だから大丈夫」。女性はそう信じた。移植から11日後、母の造血幹細胞からつくられた白血球の数が基準値を超え、「生着」と呼ばれる状態に達した。移植から2カ月後の5月には退院できた。現在も病院に近い兵庫県西宮市内に借りたアパートで暮らし、週1回通院しながら体調のチェックを続けている。今秋にも、日向市の自宅へ帰る予定だ。それは、次の目標のステップでもある。「もう一度勉強して、今度こそ高校を卒業したい」。(10月9日 朝日新聞 患者を生きる 白血病 より)
Oct 20, 2015 08:20

再発 母が新治療を提案
急性リンパ性白血病と診断された宮崎県日向市の女性(21)は2012年1月、骨髄移植を受けるため九州地方の総合病院に入院した。骨髄の提供者は「40代の女性」とのことだった。骨髄移植を受ける患者は、前処置として、大量の抗がん剤を点滴し、全身に放射線を当てて白血病細胞を減らし、同時に自分の造血幹細胞も死滅させる。その後、提供者から採取した骨髄液を移植し、提供者の健康な造血幹細胞が患者の骨髄で血液細胞をつくるようになる。さらに、移植した骨髄液には免疫細胞の「Tリンパ球」が含まれていて、その細胞が女性の体に残る白血病細胞を攻撃して減らす効果も期待できる。一方で、提供者のリンパ球が、女性の体を異物とみなして攻撃する移植片対宿主病(GVH病)を起こす恐れもある。下痢や黄疸、皮膚の炎症などが起き、重症になると命にかかわる。それでも女性は「移植を受けなければ治らない。怖がるよりも移植のメリットを信じて進もう」と腹を決めた。移植の日、病室に届いた骨髄液の容器を見て、女性は提供者のことを思った。「健康な体に針を刺して骨髄を提供してくれた人がいる。必ず治そう」。移植後は、GVH病による激しい吐き気に見舞われ、ほとんど食事もできなかった。自宅に戻れたのは、移植から半年後の2012年7月。2013年春からは通信制の高校へ転入し、勉強を再開した。移植から1年9カ月がたった2013年11月、検査に通っていた県立延岡病院で、主治医の外山孝典さん(51)から、恐れていたことを告げられた。「再び白血病細胞が出てきました。再発しているようです」。女性は外山さんの前で始めて涙を見せた。「これから先はいいことばかりだと信じていたのに」。外山さんは女性の両親と、今後の治療を話し合うことにした。母親(48)は、以前にテレビ番組で見た新しい治療法について、外山さんに尋ねた。「ハプロ移植」。八つのHLA(白血球の型)が完全に一致でなくても、半分合っていれば移植をする方法だ。親子なら必ず提供者になれる。母親は「自分が提供者になろう」と決めていた。(10月8日 朝日新聞 患者を生きる 白血病 より)
Oct 19, 2015 07:50

友人がまぶしく見えた
宮崎県日向市の女性(21)は、高校1年だった2011年1月に白血病と診断され、県立延岡病院に入院した。検査の結果、白血病の中でも、白血球の一種のリンパ球が若い段階でがん化する「急性リンオア性白血病」とわかった。すぐに3種類の抗がん剤を点滴して白血病細胞を減らし、正常な血液細胞の増加を促す「寛解導入療法」が始まった。1カ月後、骨髄液中に含まれる白血病細胞が一定以下のレベルに減る「寛解」になった。ただ、寛解に至っても、治療を続けなければ1年以内に8割の人が再発する可能性がある。このため、3月からは再発を防ぐ「地固め療法」を受けた。地固め療法による抗がん剤治療は約4週間を1クールとして、5クール続いた。治療が始まると、薬の副作用で口の中がただれ、強いだるさを感じた。病院のベッドで、ほぼ寝たままで過ごした。高校は1年生の3学期から休学していた。時折、友人が千羽鶴や寄せ書きを持って見舞いに来てくれた。毎日、パジャマ姿で過ごす女性の目には、よそ行きの服を着ておしゃれをしている友人たちがまぶしく見えた。「元気な友人に会うのが嫌だと思う、黒い心の自分がいる」。母親(48)にそう漏らした。入院から8カ月後の9月下旬、退院できることになった。ただ、急性リンパ性白血病は、再発する可能性が高い。治癒を目指すには、HLA型(白血球の型)からが適合する人から、赤血球や白血球、血小板をつくり出す造血幹細胞を移植する必要がある。姉(24)と弟(18)は「自分の骨髄を提供したい」と検査を受けたが、2人とも女性とはHLA型が適合しなかった。主治医の外山孝典さん(51)は、提供者を求めて日本骨髄バンクに登録した。退院後の10月から高校に復学した。「クラスに私の居場所はないかもしれない」。不安な思いで登校すると、友人たちが歓迎会を開いてくれた。12月には東京と鎌倉への修学旅行にも参加できた。「学校へ通う当たり前の日々が、とても大事に思えた」。翌2012年1月、外山さんから連絡が来た。「骨髄の提供者が見つかりました」。(10月7日 朝日新聞 患者を生きる 白血病 より)
Oct 18, 2015 08:18

歩くだけでひどい疲れ
宮崎県日向市に住む女性(21)が体の異変に気付いてのは、高校1年生だった2010年12月、体育の授業で持久走をしたときだった。400メートルトラックを4分の1ほど走っただけで、肩で息をするほど苦しくなった。「運動不足でしょ」。女性の母親(48)は当初、気にしていなかった。中学ではソフトボール部に所属していたが、高校入学後はあまり体を動かしていなかった。しかし、2学期の終業式直前の12月下旬になると、校内で友人と並んで歩くだけでひどく疲れ、まるで全力疾走しているように感じた。自宅の階段をはうようにして上る娘の姿に、「普通の体じゃない」と母も不安を抱いた。自宅近くの内科クリニックを受診し、血液検査を受けた。翌2011年1月4日、クリニックから電話がかかってきた。「普通の貧血ではないようです。県立延岡病院へ行ってください」。翌日、紹介状を持って受診した。女性が別室で輸血を受けている間に、内科医長の外山孝典さん(51)は母親に告げた。「ほぼ間違いなく白血病です」。白血病は血液のがんの一つ。白血病細胞(がん細胞)が異常に増えて正常な血液細胞が減ることで、免疫力が落ち、発熱やだるさなどが起こる。血液検査の結果、女性は血液中に多くの白血病細胞が見つかり、逆に、血小板の数は健康な人の10分の1ほどだった。「誰かとカルテを間違えているのでは?」。母親は、外山さんのパソコン画面をのぞき込んだ。しかし、画面上には娘の名前が表示されていた。駆けつけた父親(53)と3人で女性にどう説明するか相談した。外山さんは「本人にしっかり治そうという気持を持ってもらうためにも、説明しましょう」と提案。そのまま入院することになった女性に、「白血病は、骨髄にある白血休や赤血球などの元になる造血幹細胞ががんになる病気です」と伝えた。「私はどうなっちゃうんだろう」。女性は不安に駆られたが、外山さんが最後に言った言葉を胸に刻むことにした。「今は白血病は治る病気だよ。一緒にがんばろう」。(10月6日 朝日新聞 患者を生きる 白血病より)

Oct 17, 2015 08:03

超音波でも早期発見難しく
胆管は、肝臓でつくられた消化液(胆汁)を十二指腸まで運ぶ通り道の管のことだ。肝臓内の細い管が集まって1本の太い管になり、十二指腸に向かう。国立がん研究センターによると、胆管と、胆汁をためておく胆嚢のがんの推計患者は、2013年で2万2600人。がん患者全体の約3%を占める。60~70代の患者が多い。5年生存率は20%程度。初期の段階ではほとんど症状がなく、早期発見が難しい。胆管は太い部分でも直径7ミリ程度で、がんがこの部分を塞ぐと胆汁が流れずに皮膚などに黄疸が出る。神戸大医学部肝胆膵外科の具英成教授は「わずかでもすきまがあれば胆汁は流れるので、黄疸が出るのは胆管が完全に塞がったとき」と説明する。胆管は胃や膵臓の裏側にあり、超音波を使っても初期のがんは見つけにくく、肝機能や腫瘍マーカーから診断することも難しいという。治療は手術が基本だ。肝臓内やその周辺にがんが広がっていれば、肝臓を含めた広い範囲を切り取る必要がある。十二指腸、膵臓近くにできたがんでは、膵臓を含めて切り取る必要がある。切り取った後、胆管や膵臓の管をつなぐ必要があり、大がかりな手術になるという。一方、腹膜やリンパ節などに複数の転移があって手術できない場合や、手術後の再発を予防するために、抗がん剤のゲムシタビンやシスプラチン、TS-1などが使われているが、今のところ効果は限られている。印刷会社の労災で、発がんの原因と推定された化学物質は「1,2ジクロロプロパン」と「ジクロロメタン」。厚生労働省の報告書によると、通常、低い濃度で体内に入った場合は、肝臓の酵素で代謝されるが、高濃度になると、代謝が追いつかなくなり、胆管での代謝が起きる。それが長期間続くことでがんが発生すると考えられている。この問題を受け世界保健機関(WHO)は2014年、「1,2ジクロロプロパン」をもっとも危険性が高い「発がん性がある」グループに認定し、「ジクロロメタン」は「発がん性を持つ可能性がある」(2A)に引き上げた。(10月3日 朝日新聞 患者を生きる 労災で胆管に 情報編より)
Oct 16, 2015 08:15

体は元に戻らないけれど
胆管がんの手術を受けた徳島県鳴門市の野内豊伸さん(37)は2カ月半後の2013年4月、大阪市立大病院を退院した。入院中、元勤務先の印刷会社で使われた二つの化学物質が、がんの原因だろうとする厚生労働省の調査がまとまった。大阪労働局の強制捜査で、印刷会社が法律で義務付けられた換気方法を当時とっていなかったこともわかった。労災申請が認められ、同年5月に支援団体の関西労働者安全センターで記者会見をした。「貯金を取り崩していたので、ほっとした。追い詰められた気持で治療をしている」。報道陣に訴えた。秋に復職したものの、体の調子はなかなか戻らなかった。すぐに疲れを感じ、風邪をひくと熱が長引いて3日は寝込んだ。主治医で、大阪市立大病院肝胆膵外科の久保正二さんは、化学物質が原因と考えられる胆管がん患者の症例を見ながら「通常よりも再発率が高いかも知れない」と、野内さんに説明した。再発は、がん細胞が血液に乗ってほかの臓器などに移動して生じることが多い。だが、野内さんの場合、胆管全体や肝臓も傷ついていて、がんになる直前の状態が、あちこちにある可能性があった。今年4月、定期検査で受けたCT撮影で、肝臓の外側にある太い「総胆管」と呼ばれる部分にがんが見つかった。「とかげのしっぽみたいに、また出てくるもんやな」。予想はしていたが、落ち込んだ。すぐに2度目の手術を受け、胆管の一部と、がんになりかかっている部分を切除した。1週間後、病院のベッドに寝ていると寒気を感じ、発熱した。傷口の化膿が原因で一時は40度に達した。「このまま死ぬのか」。高熱は4日間続いた。退院した後、印刷会社から補償金が支払われた。それで体が元に戻るわけではない。今も月に1度診察を受け、抗がん剤を飲み続けている。ただ、落ち込んでばかりいられない。以前ほどは飲めなくなったが、同じ趣味の仲間とたまにバーに集まってワインを飲み、病気のことを一時忘れる。「体のことは、気楽に考えるしかない」。今はそう思っている。(10月2日 朝日新聞 患者を生きる 労災で胆管に より)
Oct 15, 2015 08:08

手術後に1週間の高熱
2012年11月、徳島県鳴門市の野内豊伸さん(37)は大阪市立大病院(大阪市阿倍野区)で、胆管がんと診断された。主治医の肝胆膵外科の久保正二医師から「今から手術しますか」と聞かれた。「がん」と言われることは覚悟していたが、受診したその日のうちに手術をするという話はさすがに驚いた。「そんなに大変な病気なんや」。それでも、仕事の都合もあって、急に休むことは難しいと思った。幸い、がんは周りの組織にまで広がっていないようだった。手術は年が明けてから受けることにした。自宅に戻った野内さんは、趣味で集めたワインのボトルを眺めた。胆管がんについてインターネットなどで調べ、進行すると生存率が低いことを思い出した。「手術したら、飲めへんやろな」。思い切って貴重なウィン12本、合わせて約50万円分の栓を開け、手術までの2カ月間で飲み干した。2013年1月、手術で肝臓の3分の1を切り取った。手術はうまくいったものの、切り取った周辺が化膿して、1週間近く高熱に苦しんだ。久保さんは「化学物質を大量に浴びてほかの臓器も傷つき、合併症が出やすいのだろう」と考えた。発熱が治まると、再発を予防するための抗がん剤治療が始まった。胆管がんの治療では通常、ゲムシタビンという点滴薬と、TS-1という飲み薬が使われるが、化学物質が原因の症例ではデータがなかった。久保さんからは「抗がん剤がどれほど効果があるのかはわからないが、とにかく使ってみましょう」と勧められた。点滴は週に1度通院する必要があるため、飲み薬だけにした。薬は1日2回。副作用で肌が硬く、がさがさになり、特にひじの内側がかゆくてたまらなかった。こらえきれずにかきむしると、血が出て、さらに荒れがひどくなった。手術費や2カ月半の入院費は50万円を超えた。印刷会社の元同僚や支援団体に相談して、労災の申請をすることにした。胆管がんでの申請は、野内さんが17人目だった。(10月1日 朝日新聞 患者を生きる 労災で胆管に より)
Oct 14, 2015 08:14

「今から手術しますか」
徳島県鳴門市の会社員野内豊伸さん(37)は2012年5月、かつて勤めた印刷会社の同僚が相次いで胆管がんで死亡したことをニュースで知り、自分もがんではないかと疑った。近くの病院で診察を受けたがはっきりわからず、経過観察になった。元の勤務先に連絡しても「検診費用は支払う」という事務的な対応しかなかった。波紋はその後も広がった。問題を指摘された印刷会社は従業員13人が胆管がんを発症し、うち7人が死亡していたほか、宮城県内の別の印刷会社でも2人が発症していた。印刷機械の洗浄剤に含まれていた化学物質が、呼吸や皮膚を通じて体内に入り、胆管に運ばれて発症につながったと見られた。胆管がんの診断は専門医でないと難しい。大阪市立大病院(大阪市阿倍野区)に同年8月、「胆管がん特別外来」が設置された。肝胆膵外科の久保正二医師は「患者はもっと増えるだろう。どこを受診すればよいかわからない人のために、窓口が欠かせない」と考えていた。不安な日々を過ごしていた野内さんは、テレビで「特別外来」の存在を知った。問題の会社で働いていたことや、肝機能の数値などを予約時に伝えた上で、11月に病院に出向いた。自覚症状はなかったが、改めてCTを撮ると、肝臓内が白く写った。肝臓で作られた胆汁が流れる細い胆管が詰まっていた。診察に当たった久保さんから「胆管がんですね。間違いありません」と告げられた。覚悟はしていたので、その言葉にもうろたえずに済んだ。通常は、がんの広がりや転移の有無でステージが決まるが、野内さんの場合は、化学物質の影響で臓器全体がダメージを受けている可能性が高かった。胆管がんは症状が出にくいため、倦怠感や黄疸などが現われる段階になると、がんが肝臓やリンパ節に転移して手術が難しくなってしまうことが多い。説明を終えた久保さんは、こう切り出した。「今から手術しますか」。予約時に伝えられた経歴などから、病院はすぐにでも手術ができるよう、態勢をあらかじめ整えていた。(9月30日 朝日新聞 患者を生きる 労災で胆管に より)
Oct 13, 2015 07:59

印刷会社の元同僚の死
2012年5月、徳島県鳴門市の会社員、野内豊伸さん(37)はテレビのニュースを見て、「あっ」と声を上げた。大阪市内の印刷会社で、元従業員4人が胆管がんで死亡していたことが明らかになり、作業で使っていた洗浄剤が原因ではないか、と伝えていた。会社名は伏せられていたが、かつての勤務先だとすぐわかった。1997年から約6年間、刷り上った印刷物の色を点検する仕事に就いていた。風通しの悪い地下の作業場で、図鑑やパンフレットを数部刷っては、洗浄剤を染み込ませた布で機械に付いたインクをふき取った。多い日には、この作業を5分ごとに繰り返すこともあった。ペットボトルのような容器に入った洗浄剤は、鼻をつく刺激臭があった。同僚と「体に悪いかも」と話していたが、マスクを着けるなどの対応はしていなかった。2002年、転職して鳴門市に移った。その後、かつて工場長と同僚ががんで亡くなった。葬儀では、相次ぐ死を不審に思う元同僚から「あの会社、何か隠していないだろうか」と言われた。自身の体調に変化は感じていなかったが、数年前から肝機能のγGTP値が徐々に上がって正常値の6倍の300近くに達し、健康診断で異常を指摘されていた。「お酒の飲み過ぎだろう」と思って好きなワインの量を控えても、改善しなかった。ニュースを見て、「自分のがんかもしれない」と不安を抱いた。鳴門市内の総合病院で診察を受けた。肝臓の周りをCTで撮影し、医師に「何かあるね」と言われた。だが、はっきりと診断はできず、経過観察になった。印刷会社での胆管がん問題は、ネットの匿名掲示板で様々な情報が連日書き込まれた。「一体、何が起こっているのか」。報道から約1カ月後、印刷会社から実家に封書が届いた。「伝えたいことがあるので、連絡をください」と記されていた。「胆管がん」という文字はどこにもなかった。「あれだけ報道されているのに、どういうことや」。事実をごまかそうとしているような気がした。(9月29日 朝日新聞 患者を生きる 労災で胆管に より)
Oct 12, 2015 09:52

53タイプ 進み方に差
悪性リンパ腫は血液がんの一種で、細菌やウイルスから体を守る働きがあるリンパ球のがんだ。リンパ節以外にも、骨髄や血液に生じたり、胃や大腸などの臓器にしこりを作ったりする。主な症状としては、首やわきの下、足の付け根などの腫れや、発熱・体重減少・ひどい寝汗などがみられることがある。2011年に国内で2万5千人が新たに診断され、血液がんの中では最も患者数が多い。男性に多く、60代以降に起こりやすい。悪性リンパ腫は、細胞の形状などから、大きく「ヒジキンリンパ種」と「非ホジキンリンパ種」に分けられ、国内では約9割が非ホジキンリンパ種だ。虎の門病院(東京都港区)血液内科の伊豆津宏二部長(46)によると、悪性リンパ腫は53のタイプに分類され、病気の進行の仕方や治療法などが異なる。診断には、リンパ節などを一部切除する生検が必要だ。さらに、リンパ腫の広がり具合を示す病期などに応じて治療法が選択される。国内で最も多いのが、非ホジキンリンパ種の「びまん性大細胞型B細胞リンパ腫」というタイプだ。悪性度は「中悪性度」とされ、未治療の場合、主に月単位で病気が進行する。標準的な治療は、分子標的薬や抗がん剤を用いた標準的治療「R-CHOP療法」。伊豆津さんによると、この治療で半数以上で治癒が期待できるという。2番目に多いのが、連載で紹介した奈良県の穐鹿恭悦さん(68)と同じ「ろほう性リンパ種」というタイプだ。「低悪性度」で、年単位でゆっくり進行する。ろほう性リンパ種も、RーCHOP療法などの治療で、腫瘍が小さくなったり、消えたりすることが期待できる。だが、再発するケースも多い。再発時期は数年~十数年後と、人によって異なる。このため、治療を終えた後も、血液検査やPET-CTなどによる画像検査を定期的に行う。一方、ろほう性リンパ種と診断されても、症状がなく、腫瘍が小さい、などの場合には、これまでの研究結果などから、治療せずに定期的に診察を受ける「経過観察」も③拓士になっている。(9月26日 朝日新聞 患者を生きる 悪性リンパ腫 情報編より)
Oct 11, 2015 15:07

今は治療せず自然体で
2006年に悪性リンパ腫の治療を終えた奈良県の穐鹿恭悦さん(68)は、経過観察のために病院に通った。1~2カ月後に1度、血液検査で腫瘍マーカーを確認し、年1回ほどPET検査を受けた。「異変がみられます」。そう告げられたのは、5年後の2011年の年末だった。腫瘍マーカーの値が上がり、腹部のリンパ節が少し大きくなっているようだという。「病気が再発したのか」「治療が本当に必要なのか」と聞いても、納得のいく説明は得られなかった。自分の置かれた状況がよく分からず、不安になった。「ほかの先生にも意見を聞いてみたい」と医師に伝え、これまでのCTやPET画像データをもらった。ちょうどそのころ、長女(43)が悪性リンパ腫に関する新聞記事を見つけてくれた。その記事に名前が出ていた近畿大医学部付属病院(大阪府大阪狭山市)の血液・膠原病内科の辰巳陽一教授(55)に、セカンドオピニオンを聞きにいくことにした。年が明けた2012年1月末、穐鹿さんが持参した画像を見て、辰巳さんは「確かに正常とは言い難いが、今すぐ慌てて治療する必要はないでしょう」と説明した。穐鹿さんは、年単位でゆっくり進行する、ろほう性リンパ種というタイプで、無症状であれば、経過観察が選択されることも多い。「少しでも正常でなかったら気が済まない、という方なた、治療したほうがいい。ですが、やらなかったら、命にかかわる、という段階ではありません」気になるなら、という程度であるなら、吐き気で食事も満足にできなくなった、あの治療の苦しみを味わいたくはない。すぐに治療はせず、辰巳さんの元でそれまでと同じく経過観察を続けることにした。治療の必要性は、それまでの経過と現状から、総合的に判断される。「治療を延ばさない方が良い段階になったら、言ってほしい」と頼んである。将来、必要となった場合は、治療を受ける覚悟をしている。「がんの治療方法は10年後にはもっと進歩するだろうし、30年たてば新しい世界が開けるはず。それまで、自然体で長生きしたい」。(9月25日 朝日新聞 患者を生きる 悪性リンパ腫より)
Oct 10, 2015 07:49

「ずっと付き合う病気」
悪性リンパ腫と診断された奈良県の穐鹿恭悦さん(68)は2005年末、県内の総合病院に入院し、分子標的薬と抗がん剤などを組み合わせた「R-CHOP療法」を受け始めた。新年は自宅で迎え、1月3日に病院に戻って、翌日、医師の診察を受けた。首とわきの下のリンパ節の腫れは引いているという。治療開始から10日足らず。「こんなにすぐ効果が出るのか」と驚いた。ただ、採血の結果、抗がん剤の影響で白血球の減少が見られた。感染症にかかりやすため、かぜなどを引かないよう注意が必要だと説明された。治療開始から約2週間後、シャワーを浴びているときに、髪の毛がゴソッと抜けた。臭いに敏感になり、ムカムカと吐き気がした。食事もほとんど食べられない。約1カ月間の入院で、体重が10キロほど落ちた。退院後は約3週間ごとに、治療を受けるときだけ1泊2日で入院した。治療の回数を重ねるごとに副作用の苦痛は増した。口内炎ができ、味覚障害も出た。足がむくんでパンパンになったり、指先にしびれが出たりもした。体力を付けようとたまに近所を散歩したが、坂道を歩くのがきつかった。2006年5月、半年間に及ぶ治療が終わった。点滴や採血で腕の血管や周りの筋肉に何度も針を刺したため、硬くなって刺せなくなっていた。手の甲や足の血管に針を刺して採血した。6月下旬に受けたCTとPET検査の結果、「がん細胞の活動はどこにも見られない」との説明を受けた。ただ、「この病気は今後再発の恐れがあり、長期間の定期観察を受ける必要がある」とも言われた。穐鹿さんのがんは、悪性リンパ腫の中では悪性度の低い「ろほう性リンパ種」というタイプだった。だが、悪性度の高いタイプに変化することもあるという。「ずっと付き合っていく病気なんだな」。改めて、そう感じた。とはいえ、治療が終わり、「とりあえずはひと安心」。心配をかけた妻や、3人の子どもたちが喜んでくれたことが、何よりうれしかった。この年の夏、約半年ぶりに職場復帰を果たした。(9月24日 朝日新聞 患者を生きる 悪性リンパ腫より)

Oct 07, 2015 07:56

「治療に専念」覚悟決めた
血液がんの一種「悪性リンパ腫」と診断された奈良県の穐鹿恭悦さん(68)は2005年12月、自宅近くの総合病院に入院して治療を受けることになった。リンパ腫の広がりなどから判定する1~4の病期は3期だった。大手メーカーに入社して以来、仕事優先で働きづめだった。当時は定年退職が見えてきたころで、仕事を任せられる部下もいた。治療を優先させたいと思った。会社に電話をし、「悪性リンパ腫の中でも進行が遅いタイプです。それほど治療を急ぐ状態ではないけれど、自分としては早く治療をしたい」と状況を伝えた。入院後、改めて詳細な検査を受けた。尿・便・採血検査のほか、CT、腹部・胸部のX線、エコー。骨髄にがん細胞が広がっていないかを調べるため、骨髄の抜き取り検査もした。12月27日、本格的な治療が始まった。「R-CHOP療法」と呼ばれる治療法で、「R]は分子標的薬「リツキシマブ(販売名リツキサン)」の頭文字。それと抗がん剤による治療を、2~3週間ごとに計6~8回ほど、約半年かけて繰り返す。リツキシマブは2001年に保険適用された当時まだ新しい薬。この薬の登場で、悪性リンパ腫の治療成績はかなり向上したと言われる。1クールは5日間。はじめの2日間は点滴治療で、少し胸のあたりにむかつきを感じたが、体調の変化はそれほどなかった。錠剤だけ服用する日もあった。妻(68)が、腫れ物を治す神様として知られる神社に通い、何度もお百度参りをしてくれた。その妻がもらってきてくれたお守りを、入院中は寝巻きのポケットにいつも入れていた。治療開始から5日目。大みそかにいったん自宅に戻ることができた。帰省した長女や次女、長男。孫たちと一緒に過ごした。新年を迎え、「人生最大の岐路にいる」と感じた。好きな言葉は、「人間万事塞翁が馬」。大学受験も就職も、人生の局面を振り返っても、未来を正確に予測できたためしはない。人生はその繰り返しだ。「とにかく目の前の治療に専念するしかない」。そう覚悟を決めた。(9月23日 朝日新聞 患者を生きる 悪性リンパ腫より)
Oct 06, 2015 07:43

「腫れ」自分で気づかず
奈良県の穐鹿恭悦さん(68)は以前から右の脇腹がキリキリ痛むのが気になっていた。会社員だった10年前、2005年秋のことだ。「筋肉痛かな」とも思ったが、どうもおかしい。地元の病院で、腹部のエコー検査を受けることにした。結果を聞く予定日の数日前、病院から電話がかかってきた。「予定より早く来てもらえますか」。不安を抱えつつ受診をすると、医師から言われた。「おなかのあたりのリンパ節が腫れています」。「リンパ節の腫れ」と言われても、ピンと来なかった。脇腹の痛みとは関係ないが、PET検査で詳しく調べる必要があるという。PETが、がんを調べる時に使う検査であることは知っていた。「ひょっとしたら・・・」という思いがよぎった。12月初め、結果を聞きに行くと、医師から「悪性リンパ腫と思われます」と告げられた。聞いたこともない病名だった。血液の悪性腫瘍の一つで、診断のためにはリンパ節などの一部を切除して病理検査する「生検」を受ける必要があるという。「こんない大きくなっているのに、分かりませんでしたか」。紹介先の大学病院で、医師はリンパ節のある首や脇、足の付け根を触りながらそう言った。自分では気づかなかった。生検では左首の付け根のリンパ節を調べることになった。局所麻酔で意識があるまま、首もとを切られるのは恐ろしかった。12月下旬、生検の結果が出た。悪性リンパ腫の中でも「ろほう性リンパ腫」というタイプと診断された。「大変なことになってしまった」。診断結果を聞いて動揺した。悪性リンパ腫は低・中・高の3段階の悪性度に分けられる。悪性度が高いと月単位で進行するが、穐鹿さんが診断された「ろほう性リンパ種」は、年単位でゆっくり進行する「低悪性度」だった。「点滴で行う抗がん剤治療で効果があります」。医師の説明を聞くうちに、「治る病気なんだ」と感じ、気持の落ち着きを取り戻した。(9月22日 朝日新聞 患者を生きる 悪性リンパ腫より)

Oct 05, 2015 08:13

症状・進行 人それぞれ
脳腫瘍は頭蓋骨の中に生じる腫瘍の総称だ。脳や脳を包む膜自体から生じる「原発性脳腫瘍」と、ほかの場所で生じたがんが原因になる「転移性脳腫瘍」がある。「原発性」の発生率は年間で3万人に1人程度。国立がん研究センターは、今年新たに原発性脳腫瘍になる患者数は5100人と推計している。腫瘍があると、頭蓋骨内の圧力が高まり、慢性の頭痛や吐き気などが起きる。また、腫瘍の場所によって、その部位が担当している「読み書き」「聴力」「視力」などの機能に障害が出る。連載で紹介したピアノ教師の女性は、脳腫瘍の中でも「グリオーマ」と診断された。脳そのものは、神経細胞と、神経細胞に栄養を与える役割などがある「グリア細胞」でできている。グリア細胞から生じる腫瘍がグリオーマだ。「神経膠腫」とも呼ばれ、原発性の約3割を占める。グリオーマは一般に悪性とされ、多くの種類がある。脳内にしみこむように広がり、腫瘍と正常組織との境界があいまいで、手術で取るのが難しい。一方、脳を包む髄膜や下垂体などに生じる腫瘍は、良性のものが多い。腫瘍と正常な部分の堺がはっきりしていて、切除しやすく、手術で治しやすい。グリオーマなど悪性の脳腫瘍は、手術でできる限り腫瘍を取り、残った腫瘍を放射線治療や化学療法でたたくのが通常の治療方法だ。ただ、脳腫瘍は患者数が少ない半面、種類が多い。このため、それぞれの種類ごとの標準治療が確立されていない。現在、日本脳腫瘍学界が診断や治療のガイドラインを作成中だ。脳は薬剤が到達しにくい性質があるため、治療薬の開発を難しくしている。ほかの臓器のがんに有効な抗がん剤の転用も難しい。慶応義塾大の佐谷秀行教授(腫瘍生物学)は「一人一人の症状や進行は違うので、ほかの患者さんの例を自分に当てはめて、あきらめたり、楽観したりするべきではない」という。また医師によって治療法をめぐる見解が異なることも多く、「セカンドオピニオン」で主治医以外の意見を聞くことも重要だ。(9月19日 朝日新聞 患者を生きる 脳の機能を残す 情報編寄り)
Oct 04, 2015 08:14

何があっても後悔しない
右の脳に腫瘍が見つかった東京都のピアノ教師の女性(54)は2009年11月、脳の機能保持を最優先して病理検査に必要な少量だけ腫瘍を取る手術を受けた。手術後、女性は夫(57)から言葉を話せない患者を見かけた、と聞いた。「大きな手術の痕があった。大きく取ったせいで障害が出たんだと思う」。夫が根拠のない推測を言うのは珍しいと驚いた。「機能を残す方法を選んでよかったと確信しるため、これからも私たちは様々なこじつけを考えていくのだろう」。そう思った。検査の結果、腫瘍には抗がん剤が効きやすい遺伝子の特徴があった。女性は「脳腫瘍を野放しにせず、闘える」とほっとした。化学療法を2010年の年明けから2011年4月まで続け、腫瘍の拡大はいったん止まった。2013年、腫瘍が再び広がり始めているとわかった。腫瘍は脳の左側にも達していた。左側には会話や読み書きの機能がある。自分の経験を書きつづって、医師やほかの患者に伝えたいという思いが強くなった。「一番やりたいことを奪われる」と、強いショックを受けた。再開した化学療法は効果が見られず、「強度変調放射線治療」という治療に切り替えた。放射線の強さを細かく調整でき、脳の機能を守るのに適していたからだ。今年3月から4月に計28回の治療を受けた。約1カ月後のMRI検査で、左脳まで広がった腫瘍が右側に後退していた。見た目は正常でも、物を落としたり、足がもつれたりする恐れがあり、こもりがちになった。救いは、2011年に入会した患者団体「脳腫瘍ネットワーク」だ。病気に詳しい患者や家族が助け舟を出してくれるので、会合に参加しやすい。団体の田川尚登副理事長(58)は「勉強熱心で医師との会話などを克明にメモしている」と感心する。この6年間、抗がん剤の点滴で激しい痛みに襲われたり、起き上がれなかったりして苦しんだこともあった。でも手術の後遺症はなく、望んだ通り、ピアノの指導も続けている。「考え抜き、先生方にも十分手を尽くしていただいたのだから、何があっても自分の決断にには後悔しない」と、思っている。(9月18日 朝日新聞 患者を生きる 脳の機能を残すより)
Oct 03, 2015 08:01

「最小限の手術」を希望
右の脳に腫瘍が見つかった東京都のピアノ教師の女性(54)は2009年11月、主治医(56)から手術の方法について、説明を受けた。生命維持に関わる部分などにある腫瘍は取れないので、手術で切除できるのは最大でも全体の6、7割という。それでは腫瘍が多く残ってしまい、手術による延命効果は小さい現実が見えてきた。しかも、腫瘍が大きいので6割でも失われる脳の機能は大きいだろう。残された時間、回りの人たちといろいろなことに感動しながら生きたい。文章を書き、ピアノを弾き続けたい。延命効果に大差ないなら機能を優先したい。ずっと考えてきた希望を口にした。「豊かな気持で暮らせるよう、できるだけ脳の機能を残してほしいのですが」。女性の気持をくみ取った主治医は「切除は病理検査に必要な最小限にとどめ、残りの腫瘍は抗がん剤で治療していきましょう」と提案した。「その方法でお願いします」。女性は一呼吸おき、そう答えた。「少しでも延命効果の高い方法を選ぶべきなのでは?」と批判する親戚に、夫(57)は「本人の決断を理解してほしい」と手紙を書き、説得した。11月の手術の直前、長く米国の大学で内科教授を務めた叔父(85)からメールが来た。「医者としてではなく、ただあなたを深く愛する親類の一人として、少しでも治癒の可能性のある治療法を選んでほしい」。機能の保持を優先するため、余命を縮めても腫瘍の切除を最小限に抑えるという女性の決断に、反対する内容だった。決心は揺らがなかったが、自分を気遣ってくれる叔父の気持を思い、涙がにじんだ。11月中旬、7時間の手術を受けた。全身麻酔をかけて頭を開き、最初に決めた通り、検査に必要な最小限だけ腫瘍を切除した。手術室で目を覚ますと、医師らが視界に入った。名前を呼びながら「ありがとうございました」と声をかけた。かすれ声を出すのがやっとだったが、「感謝できる心が、手術で失われずに残っていてよかった」と思った。(9月17日 朝日新聞 患者を生きる 脳の機能を残すより)
Oct 02, 2015 07:53

息をのんだMRI画像
激しいけいれん発作に見舞われた東京都に住むピアノ教師の女性(54)は2009年9月、病院で脳に腫瘍があると指摘された。腫瘍は右前頭葉にあり、脳腫瘍の一種である「グリオーマ」の可能性が高いという。前頭葉は脳の前半を占め、意欲や行動などに関わる脳の司令塔だ。夫(57)は腎臓病とリウマチをわずらっていて、母もがんの手術を受けたばかりだった。もし、病名を聞いたら、夫や母親がどれほどショックを受けるだろう・・・。そう感じた女性は「家族には、良性腫瘍ということにしていただけませんか」と入院先の病院の主治医に(56)にお願いした。だが、医師は「一生つきあっていかなければいけない病気です。ご家族の支えが、どうしても必要です」と答えた。「治らないという意味なのか」と、怖くて聞き返せなかった。入院から9日目、家族も交えて主治医から詳しい説明を受けた。MRIの画像を見て、女性は息をのんだ。「大きい」。腫瘍は7センチで、右の脳にはっきりと白く見えた。まだ、意識にかすみがかかったようで、ひとごとのように現実感がない感じがした。主治医は「砂地にインクを落としたように広がっていくタイプの腫瘍です」と説明した。腫瘍は、脳の中心部にある視床下部まで広がっているという。そして、言いにくそうにこう続けた。「視床下部は体温やホルモン調節など身体の大切な機能を維持している部分なので、切除はできません」。ペンを持つ手が止まり、思わず、夫を見た。ほおが紅潮しているのが分かった。手術で切り取られるのは、腫瘍全体の6~7割という。できる限り切除し、さらに抗がん剤の治療を受けるよう勧められた。「できる限り取った場合、どんな後遺症が残りますか?」。女性の質問に、医師は「人格が変ったり、意欲がなくなったりして、社会生活に影響が出る場合もあります」と答えた。人格が変ったらこれまで築きあげてきた人間関係はどうなるのだろう。自分が自分でなくなってしまう・・・。そんな不安が、頭をよぎった。(9月16日 朝日新聞 患者を生きる 脳の機能を残すより)
Oct 01, 2015 08:33

けいれんが止まらない
東京都内に住むピアノ教師の女性(54)は2009年9月の連休中、寝室でベッドから起き上がるとき、足元がふらついた。目の奥から首筋にかけて、鈍い痛みも感じた。「いつもの頭痛だろう。レモンティーでも入れようか」。居間に行き、上の棚に手を伸ばしたとたん、突然目がくらみ、意識が遠のいた。手を伸ばしたまま、瞬きもできず、ふらふらと体が回り出した。たまたま、そばにいた母親(82)が女性を抱きかかえ、じゅうたんの上に寝かせた。体全体がけいれんし始め、止まらない。母親の知らせを聞いて駆けつけた隣人の女性が励ました。「大丈夫よ!」その声で、一時的に意識が戻った。「ショートパンツをはいていて恥ずかしい」真っ先にそんな事を思うと、隣人の女性が足にタオルをかけてくれた。母が呼んだ救急車が到着し、隊員から瞳にペンライトの光を当てられたのを覚えている。ただ、自分の置かれた状況がよくわからず、「どうして、こんな大げさなことになっているのだろう」と不思議に感じた。「お騒がわせしてすみません。もう大丈夫ですからお引き取りください」。救急隊員にそう話した。近くの総合病院に運ばれ、救急救命室で、夫(57)が医師からCT検査の結果を聞いた。「脳内に出血した跡はありませんが、前頭葉に腫瘍のようなものがみられます。休みが明けたら、MRIで詳しく検査しましょう」。入院して4日目にMRIなどの検査を受け、翌日、結果を知らされた。医師によると、腫瘍は右前頭葉にあり、「グリオーマ」という種類と考えられるとのことだった。がん検診でポリープが見つかったこともあった。「覚悟はしていたけど、40代でなるのは、ちょっと早いな」と思った。以前からほとんど毎晩、金縛りにあったかのように体が硬直したり、手の力が抜けて鉛筆や食器を落としたりしていた。だいぶ前から、小さな発作が起きていたかもしれない。「もっと早く、検査を受ければよかった」。そう後悔した。(9月15日 朝日新聞 患者を生きる 脳の機能を残すより)
Sep 30, 2015 08:51

幅広い治療法 相談を
前立腺は、栗の実のような形をした臓器で、男性の精液の一部を作る働きがある。前立腺がんは加齢とともに増え、特に65歳以上で目立つ。2011年に新たに診断された患者は全国推計で7万人を超え、男性のがんでは、胃がんに次いで多い。尿が出にくいといった症状で気付くこともあるが、自覚症状がないことも多い。人間ドックなどの血液検査でPSAの値が高いことがわかり、治療のきっかけになるケースもたくさんある。国立がん研究センター東病院の酒井康之医長(46)は「治療は選択肢が幅広く、主治医とよく相談して、自分に合った治療法を納得して選んで欲しい」と話す。連載で紹介した荒井治明さん(73)の場合、放射線治療なども検討することができたが、本人の希望で手術を選択した。手術の対象になるのは、がんが前立腺内にとどまり、おおむね75歳以下の人。ほかに重い病気があるなど全身状態が悪い場合は対象にならない。また、手術後には一時的に尿失禁が起こりやすく、神経を温存しない場合は勃起不全になるといった側面もある。ロボット手術や腹腔鏡手術は、開腹手術に比べて出血が少ないなどの利点がある。荒井さんが受けた手術支援ロボット「ダビンチ」による前立腺がんの手術は、2012年には保険適用になった。ダビンチは2014年度、国内で8千件以上の前立腺手術に使われた。放射線治療には、体の外から放射線を当てる「外照射法」と、小さなカプセル状にした放射性物質を体内に埋め込む「小線源治療」とがある。手術や手術に伴う尿失禁などの合併症を避けたい人に向いており、手術時の全身麻酔のリスクが高いと判断された人も対象となる。ただし、副作用として直腸炎などが起こることもある。このほか、前立腺がんを進行させる男性ホルモンを薬で抑える「ホルモン療法」や抗がん剤による「化学療法」も、病気の進行状態などに応じて選ばれる。すぐ治療をしなくても余命に影響がないと判断される場合などには、血液中のPSAの値を定期的に測定する{PSA監視療法」が選択されることもある。(9月12日 朝日新聞 患者を生きる 前立腺の手術 情報編より)
Sep 29, 2015 08:38

摘出成功、順調に回復
前立腺がんが見つかった千葉県流山市の荒井治明さん(73)は2014年10月下旬、前立腺を摘出する「ロボット手術」を受けることになった。手術ロボット「ダビンチ」を使った前立腺の手術は、その2年前に保険適用になっていた。腹部に小さな穴をあけ、そこからかん子やカメラを入れて行う。開腹手術に比べてt出血量が少なくて済むのが特徴だ。国立がん研究センター東病院(千葉県柏市)の酒井康之医長(46)は手術法の説明のあと、「状況によっては途中で開腹手術に切り替えることもあります」と付け加えた。手術室には、酒井さんや麻酔科の医師、看護師ら6人が入った。手術代の脇にある操縦席に座った酒井さんが、立体画像を見ながら遠隔操作で切除や縫合を行った。前立腺と周辺のリンパ節を切除し、手術は約4時間で無事に終わった。手術から1週間後には、尿を体外に出すため尿道に入れていた管を抜くことができた。順調に回復し、11月上旬に退院することができた。ただ、手術の影響で、荒井さんはその後、尿漏れに悩まされた。「椅子から立ち上がろうとしただけでチョロっと出る。介護用の紙パンツをはいてしのぎました」。退院から2週間後、改めて手術結果の説明を受けた。がんは前立腺内にとどなっており、周辺のリンパ節への転移はなかった。尿漏れの症状は続いたが、この頃には紙パンツではなく、尿漏れパッドで済むようになっていた。尿漏れについて酒井さんは「日がたつにつれて、だんだん良くなりますよ」と励ました。荒井さんはいま、柏市内の会社で週3日ほどパート勤務を続けながら、毎日家庭菜園に通い、野菜作りを楽しんでいる。これからの季節は、サツマイモや長ネギ、大根などの収穫が楽しみだ。「もしまた何かの病気になっても、くよくよせずに早めに治療を受けたい。これからも体力が続く限り、野菜作りを続けますよ」。(9月11日 朝日新聞 患者を生きる 前立腺の手術より)
Sep 28, 2015 08:23

ロボット手術を選択
千葉県流山市の荒井治明さん(73)は2014年8月、前立腺の組織を取る検査で、がん細胞が見つかった。地元の東葛病院で検査を担当した泌尿器科の小澤雅史科長(48)は、国立がん研究センター東病院(千葉県柏市)に紹介状を書いてくれた。9月中旬、荒井さんは妻の多恵子さん(71)と一緒に、泌尿器・後腹膜腫瘍科の酒井康之医長(46)を訪ねた。荒井さんの前立腺がんは転移がなかった。転移のない前立腺がんは通常、PSAの値やがん組織の悪性度などからリスク評価をして治療方針を決める。荒井さんはリスク評価で「低」と「高」の間の「中間リスク」と診断された。「手術のほか、放射線照射などが治療の選択肢になるでしょう」。酒井さんはそう説明した。荒井さんは「手術できるなら、手術で」と希望を伝えた。過去に胃がんで2度の手術をした経験から、「がんは早く見つけて手術できれば、怖くない」という思いがあった。10月初旬、再度の外来で、酒井さんは手術や放射線など、様々な治療法の長所や短所について説明したあと、こう付け加えた。「手術の場合、最近はロボット手術というものがあって、この病院でも受けることができますよ」。昔はロボットと言えば「鉄腕アトム」だった。「ロボット手術」というものが日本でも行われていることは、テレビで見て知っていたが、まさか自分が受けることになるとは思わなかった。知り合いに聞いても手術を受けた経験者はいなかったが、腹を決めた。「ロボットといったって、動かしているのは人間。ロボットが勝手に判断して手術を進めてしまうわけではないし・・・」。そう自分を納得させた。1週間後の外来で、酒井さんは荒井さんに治療方法の希望について改めて確認した。「ロボットを使った手術になると思いますが、そのままの方法で良いですか」。荒井さんは迷うことなく、「お願いします」と答えた。10月22日に入院。手術ロボットを使った前立腺の摘出手術を24日に受けることになった。(9月10日 朝日新聞 患者を生きる 前立腺の手術より)、
Sep 27, 2015 09:34

針で組織取り確定診断
前立腺の肥大を検査で指摘された千葉県流山市の荒井治明さん(73)は2011年2月ごろから、尿の出が悪いことに悩むようになった。「尿が細くなって、力を入れてもいっぺんに出にくくなりました」。トイレに行ってもすっきりした気分にならず、再びトイレへ。尿の回数が増え、残尿感が気になるようになった。「やっぱり前立腺の肥大が進行しているのかな」。不安な日々を過ごすようになった。尿の出が悪くなったのと同じ頃、便秘の症状も出るようになった。東葛病院(千葉県流山市)で、便秘薬を処方され、飲み始めた。血液中のPSA(前立腺特異抗原)の値はさらに上昇し、2012年10月には10.46になった。前立腺肥大症の治療薬を処方されて飲んだが、PSAの値は6を超す状態が続いた。がんの可能性がさらに高まり、2014年8月下旬、東葛病院に1泊2日入院して、前立腺の組織を調べる検査を受けることになった。下半身の麻酔をし、仰向けになって両足を高く上げた。その状態で、前立腺に針を計16カ所差し込んで組織を採取した。麻酔のおかげで痛みは感じなかったが、組織を取る器具の音は聞こえた。「針で組織を取るたびにバチンという音が響いた。あまり気持のよいものではありませんね」。検査の結果、前立腺の16カ所から採取した組織のうち、3カ所からがんが見つかった。事前のMRI検査で、白く写っていた場所だった。「やっぱり、がんでした」。泌尿器科の小澤雅史科長(48)は、栗の実のような前立腺のイラストをボールペンで描きながら、がん細胞が見つかった位置を荒井さんに説明した。がんになったのは初めてではない。この年の1月、再発した胃がんの切除手術を受けたばかりで、早期の発見と治療の大切さが身にしみていた。荒井さんは小澤さんに強い希望を伝えた。「がんと分かった以上は、一刻も早く治療を受けたい」。(9月9日 朝日新聞 患者を生きる 前立腺の手術より)

Sep 26, 2015 08:28

検査のたびに数値悪化
日曜日の午後、千葉県流山市の自宅でくつろいでいた荒井治明さん(73)は、腰に重い痛みを感じた。2008年8月のことだった。ひと晩我慢したが、強い痛みが消えない。翌日、自宅から車で10分ほどの市内にある東葛病院を受診した。CT検査の結果は「尿路結石」。腎臓に結石ができ、そのせいで痛みが起きていた。ただ、泌尿器科の小澤雅史科長(48)の診察を受けているうちに不思議と症状が消え、その後は痛まなくなった。苦痛から開放され、ホッとひと安心した荒井さんに、小澤さんが声をかけた。「PSA(前立腺特異抗原)の検査も、受けていきませんか」。PSAは、前立腺がんになると血液中の濃度が上昇する物質で、早期発見に役立つ。50歳を過ぎた男性には、一度受けるようすすめているという。荒井さんはそれまでに一度も、受けたことがなかった。「せっかくの機会だから、念のために受けてみようか・・・」。軽い気持でPSAを調べる採血検査を受けた。約1週間後、検査結果が出た。値は5.4(1ミリリットル当たりナノグラム)だった。一般にPSAの値が4を超えると、前立腺がんの可能性が疑われる。すぐにエコー検査を受けたところ、前立腺が肥大し始めていることも分かった。半年に1回のペースで病院で検査を受け、PSAの値をチェックすることになった。「このままさらに、前立腺が大きくなってしまうのだろうか」。荒井さんは一抹の不安を感じた。しかし、前立腺肥大症の人が必ずしもがんになるわけではないという話を聞いたこともあり、それほど深刻には考えなかった。「そのときはまだ、自覚症状も全くありませんでした」。ところが、はじめのうち5~6程度だったPSAの値は、検査を受けるたびに、徐々に高くなっていった。2011年2月に受けた検査でPSAは8.13に上昇した。尿の出も悪いことに悩むようになったのも、ちょうどこの時期からだった。(9月8日 朝日新聞 患者を生きる 前立腺の手術より)
Sep 25, 2015 08:12

就職・結婚も視野に治療
精巣(睾丸)には、男性ホルモンを分泌する機能と、精子をつくる機能がある。精巣がんにかかる割合は男性10万人あたり1人で、「希少がん」に該当する。主な症状は、片側の精巣が腫れたり、硬さが変化したりする。痛みを感じないことが多く、かなり進行してから気付くケースも少なくない。非常に進行が早く、転移しやすいとされる。発症のピークは、20代後半から30代にかけて。連載で紹介した神奈川県に住む会社員の男性(37)は、働き盛りで、幼い子どもがいる中で治療を受けた。治療は、がんが強く疑われる段階で、腫瘍のある側の精巣を摘出する。取り出した組織を調べてがんかどうかを確定し、転移の有無や転移先の部位によって、その後の治療が選択される。神奈川県立がんセンター泌尿器科の岸田健部長(52)は「若い人に多い精巣がんの治療は、治癒をめざすだけでなく、将来の就職や結婚も視野に入れ、発病前と同じ生活に戻ってもらうことが大切」と指摘する。精巣がんの多くは抗がん剤がよく効き、転移があっても治ることが期待できる。ただ、筑波大病院腎泌尿器科の河合弘二講師(55)は「非常によく効く理由は、まだわかっていない」と話す。解明できれば、ほかのがんにも応用できる可能性があり、精巣がんの研究は世界的にも注目を集めているという。若い患者では、将来子どもを持つことを望んでいる場合が多い。抗がん剤治療を受けると無精子症になる恐れがあるため、希望者には事前に精子を採取し、必要になるときまで凍結保存する。横浜市立大付属市民総合医療センターの湯村寧・生殖医療センター泌尿器科部長(48)は「精子凍結をすることで、若い患者が将来を心配せず、心おきなく治療に専念してもらえる環境を整えることが重要だ」と語る。精子凍結が検討される病気には、精巣がんのほかに、白血病や悪性リンパ腫などがある。国際泌尿器科学会によると、凍結後に融解しや精子は、通常の精子と比べて、運動率が30~60%、受精率は70~75%に低下することが報告されている。(9月5日 朝日新聞 患者を生きる 精巣の摘出 情報編より)

Sep 24, 2015 08:09

祈る思いで「成績発表」
精巣がんで右側の精巣を摘出した神奈川県の男性(37)は今年2月、県立がんセンターで約1年間続いた抗がん剤治療を終えた。ただ、がんの縮小レベルを示す腫瘍マーカーの値は目標まで下がり切らなかった。さらに続ける選択肢もあったが、副作用で手足のしびれが出て、歩くことが困難になってきたため中止した。脳に転移したがんは、抗がん剤治療の効果で消えていた。両肺に転移していたがんが壊死してしているかどうかが当面の焦点となった。肺のがんが壊死していなければ、抗がん剤治療が再開される。それは、再び入院生活が始まることを意味する。判定には、胸腔鏡を使って肺の組織を取らなければならない。体に負担がかかり何度も繰り返すのは困難なため、血液中の腫瘍マーカーの値は限りなくゼロに近づくことが求められる。男性は退院後も月2回、腫瘍マーカーの検査のために病院に通った。5月中旬の検査で、数値がゼロまで近づいてきた。6月始めに肺の組織を取った。精巣がんは、固形がんの中では治る可能性が高いとされる。それでも検査の結果が出るまで、男性は祈る思いで過ごした。「1年間続いた抗がん剤治療の成績発表のような気持でした」。職場に復帰できるのか。子どもたちとまた楽しく過ごせるのか。この検査の結果にかかっている。ふだんは行かない神社に、何度もお参りに通った。約2週間後、結果が出た。採取した肺のはんは、すべて壊死していた。「本当によかったね」。主治医の岸田健さん(52)から声をかけられ、涙がこみ上げた。男性はいま、勤務先の産業医らと職場復帰に向けた話し合いをしている。早ければ9月中にも短時間勤務で仕事を始め、少しずつ勤務時間を延ばしていく予定だ。ときどき職場に顔を出すと、病気を知らない同僚が、丸刈りに近い男性の髪を見て「どうしたの?」と尋ねてくる。男性は笑って「ちょっと反省してきました」と答えている。がんになって、家族との時間をもっと大切にしようと反省してのことだから。(9月4日 朝日新聞 患者を生きる 精巣の摘出より)



Sep 23, 2015 08:26

「つらい治療」の告知
精巣がんと診断され、2014年1月に精巣を摘出した神奈川県の男性(37)は手術から2週間後、県立がんセンターに転院することになった。「ここまで進行した状態では、より専門性の高い抗がん剤治療をしなければ命は救えない」。担当医から転院の理由を説明された。「睾丸が腫れた状態で早く病院に行けばよかった」「初めて血痰が出たときに、なぜ医師に診てもらわなかったのか」。男性は受診が遅れてことを後悔し、自身を責めた。血痰は、精巣から転移したがんが肺の組織を攻撃し、出血したのが原因だった。転院先では泌尿器科部長の岸田健さん(62)が主治医になった。「絶対に治すつもりでやりますから、あなたもがんばってください」と語りかけた。男性は「この先生にすべてをかけてみよう」と前向きな気持になれた。精巣がんの治療は、腫瘍のある精巣を摘出し、その後、転移先のがんを腫瘍マーカーの値を見ながら抗がん剤でたたくのが基本だ。男性は、転院した翌日から抗がん剤治療が始まった。岸田さんから「つらい治療になると覚悟してください」と告げられた。精巣がんは抗がん剤治療で8割の患者が治るが、進行が早く副作用も強いため、治療中に亡くなる可能性もあるという。また、摘出手術を受けた病院と同じように、将来的に子どもを希望するのんら精子を凍結保存する方法があることも説明された。2人の子どもがいるので、必要ないという答えは変らなかった。治療は、標準的な抗がん剤tと別の抗がん剤を、それぞれ1クール3週間で計8クール続けた。腫瘍マーカーの値が目標まで下がらず、さらに別の抗がん剤を1クール3週間で4クール続けた。副作用で髪の毛がすべて抜けた。ただ、吐き気はなく、食事は何とか維持できた。そのため、体重はほとんど減らなかった。クールとクールの間には数日から数週間、自宅に帰ることができた。妻(32)の手料理を子どもと一緒に食べ、英気を養った。「入院中いちばんの楽しみだった」。退院できたのは2015年2月。抗がん剤治療を始めてから1年近くたっていた。(9月3日 朝日新聞 患者を生きる 精巣の摘出より)
Sep 20, 2015 15:13

即日入院、2日後に手術
2014年1月、精巣腫瘍を告げられた神奈川県の男性(37)は、県内の総合病院からすぐに妻(32)の携帯電話に連絡した。「僕はしっかりしているから心配しないで」。診断書を持って勤務先に行き、上司に「がんの疑いが強いと診断されまして、今から入院することになりました」と説明した。上司は「しっかり治してください。仕事のほうは何とかします」と励ましてくれた。病院に戻り、そのまま入院。妻が身の回りの物を届けてくれた。ベッドに横になり、スマートフォンで「精巣がん」について調べた。告知の時はどこか上の空で、医師が言った内容がよく理解できていなかった。国立がん研究センターなどのサイトを見ると、精巣腫瘍になるのは10万人に1人で、9割が悪性と書かれていた。20~30代に発病のピークがあり、発病の原因はわかっていないということだった。精巣腫瘍は非常に進行が早いため、手術は2日後と決まった。腫瘍のある右側の精巣だけを摘出し、異常のない左側は残すことになった。ただ、抗がん剤治療によって無精子症になる可能性があり、これから子どもを希望するのなら、治療前に精子を採取して凍結保存することもできると、医師から言われた。男性は妻と相談し、すでに子どもが2人いることから、精子凍結をする必要はないと答えた。体のどこにも痛みはなかった。食欲もある。体調はふだんと変らないのに、自分は病院のベッドの上にいる。「今朝まで自宅で妻子と過ごしていたのに・・・」。薬剤の点滴が始まり、絶食となった。ベッドの横に掲げられた「禁食中」の札を見ると、いよいよ手術が始まることを思い知らされた。当日、手術は1時間ほどで終了した。手術後の病理検査の結果、摘出した精巣の腫瘍は、がんと確定した。肺への転移だけでなく、腹部のリンパ節、脳への転移も確認された。進行した状態のステージ3Cと診断された。それでも、男性は妻子のために気持を奮い立たせた。「絶対に生きてやる」。(9月2日 朝日新聞 患者を生きる 精巣の摘出より)
Sep 19, 2015 07:52

腫れ 半年でこぶし大に
神奈川県に住む会社員の男性(37)は2013年12月下旬の深夜、就寝中にのどに異変を感じ、目をさました。洗面所に駆け込み、血痰を吐いた。洗面台に赤い血が広がった。悪い夢を見ているような気分だった。そして、急に息苦しさを覚え、その場にうずくまった。しばらくすると息苦しさが消えたため、そのまま寝てしまった。年が明けた1月上旬、未明に再び血を吐いた。しばらくの間、息を吸うことも吐くこともできず、細いストローを通して呼吸しているようだった。妻(32)も心配し、近所に内科医院が開くのを待って受診した。見せられたX線写真には、両肺に白い影が写っていた。「大きな病院で診てもらったほうがいいでしょう、紹介状を書くので、すぐに行ってください」。医師の顔が引きつっているように見えた。その日のうちに、県内の総合病院を訪ねた。「もしかして、睾丸が腫れていませんか」。診察を受けた呼吸器内科で聞かれた。「実は、腫れています」。右側が、こぶしぐらいの大きさに膨らんでいた。半年ほど前から腫れ始め、少しずつ硬くもなったいた。「こんなに大きくなって邪魔だったでしょう」。医師に聞かれ、男性は「痛みが全然なかったので、そのままにしていました。場所が場所だけに恥ずかしかったんです」と答えた。若くて健康そうな男性の肺に異常が出た場合、精巣腫瘍の肺転移が可能性の一つとして疑われる。泌尿器科で血液検査や超音波検査、CT検査などを受けた後、医師から「精巣に悪性の腫瘍、つまり、がんができている疑いが強いです」と告げられた。妻と2人の子どもたちの将来はどうなってしまうのか。そんな不安が、まず頭をよぎった。続いて、こんな年齢でもがんになるのかと、信じられない気持がわき上がってきた。医師からは、さらにこう説明された。「精巣腫瘍は1日単位で進行することがあるので、できるだけ早く手術をします。今日から入院してもらいます」。(9月1日 朝日新聞 患者を生きる 精巣の摘出より)
Sep 18, 2015 07:59

まだ少ない機器の導入
腎臓にできるがんの大半は、尿をつくる尿細管にできる腎がん(腎細胞がん)だ。このほか、尿が流れる通路にできる腎盂がんもある。腎がんの患者は男性に多く、50代以降に増える。初期症状はほとんどないことが多いが、血尿などの症状がある人もいる。東京女子医科大泌尿器科の近藤恒徳准教授(49)によると、治療の基本は、手術でがんを取り除くこと。がんの大きさや位置によって、がんがある側の腎臓全体を摘出する「根治的腎摘除術」と、部分的に取り除く「腎部分切除術」とがある。近藤さんは「部分切除のほうが、腎機能が低下するリシクはより低い」と話す。腹腔鏡手術の場合、最近は自由診療で、手術支援ロボット「ダヴィンチ」を使うケースが増えてきているという。連載で紹介した栃木県真岡市の田口成一さん(88)のように心臓や肺などの機能が低下した高齢患者のケースでは、全身麻酔による手術の負担が大きく、経過観察をする例も増えている。田口さんの受けた凍結療法は局所麻酔で行われる。体の外から腫瘍に直径約1.5モリの針を刺し、針の先端を高圧ガスで冷やして凍結させる。凍結と解凍を2度繰り返すとがん細胞は壊れる。2011年に4センチ以下程度の小さい腎がんを対象に保険適用された。日本泌尿器科学界の診療ガイドラインでは、全身麻酔や合併症で手術などの根治的な治療が困難な場合に推奨される、とする。年間50例ほどの治療実績がある国立がん研究センター中央病院の院長でIVR(画像下治療)センター長の荒井保明さん(62)は「治療中の痛みがなく、傷痕も小さい。小さな腎がんの治療法として重要な選択肢だ」と話す。欧米では10年以上前からあり、肝臓や肺などのがんに対しても使われているという。荒井さんは「抗がん剤や放射線が効かなくなった進行がんの患者に対して、腫瘍による痛みを和らげる緩和治療としての可能性もある」と話す。一方、針を刺すことで、出血やしびれが残るリスクがあり、場合によっては治療が難しいケースもある。現状では、治療に使う医療機器を導入している国内の医療機関は約10施設に限られている。(8月29日 朝日新聞 患者を生きる 腎臓の凍結 情報編より)
Sep 15, 2015 08:07

背中側から針4本
腎がんの「凍結療法」を受けるため、栃木県真岡市の田口成一さん(88)は2014年12月初め、茨城県立中央病院(笠間市)に入院した。治療室の寝台に手術着1枚でうつぶせになった。治療は局所麻酔で行われ、意識ははっきりとしていた。左腰に麻酔の注射を打つ時だけ痛みを感じた。凍結に使う針を刺す治療は、CT画像で患部の状態を確認しながら進められた。腎臓の位置は、息を吸ったり吐いたりするたび上下に動く。そのため、患者が息を止めている数秒の間に針を刺す必要がある。「息を吸って。はい、止めて」。田口さんは主治医の児山健さん(39)の呼びかけ通りに、何度も呼吸を凝り返した。途中で首がしびれて痛くなったが、体を動かさないように言われた。大きさ約3.5センチのがんに対して、背中側から計4本の針を刺した。針を刺すまでの準備と凍結とで合わせて約3時間かかった。治療が終わると、気が抜けたせいか、急に寒気で震えが止まらなくなった。電気毛布で体を温めてもらった。翌朝は通常の病院食を食べ、5日後に退院した。CT検査で、がん細胞が死滅したことが確認できたという。左腰や足の付け根あたりにしびれのような違和感があったが、次第に改善している。数ヶ月に一度、尿や血液の検査、CT検査を受けており、経過は良好だ。現在、がんの凍結療法は小さい腎がんに対してのみ保険適用される。高齢者あったこともあり、最終的に自己負担は数万円で済んだ。「保険が適用されていなかったら、この治療を選べなかったかもしれない」とも感じた。治療後、スポーツや老人会の集まりで再び忙しい日々を送る。同世代の人たちには「腎がんになって、凍結療法を受けました」と折に触れて話している。興味を示す人も多く、「詳しく教えて」と声をかけられることもある。90年近く生きてくれば、いろいろな思いをするが、病気で治療法がないというのは、精神的にかなりきつい経験だった。「この治療法や、信頼できる医師に出会えたことは、ありがたい巡り合わせだった」とかみしめている。(8月28日 朝日新聞 患者を生きる 腎臓の凍結より)
Sep 14, 2015 09:01

説明聞き即決 前向きに
栃木県真岡市の田口成一さん(88)は2014年10月、手術が難しい高齢者でも受けられる腎がんの「凍結療法」があると聞き、自宅から車で1時間ほどの茨城県立中央病院(笠間市)を受診した。凍結療法を担当するのは放射線診断科医長でIVR(画像下治療)専門医の児山健さん(39)。第一印象は「こんなに若くて大丈夫かな」だった。だが、腎臓の絵を描きながら、熱心に説明する児山さんの話を聞くうちに、頼もしい印象に変った。凍結療法では、専用の医療機器を使う。CT画像で体内のがんの位置を確認しながら、直径約1.5ミリの針を背中側から刺す。針の先端部に高圧のアルゴンガスを流して冷やし、がん細胞をマイナス40~マイナス20度程度に凍らせる。15分間凍らせた後、5分間解凍し、再び15分間凍らせる。二度凍らせることで、がん細胞を壊死させるという。凍結療法は2011年から、4センチ程度以下の小さい腎がんを対象に保険が適用されている。田口さんの左の腎臓のがんは約3.5センチ。児山さんは、「大きさも保険診療の対象になり、がんがある場所も治療しやすい」と説明した。ただ、治療後に血尿などの合併症が起こる可能性もあるという話もした。その日は説明を聞くだけで帰る予定だったが、自分や付き添った家族の質問にも丁寧に答える児山さんの様子に、田口さんは「この先生に治療してもらったら間違いない」と確信した。「元気なうちに早く治療をしてください」。そう希望を伝えた。「こちらの病院で凍結療法を受けた患者の最高齢は?」。田口さんの質問に、児山さんは「82歳です」と答えた。「じゃあ、私が最高齢になりますね」。そんなやりとりができる心の余裕も生まれた。2020年の東京五輪を見たい。リニア新幹線にも乗ってみたい。「手立てがない」と言われて落ち込んでいた気持が、治療の見通しがついたことで、一気に前向きになった。「まだ生きる希望がある」。初めて受ける治療に不安もあったが、「この治療法がだめなら、それが寿命だ」と腹をくくった。(8月27日 朝日新聞 患者を生きる 腎臓の凍結より)
Sep 12, 2015 07:58

めいが見つけた治療法
栃木県真岡市の田口成一さん(88)は2014年、左腎臓にがんが見つかった。病院から肺機能の低下などを理由に手術できないと言われ、「さじを投げられた」と感じた。だが、近所に住む臨床検査技師のめい(54)は、あきらめきれなかった。めいは2歳の時、父親を心不全で亡くした。田口さんには、いとこたちと一緒にスキーや牧場に連れて行ってもらった。家にもよく泊まりに行った。小学生で盲腸になった時は、田口さんが病院まで駆けつけてくれた。17年前、同い年だった田口さんの次女が、乳がんのため37歳で亡くなった。「医療関係者である自分がもっと力になれたのではないか」と、悔いが残っていた。「もうあんな後悔は味わいたくない。このままおじさんにいなくなられてしまうのは嫌だ」。医師が言うように、体にメスを入れるよりも、このまま様子を見るのも選択肢なのだろう。でも腎がんが転移する場合は、肺が多いという。結果の治療で右肺の機能を失った田口さんの左肺にもし転移したら、かなり苦しい思いをするのではないか。「もし手立てがあるなら、治療を受けて欲しい」。そう思った。めいは毎晩、仕事から帰ると、ネットで治療法を調べた。数日後、「腎がん」「高齢」で検索すると、「凍結療法」という文字がッ目に入った。超低温にした針を使い、CTでがんの位置を確認しながら、がん細胞を凍結させる治療法だという。「体の負担が少ない」と説明されていた。治療施設は全国でも限られるが、田口さんの自宅から比較的近い茨城県立中央病院(笠間市)で治療を行っているらしい。病院のホームページには「高齢で通常の手術が困難な患者」に対しても治療のできる可能性があるとあった。「おじさんにぴったりだ。開腹手術が無理なら、これしかない」。「凍結療法っておうのがあるの。説明を聞きに行かない?」。めいの言葉に、田口さんは「それでがんを殺せるのか」と半信半疑だった。だが、手術を受けられない自分にとっては、「渡りに船」だとも感じた。すぐに診察の予約を入れた。(8月26日 朝日新聞 患者を生きる 腎臓の凍結より)
Sep 11, 2015 07:50

手術できず「見放された」
栃木県真岡市の田口成一さん(88)は2014年、カレンダーが毎日予定で埋まるほど忙しい日々を過ごしていた。ゲートボールを週に3回。週2回のグラウンドゴルフは競技団体の役員として大会の運営にたずさわった。フランス発祥の球技「ペタンク」の練習も週1回あり、地域の老人会の会長も務めていた。8月、胃腸薬などをもらうため、毎日通う近所のかかりつけ医からこう言われた。「今日は顔色が悪いな。血液検査をしませんか」。検査の結果、輸血が必要なほどの貧血状態だとわかった。後日、妻のとくさん(81)や長女の付き添いで、近くの総合病院を受診した。貧血の原因を調べるため、胃カメラと大腸内視鏡検査、CT検査を受けた。CT検査の結果、思いがけず異変が見つかった。「左の腎臓に3.5センチ大の腫瘍があります」。腫瘍は悪性で、がんだという。「がんなのか。俺も現代病になったのか」。約60年前、肺結核にかかった。治療で肋骨7本を切除し、右肺の機能を失った。入院は1年間に及んだ。「がんの治療といっても、あのときに比べれば、まだましだろう」。そんな思いがよぎった。この総合病院では、「経過観察で、しばらく様子をみる」という。積極的な治療をしたい、と別の総合病院に紹介状を書いてもらった。だが、紹介先の病院の泌尿器科でも、「開腹手術は難しい」と言われた。腎がんの中心的な治療は手術だが、田口さんは高齢で、肺活量も少なく、全身麻酔による手術はリスクが高いという。「手術に踏み切っても、麻酔から目が覚めない恐れがあります」と説明された。「年齢的にがんの進行は遅い。治療をしないでも生活に支障なく、4,5年は過ごせるでしょう。「90歳近くになれば、しょうがないのか」とあきらめる気持もあった。でも、仲間とのスポーツやお酒、旅行も楽しみたい。まだやりたいことが山ほどあった。「治療をしないということは死を待つようなものだ」。病院から見放されたように感じ、落ち込んだ。(8月25日 朝日新聞 患者を生きる 腎臓の凍結より)
Sep 09, 2015 09:37

特殊な化学療法で温存も
膀胱がんは膀胱内側の表面にある粘膜にでき、その下の筋層、しょう膜と外側に向かって進む。がんが粘膜にとどまっている早期は、尿道から内視鏡を通して削り取る方法で治る。がんが筋層まで進み、転移がなければ、膀胱を取る全摘手術が標準治療だ。だが、全摘しても、再発や転移などで約半数が亡くなるという。大阪医科大の東治人教授(52)は全摘でも再発するのは「転移が見つからなくても実際にはがん細胞が膀胱以外に広がっているから」と説明する。また、連載で紹介した有川勝己さん(41)のようにリンパ節などに転移がある場合は手術せず、放射線療法が原則だ。全摘手術が標準治療になる患者でも、手術できない場合や膀胱の温存を希望した場合には、温存療法が選択肢になる。大阪医科大や筑波大などがそれぞれの特殊な技術で実施している。ただし、がんの状態によって温存療法ができないこともある。通常の化学療法は、抗がん剤の点滴薬を静脈から入れる。抗がん剤は心臓を通って全身の動脈に回るため、膀胱に達するのは全体の一部だ。そこで、東さんらは膀胱のすぐ上流の動脈を風船でふさいで血流を止め、高濃度の抗がん剤を直接流し込む「バルーン塞栓動脈内抗がん剤投与法(BOAI)を開発した。高濃度の抗がん剤が全身に回らないよう透析装置を使って取り除くので、副作用は少ない。膀胱がんは、この方法に都合のいい条件がそろっている。膀胱は動脈の下流にあるので、血液を止めてもほかの臓器に損傷を与えない。膀胱がんは抗がん剤の効果が高く、また膀胱自体が原始的な臓器で激しいダメージを受けても機能は戻る。全摘手術の138人では10年後の生存率が約50%だったのが、BOAIに放射線療法などを組み合わせた温存療法の163人では約80%と高かったという。だが、保険で認められている抗がん剤の使用法は静脈から。適用外のBOAIはこの治療だけで約100万円が自己負担になる。保険適用の申請には治験が必要で、製薬企業に利益がないため、実現は難しいという。(8月22日 朝日新聞 患者を生きる 膀胱取らずに治す 情報編より)
Sep 08, 2015 08:05

感情抑えて前向きに
2年前、大阪医科大で膀胱がんの温存療法を受けた奈良県の有川勝己さん(41)は最後の治療から約半年後の2013年10月、検査のため入院した。11月、結果を聞くために、病院をたずねた。主治医の東治人教授(52)から「結果は順調」と伝えられた。がんは見つからなかったという。半年後の検査も順調だったが、昨年7月、血尿が出た。膀胱鏡で、膀胱の中を調べて再発が疑われたため、入院。内視鏡で細胞を取って検査した。結果を聞きに行くと、東さんは「がん細胞はなかった。大丈夫」と一言。きつねにつままれたような気分だった。「本当に大丈夫ですか」と聞き返した。「なんで、ウソつかなあかんの」。診断は膀胱炎だった。今年4月、再び血尿が出た。だが、膀胱鏡などの検査結果は異常なし。「放射線治療などで膀胱が硬くなっているから、こういうこともある」と説明された。「自分はこんなにがんばっているのに、どうして」。再発かもしれないと思ったときはショックで、昔のように怒りに包まれそうになった。だが、以前とは違う。感情をコントロールするすべを覚えたからだ。退院後、人が変ったように穏かになった、とよく言われる。妻の由佳理さん(42)も「今まで『ありがとう』なんて言われたことはなかったんですが、よく言われるようになりました」という。イライラして日に3箱も吸っていたたばこは、「膀胱がんになる可能性を高める」と聞いてから、きっぱりとやめた。以前のようにたやすくカっとなって他人を怒鳴ることも影を潜めた。「自分が入院して不在の間も、業績を下げずにがんばってくれた従業員には、感謝の気持しかありません」。前から趣味だった旅行でも変化があった。以前は、行くこと自体が目的で、そのために一生懸命働いているようなところがあった。いまはじっくりと景色を眺め、何かを感じられるようになった。「反省して、前向きになってこれからもこの繰り返しで、病気と付き合っていくと思います」。(8月21日 朝日新聞 患者を生きる 膀胱取らずに治す より)
Sep 07, 2015 09:36

命縮めても全摘しない
3年前の10月、進行した膀胱がんと診断された奈良県の有川勝己さん(41)は翌日、地元の病院に入院した。全摘手術を前提とした化学療法を受けるためだった。「寿命を縮めてでも膀胱を取りたくない」。そう訴える有川さんのため、妻の由佳理さん(42)は「温存療法」に力を入れている大阪医科大の東治人教授(52)を訪ねた。外来で6時間半待っているうちに感情がこみ上げてきた。涙があふれてうまく話せず、付き添いの友人がほとんど事情を説明した。「大丈夫です」と言う東さんが頼もしかった。退院した有川さん自身が12月に大阪医科大を受診した。東さんは「大丈夫、大丈夫。治る、治る」と告げた。その言い方があまりにもあっさりしていたこともあり、治療を託したいと思った。当時は転移がある患者の治療例がまだ少なく、効果は未知数だった。それでも、東さんは「前向きに治療に臨んでもらえるような言葉をかけるようにしています」という。東さんらの温存療法は膀胱の上流にある動脈の血流を止め、通常の数倍になる高濃度な抗がん剤を1時間ほど流し込む。血液が来ない酸欠状態と抗がん剤の両方で、がん細胞を徹底的にたたく。この治療法を受ける前に、通常の化学療法をさらに2回受けることになった。「いつになったら、本来の治療を受けられるんだろう」。入院生活が長くなるにつれ、心がすさんできた。「うるさい、帰れ」「君らは生きる目的があるからいいよな」。病室に見舞いに来た由佳理さんや子どもたちにあたった。がんだと聞かされていない子どもたちはなぜ叱られたのかわからず、戸惑うばかり。由佳理さんは泣きながら、「全摘手術を受けていれば入院は終わっていた。そのほうがよかったかも」と思った。一人になると、有川さんは「言い過ぎた」と後悔した。一方で「そうは言ってもしょせん家族でもこの苦しみはわからないよな」とも思った。東さんのことは信じていたが、果たしてうまくいくかどうかわからない。不安に襲われ、精神的に最悪の状態だった。(8月19日 朝日新聞 患者を生きる 膀胱取らずに治す より)
Sep 04, 2015 07:54

尿が真っ赤に染まった
2012年の10月、奈良県の有川勝己さん(41)は経営すと設備関係の会社で外のやぶを何とはなしに眺めながら用を足していた。「わーっ。なんや。これー」。下を向くと、尿が真っ赤に染まっていた。すぐに従業員を呼ぶ。「ただごとじゃない。すぐ病院に行ったほうがいい」と言われた。翌日、自宅近くの総合病院を受診した。膀胱鏡とCT、MRIの検査を受けた。痛みも自覚症状もない。有川さんは知らなかったが、突然、血尿が出るのが膀胱がんの特長だ。「仕事先とかいろいろなところに迷惑をかけたくない」。検査結果が出る前から目の前が真っ暗になった。妻の由佳理さん(42)も呼ばれ、膀胱がんと宣告された。それもリンパ節に転移があるステージ4の進行したがん。覚悟はしていたが、衝撃だった。由佳理さんは「まだ30代の夫が、まさかがんになるなんて」と激しく動揺した。転移がないステージ2、3では膀胱を取る全摘手術が標準治療だ。通常は手術をしないステージ4でも、化学療法がよく効く患者の場合は「全摘」を検討する。有川さんには化学療法を試した後に全摘という方針が伝えられた。全摘しても治るかどうかは半々との説明だった。化学療法を受けるため、11月に入院した。病室には由佳理さんのママ友たちが折ってくれた千羽鶴が飾られた。「まだ38なのに膀胱がなくなるのか」。膀胱がなくなると、かわりの袋を付けることになる。「昔ほど不便じゃない」と医師から説明を受けたが抵抗はあった。病室で「パパはどうしたいの?」とたずねる由佳理さんに「膀胱を取りたくない」と訴えた。由佳理さんや親族たちは全摘手術を受けてほしいと思っていた。だが、有川さんの意思は固かった。由佳理さんは元看護師の友人から「そういうときは、セカンドオピニオンを聞くという手段がある」と助言された。由佳理さんが友人とネットなどを調べているうちに大阪医科大の東治人教授(52)らが膀胱の温存手術をしていることを知った。入院中の有川さんに代わり、由佳理さんらが会いにいくことになった。(8月18日 朝日新聞 患者を生きる 膀胱取らずに治す より)
Sep 03, 2015 08:14

術後の悩み 分かるから
乳がんをテーマにした連載には、体験者から入浴や肌着への悩みが届きました。 ●入浴着を着て温泉入ろう 2014年12月に左乳房を全摘しました。ステージ2でした。術後の経過はよく、今年2月からは筋トレ教室、社交ダンス、ウオーキングを復活。がんになった後は「やりたいことはやれるうちに」という考え方に変わりました。ただ、最後まで復活できなかったのが温泉です。乳がんの手術を受けた女性のための入浴着があることを知り、ネットで購入しました。浴槽につけても衛生的に問題がないとされ、手術痕を隠してくれます。温泉側の態度も少しずつ変ってきているようです。信州の温泉の中には、「入浴着の着用を歓迎します」というポスターを貼っているところもあると聞きます。先日行った雲仙の老舗y旅館では、入浴着について「どうぞ、お気になさらずに」と言ってくれました。乳がん患者が声を上げれば、各地の温泉施設で同じようなポスターが見られる日が来るかもしれません。(長崎県 女性 79歳) ●患者用ブラの会社を起業 2011年3月、両乳房の温存手術を受け、ブラジャー選びに大変困りました。リンパ節転移を調べるため、わきにもメスを入れられたので、その傷痕に下着がこすれて痛いのです。多くの乳がん患者が同じ悩みを感じているはずです。しかし、その点を配慮したブラジャーはなかなかありません。大手メーカーに電話や手紙で問い合わせたり、ネットで調べたお店に尋ねたりしましたが、思い通りの製品に出会えませんでした。医師からはワイヤ付きのブラジャーはだめだと言われましたが、皮膚が落ち着けば大丈夫ですし、若い人ならばおそろいのショーツでおしゃれをしたいと思うでしょう。手術後に手が上がらなければ、手を上げずに下から身につけられる下着があればいいのです。乳がん患者の、乳がん患者による、乳がん患者のためのブラジャーが少なすぎます。今年6月、二十数年勤めた会社をやめ、乳がん患者のためのブラジャーの会社を起業しました。京都府 中村真由美 50代 (8月15日 朝日新聞 患者を生きる 読者編より)
Sep 01, 2015 08:44

テレビきっかけに受診
連載では、「ただのほくろ」と見逃されがちなメラノーマ(悪性黒色腫)も取り上げました。体験者から届いた声を紹介します。 ●おしりのほくろ「似てる」 6年前のことです。家族でメラノーマについてのテレビ番組を見ていた時、娘から「お母さんのおしりのほくろに似ている」と言われました。自分では見えづらく、それまでは放置していたのですが、皮膚科に行くことにしました。念のため検査を受け、10日後に結果を聞きに行ったところ、「すぐに大きな病院へ」と告げられました。結果はメラノーマでした。がん細胞が散らばる可能性があるそうで、こぶしぐらいの大きさのかたまりをおしりから切除しました。足の付け根のリンパ節も取り、おなかの皮膚をおしりの切除部分に移植しました。おしり、足の付け根、おなかの3カ所に傷ができ、手術直後はまったく歩けなくなりました。手術から5年以上が経過し、今は友達や家族と旅行などを楽しんでいます。生きていることの喜びを感じています。「あの時のテレビ番組を見た娘の一言があったからこそ、今がある」。そう感じる毎日です。(兵庫県 女性 49歳) ●後遺症なく元気に 足の裏に変なしみがあるな」と、ずっと思っていました。ある日、テレビ番組でメラノーマというがんを知り、不安になって病院へ行きました。当時の医師の説明によると、輪郭がいびつだったことが、メラノーマを疑う決め手になったそうです。私のメラノーマは、幸いにも表面だけで小さいものだったので、手術で治りました。やはり、できるだけ早くに病院に行くことが大切だと知りました。私は45歳で乳がん、56歳でメラノーマ、そして61歳で大腸がんと、がんを3回経験しました。すべて早期発見だったことや、すばらしい医師に巡り合えたことで、後遺症もなく元気に毎日を過ごしています。還暦を過ぎましたが、これだけがんと闘ったのだから、この先はよいことが待っているに違いないと思っています。茨城県 女性 62歳 (8月14日 朝日新聞 患者を生きる 読者編より)
Aug 29, 2015 07:59

体調悪くても悲観せず
がんの中で日本人に多い胃がん。胃がんをテーマにした連載は、手術後の暮らしぶりをつづった便りが寄せられました。 ●主治医の言葉が支えに 36歳の時に黒い便が出て、病院で検査を受けると即日入院となり、数日後に胃がんと診断されました。3人目の子どもを産んですぐ復職したこともあり、忙しさゆえの調子の悪さと思っていました。最終的にはスキルス胃がんとわかり、胃を全摘しました。食事は全がゆからのスタートでした。恐る恐る時間をかけて口にしていました。そのうちに、病院の売店で買ったカステラを一口二口と食べられるようになっていきました。退院の日、夫が「仕事はやめてもらって養生させます」と主治医に伝えたところ、「養生なんてとんでもない。むしろがんばってほしい」と励まされました。胃をなくして12年、今は障害者の自立生活センターでコーディネーターを務めています。体調がすぐれないときもありますが、悲観しないようにしています。主治医の「がんばってほしい」という言葉が支えになっています。(静岡県 女性 48歳) ●看護師として体験生かしたい 私は今、再発の恐怖の中にいます。手術から4年目。胃がんが見つかったのは、待望の子どもが生まれて3カ月になる時でした。早期がんだったので、手術後は経過観察をしています。告知の時は、この子を何歳まで育てられるだろうかと泣き崩れました。看護師としてホスピス病棟で勤務したことがあり、どんなに闘っても、どんなに頑張っても、がんで人生を終えた患者さんを見てきました。「自分は何とかなる」とは到底思えませんでした。今でも前向きに、毎日を楽しく大切にと思う一方で、再発と死が頭をよぎらない日はありません。ただ、がんになって初めて、患者さんの思いを知ることができました。告知、入院、手術、それにがん患者として生きていくことは、看護師として働いていた時の想像をはるかに超えていました。これからも看護師を続けていく中で、がんの体験を少しでも患者さんに還元したいと思っています。秋田県 渡部美郷 41歳 (8月13日 朝日新聞 患者を生きる 読者編より)
Aug 28, 2015 07:53

医師との対話 心に残る
●忘れぬ医師の手の温かさ 8年前、子宮体がんで子宮と卵巣を摘出しました。いつも生理2日目には出血が多く、仕事になりませんでした。地元の産婦人科では「子宮筋腫」と言われ、信じていました。しかし、あまりに状態がおかしいと感じ、別の病院で検査をしてもらうと、子宮体がんとわかりました。医師からは「こんなに早期に見つかるのは珍しい」と言われましたが、「今後のためには子宮と卵巣は摘出したほうがよい」と勧められました。約5時間の手術は成功しました。ただ、わずかに筋肉までがん細胞が達していたため、いつ再発するのか不安でした。医師は「順調ですよ。これからは自分自身でがんばってください」と、私の手を握ってくれました。あの手の温かさは一生忘れません。これからも定期的なCT検査は続くと思いますが、何事もなく順調です。いろんな人のおかげで今日があり、生かされている。そう感謝する毎日です。(福井県 松下笑佳 47歳) ●想像越す抗がん剤のつらさ 今春、突然の腹痛で救急搬送され、卵巣がんとわかりました。両卵巣、卵管、子宮などを摘出しました。手術後、卵巣を調べると、明細胞がんの1A期でした。医師から抗がん剤治療が6回必要と言われました。しかし、1回打った抗がん剤のつらさは想像を絶し、中止しました。全身の痛さやしびれで、生活の質が低下しました。食欲はなく、家に閉じこもりがちになり、前向きに生きる気力もなくなりました。医師は「ガイドラインでそうなっているから、抗がん剤は必要」と説明するだけでした。がんの再発を防ぐ方法は抗がん剤しかないのでしょうか。再発防止のためなら、副作用による生活の質の低下は仕方ないのでしょうか。多くのがん患者からお話を聞きましたが、みな抗がん剤で生活の質が低下することを語っておられ、疑問を感じています。抗がん剤以外のホルモン療法や漢方薬などの研究をもっと進めてもらいたいと思います。大阪府 女性 54歳。(8月12日 朝日新聞 患者を生きる 読者編より)
Aug 27, 2015 08:10

味覚喪失 10年の思い
●「必ず治る」の言葉に勇気 大橋巨泉さんが出演するテレビ番組を偶然見たのは昨年の春でした。舌がんで入院中だった私は、放射線治療による口内炎や味覚障害の副作用に苦しんでいました。巨泉さんは自ら受けた放射線治療と味覚障害の体験をもとに、こう言われました。「今、同じように治療されて苦しんでいる方、本当に大変でしょう。わかります。でも、必ず治ります。がんばってください」。まるで、ベッドの上で苦しむ私のために言ってくれているような言葉でした。私は当時、副作用のあまりのつらさから、医師や看護師の「大丈夫、治りますよ」という励ましにさえ、疑心暗鬼になっていました。巨泉さんの言葉にどれだけ勇気をもらい、前向きな気持になれたことでしょう。今は退院して1年が過ぎ、味覚も回復に向かっております。(埼玉県 女性 71歳) ●毎日の食事楽しめず 味覚と嗅覚をなくして10年になります。結腸がんの治療で抗がん剤を使い始めて3カ月ほどで、いずれも感じなくなりました。抗がん剤の影響ではないかと思っていますが、医師もはっきりとした原因はわからないようです。味覚や嗅覚の喪失は外見からはわからず、そのつらさは他人にはなかなか理解してもらえません。慣れてきたとはいえ不便で、毎日の食事も楽しくありません。味覚と嗅覚がなくなると、それにかかわる記憶も薄れるように思います。「この前行ったあのお店、おいしかったですね」「このお酒、以前もいただきましたね」と言われても、思い出せなかったり覚えてなかったりします。巨泉さんの連載では、放射線治療に伴う味覚の喪失について紹介されていましたが、こうしたことが広く知られることは、とても意義があると思いました。東京都 岩本武史 52歳 (8月11日 朝日新聞 患者を生きる 読者編より)
Aug 26, 2015 07:43

服用継続へ早めのケアを
肺がんの中でも「腺がん」は、男性で4割、女性で7割を占め、最も患者数が多い。患者の約半数は、がん組織を調べると、細胞の増殖に関わる「EGFR]というたんぱく質の遺伝子に変異が見られる。変異が起こる原因はわかっていない。EGFRの異常な働きを抑える分子標的薬のEGFR阻害剤には「ゲフィチニブ(販売名イレッサ)」や「エルロチニブ」、「アファチニブ」がある。いずれも進行して手術ができないか、再発した患者が処方の対象となる。従来の抗がん剤のような脱毛や白血球の減少に悩まされない代わりに、皮膚障害や下痢などの副作用が目立つ。皮膚障害は7~9割の人が経験する。EGFRはがん細胞だけでなく、細胞の増殖が活発な皮膚や爪、粘膜などにも多く、影響を受けやすいからだ。連載で紹介した渡辺久子さん(68)のように、薬を飲み始めて1~2週間後に目立つのが、顔や胸、背中などにできるニキビのような湿疹だ。かゆみを伴うこともある。治療には炎症を抑えるステロイド軟膏を使う。症状が重いと抗生物質を服用することもある。和歌山県立医科大学呼吸器内科・腫瘍内科の山本信之教授(53)は「EGFR阻害剤は、湿疹が出る人ほどよく効くとされている。湿疹で治療をあきらめるのではなく、継続できるようケアすることが大切だ」と話す。服用後6週間ほどすると、爪の生え際が赤くなって腫れる「爪囲炎」が起こりやすい。アファチニブを服用する人に特に多い。爪に力が加わると痛みが強くなり、歩きづらくなる。爪が食い込むのを避けるため、テーピングで皮膚を保護することが有効だ。国立がん研究センター中央病院皮膚腫瘍科の堤田新医長(50)は「症状が出る前から、皮膚の潤いと清潔を保って予防することが、症状の軽減につながる」と話す。分子標的薬は初めは良く効いても、いずれがん細胞が耐性を持って再び症状は進行する。国内で治験が進む新しいEGFR阻害剤は、従来の薬剤に耐性ができた人にも効くと期待される。がん細胞にだけ効果を発揮する仕組みのため、皮膚などへの副作用も少ないとされる。(8月8日 朝日新聞 患者を生きる 副作用と向き合う 情報編より)
Aug 25, 2015 08:36

効果実感し、続けられた
肺がんの転移が見つかった神奈川県の主婦渡辺久子さん(68)は2010年、分子標的薬「アファチニブ」の臨床試験(治験)に参加し、新薬を飲むことになった。この薬は同じタイプの従来の薬より効果が高いとされる一方、副作用が強いことが指摘されていた。渡辺さんを特に悩ませたのが、体中にできた湿疹。水ぶくれがつぶれてべとつき、下着や枕が汚れた。ひどいかゆみで眠れず、睡眠薬を飲むほどだった。治験で毎日服用したのは1錠40ミリグラム。神奈川県立循環器呼吸器病センター(横浜市)の主治医、加藤晃史さん(50)は「薬の量が多すぎる」と判断。服用を2週間休み、段階的に30ミリグラム、20ミリグラムと減らしてみた。渡辺さんは皮膚科の医師に相談して、かゆみ止めの薬やステロイドの塗り薬を処方してもらい、乾燥を防ぐ保湿剤を塗った。副作用の対策と薬の減量とで、湿疹とかゆみは次第に落ち着いた。渡辺さんは効果が落ちることを心配したが、加藤さんは「むしろ適正な量ですよ」と励ました。つらい副作用に耐えて治療を続けられたのは、薬の効果が実感できたからだった。CT撮影するたびに腫瘍は徐々に小さくなり、腫瘍マーカーの値も下がった。結果を聞くたび、「薬の効き目が長く続きますように」と祈った。薬を飲み始めて1カ月が過ぎた頃、今度は手足の爪の周りが炎症を起こす「爪囲炎」にもなった。爪の周りの肉が盛り上がり、赤く腫れて痛んだ。痛みのせいで靴を履けず、冬でもサンダルで外出するほどだった。テーピングで皮膚を保護し、痛みを防いだ。分子標的薬には使っているうちに薬が効かなくなる「薬剤耐性」が起きる。縮小していた腫瘍が再び大きくなり始め、薬の効果が見られなくなった2013年8月に治験の参加を終えた。薬の服用は3年5カ月続いた。加藤さんは「本人が皮膚のケアに熱心に取り組んだからこそ長く続けられた」と話す。がんが見つかったのが2008年。渡辺さんは「振興した肺がんで、まさか7年も元気でいられるとは思っていなかった」という。今年の春からまた新たな抗がん剤の治験に参加し、がんと闘い続けている。(8月7日 朝日新聞 患者を生きる 副作用と向き合うより)


Aug 24, 2015 08:05

かゆくて眠れない
2010年に肺がんの転移が見つかった神奈川県の主婦渡辺久子さん(68)は、腫瘍を小さくする効果がある新薬の臨床試験(治験)に参加することにした。渡辺さんのがんは、がん細胞が増殖する時に必要な「EGFR]と呼ばれる遺伝子に変異があるタイプだった。当時、分子標的薬の「ゲフィチニブ(販売名イレッサ)」か「エルロチニブ」を服用するのが標準的な治療だった。新薬の「アフィチニブ」はさらに効果があると期待され、従来の抗がん剤による治療と比べて有効性を確かめる段階の試験だった。3月に神奈川県立循環器呼吸器病センター(横浜市)に入院した。渡辺さんは新薬を飲むことに決まった。毎朝、薬を1錠飲んだ。「薬を飲むだけで、3週間も入院なんて」。当初、そう感じたが、3日目から下痢の副作用が始まった。1日、4、5回ある。48キロあった体重が、3週間で43キロに落ちた。さらに、口内炎や口のはしが切れる口角炎にも悩まされ、塗り薬をこまめに塗るよう心がけた。皮膚の乾燥も激しく、「まるで白い粉をふいたようだった」。4月上旬に退院すると、全身ににきびのような湿疹ができるようになった。分子標的薬の典型的な副作用だった。強いかゆみを伴い、うみのような水が出た。渡辺さんは当初、かゆみが強いのに、「体調はいい」と回答することもあった。「副作用がひどいと、治療が中止されてしまうのでは」。そんな思いからだった。頼りになったのが治験コーディネーターの山根未来さん(33)だった。医師と患者の間に立って、治験に参加する患者に薬について説明し、相談に乗る役割を担う。主治医の加藤晃史さん(50)が診察する前に、山根さんが必ず面談した。「湿疹のかゆみはどのくらいつらいか」。詳しく聞いた。「かゆみで眠れないほど」。医師に言いづらいことも、山根さんには打ち明けられた。渡辺さんは「湿疹が出るとは聞いてはいたものの、あれほどひどくなるとは思っていなかった」。加藤さんも、渡辺さんの湿疹が予想以上にひどいことに驚いた。「これほどつらい思いをさせて治験を続けていいのか」。加藤さんは迷うようになった。(8月6日 朝日新聞 患者を生きる 副作用と向き合うより)
Aug 23, 2015 08:25

治験 髪が抜けないなら
右の肺にがんが見つかった神奈川県の主婦渡辺久子さん(68)は2008年、神奈川県立循環器呼吸器病センター(横浜市)で中葉の摘出手術を受けた。腫瘍を詳しく調べた結果、肺がんの5割を占め、最も患者数が多い「肺腺がん」とわかった。がんは肺を覆う胸膜に達しており、さらに転移する恐れがあるという。渡辺さんは当時、近くの運送会社でパート社員として働いていた。手術を機に退職を申し出たが、会社の担当者は「体調が良くなったら、戻っておいで」と声をかけてくれた。手術後2カ月ほどで復職した。仕事中、特に息苦しさを感じることはなかった。月に1回、X線検査を受け、腫瘍マーカーの値を確認した。手術から1年3カ月後の2010年3月、左右の肺の間にある「縦隔」のリンパ節に転移が見つかった。「やっぱり、がんは散らばっていたんだ」。落ち込む気持を振り払ってくれたのは、孫たちの存在だった。「孫の成長を見続けるために、がんと闘おう」と決めた。手術で取った腫瘍は、細胞の増殖に関係する「EGFR」と呼ばれる遺伝子が変異していることがわかっていた。この遺伝子に変異がある人は、肺腺がんの半数を占める。女性に多く、たばこを吸わない人にも多い。主治医の呼吸器内科医長、加藤晃史さん(50)は、「変異がある遺伝子を標的にした薬が効くタイプですよ」と説明した。当時、この遺伝子を標的とした薬には「ゲフィチニブ(販売名イレッサ)」と「エルロチニブ」があったが、さらに効果が期待される新薬の「アファチニブ」の臨床試験(治験)が始まっていた。加藤さんは「治験に参加してみませんか」と提案した。参加してもいつでもやめられる。下痢や皮膚の湿疹などの副作用が出る恐れはあるというが、従来の抗がん剤のように髪が抜けたりしないのも魅力に感じた。「自分の経験が、誰かのためになるのであれば」と参加を決めた。治験といっても、決まった時間に新薬を1錠飲むだけだった。しかしその後、「眠れないほど激しい副作用」に悩まされるようになる。(8月5日 朝日新聞 患者を生きる 副作用と向き合うより)
Aug 22, 2015 09:43

手術で取り切れたら・・・
神奈川県に住む主婦渡辺久子さん(68)の元に、封書が届いたのは、2006年夏のことだった。2年前に退職した県内の自動車部品会社からだった。「費用を3年間負担するので、肺の検診を受けてほしい」と書かれていた。ブレーキの組み立てや製品チェックを担当していたが、部品にアスベスト(石綿)を使っていた時期もあったという。渡辺さんはかつての同僚と一緒に、神奈川県立循環器呼吸器病センター(横浜市)でX線検査などを受けた。「今にして思えばあの検診の案内が、病気が見つかるきっかけになった」と振り返る。その年の検査では異常は見つからなかった。3回目の検査を受けた2008年9月、医師から「右の肺に影が写っているので、詳しく検査しましょう」と告げられた。がんの可能性を示す血液中の腫瘍マーカーの値が高かった。CTを使った詳しい検査でも、腫瘍はがんの疑いが強まった。腫瘍は、右の肺の「中葉」にできていた。ただ、気管支鏡で肺の組織を取る検査では、がんの細胞を捉えることはできなかった。胸に影があるとわかって以来、「影が大きくなって、体のあちこちに飛んで行くのでは」と気が気でなかった。「石綿のせいか」と気にはなったが、医師からは「石綿の影響でなるのは中皮腫というがんですが、渡辺さんは違いますよ」と言われた。58歳で早期退職するまでの28年間、大きな病気をしたことはなく、たばこも吸わない。せきや息苦しさもなかった。「どうして肺がんなんだろう」。12月中旬、同センターで手術を受けた。右胸に4カ所穴を開け、胸腔鏡を入れて患部の状態を確かめながら、中葉を摘出した。病理検査の結果、肺を覆う胸膜に達する「胸膜播種」の状態だった。手術では取り切れない腫瘍が体内に残っている可能性が高いという。現在の診断基準では胸膜播種があると、病気の進行度合いを示す病期は「ステージ4」に該当し、5年生存率は1割を切る。「手術で、悪い影がきれいに取れたらいいな」。渡辺さんの希望は、かなわなかった。(8月4日 朝日新聞 患者を生きる 副作用と向き合うより)
Aug 21, 2015 08:14

肝転移 広がる手術適応
大腸がんで亡くなる人は年間4万人を超し、がんの部位別の死亡者数(2013年)では肺、胃に次いで3番目に多い。大腸がんが、血液の流れに乗って最も転移しやすい臓器は肝機能で、次いで肺が多い。がんは、ほかの臓器に転移すると手術では治療しにくいイメージが強い。しかし、連載で紹介した斉藤信彦さん(68)のように、大腸がんの場合は近年、他の臓器に転移しても手術で治せるケースが増えている。特に肝臓への転移では、手術中に超音波を使って残すべき血管の位置を確認しながらミリ単位で腫瘍とその周囲だけを切り取る手術が導入され、手術を受けられる患者の幅が広がった。がん研有明病院(東京都江東区)の斉浦明夫・肝胆膵外科部長(48)によると、同病院で大腸がんの肝転移が見つかった患者のうち、当初から手術が可能な人は50~60%。転移が3個以下で手術しやすいと判断された場合、同病院ではまず肝臓の切除手術を行い、その後、抗がん剤治療をすることが多い。大腸のがん本体の状態にもよるが、転移が4個以上で再発しやすいと判断された場合、抗がん剤治療をした上で肝臓の切除をし、手術後にも再び抗がん剤治療をするケースが多いという。肝臓への転移は、数が多いと手術をしにくいが、10個以上あっても手術できるケースがある。一方、転移の数は少なくても、腫瘍が血管を大きく巻き込んでいる場合などは、手術が難しい。また、肝臓以外の複数の臓器や腹膜などに転移が見つかった場合は、肝臓を切る出では治療効果が見込めず、化学療法の対象になる。肝臓には再生能力があるので、正常な組織を3割残すことができれば、ほぼ元通りの体積に戻る。当初は肝臓内に転移した腫瘍の数が多いなど、すぐに手術ができない人も、抗がん剤によって腫瘍が縮小し、手術可能になることがある。斉浦さんは「大腸がんの
肝転移は再発率が高い。しかし、再発しても切除できれば治せる可能性が高まる。たとえ肝転移が再発しても、あきらめずに治療を受けてほしい」と話す。(8月1日 朝日新聞 患者を生きる 転移と手術・情報編より)
Aug 20, 2015 07:57

肺も切除 あきらめない
進行した4期の大腸がんになった千葉県市川市の産婦人科医、斉藤信彦さん(68)は2007年11月、大腸の一部に加えて、転移が見つかった肝臓の一部を切り取る手術を受けた。しかし、その後も肝臓への転移が新たに見つかり、2008年9月と2009年7月にも、手術で肝臓を切除した。がん研有明病院(東京都江東区)で受けていた術後の抗がん剤治療が終わったのは、2010年6月だった。「これでもう、治ったのかな」。安心感を抱き始めていた2011年3月、CT検査のあと、治療チームの松阪諭医師(46)から説明を受けた。「斉藤さん、肺に転移がありますね」。その言葉を聞き、ショックのあまり診察室の床にしゃがみ込んでしまった。右肺の下葉に腫瘍が1個見つかった。直径は7ミリ。「転移が肝臓に収まっているうちは大丈夫だが、さらに広がったら、もう助からないだろう」と感じた。しかし、松阪さんはこう付け加えた。「これは良いケースです。肺の中でも取りやすい場所に腫瘍がありますから」。その言葉を聞き、治療チームを信じて任せることにした。4月上旬。4回目となる手術を受けた。腫瘍とともに肺の下葉の一部を切除し、1時間20分で終わった。それから10日ほどで退院。その後は3カ月に1度、現在は半年に1度、検査を受けている。今年の春で、最後の手術から4年が経過した。体調は良好で、再発は見られない。「一日でもねばって長生きすれば、新しい治療法がきっと出てくる。がんの転移と今闘っている患者さんも、あきらめないでほしいですね」。地域に根ざした産婦人科医院の院長として、再び診療に取り組む日々が戻った。医院の待合室には、油性ペンで書いたビラを貼って、検診を呼びかけている。「いただいた命。現場の医師として、がん検診を患者さんに勧めたいと思います」。いまは、地域のがん患者を減らすために、少しでも役に立ちたいと願っている。(7月31日 朝日新聞 患者を生きる 転移と手術より)
Aug 18, 2015 10:10

3回の切除 期待と不安
千葉県市川市にある産婦人科医院の院長、斉藤信彦さん(68)は2007年11月上旬、大腸の下部にある「S状結腸」に進行した4期のがんが見つかった。がんはすでに、肝臓に転移していた。転移した腫瘍は計6個あり、最大で直径3センチだった。入院したがん研有明病院(東京都江東区)の担当医から「5年生存率は25~30%」という説明を受けた。「きっと5年後には、生きていないだろう」。そう感じて、落ち込んだ。手術は11月下旬、約9時間かけて行われた。開腹手術で、まずS状結腸を腫瘍ごと約15センチ切除して縫い合わせた。続いて、肝臓の約15%を切除した。経過は順調で、10日余りで退院できた。12月上旬、退院したその足で、自分が経営する産婦人科医院へ向かった。「待合室に5人ほど患者さんがいた。その姿を見て、本当にうれしかった」。再び医師として働ける喜び。しかしそれも長く続かなかった。翌年2月上旬、MRI検査で、最大で直径1.3センチの腫瘍が6個、新たに肝臓に見つかった。「ここまで来たら、先生たちに任せて最後まで頑張るしかないな」。斉藤さんは腹を決めた。3月中旬から半年間、抗がん剤による治療を受けた。その上で転移した腫瘍とともに肝臓を部分的に切り取る手術をするという。「お父さん、悪いモノがあって、取れるんだったら、取ってもらいましょう」。妻で眼科医の紀子さん(65)はそう励ました。9月中旬、斉藤明夫・肝胆膵外科部長(48)のチームが執刀し、肝臓を部分切除する2度目の手術をした。しかし、肝臓への転移は完全には消えず、翌2009年6月上旬にも、CT検査で肝臓に最大1.7センチの腫瘍が4個見つかった。約1カ月後、3度目の切除手術をした。ただ、肝臓が再生してほぼ元通りになるのに必要とされる3割以上の組織は残すことができた。切除手術が終わると、すぐに再発するという繰り返し。「自分はもうだめかもしれない」との不安と期待の間で、心が揺れていた。(7月30日 朝日新聞 患者を生きる 転移と手術より)
Aug 16, 2015 09:59

医院は休診 治療に専念
千葉県市川市の産婦人科医、斉藤信彦さん(68)は2007年11月上旬、地元の病院で大腸内視鏡検査を受けた。S字結腸に、直径4センチの腫瘍が見つかった。「大腸がんだとすると、肝臓に転移しているかもしれない。エコー検査で調べてみましょう」。担当医に勧められ、すぐに超音波検査を受けた。検査のあと、担当医が言いにくそうな様子で結果を告げた。「転移と見られる腫瘍が、肝臓に複数見つかりました。S字結腸がんの4期だと思います」。帰りがけ、担当医から、こう声をかけられた。「これからが大変です。でも、生きる希望をお持ちになってください」。夜7時過ぎ、病院の駐車場へ戻ると、真っ暗になっていた。涙があふれて止まらなくなった。「どうしよう」。経営している産婦人科医院の今後のことや家族のことが、頭をかけめぐった。「肉眼で見える血便はなかったし、そのほかの自覚症状もほとんどなかった。本当に、いきなりでした」。がんの治療に専念するため、産婦人科医院は休診することにした。それまで通院してくれていた人たちには、「しばらく外来を休むことになりました」とだけ告げ、代わりの医療機関を紹介した。「もうこれで、この医院にも帰って来られないかも知れない。そう思うと、寂しい気持でいっぱいでした」。地元の病院からは、がん研有明病院(東京都江東区)で治療を受けるよう勧められた。11月中旬に入院し、CTやMRIなどの精密検査を受けた。11月下旬に手術するという。MRIの画像を見ると、肝臓への転移が広い範囲に散らばっていた。「これはきっと、予後がよくないだろうな」。日記には「きついなー」と書き込んだ。入院した部屋は窓からの眺めがいい。妻の紀子さん(65)は「飛行機がよく見えるわよ」と、努めて明るく話しかけた。でも、景色を眺める気分にはなれず、3日間、カーテンを閉め続けた。(7月29日 朝日新聞 患者を生きる 転移と手術より)
Aug 15, 2015 08:13

まさかの「医者の不養生」
千葉県市川市に住む斉藤信彦さん(68)は、地元で産婦人科医院を開業して30年余り。現役の医師として診療を続けている。2007年10月下旬、休みを取って、妻で眼科医の紀子さん(65)と1週間余り、カナダを旅行した。体に異変を感じたのは、その旅の最中だった。現地で教会巡りをしていたとき、急におなかが張り、背中に寒気を感じた。「帰国したら一度、検査を受けてみようかな」。痛みがなかったこともあり、それほど深刻には考えなかった。帰国後の11月上旬、「念のために」と、便の潜血検査を受けた。検査の結果、2回採取した便の検体は、両方とも「陽性」。血液反応が出ていた。その検査結果が印字された用紙を見て、急に不安がこみ上げてきた。「ヤバイな。もしかして、大腸がんかな、これは」。たばこは吸わず、毎日、地元のスポーツクラブに通って水泳を続けていた。健康には気をつけていたはずなのに、なぜ自分が・・・・。すぐに地元の病院を受診し、2日後に大腸内視鏡の検査を受けることになった。検査の当日。肛門から内視鏡を挿入してすぐのことだった。大腸の内部を映し出すモニター画面いっぱいに、赤みを帯びた腫瘍が広がっているのが見えた。そこから血がにじみ出ている様子も、画面から読み取れた。この日の検査では、いったん大腸の奥まで入れた内視鏡を、引き抜きながら腸内の様子を観察する予定だった。しかし、大腸の下部にあり、S字状に曲がっている「S状結腸」に腫瘍が大きく広がっていた。このため、内視鏡をS字結腸から先に進めることが難しい状態になっていた。腫瘍は直径4センチほど。肛門から約8センチのところにできていた。「しっかり検診を受けていれば、もっと早く見つけることができたはずなのに」と深く後悔した。「医者の不養生です。『自分だけは大丈夫だ』という気持が、どこかにあった。(7月28日 朝日新聞 患者を生きる 転移と手術より)
Aug 14, 2015 08:14

再発防ぐ運動習慣
乳がんは女性が最もかかりやすいがんで、12人に1人が診断される。ただ、早期に発見すれば、生存率は比較的高い。連載で紹介した東京都の女性(61)のように、手術後のホルモン療法などを長期間続ける人も多い。こうした人の生活を支える取り組みとして、運動が注目されている。日本乳癌学界によると、一定の運動をした人は、ほとんど運動しない人に比べて、乳がんの再発リスクが約25%、乳がんによる死亡リスクが約35%低かったという報告がある。学会は、不安や抑うつなどの軽減にも効果的として、「少し汗ばむ程度の歩行や軽いジョギングなどを週1回以上、無理のない範囲で行うとよい」と勧める。さらに、診断時の肥満が乳がんの再発リスクを高めることも報告されている。乳がんが多い40代以降は年齢的にも代謝が落ちるため、ホルモン療法中に体重が増えることに悩む人も多いという。聖路加国際病院(東京都中央区)は昨年度、乳がんの手術後にホルモン療法を続ける人向けの減量プログラム「シェイプアップリング」を開催した。国立がん研究センターの研究事業の一環で、30~60代の32人が参加した。8人ずつ週1回、管理栄養士による栄養指導や、ダンス・筋力トレーニングなどの運動指導を受けた。自他でもDVDを見ながら運動をし、体重をグラフ化してもらった。参加者同士が交流しながら、個人やグループの減量目標を設定することで、モチベーションの維持も図れる。1カ月のプログラム終了後、平均で約1キロ減量できた。参加者からは「運動習慣がついた」「考え方が前向きになった」などの声が聞かれたという。プログラムで運動を指導した「キャンサーフィットネス(東京都港区、http://cancerfitness.jp/)の広瀬真奈美さん(52)は米国のがん患者向けリハビリエクササイズのインストラクター。がん体験者対象の運動教室を開いている。広瀬さんは「体を動かすことで気持も前向きになり、笑顔を取り戻す人が多い。ウオーキングや階段の上り下りなど、できることから始めてみてください」と話す。(7月25日 朝日新聞 患者を生きる 乳房の切除 情報編より)
Aug 09, 2015 08:11

患者のためのブラ企画
乳がんで左胸を全摘した東京都の女性(61)は2009年秋、再発を防ぐ目的で1日1錠のホルモン剤を飲み始めた。ホルモン療法はホルモンバランスが乱れて、一時的に副作用が出ることがある。女性は抗がん剤治療から続いて、様々な症状に悩まされた。手足にピリピリとした痛みが走り、体がだるい。おりものの量が増えた。下着パタンナーの仕事には意欲がわかず、決まった作業をこなすのが精一杯になった。翌年、「たまには受けたら」と夫を健康診断に誘った。すると、夫に進行の早い肺がんが見つかった。約2年後、ホスピスでみとった。64歳だった。自身の病気への不安と夫の死。沈みがちだった女性は2014年、ホルモン療法で通院する聖路加国際病院(東京都中央区)で、主治医の山内英子さん(52)から乳がん体験者の減量プログラムに誘われた。乳がんは太っていると再発リスクが上がるため、1カ月間、週1回集まって運動や栄養指導を受けるという。女性は血液検査で肝機能の数値が悪化し、別の医師からも運動を勧められていた。プログラムでは、ほかの参加者と話しながら、手術後に肩が凝り固まるつらさや、再発の不安を共有できた。配られたDVDを見ながら、家でも体を動かした。運動が習慣になり、プログラム終了後も週3回ジムに通う。体重は半年間で約6キロ減り、だるさはなくなった。血液検査の数値も改善した。「自分から動かなければ変らないんだ」。再発への不安には、「小さな芽を摘んでいこう」と思えるようになった。下着パタンナーとしては「患者が考えた患者のためのブラ」を企画した。手術後、皮膚が敏感になったわきの辺りにブラジャーが当たって痛かった。どんな構造や素材なら痛くないか、自分でつけて試しながら試作品を仕上げた。術式や治療法の違いによる要望を知りたくて、患者たちにアンケートも試みた。商品化には金銭面や資材調達、メーカーとの契約など課題は多いが、あきらめてはいない。「毎日身につけるものだからこそ、気に入ったものがあればうれしいはず。喜んでもらえるお手伝いがしたい」。(7月24日 朝日新聞 患者を生きる 乳房の切除より)
Aug 08, 2015 07:45

迷いながら選んだ再建
2009年夏から3カ月、東京都の女性(61)は聖路加国際病院(東京都中央区)に通院しながら、左胸の乳がんの抗がん剤治療を受けた。がんの広がり具合から左乳房は全摘することになり、乳房を再び作る「再建」をするかどうか迷っていた。当時55歳。年齢とともに自然に下がっていく右胸と、人工乳房を入れた左胸のバランスは、年々不自然になっていくのではないか。下着を通して女性の美しさにこだわってきた下着パタンナーの仕事柄、気になった。体の中に異物を入れることにも抵抗感があった。Dカップの乳房は経験上、片方約500~600グラムの重さがある。どちらかを摘出すれば、左右の肩のバランスが偏るのではないかと感じた。再建したほうがジムや温泉に気軽に行けると聞き、人工乳房による再建を決めた。10月中旬、約2時間半の全摘手術を受けた。同時に、乳房の再建に向けて、「エキスパンダー」と呼ばれるシリコーン性の袋を入れた。この袋に生理食塩水を入れて膨らませ、約半年かけて胸の皮膚をのばした後、手術で人工乳房と入れ替える。左胸の全摘は、「仕方がない」と覚悟していた。だが、手術から2日目、ガーゼの交換で初めて術後の左胸を見た時はショックだった。エキスパンダーを入れた分、胸に多少の膨らみはあるが、豊かだった胸は跡形もない。生々しい傷痕、乳輪も乳頭もなく、「まるでのっぺらぼうみたい」。乳輪・乳頭は、皮膚を移植して再建する手術があるが、「これ以上、体にメスを入れたくない」と、入れ墨をする方法を選んだ。退院後まもなく、左わきの下のリンパ節2カ所への転移がわかった。がんの病期は0~4の5段階で「ステージ3」になった。再発の不安を抱える生活が始まり、がんを告知された時よりも落ち込んだ。その翌日、夫に誘われて箱根に紅葉狩りに出かけた。晴れ渡る空に、富士山も見えた。「60歳になったら仕事をやめて、日本全国を車で回ろう」。お互い病気のことはほとんど口にしなかった。こうして気分転換をしながら、現実と向き合っていくしかないのだと思った。(7月23日 朝日新聞 患者を生きる 乳房の切除より)
Aug 06, 2015 08:14

手のぬくもり 支えに
「がんになっちゃた」。2009年6月中旬。乳がんと診断された東京都の女性(61)は、病院を出るとすく、家族に携帯電話をかけた。母親(86)はその10年前に乳がんで全摘手術を受けていた。「私も大丈夫だったから、お前も大丈夫」。母からそう励まされた。医師に勧められ、手術前に抗がん剤の点滴を受けた。7月初めから3週間に1度通院した。副作用は予想以上にきつかった。体はだるく、手足はむくんだ。口内炎ができ、味覚障害で何を食べてもおいしさを感じなくなった。大好物のミカンも、のどを通らなくなった。かろうじて食べられたトマト味の野菜スープを、毎日のように作って食べた。髪は抜け、顔はむくんだ。その姿を目にしたくなく、鏡は見なくなった。それでも、副作用で黄色くくすんだ手と、黒く変色した爪はいやでも目に入った。ブラジャーなどを製作する下着パタンナーの仕事は続けた。自分と3人のスタッフだけの会社のため、代わりはきかない。平日は朝から夕方までパソコンに向かった。土日は疲れて起き上がれないほどだったが、仕事をしていたことで気は紛れた。取引先になるべく違和感を与えないようにと、ウイッグを買って着用した。しかし、夏場でウイッグから汗が流れ落ちた。髪が短くはえ始めると、思い切ってつけるのをやめた。3クール目の抗がん剤治療で、足の甲から太ももまでパンパンにむくみ、立っていられないほになった。その頃から毎晩寝る前に夫が30分ほど手足をさすってくれた。女性は横になったまま、その日の出来事を話した。夫のマッサージはお世辞にも上手とは言えなかったが、手のぬくもりが伝わってきた。抗がん剤治療にくじけそうになる心を支えてくれた。手術は、聖路加国際病院(東京都中央区)の医師、山内英子さん(52)が担当になった。仕事のことを話すと、山内さんに言われた。「乳がんの手術をした患者さんに合うブラジャーはなかなかない。あなたの経験が、いつかほかの人の役に立つかもしれない」。(7月22日 朝日新聞 患者を生きる 乳房の切除より)
Aug 05, 2015 08:01

痛くないのに全摘なんて
東京都の女性(61)は、ブラジャーなどの下着をデザインして、型紙を作る「下着パタンナー」だ。「姿勢も着こなしも、下着次第で美くなります」。腕を上げ下げしてもずれにくい機能性や快適さも追及し、1千人を超す女性の胸を計測してきた。服飾専門学校で学び、アパレル企業に就職。子育てが落ち着いてから独立した。取引先と契約して工場に生産を発注。毎月、海外の工場に出張する生活が続いた。2009年4月、聖路加国際病院(東京都中央区)で3年ぶりに健康診断を受けた。終了後、面接をした医師に告げられた。「マンモグラフィーで異常が見つかりました。すぐに詳しい検査を受けてください」。画像を見せてもらうと、左胸の上部に白いかたまりがあるのがわかった。乳がんの疑いもあるというが、実感がわかない。「しこりなんて全くないのに・・・」。乳がんと言えば、コリコリとしたしこりができるものだと思っていた。以前、自分で乳房をさわって確かめる自己検診の方法を習ってから、たまに浴室でチェックしていた。だが、しこりを見つけたことはなかった。ただ前年ごろから、胸に異変はあった。左胸の乳首が乳房の内側に埋没する「陥没乳頭」になっていた。それが乳がんの兆候となるケースもあるとは知らなかった。数日後、乳がんを専門に診る院内のブレストセンターを受診。針生検や超音波検査と進み、「もしかしたら」という怖さがじわじわと増した。検診から2カ月後、医師から結果を告げられた。「乳がんです。全摘手術になると思います」。病期は0~4の5段階のうち、「ステージ2」だった。「痛くもかゆくもないのに、手術しないといけないんだ」。現実味がなく、医師の説明もほとんど耳に入らなかった。「仕事はどうしよう」。まずその事が気になった。新しいブラジャーができると、自分の体でつけ心地を確かめ、不具合を修正するのも大事な製作工程だった。手術後は、それができなくなってしまう。そんなことを考えた。(7月21日 朝日新聞 患者を生きる 乳房の切除より)
Aug 04, 2015 08:34

仲間集め 明るく前へ
2012年6月、メラノーマ(悪性黒色腫)の摘出手術を受けたグラフィックデザイナーの徳永寛子さん(33)は、取ったリンパ節を詳しく調べた結果、転移が見つかった。7月、2度目の手術を受け、左わきのリンパ節とリンパ管を摘出した。手術後、再発予防のため、毎月1回、インターフェロンを注射することになった。転移がわかった時、徳永さんは、メラノーマの患者が集まるソーシャルメディアのグループで、「リンパに転移が見つかりました」と書き込んだ。「ショックだよね」「私も転移があったよ。がんばろう!」仲間から次々と反応があった。何げない一言でも、同じ病気を持つ仲間の言葉は力になった。入院した国立がん研究センター中央病院では、同室になった肺がんの女性のもとに、同じがん患者の仲間が見舞いに来ていた。「お互いを『がん友』と呼んで仲良く話す姿に、メラノーマも患者同士が、同じ悩みを話せる会を作りたいという気持がふくらんだ」。2013年、徳永さんはネットに「患者会を設立しようと思いますが、どう思いますか」と書き込んだ。すると、東京都内に住む堀江泰さん(35)から「僕も作りたいと思っていました」と返事がきた。堀江さんはメラノーマで親友を亡くした経験があった。主治医の山崎直也さん(55)も「応援するよ」と後押しした。メラノーマの正しい情報を広め、新薬の承認の請願をする上で、患者会の役割は大きいと考えたからだ。その年の8月、メラノーマの患者会「Over The Rainbow」(http://melanoma-net.org)が誕生。徳永さんは代表となった。海外では皮膚がんは黒いリボン、メラノーマは白黒模様のリボンがトレードマークだ。「白黒なんて縁起が悪い。明るい色をたくさん入れよう」。徳永さんは虹色のロゴを自らデザインした。会員数は約50人を数え、お茶会などを開いて集まるようになった。「がんは人生の中で土砂降りの雨のようなできごと。でも雨上がりの空にかかる虹のように、『私は元気です』と明るく、前へ進んでいきたい」。(7月17日 朝日新聞 患者を生きる メラノーマより)
Aug 02, 2015 07:48

退院2週間後「転移あり」
東京都のグラフィックデザイナー、徳永寛子さん(33)は2012年6月、国立がん研究センター中央病院でメラノーマ(悪性黒色腫)の摘出手術を受けた。腫瘍の厚さが1ミリ以下なら早期のがんで、1センチ外側までを切れば済む。厚さが1ミリを超えると進行度に応じて切る範囲は1~2センチ外側になる。主治医の山崎直也さん(55)は「腫瘍は1ミリより厚く、早期ではない」と判断した。傷口に皮膚を移植するかどうかは、手術中に判断することになった。さらに手術では、がんが転移した場合、最初に行き着くリンパ節を調べる検査もする。もし転移が見つかれば、周囲のリンパ管を含めて切除するのが一般的だ。手術は3時間ほどかかった。麻酔から覚めた徳永さんに、山崎さんは「手術中の検査では、リンパへの転移は見つかりませんでした。ただ、詳しい結果が出るまでに時間がかかります。皮膚は移植せずに済みましたよ」と伝えた。10日間の入院中に30歳の誕生日を迎えた。入院前は、チラシなどを制作するデザインの仕事が忙しく、終電で帰る日々だった。帰りが遅いと不満を言う夫43)に、「仕事で遅いのに、何が悪いの?」と開き直ることもあった。だが、がんになって、仕事を最優先に考える価値観が変った。仕事は週3日だけにして、休日は自宅で夫と過ごす時間を大事にした。「もう一度、人生を見直せよ、と言われたようだった」。この頃、会員制のブログのサイトで、メラノーマの患者が集まるグループに入った。会ったこともない人たちだが、患者同士だからこそできる共通の話題で、気持が通じることが多かった。退院2週間後に受診すると、山崎さんから告げられた。「残念だけど、取ったリンパ節を詳しく調べた結果、小さな転移がありました。もう一度手術して、脇のリンパ節をできるだけ取ります」。徳永さんのがんは、転移がなければステージ2で、5年生存率は70~80%。わずかでも転移していれば、ステージ3となり、生存率は50~60%に下がる。「メラノーマとわかった時よりショックでした」。(7月16日 朝日新聞 患者を生きる メラノーマより)
Aug 01, 2015 08:58

画面の向こうの「仲間」
左肩のほくろが皮膚がんの一種、メラノーマ(悪性黒色腫)の可能性があると指摘された東京都の徳永寛子さん(33)は、2012年5月、国立がん研究センター中央病院を初めて訪れた。朝からたくさんの人が診察を待っていた。多くは自分の父母より年上の人たちだった。ほくろ以外には気になる体の不調は何もない。「私はどうして、ここにいるんだろう」。診察した皮膚腫瘍科長の山崎直也さん(55)によれば徳永さんのほくろは典型的なメラノーマだった。しかも、形から見て、すでに早期ではない可能性もあった。メラノーマは皮膚の中にあるメラニン細胞やほくろの細胞ががんになる病気だ。山崎さんは、全身麻酔による手術できっちり取り切るのが大切なこと、皮膚の下を走るリンパ節を通じて、ほかの部分に転移していないか調べる検査が必要なことなどを説明した。そして最後に声をかけた。「不安なことや疑問があれば、予約が入っていなくても、いつでも話を聞くからね」。手術は6月上旬に決まった。それまでに、血液検査やCT撮影、超音波検査などを受けた。体が全身麻酔の手術に耐えられるかや転移の有無を調べるためだ。家に戻ってネットで改めて「メラノーマ」について調べてみた。「患者は10万人に1、2人の非常にまれながん」「悪性度が高く、予後が悪い」。厳しい言葉が目についた。患者の闘病ブログが途中で途絶えていたり、家族が「本人は亡くなりました」と書き込んだりしたものを見ると、「私も、死ぬのかな」と涙がこぼれた。27歳で結婚、当時まだ3年目だった。夫や友人、職場の仲間に恵まれ、いつも誰かと一緒だった。想像したこともなかった「死」が身近なものに感じられた。恐ろしいほどの孤独感に襲われた。不安にかられるたび、メラノーマについて山崎さんが解説をするネットの動画を繰り返し見た。そして、画面脇の「視聴回数」が、何百回をカウントされていることに気づいた。画面の向こうに、自分と同じように不安を感じてパソコンに向かう仲間の存在を感じた。(7月15日 朝日新聞 患者を生きる マラノーマより)
Jul 31, 2015 11:12

ほくろ取ろうと皮膚科へ
東京都内に住むグラフィックデザイナーの徳永寛子さん(33)の左肩には、大きなほくろがあった。「形が変で気持ち悪いから、取ってもらいなよ」。薄着をする季節になると、夫(43)からたびたび言われた。ほくろは20歳を過ぎたころからあったと思う。でも、鏡越しでないと見えないし、痛くもかゆくもない。それほど気にしていなかった。直径約1センチ。輪郭はいびつで、アメーバのようだった。2012年4月、軽い気持で自宅近くの皮膚科を受診した。医師はほくろを見ると「メラノーマ(悪性黒色腫)かもしれません」と言って、総合病院への紹介状を書いてくれた。数日後、近くの総合病院の皮膚科を受診した。医師が何人も入れ替わりやってきた。ほくろを見るたびに「あっ」とか「わー」と漏らすのが気になった。「あそらくメラノーマだと思います。切除はできますが、体の別の部位から皮膚を移植する必要があります」と告げられた。「皮膚を移植するために、余計な傷をつくるなんて・・・・」。メラノーマという耳慣れない言葉より、皮膚移植が気がかりだった。病院を出ると、すぐに実家の母(60)に電話した。「ほかの病院で診てもらわなくていいの?」。母から言われてハッとした。ほくろを見るなり声を出し、珍しそうに診察する医師の態度に違和感があった。総合病院に行った2日後、メラノーマに詳しい病院としてネットに出ていた中央区の石原診療所(現・かちどき皮膚科クリニック)を訪れた。診察したのは野呂佐知子医師。国立がん研究センター(東京都中央区)に勤務したことがある。ひと目見てメラノーマだと確信した。不安で涙を浮かべる徳永さんに、ゆっくり話した。「メラノーマの治療は適切に取ることが大切です。がんセンターを紹介するので、安心して任せていいですよ」。野呂医師はその場でがんセンターの医師に電話をしてくれた。紹介先を聞いて、徳永さんは改めて気づいた。「やっぱりがんなんだ。皮膚の移植が嫌だとか、言っている場合じゃないな」。(7月14日 朝日新聞 患者を生きる メラノーマより)
Jul 28, 2015 08:03

眠ったままの遺書
●助けられた命、前向きに 15年前、肺がんと診断されました。母ががんで亡くなっており、「私もいつか」と覚悟はしていました。そのためか、告知を受けた時も、それほど大きなショックを受けることはありませんでした。幸い経験豊かな医師が近くの病院に転勤して来ていました。7時間に及ぶ胸腔鏡手術を受け、転移もなく、10日余りで退院しました。もしもの時のために手術前に書いた遺書は、15年間眠ったままです。手術後、医学によって助けていただいた私にできることはないかと考え、夫とともに献体の登録をしました。昔のように「がんイコール死」ではありません。医学は日々進歩しています。何か異常があったら早く検査を受けてください。がんになっても生きている人はたくさんいるのです。私も、助けられた命を大切に、前向きに楽しく生きていきたいと思っています。(茨城県 高橋睦子 78歳) ●がん治療に貢献したい 私は浪人生です。将来、がん治療の発展に貢献したいと考えています。だから、大学ではがんの研究をしたいです。がんに興味を持ったのは、高校の宿題で、中性子線治療でがんを治す記事について調べたからでした。医療技術が発達していると言われているのに、がんについてわかっていないことがたくさんある現実に驚きました。中学生の時に読んだ、がんの闘病生活がつづられた本のことも思い出し、がんを解明したいと思うようになりました。私は大きな病気にかかったこともなく、闘病生活のつらさを知りません。患者さんの苦しみはわからないかも知れませんが、もっと体の負担を和らげる治療法の開発や、がんになる原因、メカニズムの解明ならできるはずです。世界でがん治療の発展を待っている人たちのためにも、私はそういう仕事をしたい。だから次こそ、志望校に合格してみせます。神奈川県 女性 18歳。 (7月11日 朝日新聞 患者を生きる 読者編より)
Jul 26, 2015 08:08

排便の感覚 戻らない
●ストーマ閉鎖後の苦しみ 直腸がんで4年前に肛門を温存する手術を受けました。一時的に設けたストーマを閉じる予定だった3カ月後、腹膜炎を起こして緊急手術を受けました。装着がさらに8カ月延びました。今でも、ストーマ閉鎖後の後遺症に苦しんでいます。自分の肛門でも、便の出る感覚や便意が感じられないので、服や部屋が汚れてしまうことがあります。掃除にも時間がかかり、1日の大半を排便関係に費やしています。人前で出てしまうことがあり、運動をしなければと思いながら、ウオーキングにも出られない状態です。仕事も再開できていません。主治医からは、どうしても外出が必要な時には下痢止めを、反対に便秘になった痔には便秘薬を使うよう言われていますが、うまくいきません。今も紙おむつをしています。紙おむつやパッドの代金も大変です。(京都府 女性 55歳) ●2時間トイレ離れられず 年9月、人間ドックの便潜血検査で陽性反応が出ました。11月に病院で内視鏡検査を受け、直腸のポリープを切除しました。病理検査の結果は悪性でした。11月に腹腔鏡手術を受けました。6時間超かかりました。人工肛門の可能性も言われていましたが、肛門部は温存できました。手術の結果、がんの進行度は「ステージ1」でした。一時的にストーマを設置し、今年3月にストーマを閉じました。事前に説明されていた通り、手術後に頻便の症状が出るようになりました。便意を感じてから10秒もたたないこともあります。ひどい時は2時間近くトイレに座り続けることになります。それも昼夜を問いません。2カ月が過ぎて多少要領を得てきたものの、コントロールのきかない状態が続いています。気分が落ち込むこともありますが、「半年もたてば落ち着く」という医師のの言葉を頼りに、楽しい計画を立てて心待ちにしています。(静岡県 塚本和雄 65歳) 7月10日 朝日新聞 患者を生きる 読者編より
Jul 25, 2015 08:11

「痔のせい」決めつけ反省
●勝手な自己判断を反省 60歳過ぎ、健康診断の便潜血検査で血が混じっているのが見つかりました。しかし、痔のせいだと勝手に判断し、精密検査は受けませんでした。4年後に受けた健康診断でも異常が見つかり、精密検査の結果、大腸がんと診断されました。病院勤務の友人と相談し、インターネットで調べ、腹腔鏡手術がよいと思いました。実施数が多い病院を選び、手術を受けました。「医者でもないのに都合のよい自己判断はしない」と反省しました。フルタイムで働いている人は、休むと仕事に支障が出ると考えるでしょうが、検査で異常が見つかったら、会社と相談して治療に専念してください。病気に向き合い、納得できる病院を選ぶことが大切だと実感しました。病院の情報はネットで検索できます。セカンドオピニオンは定着してきているので、診てもらっている病院に遠慮せず、利用してみるのもよいと思います。(東京都 永田昇 67歳) ●便潜血検査、正しい理解を 30年近く消化器疾患の異常を診療している医師です。大腸がん検診の便潜血検査について、注意してほしいことがあります。一つは、2日分の便の一部を採取する潜血検査の2日法で、「2回のうち1回が陰性なら問題ない」と誤解をしている人が非常に多い点です。2回採取するのは、便の採取法によって潜血反応が出ないことがあるためで、1回でも陽性なら便潜血検査を改めてするのではなく、内視鏡検査などの精密検査を受けることが重要です。二つ目は、痔になったことがあると、便潜血が陽性で
も「痔のせいだ」と決め込み、精密検査を受けない方は非常に多い点です。痔とともに大腸にポリープや腫瘍のある人たちがいます。痔のせいにして放置し、発見された時には進行した大腸がんになっているケースも数多く経験しています。検査の際は、「便の5、6カ所の表面を広くこすって採取する」「暑い時期は提出まで冷暗所に保管する」などの注意点もあります。(兵庫県 宮田健一 55歳)
7月9日 朝日新聞 患者を生きる より)
Jul 20, 2015 08:32

平静装った つらかった
今回はタレントの原千晶さん(41)のように、子宮の病気になった女性からの声を紹介します。●「なぜ?」と動転 2月に「子宮内膜増殖症」と診断されました。がん化のリスクが高い型のため、翌月に腹腔鏡手術で子宮と卵巣・卵管を摘出、骨盤内リンパ節を切除し、検査も受けました。更年期だったので子宮の摘出に迷いはありませんでしたが、「今まで健康だった私が?」と気が動転しました。初めての手術に緊張と不安を感じました。それでも家族、特に高齢の親には心配をかけたくなくて、平静を装っているのがつらかったです。検査の結果、がんではなく、治療は終わりました。術後の経過も順調です。がんという病名が我が身に降りかかった時の恐怖や、検査結果を待つ間の不安は、とても大きいものでした。励ますつもりで言ってもらったひと言に傷つくこともありました。以前と比べ「がん」や「死」という言葉に敏感になりました。医療記事も真剣に読むようになりました。これからは、自分の体としっかり向き合っていきたいと思います。(京都府 女性 55歳) ●かわいそうと思われたくない 子宮体がんと診断され、2006年に子宮と卵巣を全摘しました。手術前の約1年間は、ほかの治療法がないか模索し、月1回の通院で経過を観察していました。予約をしても診察まで2,3時間待ちは当たり前で、診察結果は「変化なし」ということを繰り返し経験しました。原千晶さんも、月1回の検査を2年間続け、足が遠のいたとありましたが、病院に行くのが面倒になることや、「行かなくても大丈夫」という希望を抱いてしまうことは仕方がないと思います。手術当日、病室から手術室まで歩いている時、「走って逃げたい」という衝動に駆られました。体に傷をつける恐怖と、もしかしたらがんではないのではないかという希望が入り乱れました。がんだったことは、家族とわずかな親類にまでしか話していません。「がんになってかわいそう」という目で見られるのが嫌なのです。(群馬県 女性 48歳) 7月8日 朝日新聞 患者を生きる より
Jul 19, 2015 08:21

5年再発なく「卒業式」
5年前に進行した胃がんの手術を受けた広島県の女性(74)は今年6月、夫(75)と一緒に広島市民病院を訪れた。手術からちょうど5年を過ぎて受けたCTや血液の検査結果を、主治医の二宮基樹副院長(64)から聞くためだ。胃がんは5年間再発がなければ、その後の再発はまれとされる。女性はほぼ完治したと考えられ、この日が一連の治療からの「卒業式」となった。診察室に入ると、二宮医師は「よかった」と声をかけた。「骨の中まで調べましたが、どこにもがんは見つかりません」。腎機能、肝機能などの数値も正常だった。「あれほど抗がん剤を使ったのに腎臓も肝臓もダメージを受けていない。この数値は驚異的です。私のほうが悪いくらいだ」。二宮さんは女性に笑顔で語りかけた。5年前、女性のがんは、手術できるかできないかの瀬戸際まで進行していた。二宮さんからは手術前、「がんの状態によっては、切除不能の可能性もある」との説明を受けていた。しかし、女性も夫も、そのことを覚えていない。「早く切ってもらおうという一心だったので」と夫が言うと、「2人とも能天気な夫婦なんで」と女性が続ける。「不思議と、くよくよ悩む患者さんよりも、前向きな患者さんのほうが治りがいいんです」と二宮さんが応じた。「あれほどの胃がんから生還されたという事実は、我々医者にも勇気を与えてくれます」。最初に女性の異変を見つけた開業医に夫が最近会った際、その医師から「実はもって半年か1年と思っていた」と打ち明けられた。女性は「すごい大変なことだったんだと今さら思います。5年間は転移の心配とか無頓着に過ごしたのがよかったのかも」という。手術後にいったん10キロ減った体重は、ようやく8キロほど戻った。「今でも茶わん一杯のごはんでも、一度に食べられません」。昨夏、夫婦は県内随一の桜の名所に引っ越した。夫の胃がんのことは、周りの人には話していなかった。花見の時期に立ち寄ってくれた知人たちには、「いまちょっと留守なんです」とだけ話し、不義理をしてしまっていた。「来年は、みんなで花見を楽しみたいと思います」。(7月3日 朝日新聞 患者を生きる より)
Jul 12, 2015 10:15

「まさか主人まで」
進行した胃がんが見つかり、2010年5月に胃の全摘手術を受けた広島県の女性(74)は手術後、極端に食が細くなった。普通なら退院のめどとなる2週間がたっても、食べられるのは「五分かゆ」がやっとだった。退院したのは手術から3週間たった6月上旬。食欲が出ず、からしなど刺激のあるものや天ぷらなど油の多いものは食べられない。市販のパンも食べられなかった。「においが気になったから」という。パンが食べたいときはお店で焼いた菓子パンを買ってきた。それも一度には食べられなかった。菓子やスナック類をいつも持ち歩き、朝食と昼食、昼食と夕食の間に少しずつ食べた。2011年の夏。農作業をして雨に当たったあと、胸から脇腹にかけて痛みを感じた。4、5日たっても治らず、女性は近くの病院に行った。熱は39度もあり、肺炎を起こしていた。結局9日間入院した。「大手術の後は体が弱っているから、お決まりのコース」と医師から聞いた。「がんでは痛みを感じたことがなかったので、関係があると全然思わなかったんです」。それからは、雨が降ってきたらすぐ家に入るなど気をつけるようになった。一方、主治医の二宮基樹・広島市民病院副院長(64)は、「女性のがんは再発の可能性が低くない」と心配していた。手術で取ったリンパ節を包む脂肪組織の中からも、がん細胞が見つかっていたからだ。しかし、3カ月ごと、半年ごとの検査でも、心配された再発は、見つからなかった。昨年7月、女性は広島市内から夫の故郷・安芸高田市に引っ越した。自宅は、約6千本の桜で有名なダム湖のほとりにある。手術から5年目を迎え、花見を楽しみにしていた今年2月。今度は、6年ぶりに胃カメラの検査を受けた女性の夫(75)に、早期の胃がんが見つかった。「まさか主人まで。自分の時よりショックでした」。女性の夫は4月、広島市民病院で胃の3分の2を取る手術を受けた。経過は順調で夫は退院した日に「肉が食べたい」と言った。「私も胃がんで、とても苦労しているのをそばでずっと見ていたので、『自分は大したことない』と思えたんじゃないでしょうか」。(7月2日 朝日新聞 患者を生きる より)


Jul 12, 2015 09:47

即入院 急展開に戸惑い
●働き盛りに発病 15年前、36歳のときに診断されました。教師として働き盛りで忙しい毎日。疲れやすさを感じていましたが、気に留めていませんでした。しかし、階段を上るのにも息切れするようになり、病院を受診。精密検査の結果、即入院するよう告げられました。病床で死と向き合うことになり、急展開に戸惑うばかりでした。抗がん剤治療を受けながら、骨髄移植の道を探りました。臍帯血移植という治療法があることを家族が調べてくれ、希望を託して転院しました。翌月に移植を受けました。経過は順調で、今日まで元気に過ごしています。なぜ発病したか原因が分からないので、「事故のようなもの。あきらめるしかない」と思われた大塚さんと同感です。今後もいつ、別の病気や思わぬ事故といった事態に遭遇するかはわかりません。覚悟しているつもりでも動揺すると思います。今から思い悩まず、そのときに考えようと思います。(群馬県 大島昭彦 51歳) ●血液検査がきっかけ 昨年8月、持病で2カ月に1度通院している病院で受けた血液検査で異常が見つかり、診断されました。入院後、ステロイド剤と抗がん剤の内服治療を受けました。自覚症状はなく、3度の食事は完食できました。自分の置かれた状態を認識するのは、無菌室治療という外的条件からだけでした。骨髄液採取と、脊髄注射による抗がん剤の注入は緊張しましたが、麻酔が効いて痛みはありませんでした。発見が早かったことと適切な治療のおかげで2カ月後に退院。2週間に1度通院し、抗がん剤を飲んでいます。味覚障害や手足のしびれはありますが、血液検査では正常に近い値を維持しています。今まで体が人一倍丈夫で、他人を思いやる気持が足りなかったと感じました。感謝の気持も素直に表すように心がけています。(神奈川県 沓掛文哉 77歳)
Jul 11, 2015 07:38

「ころっと取れたよ」
2009年秋に進行した胃がんと診断された広島県の女性(74)は、検査の結果、がんが膵臓にくっついたり、まわりに広がったりしている可能性が指摘された。「手術をする前にまず、がんを固める治療をします」。広島市民病院外科の二宮基樹医師(64)から説明を受け、女性は「がんを小さくするという意味なんだ」と受け止めた。11月下旬から、抗がん剤でがんを徹底的にたたく化学療法を受け始めた。飲み薬を2週間続け、途中1日点滴をする。胃がんで標準的な組み合わせの抗がん剤が使われた。その後、2週間薬を休み、同じ組み合わせをもう一度繰り返した。翌年2月上旬から点滴薬を変え、4月までさらに3回、化学療法を繰り返した。点滴をすると、胸がむかついて食べられない。薬を変えてからは髪が少し抜けた。「自分もあんな風になるのかなあ」。かつらを使っているほかの入院患者を見てそう思った。ただ、そこまでにはならなかったので「つらいけど、自分の副作用は軽いのかもしれない」と思い直した。5カ月に及ぶ化学療法の間、悲観的な気分にはならなかったが、もしもの時の覚悟は決めた。これまで一人でやっていた通帳や家計の管理などを、夫(75)に伝える準備を始めた。タンスを整理して県内に住む長女(47)のへその緒と母子手帳を本人に渡した。手術は5月10日。約5時間かかった。がんは胃壁を突き抜けて外側に露出している状態だった。もしも、がん細胞が胃の外の腹膜などにちらばっていたら、手術はできなかった。幸いなことに、女性のがんは胃壁は破ってはいたものの、胃の下にある小さな袋にとどまっていた。手術では、胃の周りのリンパ節や周囲の主要な血管のリンパ節を、包んでいる脂肪組織ごと、はがし、胃や脾臓を摘出した。長女らは、医師から摘出されたがんを見せてもらった。手術の翌日、女性に「こんな大きながんがころっと取れたよ」と手振りを交えて伝えた。がんは両方手のひらいっぱいの大きさだという。女性は「よかった。膵臓への癒着はなかったんだ」と一安心した。(7月1日 朝日新聞 患者を生きる より)
Jul 09, 2015 07:34

胃壁を付き抜け進行
広島県の女性(74)は2009年秋、健康診断の結果について近所の開業医から説明を受けた。「貧血があり、胃から腸から、出血していると考えられます。専門医を受診してください」。10月、広島市内の河村内科消化器クリニックへ行った。胃カメラの検査が終わり、診察室で河村譲理事長(71)に告げられた。「これはがんじゃけえ、全摘じゃあ」。全部取ることになる胃の画像を、女性は夫(75)とパシコンの画面で見た。「胃全体が白っぽくなっているように見えました」。夫が「先生、この白いのは何ですか」とたずねると、河村さんは答えた。「これががんよ」。夏ごろから、食事のあとに、胃が「ドボン、ドボン」とする感じがしていた。食べ終わるとつらくなり、横になっていた。だが、重い病気とは認識していなかった。父親も胃がんで手術を受けていた。「5人きょうだいの中で、自分だけが受け継いだのか」と思った。ただ、不思議と悲観的な気分にはならなかった。「なってしまったもはしょうがない」。河村さんの説明に納得できたので、涙は出なかった。ただちに、広島市民病院外科の二宮基樹医師(64)を紹介された。夫は二宮さんに「早く手術してください」と訴えた。「すぐに手術すればいいというものではありません。まずは検査をしないと」と二宮さん。女性はCTや血液などの精密検査を受けた。がんは胃の出口に近いところに広がっていた。胃の表面にできたがんが胃壁を突き抜けて外に広がっており、ステージ3から4の胃がんと考えられた。手術は11月の予定だった。だが、予定日の数日前に改めて撮ったCT画像を見た二宮さんらが院内で協議の末、手術を延期することを決めた。以前の画像と違い、広がったがんが膵臓にくっついている可能性が疑われたからだ。女性は近所の人との井戸端会議で」胃がんは治りやすいが、膵臓へひろがったら大変」という話を聞いていた。「膵臓」という言葉に、最初に胃がんと言われたときよりも強い衝撃を受けた。(6月30日 朝日新聞 患者を生きる より)
Jul 05, 2015 11:26

「気持の力」戻った声
7週間の放射線治療を終えたが、肝心の声はほんのかすれ声程度しか出なかった。2014年9月、落語家の林家木久扇さん(77)は、声がれはいずれ治ると聞いていても、不安で仕方なかった。「このままだと落語家としての道は閉ざされる」。数週間後に、本格復帰となる寄席が控えていた。長男の二代目木久蔵さん(39)も出演予定で、「声が出なくても、姿だけでも見せてほしい」と言われていた。前日になっても、かすれ声のまま。長女でマネージャーの豊田佐久子さんは「明日は話すのは無理そうだ」と主催者に伝えた。寄席の翌日には、テレビ復帰となるバラエティ番組の収録もあった。「奇跡のようなできごと」は、寄席当日の朝に起きた。「あはよう」。家族に何気なく発した声。かすれてはいる。それでも、これまでと比べ物にならないくらい、しっかりしていた。「あら、声が出たんじゃない!」。「出たね」。「また出た!」。妻の武津子さん(68)と佐久子さん、弟子も居間に集まって歓声を上げた。「結婚してからこんなにうれしかったことはないわ」と武津子さんは涙ぐんだ。舞台では、がらがら声だがマイクを通して客席に届いた。笑いで返してくれる客席を見ながら、実感した。「戻ってきたんだ」。木久扇さんは「気持の力が大きかった」と振り返る。ある日突然回復することもあると聞いてはいたが、佐久子さんは「まさにプロ根性だと思った」と話す。人気テレビ番組「笑点」には、10月19日の放送から復帰。この日は77歳の誕生日だった。冒頭、復帰を報告した。「よく診てもらったら喉頭がん。頭の後ろからボカッと殴られて気絶しそうな感じでございました。『後頭、ガン』、なーんちゃってね」。自分の経験を笑ってもらい、がんでもめげずにやれことがあること、治して復帰する人がいることを知ってもらいたい。個人芸で身を立ててきた。だが、多くの人に支えられてきたと実感した。家族や弟子との関係、一つ一つの仕事でのつながりを大事にしたい。「残された人生、濃く生きていきたい」と胸に刻んでいる。(4月17日 朝日新聞 患者を生きる 木久扇の声より)

May 15, 2015 21:29

あの空席は僕の席だ
早期の喉頭がんと診断された林家木久扇さん(77)は2014年7月下旬、7週間の放射線治療を受けることになった。レギュラー番組「笑点」の出演や寄席は休まざるを得なかった。東京慈恵会医科大病院(東京都港区)に月~金曜の週5日通い始めた。治療に使われたのは、「リニアック」と呼ばれる放射線治療装置。放射線を当てる部位がずれないように目印を付けたマスクを、顔の形に合わせて作った。どんな治療かと緊張したが、放射は左右からそれぞれ20秒足らずで、痛くも熱くもない。1回の治療は3分ほどで終わった。治療が午前中に終わると、時間が空いた。治療後に通勤する人も多いというが、思うように声が出ない以上、落語家の商売はできない。予定表にキャンセルのバツ印が並ぶのが情けなかった。落語家になる前、志したのは漫画家だった。腕前を生かし、カレンダーに年賀状、雑誌の表紙のイラストを描く仕事に励んだ。小学生にもわかる本「学校寄席入門」の企画も進めた。電話で制作会社とやり取りする際は、長女でマネージャーの豊田佐久子さんに筆談を交えて伝え、代弁してもらった。妻の武津子さん(68)が「お父さん、病気なんだからゆっくりして」と止めるほどだった。毎週日曜夕方には、笑点のテレビ番組を見た。定位置の座布団は空席のままだったが、「テレビの世界はいくらでも代わりがきく酷な世界」だ。もし代役が出演して定着すれば、出番を失う。45年かけて築いたレギュラーの座。たとえ弟子でも、ほかの人がそこに座るのは嫌だった。「あの空席は僕の席だ」。寄席から笑いが起きていても、全然笑えなかった。8月中旬、内視鏡による検査で目に見える腫瘍は消えていることがわかった。一方、肝心の声は治療開始後、ますます出なくなっていた。放射線の副作用で喉頭や咽頭の粘膜炎が起き、声がれがひどくなった。のどの痛みも出る。「声は元に戻るが、いつ戻るかは個人差がある」と医師から言われた。だが、心配だった。「このまま一生出ないことだってあるんじゃないか」。がんの宣告よりも、絶望的な思いに襲われた。(4月16日 朝日新聞 患者を生きる 木久扇の声より)

May 14, 2015 08:13

「笑点」無欠席の目標が
「こんな小さいがんのために、残りの人生を棒に振るなんて」。2014年7月上旬、喉頭がんの疑いを告げられた、落語家の林家木久扇さん(77)は不安だった。人気テレビ番組「笑点」や寄席を休み出番を失ったら?収入は途絶え、弟子は離散、家族も路頭に迷う。悪い想像が駆け巡った。病気の進行度を示すステージは4段階のうち「2」。早期の喉頭がんと診断された。笑点のレギュラーになって45年。一度も休んだことがなかった。2000年、早期の胃がんになった。入院は約1カ月。看護師に付き添われ、点滴を付けたまま病院から番組の収録に向かった。人を笑わせる仕事でもあり、イメージを考え、退院後も病気を隠し通した。母親が亡くなったときも、笑顔で舞台に上がった。笑点は今年5月に放送開始50年目を迎える。無欠席でその日を迎えることが目標だった。治療は、放射線を中心にすることになった。人前に出る落語家という仕事。東京慈恵会医科大病院(東京都港区)耳鼻咽喉科の主治医、加藤孝邦さん(66)は、病気を治すことはもちろん、声をきちんと残し、見た目にも大きな影響が出ないことを考慮した。初期の喉頭がんの場合、放射線治療の効果は高く、喉頭をそのまま残せて自然な声を残せる。抗がん剤を合わせて使うこともある。がんが進むと手術も選択肢になる。喉頭の部分切除や全摘出をする。全摘出の場合、声は失われる。左右の声帯が振動することで声が出るが、木久扇さんは声帯付近に腫瘍ができてうまく振動しなくなり、声の出が悪くなっていた。放射線治療が始まると、副作用で一時的にもっと声がれがひどくなる恐れもある。声が出ない以上、仕事は休まざるを得ない。笑点は2014年7月20日放送分を最後に休むことにした。寄席や地方公演の予定もキャンセルした。「より一層おもしろくなって皆様の前に帰ってまいります」。放送翌日、報道各社にファクスを送り、病気を公表した。翌日から週5日の通院治療が始まった。「一刻も早く自分の場所に戻ってみせる」。自分に言い聞かせた。(4月15日 朝日新聞 患者を生きる 木久扇の声より)
May 13, 2015 08:02

新番組諦め 臍帯血移植
2013年3月、急性リンパ性白血病を再発した大塚範一さん(66)は、直前までフジテレビ系の新番組「アゲるテレビ」の準備に追われていた。約1年半ぶりの復帰を前にした無常な再発だった。「なんで、このタイミングなの、と。でも、スタートしてからだったら、また途中降板であんなに迷惑をかけたから、これでよかったのかな、とも思ったりね」。都内の大学病院に再入院した大塚さんは、骨髄移植でなく、臍帯血移植を受けることになった。使うのは、母親と胎児を結ぶへその緒(臍帯)と胎盤の血液の中にある造血幹細胞。成人の骨髄中のものに比べて増殖能力が高く、拒絶反応を起こしにくいため、HLA型(白血球の型)が完全に一致しなくても使える。高齢の患者は、骨髄移植での定着率がよいとされる血縁者も高齢でドナー(提供者)になれない場合が多いが、臍帯血ならドナーが見つかりやすい。6月、大塚さんの体内にHLA型が合った女の子の臍帯血が移植された。25~30ccほどの液体を腕から点滴で入れたあと、1カ月ほど無菌室で過ごした。移植はうまくいき、B型だった大塚さんの血液型はドナーの女の子と同じA型に変った。臍帯血移植を世界でもっとも多く手がける、虎の門病院(東京都港区)血液内科の内田直之医長は、「HLA型などの条件さえ合えば、移植決定の翌日にでも移植前治療が開始できる早さが最大の利点」という。移植された細胞が患者の体を攻撃するGVH病が起こりにくく、ドナーへのリスクもない。同病院が血液がんの患者に行う年150件ほどの移植のうち3分の2が臍帯血という。ただ、骨髄移植に比べると、臍帯血には造血幹細胞の数が少ないため、造血の回復の早さ、生着率などで若干不利な部分もある、との指摘もある。移植から今年6月で2年。4週間に1度、定期検査を受け、単発のテレビやラジオの番組にときどき出演するが、「完全復帰」はまだまだだ。ただ、大塚さんはこう話す。「僕はテレビの仕事しかできない。絶対に治るとう確信はありませんが、絶対に闘ってやるという覚悟はできているんです」。(4月10日 朝日新聞 患者を生きる 大塚範一の闘いより)
May 11, 2015 08:05

患者にウケるコントを
2014年1月、約8時間の手術で胃と小腸のがんを取り除いた元お笑いコンビ「ゆーとぴあ」の城後光義さん(65)は、いまでも手術の日のことをよく思い出す。病室から手術室への移動にはストレッチャーは使わず、自分で歩いて向かった。エレベーターの扉が開くと、ガラス張りの手術室が並び、動き回る医師や看護師の姿が見えた。城後さんがいちばん奥の手術室に入ると、医師らがあいさつをしてきた。「麻酔担当の○○です」「外科医の○○です」。「芸人の私には、まるでコントのセットのように見えました。もう少しで、じゃあ本番行こうか、と言いそうになったよ」。いま、城後さんは今年初めから新しい相棒となった中村有志さん(58)と「がんコント」という新たな分野に挑戦している。「ゆーとぴあの時代から医師と患者のコントはやっていたけど、よく『病気を笑いにするな』としかられた。でも、四つのがんと闘ったんだから、文句は言わせない。ネタはいっぱい仕入れたから、僕にしかできない『がんコント』ができると思うんです。たとえば、銭湯で背中に大きな手術痕がある男性に出会ったシーンでの、こんなやりとり。城後さんが気をかける。「肺がんでしょ。医者はいい仕事してますね。どこの病院?」「あなた、なんなんですか」「この部分が惜しい。ちょっと縫い目が乱れていますね」「けんか売っているんですか」。くるりと向き直って背中の手術痕を見せ、「きっちり、縫い目がそろっていないと、ね」。城後さんは話す。「むかしは離婚したと言うことが恥ずかしかったけど、いまの若い人は明るく『離婚しちゃった』って言うでしょ。がんも同じです。『がんになって胃が半分になりました』と笑いながら言えるようになる」。がんの手術から約1年3カ月。胃が小さくなったので、食事を何度も小分けにして食べなければいけないが、経過は順調だ。「がんはやっぱり、とんでもなく怖い。だからこそ、がん患者が明るく笑える『がんコント』。やりますからね」。(5月9日 朝日新聞 患者を生きる 闘病も笑いにより)
May 10, 2015 08:01

術後に痛みと吐き気
元お笑いコンビ「ゆーとぴあ」の城後光義さん(65)は2014年1月16日、東京共済病院(東京都目黒区)でがんの手術を受けた。外科系診療部長の後小路世士夫さん(54)ら2人の医師が手術を担当した。まず、胃の中央から下部に至るがんを取り除く手術から始めた。切り取った胃の腫瘍の食道側にがんが残っていないか調べるため、手術と並行して組織の病理検査をした。後小路さんらは「がんが浸潤しているので、もう少し切り足したほうが安全」と判断した。さらに15ミリほど筒状に追加切除することにし、胃全体の半分近く切り取った。この段階で問題が出てきた。胃の切除範囲が大きくなったため、十二指腸と胃との距離が広がり、つなぐのが難しくなった。そこで、ひとまず胃は接合せずにそのままの状態にし、小腸の手術に取りかかった。こびし大の腫瘍は小腸の上部にある空腸にあった。3ミリほど横を動脈が走っているため、慎重にはがしながら切除した。この段階で医師らが話し合い、小腸と胃をつなぐことにした。十二指腸は入口部分を塞ぎ、そのまま体内に残すことにした。後小路さんは「症例の多い胃がんについては、腫瘍の大きさや場所などを基準に当てはめて手術することができた。だが、空腸のがんは珍しいため、そのような基準がなく、開腹してその場でデザインを話し合いながら進めなければならなかった」と振り返る。8時間かかった手術は無事終わった。だが、城後さんは手術後に激しい痛みに襲われた。「地獄の痛みでしたね。医者役のコントでよく、人間、痛みでは死にません、って言っていましたが、いや、死にかけました」。また胃がんの再発を防ぐため、TS-1という抗がん剤を半年間飲み続けた。覚悟はしていたが、胃が口から飛び出すような吐き気に襲われた。「やめたい、って先生に言うと、やめてもいいですけど、再発しますよ、って言われて・・・」。後子路さんは話す。「城後さんは、いい加減に見えて、けっこうまじめ。優等生の患者ですよ」。(5月8日 朝日新聞 患者を生きる 闘病も笑いにより)
May 09, 2015 07:55

最後覚悟のゴムぱっちん
胃と小腸にがんが見つかった、元お笑いコンビ「ゆーとぴあ」の城後光義さん(65)は2014年1月2日、病院を抜け出し、東京の浅草演芸ホールにいた。手術を2週間後に控えていた。「新春!お笑い名人寄席」の楽屋で、出番直前まで栄養補給のために点滴を受けていた。本番になるといきなり持ち芸の「ゴムぱっちん」を披露。爆笑に包まれながら舞台を走り回った。「医者からはやめなさいと言われたけど、芸人は舞台で死ねば本望だから。でも、本当に死にそうだったな」。実は城後さん、このステージが人生最後の舞台になると考えていた。「もしかしたら、手術ができない可能性がある」。東京共済病院(東京都目黒区)の外科系診療部長、後小路世士夫医師(54)から、そう聞かされていたからだ。城後さんの胃がんは原発性だったが、小腸のがんは以前に切除した肺がんから転移したものだった。小腸はがんが出来にくいとされているが、城後さんが患った肺の「多形がん」の場合、小腸に転移することがあるという。腫瘍が大きく張り出し、小腸の空腸部分のほとんどをふさいでおり、栄養を極めて摂取しにくい状態になっていた。このため、がんを切除した後に腸などをつなぐのに不可欠なたんぱく質「アルブミン」の血中濃度が極端に低くなっていた。後小路医師は話す。「内臓の手術をする外科医がいちばん恐れるのが、切除した後の胃や腸がうまく接合せず、体内に内容物が流れ出すことです。くっつく可能性が低ければ、がんを切除できませんから」。いかに体内のアルブミンの量を増やすか。それが課題だった。城後さんは手術までの3週間、一日中、首元から管を入れ、点滴で栄養を補い続けた。それでもアルブミンの血中濃度は思うように高くならなかった。「開腹しても、状態によってはがんを切除できない可能性もある」との前提で、手術は2014年1月16日に行われた。胃の腫瘍は直径5センチ、小腸もこぶし大で予想以上に大きかった。このため、手術は何度も中断し、約8時間もかかった。(5月6日 朝日新聞 患者を生きる 闘病も笑いにより)
May 08, 2015 08:03

「がん君、縁切りたいよ」
お笑いコンビ「ゆーとぴあ」で活躍した「ホープさん」こと城後光義さん(65)に初めてがんが見つかったのは2007年だった。念のため受けた検査で、大腸に8個のポリープが見つかった。内視鏡で切除して調べたところ、このうち3個が悪性腫瘍だった。2回目のがんが見つかったのは、舞台で咳が止まらず血痰が出て検査を受けたのがきっかけだった。2013年6月、国立がん研究センター中央病院(東京都中央区)で、「多形がん」というタイプの肺がんと診断された。当時、医師とコントのようなやりとりがあったという。「今すぐ、たばこをやめてください」。「先生、たばこをやめてまで長生きしたくないんです。いい芸人は長生きしないものですから」。「城後さん、たばこをやめないと手術ができません。手術ができなければ、余命は3カ月です」。「3カ月?すぐやめます」。7月、約8センチの腫瘍を取るため、左肺の上葉を切り取る手術を受けた。リンパ節への転移もなく、手術後の抗がん剤治療や放射線照射もなかった。1カ月ほどで退院し、「さあ、舞台で暴れ回るぞ」と張り切っていた。ところがその矢先に、胃と小腸に新たながんが見つかった。きちんと食事をとっても、どんどんやせていく。2013年の末、異変を感じてかかりつけの医院を受診し、東京共済病院(東京都目黒区)を紹介された。胃の中央から下部にかけてと、小腸のうち十二指腸に近い空腸と呼ばれる部分の2カ所にがんができていた。肺がんの手術の後に受けた検査で転移は見つからなかった。だが、多形がんの場合、急速に大きくなることがあるという。城後さんは思った。「がん君、君もよくがんばるな。俺はもう縁を切りたいんだよ。お前が死ぬか、俺が死なないと、別れられないんだな」。胃のがんは通常の切除出で対応できる。だが、問題は空腸のほうだった。がんの大きさはこぶしほどあり、動脈から3センチのところまで広がっていた。3度目のがんで、常がさんは初めて死を意識した。(5月5日朝日新聞 患者を生きる 闘病も笑いにより)
May 07, 2015 07:55

相談できる婦人科医を
子宮の入口、頚部にできる子宮頸がんは、国内で年間約1万人が新たに診断される。特に30代を中心とした世代で増えている。年間約2700人が亡くなる。主に性交渉で感染するヒトパピローマウイルス(HPV)が原因だ。HPVはごくありふれたウイルスで、性交渉の経験のある人の多くが感染するとみられている。HPVに感染した人のごく一部に、細胞が異常な状態になる前がん病変の「異形性」が起きる。通常は自然に治るが、さらにごく一部で時間をかけてがん化する。子宮頸がんは検診を定期的に受けることで、前がん病変の段階で見つけることができる。20歳以上の女性は2年に一度、検診を受けることが推奨されている。自治体が費用を助成している。慶応大の青木大輔教授(産婦人科)は「定期的に検診を受けると、子宮頸がんで死亡するリスクを最大8割下げられるという研究がある」と話す。検診は、子宮頸部の細胞をブラシでこすり取るなどの方法で調べる。前がん病変も軽度なら、定期的に経過を観察し様子を見るのが一般的だ。進行すると、子宮頸部の一部を切除する円錐切除術という手術などが必要だ。ほとんどの場合は治るが、早産などのリスクが高まるとの指摘もある。HPVの感染自体を減らすためにできたのが、HPVラクチンだ。2010年度から公費助成され、2013年に定期接種となった。だが、長期的な痛みなどに襲われる人が出たため、国は現在積極的な勧奨はせず、追跡して調べている。初期の子宮頸がんの治療は、円錐切除術か子宮全摘出術といった手術が一般的。妊娠を希望するかも考慮して治療法を決める。進行すると、手術のほか、放射線だけ、また放射線と抗がん剤を併用して治療する。子宮頸部の奥にある体部にできるのが子宮体がんだ。発生原因やがんができる仕組みは子宮頸がんと異なる。治療は子宮ろ卵巣・卵管などを摘出する手術が中心だ。多くの場合、月経時以外に出血などの症状がある。青木さんは「異変があったらすぐに相談できるかかりつけの産婦人科を持つことが大事だ」と話す。(5月2日 朝日新聞 患者を生きる 原千晶の願い・情報編より)
May 06, 2015 08:14

患者会に救われた
子宮体がんが見つかった原千晶さん(41)は2010年1月、子宮を摘出する手術を受けた。リンパ節にも転移しており、手術後に抗がん剤の治療を始めた。2種類の抗がん剤の点滴を、3週間ごとに6回受けた。初回の点滴から約3週間後、頭皮がピリピリと張る感じがした。浴室でお湯をかけた瞬間、髪の毛が一気に抜けた。抗がん剤治療を重ねるたび、異なる副作用が出た。体に電気を流されているようなしびれ。ひどい便秘になったかと思えば下痢になる。よく眠れない。周囲に伝えづらい不快な感覚に苦しんだ。「がん患者になったんだな」。抗がん剤治療を受け、始めて実感した。そんな中でも、テレビの通販番組の仕事を受けた。かつらをかぶり、つけまつげをしてカメラの前に立つと、「気持がシャキっとした」。病気のことを忘れることができた。体力的にはきつかったが、精神的な支えになった。5月半ば、抗がん剤治療を終えた。その年の10月、ずっと支えてくれた恋人と結婚。がんで闘病していた事実とともに、公表した。原さんのブログには、がんの闘病を経験した女性たちから、コメントが書き込まれるようになった。それが縁で2011年7月、主に婦人科系のがん患者による「よつばの会」と立ち上げた。治療のことだけでなく、身近な話からほかでは言いづらい悩みまで共有できる場だ。自分にとっても力になった。2013年には、女性誌での連載をまとめた本を出版。闘病の記録だけでなく、心構え、治療と仕事の話、治療後の運動など、現実的な内容を盛り込むようにした。今年、治療終了から5年がたつ。経過観察のために病院に行く回数も減る。だが、また再発・転移するかもしれない。その覚悟はいつも持っている。一方で、子どもを産みたいという願いが摘み取られ、「なぜ私なの」という気持にとらわれることは今もある。二度のがん闘病を経験した30代。体のサインから目を背け、向き合おうとしなかった。「何でも人のせいにしていたのだと思う。自分の人生に責任を持ち、腹を据えて生きていこう」。闘病を経験して得たその思いが、今の生き方を支えている。(5月1日 朝日新聞 患者を生きる 原千晶の願いより)
May 05, 2015 08:01

情報求めず、医師を信頼
大塚範一さん(66)は、朝の情報番組「めざましテレビ」(フジテレビ系)では、様々な情報を扱うキャスターだった。しかし、入院中はあえて、急性リンパ性白血病に関する情報を求めなかった。病気に詳しい知人や白血病を経験した視聴者らが、医学情報や病院の評判を伝えてくれることもあった。でも、総合的には耳を貸さなかった。「赤ワインをたくさん飲んで免疫力を高めるポリフェノールをとりなさい」「がん細胞を防ぐ有機トマトのすばらしいものがあるから、よかったら届けます」。そんなアドバイスも聞き流した。「やっぱり、患者は医学的には門外漢であり、門外漢であるべきなんです。医師のいうことだけをしっかり守ろう、いい患者でいようとだけ考えました」。それが、大塚さんなりの病気との向き合い方だった。健康法や体験談などから、ひとつだけ「採用」した助言があるとすれば、「気持を明るく持ちなさい」ということだけだった。原因も予防法も未知の部分が多い白血病について、知れば知るほど気がめいり、明るく過ごすことができなくなるのではないか。「情報が、患者の闘う力をそぐこともあると思うんです」。セカンドオピニオンも求めなかった。大塚さんは「病気にも、縁や出会いがあるんです」と話す。首のリンパ節に小さなしこりがる段階で病気に気づき、体力が残っていた。最初に訪れたクリニックに、大学病院から医師が週1回診察に来ていて、その医師に診断してもらえた。白血病では日本でトップレベルとされる大学病院に入院できた。そしてしこりの「発見」から10日ほどで抗がん剤治療が始まった。「入院直後、知人の元プロ野球監督の星野仙一さんから、現代医学を信じてがんばれ、というメールをもらったんです。つらいとき、その言葉をよく思い出しました」と大塚さんは振り返る。2012年10月、11カ月に及ぶ抗がん剤治療を終えて退院した。しかし、5カ月後の2013年3月、定期検査で白血病の再発が分かった。テレビ復帰に向け、着々と準備を進めている時期だった。(4月9日 朝日新聞 患者を生きる 大塚範一の闘いより)
May 04, 2015 08:39

大塚範一の闘い 2
華やかなテレビの世界に身を置き、ゴルフとおいしい食べ物を楽しむ生活から、孤独な病室で大量の薬を浴びるように体内に入れる生活へ。「激変した生活に耐えられたのは、孝行時代の体験があったから」と大塚さんは話す。入学した東京都立両国高校は、当時は年50人ほどが東大に入る進学校。小中学高で「学力では向かうところ敵なし」だった大塚さんだが、どれだけ勉強しても、授業以外は全然勉強しないトップ10の生徒にかなわない。その両国高の上に都立の超進学高が何高もあった。「小さな存在でしかない自分は、与えられた場所で耐えるしかない」と悟ったという。治療中、唯一の楽しみは、「温泉、ゴルフ、おいしいもの」について考えることだったが、あるとき大失敗をしでかす。一時退院した後、病院に戻って血液検査をしたところ、生肉で感染することは多いカンピロバクター菌という食中毒菌が検出されたのだ。医師は首をかしげながら、「一時退院のとき、なにか鶏肉を食べませんでしたか」と尋ねた。思い当たったのは、焼き鳥屋で、突き出しの鶏肉の生のたたきを食べたことだった。カンピロバクター菌の細菌感染から胸の内側にヘルペスができ、眠れないほどの痛みが数週間続いた。抗がん剤治療も1カ月ほど中断された。後日、「11カ月の入院中、あのときは感染症が広がる可能性があり、一番のピンチでした」と医師から聞かされた。(4月8日 朝日新聞 患者を生きるより)
May 03, 2015 08:58

逃げられると思ったが
子宮頸がんの治療後に再び体調が悪化した、タレントの原千晶さん(41)は2009年12月、婦人科クリニックで子宮の異常を指摘された。「この時がついに来てしまった。どうしよう」。後悔と恐怖が、一気に押し寄せた。以前に手術を受けた東京慈恵会医科大病院(東京都港区)に、月に1度検診に行く約束で、子宮を残す道を選んでいた。だが、3年ほど病院から足が遠のいていた。行きづらくて都内の別の病院を紹介してもらい、受診した。医師は診察し、言った。「どうしてこんなになるまで放っておいたの」。返す言葉もなかった。「がんの疑いが強い」と告げられた。検査の結果、子宮頸部の腺がんの疑いと診断された。2005年に見つかった扁平上皮がんとは異なるタイプで、悪性度が高いという。子宮などを摘出する手術の後、抗がん剤治療が必要だと説明された。5年前の、子宮を取るだけで済むという状況とは大違いだった。以前のカルテが必要だと言われ、東洋慈恵会医科大病院の落合和徳さん(66)に連絡した。「すぐにいらっしゃい」と落合さんは答えた。3年振りに訪ねた病院で、原さんは謝った。「勝手な行動を許してください。がんから逃げられると思っていました」。診察の後、落合さんは「必ずまたテレビに出られるようにしてあげるから」と言葉をかけた。「この人にゆだねよう」。原さんはここで手術を受けようと決めた。詳しい検査を受けたところ、子宮頸部近くにできた、子宮体がんであることがわかった。体がんは、子宮頸部の奥にある体部にできるがんで、頸がんとは発声原因も性質も全く異なるがんだ。手術までの間、気がかりだったのは、恋人との今後だった。お互い、結婚を意識していた。素直に気持を打ち明けた。「子どもが産めなくなる人と結婚するというのは、どうなの?」。彼の両親も、孫の顔を心待ちにしているに違いない。しかし、彼は言った。「子どもが産めなくなる運命が君にあったのなら、僕にもあったのだと思う」。2010年1月中旬。30歳のときにはどうしても決断できなかった、子宮摘出手術を受けた。(4月30日 朝日新聞 患者を生きる 原千晶の願いより)
May 02, 2015 07:46

遠のいた病院 痛み再発
子宮頸がんと診断された、タレントの原千晶さん(41)は、再発・転移を防ぐために子宮の摘出手術を受けると決めた。だが、どうしても迷いを振り切れなかった。2005年4月、東京慈恵会医科大病院(東京都港区)に入院する前日になって、主治医の落合和徳さん(66)に電話をして、手術をためらう気持を告げた。翌日、外来に行った。「とにかく、1カ月に1回、必ず検査を受けてください」と落合さん。手術を見送る代わりに、経過観察を続けることを原さんは約束した。それから、毎日欠かさず病院に通った。視診や触診、超音波検査などのほか、子宮頸部の細胞をブラシのようなものでこすり取る検査も定期的に受けた。だが、2年間病院に通い続けるうち、安心は過信へと変っていった。「いったい、いつまで病院に行かなきゃいけないのだろう」。生理はちゃんと来る。体調も悪くない。「このままがんから逃げ切れるかもしれない」。そう思った。子宮頸がんの主な原因が、性交渉によるウイルス感染だと知ったのもショックだった。同世代の友人たちは仕事に励んだり、家庭を持ったり、充実して幸せそうに見えた。「なんで私ばかり」。がんになったという事実を、無かったことにしたかった。2007年、新しい出会いもあった。出演したドラマのプロデューサーだった男性と交際を始めた。ドラマの撮影で忙しい日々が続き、頭の片隅で不安は感じつつ、病院から足が遠のいていった。再び体調に異変が現われたのは2009年夏ごろ。35歳のときだった。水のようなおりものが大量に出る。月経血の量も増えた。年末には、生理中に耐え切れないほどの腹痛に襲われた。運転していた車を路肩に止め、交際中の男性に電話して迎えに来てもらった。2時間ほど痛みに苦しんだ末、5年前に最初に受診した婦人科クリニックに駆け込んだ。診察した医師は「また、何かできています」と言った。尋常ではない雰囲気を感じ、「がんですか」と思い切ってたずねた。「はっきりしたことは言えませんが、一刻も早く大きな病院に行ってください」。血の気が、一気に引いていくのがわかった。(4月29日 朝日新聞 患者を生きる 原千晶の願いより)
May 01, 2015 07:57

前日「子宮とりたくない」
「子どもを産めなくなるんですか」。2005年3月、初期の子宮頸がんと診断されたタレントの原千晶さん(41)は、思わず問い返した。がんの再発・転移を防ぐために子宮摘出手術を受けるよう勧められた、東京慈恵会医科大病院(東京都港区)の主治医、落合和徳さん(66)は一瞬の間をおいて、「そうだね」と答えた。「今なら子宮を取るだけで、卵巣・卵管の切除、抗がん剤や放射線の追加治療もいらないから。1週間考えて決めてください」。この場からいなくなりたい。逃げるように診察室を出た。帰りの車中、付き添っていた母親の多恵子さん(65)が言った。「ショックなのはわかるけど、お母さんは、あなたがいてくれないと困るのよ」。それまで見たことのない、悲痛な表情だった。札幌にいる父親竹男さん(67)とも、電話で話した。その5年ほど前に大腸がんの手術を経験していた。竹男さんは「俺は手術を受けてほしいと思う」と言った。いつも厳しかった父が、電話の向こうで泣いていた。「俺とお母さんに、孫の顔を見せなくちゃとか、考えなくていいから。お前が生きててくれ」。両親や友人、主治医の言葉に「とにかく手術を受けよう」と決めた。「結婚して赤ちゃんを産めなくても、しっかりと仕事をしていけば人生を切り開いていける。仕事に生きるのも一つの選択肢のはず」。いつ子どもを産んで、その間の仕事はどうするのか。それまでの漠然とした不安から、解き放たれるような気もした。手術は約1カ月後。今の自分の姿を残したいと、写真家の篠山紀信さんに頼んで、写真を撮ってもらった。だが、その後、心が揺れ始める。がんが再発したり、転移したりするかどうかは誰にもわからない。「なのに、どうして子宮をとらなければいけないんだろう」。「仕事も恋愛もうまくいかない。この上、子宮まで失ってしまうなんて」。子どもを産める可能性を少しでも残しておきたかった。入院前日、落合さんに電話をかけた。「先生、どうしても手術を受けられません。子宮をとりたくないんです」。(4月28日 朝日新聞 患者を生きる 原千晶の願いより)
Apr 30, 2015 07:57

いつか出産 信じてたのに
タレントの原千晶さん(40)は2004年12月下旬、耐え切れないほどの痛みで婦人科を受診し、子宮の入口(頚部)にできものが見つかった。詳しい検査を受けるため、東京慈恵会医科大病院(東京都港区)へ行った。検査の後、婦人科医の落合和徳さん(66)から、診断を確定させるために「円錐切除術」という手術を受けるよう勧められた。子宮頸部を円錐状に切除し、取った部分を病理検査するという。「がんの可能性もある」と説明されたが、「そんなわけない」とあまり気にとめなかった。2月下旬、手術を受けた。全身麻酔だったが。1時間もかからずに終わった。札幌市に住む母親の多恵子さん((65)が上京し、付き添ってくれた。手術の2日後には退院し、自分で車を運転して帰った。手術と聞いて身構えていたが、あっけなく終わった。おりものの異常や腹痛も無くなり、すっきりした気持だった。「こんなことなら、もっと早く病院に行けばよかった」。約2週間後、病理検査の結果を多恵子さんと聞きに行った。「何かあったらまたおいで」と言われるぐらいだろう。軽い気持で診察室に入った。「この前とったところだけど、がんでした」。予想もしていなかった落合さんの言葉に、頭が真っ白になった。子宮頸がんの一種で、頚部を覆う細胞にできる「扁平上皮がん」。がんが子宮頸部にとどまっている「1期」の中でも、ごく初期の「1a1期」という。だが、もっとショックだったのは、その後の言葉だった。「再発・転移をさせないため、子宮を前部とったほうがいいと思います」。1期で一般的な子宮の摘出手術を勧められた。その瞬間、隣にいた多恵子さんが、原さんの右手をギューと強く握った。「先生、わたし、子どもを産めなくなるんですか」。当時30歳。結婚して子どもを産む。それはいつか叶う夢だと信じていた。「どうしよう。なんでこんなことになったの。なんで子宮を取らないといけないの」涙がボロボロと、止め処なくあふれた。
Apr 29, 2015 07:53

迷える30歳 腹部に痛み
テレビの情報番組でコメンテーターなどを務めるラレントの原千晶さん(40)。千葉県内で2月に開かれた講習会で、2度のがん闘病経験を語り、がん検診を受けることの大切さを訴えた。「みなさん、私は悪い例です。どうか『原千晶』にならないようにしてください」。1994年、20歳で芸能界にデビューした。登竜門とされたキャンペーンガールに選ばれた。テレビの情報バラエティ番組の司会を務め、映画やドラマにも出演。無我夢中で20代を駆け抜けた。だが、30代を前に行き詰まった。ヒット曲がある歌手でも、賞を取った女優でもない。「テレビに出て、北海道のおばあちゃんにたくさん見てもらいたい」。ただそんな思いで仕事を続けてきた。芸能界でどんな方向性を切り開いていけばいいのか。いつかは結婚し、子どもを生みたい。先が思い描けずに悩み、疲れていた。仕事も減っていった。2003年から約1年間仕事を休んだ。久しぶりにゆったりとした時間を過ごしながら、進む道を模索した。体に異変が出始めたのはそんな2004年夏ごろのこと。30歳になっていた。そろそろ仕事を再開しようかと思い始めたころだった。毎月の生理は来るが、経血の量が多い。おなかが痛み、生理中でなくても出血があった。赤茶けたようなおりものも出るようになった。様子がおかしいと思いながらも、病院には行かなかった。重い生理通は以前からあったし、30代になったこともあり、「年齢のせいかな」と考えた。だが、症状はさらに悪化していった。生理中でなくても、下腹部に激しい痛みを感じるようになった。鎮痛剤を飲んでも、すぐにまた痛くなる。「病院に行ったほうがいいよ」。友人の言葉に背中を押され、年末にやっと東京都内の婦人科クリニックを受診した。内診した医師に言われた。「子宮の入口の頚部に、1センチちょっとのできものがあります。恐らくそれが悪さをしているのだと思います」。大きな病院で検査をしたほうがいいという。「一体、何なんだろう」。一抹の不安がよぎった。(4月24日 朝日新聞 患者を生きる 原千晶の願いより)
Apr 28, 2015 07:53

毎日がいとおしくなった
子宮筋腫と子宮頸がんが相次いで見つかった森昌子さん(56)は、2010年5月、子宮を摘出する手術を受けた。医師に勧められてから、1年近く迷った末の決断だった。本来は1時間余りの手術だが、4時間かかった。森さんの場合、子宮が腸などの臓器と癒着していた。そこをはがす必要があった。手術後、病室に戻ったが、麻酔が切れた後に下腹部が強く痛み始めた。下腹部の左側が大きく膨らんでいた。看護師に告げると、再び手術室に運ばれた。腸から出血が見つかった。子宮に癒着していた部分だった。一度縫った所から管を入れ、血を外へ出し、止血の処置をした。手術から数日後、森さんはさっそくリハビリテーションを始めた。点滴バッグをつり下げながら、背筋を伸ばし、寝間着姿で病院の廊下を歩き回る。同じようにリハビリに取り組む女性患者たちから、すれ違うたびに、「森さん?」と驚かれた。「頑張りましょうね」。互いに声を掛け合った。森さんは手術から10日後、東京都内で記者会見を開き、子宮摘出を公表した。「心身ともに健康になれた。これからはファンの前で笑顔でいられる」。当初は手術の公表に不安もあったが、会見では治療の経緯を詳しく話した。反響は大きかった。たくさんの手紙が森さん宛てに届いた。多くが女性からだった。子宮の摘出を迷い続けている人がいる一方、会見を聞いて子宮の摘出に決心がついたと、つづってきた人もいた。「怖がらないで大丈夫、と発表したことで、同じ病気で悩む女性たちが決断をするきっかけになれたのは、うれしいです」。手術後、更年期障害の症状が消え、うつ状態からも開放された。末っ子の三男が昨年成人して独立、子育てにも区切りがついた。今月15日、NHKラジオの歌謡番組。森さんはロック調の新曲「惚れさせ上手」をエネルギッシュに歌い上げた。歌手デビューから通算60曲目のシングル曲だ。この曲とともに森さんはいま、コンサートなどで全国を飛び回っている。「病気を経て毎日がいとおしくなった。大事に生きなきゃ、バチが当たっちゃいますね」と笑う。(4月23日 朝日新聞 患者を生きる 森昌子の復帰より)
Apr 27, 2015 08:03

迷った末 子宮摘出決断
2009年春、子宮頸がんと子宮筋腫の手術を受けた歌手の森昌子さん(56)は、医師から子宮を摘出する手術を勧められたものの、迷っていた。その間にも、いったん除去した子宮筋腫の再発が見つかるなど、体調に不安を抱えていた。森さんは知り合いの産婦人科医の女性に久しぶりに連絡を取った。子宮を取ったほうがよいかどうか、セカンドオピニオンを求めて相談した。すると「私も子宮を取ったほがいいと思う。でも判断するのは昌子さん。早急に決めることはないですよ」と、意見を言ってくれた。治療の相談だけでなく、子育ての悩みなど、ふだんの生活に関する話にも耳を傾けてくれた。森さんは「子宮の摘出に向けて、時間をかけて、自分の気持を整理する助けになった」と振り返る。森さんは当時、ホルモン剤を服用していた。エストロゲンという女性ホルモンの分泌を抑える薬で、筋腫が大きくならないようにするのが目的だった。当時は精神的に不安定で不眠が続き、貧血状態だったこともあり、鉄剤や睡眠導入剤なども飲んだ。ホルモン剤も含め、多いときで10種類の薬を持ち歩いていた。薬の副作用なのか、ひどい湿疹が全身に出るようになった。顔が真っ赤になり、化粧でも隠しきれなくなった。テレビ番組で森さんを見た人から「どうしたんですか」と案じる電話もかかってきた。このままの体調では、ファンや周りに心配をかける。もう迷うのはやめよう。森さんはかねて主治医に勧められていた子宮摘出手術を、ついに受ける決心をした。「先生、お願いいたします」。そう告げると主治医は「いい決断だと思います」と答えた。治療方針が決まり、森さんの迷いは消えた。(4月22日 朝日新聞 患者を生きる 森昌子の復帰より)
Apr 26, 2015 08:02

森昌子の復帰
歌手の森昌子さん(56)は、2006年3月、20年振りに芸能界に復帰した。背中を押してくれたのは、3人の息子だった。歌番組にコンサート、ドラマ。かつてのように忙しい毎日が再び始まった。40代後半で、離婚に続き、芸能界への復帰と、取り巻く環境が大きく変った。そんな中、森さんは更年期障害に悩まされるようになった。脱力、疲労感や不眠、めまいの症状に見舞われながら、仕事を続けた。そのうち、うつ症状にも苦しむようになった。華やかな歌手活動。その裏で、心身の不調に苦しむ日々が続いた。2009年に入ると、突然、顔や体のあちこちのブツブツとした感じの湿疹ができた。以前から下腹部の圧迫感も感じていた。エコーで子宮の状態を調べたところ、大小30~50個の子宮筋腫ができていることがわかった。「おなかの違和感はこれが原因だったのか」と納得した。筋腫を取るため、「筋腫核出術」と呼ばれる、レーザーで筋腫だけを切り出す手術をした。だが、その後の検査で、予想外の病気がさらに見つかった。「子宮頸がん」だった。がんはごく初期のもで、粘膜の表面にとどまっていた。2009年春、子宮筋腫の手術に続き、「レーザー蒸散術」という子宮頸がんの手術を受けた。ただ、子宮頸がんが見つかった当初から、森さんは主治医から「子宮を摘出したほうがいい」と勧められていた。がんが再発する危険性を抑えるためには、摘出したほうが良いのかな・・・・。森さんはそう思う一方、この時は首を縦に降ることができなかった。「子宮を取ってしまったら、女性でなくなってしまうような気がして、どうしても承諾できませんでした」。(4月21日 朝日新聞 患者を生きる より)
Apr 25, 2015 08:03

「耐える」高校時代悟った
朝の情報番組「めざましテレビ」(フジテレビ系)のキャスターだった大塚範一さん(66)は2011年11月、急性リンパ性白血病の抗がん剤治療を始めた。入院して6日目だった。治療の基本は、大きく分けて寛解導入療法と寛解後療法がある。寛解導入療法では複数の抗がん剤を使い、がん細胞がほとんどなくなる「完全寛解」を目指す。ただ完全寛解になっても、治療を中断すると、がん細胞はすぐに増殖してしまう。そこで、さらに「地固め療法」「維持療法」とも呼ばれる寛解後療法で、別の強力な抗がん剤を大量に使って寛解の状態をより確実なものにする。同時に、強力な抗がん剤のため、肝臓や腎臓を守る薬も使う。(4月8日 朝日新聞 患者を生きる 大塚範一の闘いより)

Apr 24, 2015 08:04

必要な治療だったのか
80歳だった父は、小腸に腫瘍が見つかり、医師に「GIST(ジスト)かも知れない。とりあえず開腹手術をしましょう」と言われ、よく考える時間もないまま手術に応じました。手術後4カ月目に容態が急変し、昨年7月に亡くなりました。高齢の父は、開腹手術を受けたことで体力を消耗してしまいました。それまでは、趣味の登山やゴルフを楽しみ、普通に食事をすることもできました。しかし、手術後にあっという間に亡くなってしまいました。手術をしていなければ、もう少し人生を楽しめたのではないか。必要な治療がある一方、必要のない治療もあるのではないかと感じています。宮城県 50歳 女性。(4月4日 朝日新聞 患者を生きる 読者編より)
Apr 23, 2015 07:55

患者同士の情報、大切
スキルス胃がんの患者・家族会「希望の会」の立ち上げメンバーの一人です。3月、NPO法人として認められ、会員数は60人を超えました。会を設立したのは、私の大学の先輩の男性が、ステージ4のスキルス胃がんと診断されたのがきっかけです。このがんは進行が早く予後も不良なため、患者同士が横に手をつなぐ機会を持ちにくいのが現状です。会では、患者同士がインターネットの掲示板を通じて交流を進めてきました。全国の方々から治療に関する貴重な情報が集まり、こうした情報交換が患者の希望につながることが実感できました。記事になかに、「インターネットの交流サイトで治験の情報を得た」という趣旨の記述がありました。インターネットが発達した世の中では、患者同士が互いに情報交換をすることが、大きな力になるのだと考えています。神奈川県 松田陽子 51歳。(4月3日 朝日新聞 患者を生きる 読者編より)
Apr 22, 2015 07:59

治験への理解に期待
治験を行う祭に製薬会社と医療機関、そして患者さんの間をつなぐコーディネーターの仕事をしています。記事では、抗がん剤の治験が紹介されていました。治験は、抗がん剤のほかにも、抗菌薬やワクチン、糖尿病や高血圧、アレルギーの薬など様々な分野で、将来患者さんに広く使っていただくために必要なステップです。治験は自由参加が原則で、安全と人権に配慮して行われています。しかし、「動物実験のようだ」と、悪いイメージを持つ方もいます。確かに、治験に参加しても効果が出なかったり、プラセボ(偽薬)を飲むことになったりすることもあります。しかし、いますぐメリットがなくても、自分の子どもや孫が病気になったとき、治療の選択肢を広げることにつながるかもしれません。新薬が世の中に出るには、多くの患者さんの協力が必要です。治験への理解が広がることを期待しています。福岡県 女性 41歳。(4月3日 朝日新聞 患者を生きる 読者編より)
Apr 21, 2015 07:57

孫とともに生きたい
昨年11月、肺がんが見つかり、背骨や脳の一部への転移もわかりました、肺の手術はできないとの診断に、私は大きな衝撃を受けました。まず背骨の放射線治療を行い、その後、分子標的薬による治療が始まりました。現在、がんは大きくならず、脳に転移した部分も見えなくなるなど、良い結果が出ています。それでも、定期的な検査の日は、不安でいっぱいです。記事に登場する保育士さんが診察室に入るときの「いつもバッグに入れてあるお守りをぎゅっと握って、大丈夫、大丈夫と唱えてから入る」という気持が、痛いほどわかります。一方で、めざましい開発が進む治療薬の状況など、記事を読んで希望も生まれました。昨年9月に初孫が誕生しました。もしかして神様が命をバトンタッチしなさいと言っているのかなと思ったりもしましたが、自分も孫とともに生きていきたいのです。あきらめずに、可能性を信じて生きようと思います。富山県 男性 58歳。(4月2日 朝日新聞 患者を生きる 読者編より)
Apr 20, 2015 08:01

負けずに頑張る
肺がんと闘っています。がんがわかったのは3年前です。様々な抗がん剤を試し、分子標的薬「クリゾチニブ」も使いましたが、副作用が出たため中止しました。脳への転移も見つかりましたが、放射線治療で縮小し、2カ月に一度検査を受けている状態です。新しい薬「LDK378」の治験にも昨年から参加しています。副作用の様子をみて、薬を使うのを一時的に休んだりしながら、治療を続けています。私には小学生の息子と、この春高校生になる娘がいます。「自分はまだ若いのになぜ」という思いもあります。でも、家族のためを考えて治療に取り組み、一日一日を大事に過ごしています。治療はつらいものですが、同じ病状で頑張っている方の姿を記事で読み、「メソメソしていられない」「負けずに頑張っていこう」と思いました。10年、20年と生き続けられるように、頑張りたいと思います。福岡県 女性 40歳。(4月2日 朝日新聞 患者を生きる 読者編より)
Apr 19, 2015 08:28

仕事一筋 白血病で一転
朝の情報番組「めざましテレビ(フジテレビ系)のキャスター、大塚範一さん(66)はそのとき、ゴルフ場にいた。2011年10月27日の木曜日。ラウンド中に何げなく手で首筋をなでると、そこに小さなしこりがいくつかある。反対の首筋をなでると、そこにもしこりがあった。当時63歳。自覚症状は何ひとつなっかたが、さすがに心配になった。金曜日の番組終了後、自宅近くの通い慣れた個人クリニックを訪ね、血液検査をしてもらった。事態は31日の月曜日に動き出す。「検査の結果が出たので、できるだけ早く病院に来てもらえませんか」。クリニックに駆けつけると、「血液検査で異常が見つかった」と、医師はすぐさま精密検査を受けることを勧めた。翌11月1日、東京都内の大学病院を受診した。ブラストと呼ばれる健康な人の血液には存在しないがん細胞である可能性が高い血液細胞が見つかった。その日のうちに、急性リンパ性白血病と診断された。翌日に入院した。華やかなテレビの世界から、病室の天井を見つめてt時間を過ごす生活になった。入院後に医師とこんな会話があったという。「先生、はっきり言ってください。生存率はどれくらいなんでしょうか」「3~4割です」「5割もないんですか?」。ただ、医師はこう付け加えたという。「骨髄移植が有効ですが、63歳という年齢を考えると、感染症や合併症のリスクが高まります。抗がん剤か骨髄移植か、最終的にどっちを選ぶかは大塚さんの人生観なんです」。抗がん剤治療か、骨髄移植か、まだ決めていなかった。年齢のリスクも考え、自然と抗がん剤治療で白血病と闘う方向になっていった。(4月7日 朝日新聞 患者を生きる 大塚範一の闘い より)
Apr 18, 2015 08:16

治療の選択肢、増えて
1月、夫を47歳で亡くしました。肺がんのステージ4と診断され、3年間の懸命な闘病生活でした。夫は地方公務員で、抗がん剤のイレッサが効いていた1年半は普通に出勤し、夫婦で旅行もできました。記事の保育士の方もおっしゃっていましたが、がんが完全に治らなくても、うまく付き合っていければ上出来だと思います。当初はあまりつらい思いをせずに治療ができましたが、それもがんに薬への耐性ができて効かなくなるまでに限られました。治験に参加したくても、なかなかチャンスがありませんでした。新薬の認可には時間がかかり、闘病生活が長くなるにつれて、だんだん治療の選択肢は少なくなりました。本人もつらかったでしょうが、支える私もなぐさめる言葉が見つかりませんでした。どうか少しでも治療の選択肢が増えますように。耐性ができるまでの時間が延びますように。そう願ってやみません。山口県 長井由美子 48歳 (4月1日 朝日新聞 患者を生きる 読者編より)
Apr 17, 2015 08:10

GISTに光当てて
検診がきっかけでGISTが見つかったのは2012年の暮れでした。翌年2月に開腹手術を受け、腫瘍の大きさは9センチでした。他の臓器への転移は見られませんでしたが、「転移や再発のリスクが高い」との説明を受け、不安が増すばかりでした。グリベックを飲み始めて、2年が経過したところです。安定した状態がいつまで続くかは誰にも分からないので仕方のないことですが、私よりもっと苦しんでいる方がたくさんいるのも事実だと思います。そして、私の治療に関するデータは、同じ病の患者さんのために生かしてほしいと思います。患者にとっては、症例が少ないということだけでも大きな不安になります。情報がたくさん集まれば、患者の不安も解消されるでしょうし、治療の手がかりになるのでないかと思います。今回の記事を機に情報が集まり、GISTにもっともっと光が当たることを願っています。埼玉県 女性 70歳。 (3月31日 朝日新聞 患者を生きる 読者編より)
Apr 16, 2015 08:31

情報の少なさを痛感
せきが続き、ぜんそくの疑いがあったため病院で念のためCT検査を受けたことが、GISTが見つかるきっかけになりました。胃の真ん中より噴門(胃に入口部分)寄りのところで、12センチの大きさでした。肝臓にも転移しており、昨年5月に手術を受けました。胃の一部と、肝臓の左葉を切除しました。抗がん剤「グリベック」の服用を続けていますが、貧血がひどく、通院以外は外出もなかなかできません。病気になる前は仕事をこなしながら友人と食事を楽しむことができたことを考えると、もう少し頻繁に健康診断を受けておけばよかったと思います。相談をしたかかりつけの医師は、GISTがどういう病気か知らず、逆に質問されてしまい、ショックを受けました。このようにGISTに関する情報はとても少なく、今回記事に掲載されたことを、ありがたく思っています。大阪府 島奈緒子 51歳 (3月31日 朝日新聞 患者を生きる 読者編より)
Apr 15, 2015 08:11

軟部肉腫 進み出す治験
軟部肉腫は、筋肉や脂肪、血管、神経などにできる悪性腫瘍(がん)だ。国内の患者数は年間で数千人とされる。「患者を生きる 幻の薬」の静岡市の女性(54)は、内臓を包む腹膜の外、背中側にある後腹膜の筋肉に軟部肉腫ができた。手足にできたものは整形外科、子どもの場合は小児科が診察する。胸やおなかの中にできる大人の軟部肉腫は診療科の区分が難しく、専門医も少ない。いずれの軟部肉腫も、治療は手術で腫瘍を取り除くことが一般的だ。悪性度の高いものは、肺などに転移する場合が多く、抗がん剤や放射線治療などを組み合わせる。大阪府立成人病センターによると、軟部肉腫全体の5年生存率は約70%。悪性度によって差が大きく、再発・転移すると2割以下になると言われる。軟部肉腫は患者数が少ないために薬の開発がなかなか進まず、従来は既存の抗がん剤を使っていたが、効果ははっきりしなかった。2012年に国内で使えるようになった分子標的薬・パゾパニブは、欧米や日本などで国際的に治験を行うことで、データを多く集めることに成功し、効果があると認められた。その後も乳がんの抗がん剤であるエリブリンや、欧州などで承認されているトラベクテジンなどの薬の治験が国内で進められている。大阪府立成人病センターの高橋克仁医師は、「パゾパニブが登場するまで悪性度の高い軟部肉腫に効果があると言える薬はなかった。再発・転移した場合、薬による治療法がないので手術もしない、というのが一般的な対応だった」と話す。高橋さんは、2009年に肉腫の患者を担当した経験のある医師同士で情報を共有したり、セミナーを開いたりする「キュアサルコーマセンター」をつくり、医療施設間の連携を進めている。参加施設では、再発や転移した軟部肉腫も積極的に手術で切除している。その結果、再手術は延命効果があることが分かってきたという。「薬の選択肢も増えつつあるので、今後は学会を立ち上げてデータを集め、診察のガイドラインをつくっていきたい」と高橋さんは話している。(3月29日 朝日新聞 患者を生きる 幻の薬情報編 より)
Apr 14, 2015 07:51

小康状態 すべてに感謝
「後腹膜平滑筋肉腫」というまれながんになった静岡市の女性(54)は、再発後、東京の国立がん研究センター中央病院で新薬の治験を3年8カ月受けた。症状は安定していたが、2012年5月、薬の開発は中断され、薬は飲めなくなった。女性は、肉腫の研究をしている大阪府立成人病センターの高橋克仁医師に相談した。2012年中には、悪性の軟部肉腫を対象にした始めての分子標的薬、パゾパニブ(商品名ヴォトリエント)が発売される予定だった。「それまでなんとか抑えよう」。ほかの治療を探した。高橋さんの勧めで新たに参加したのは、白血病の抗がん剤の適応を広げるための治験だった。女性は東京郊外の病院に入院したが、薬を飲み始めてから1カ月後の8月、腹部に腫瘍の再発が見つかり、参加は終了となった。あとは新薬を待つしかない。9月、再発時の手術を担当した大野烈士医師のいる淵野辺総合病院(神奈川県相模原市)で、3度目の手術を受けた。小腸の周りにできた5センチの腫瘍を手術で切除した。パゾパニブが発売された11月、高橋さんの診察を受けて薬を商法された。「何とか、生き延びた」。そんな気持だった。1日1回服用する日々が始まった。だが、肺に転移した腫瘍が徐々に大きくなり、肺炎を併発。呼吸困難になった。腹部と肝臓にも新たな腫瘍が見つかった。2014年の夏には、肺と腹部、肝臓の合わせて4か所を一度に切除する大手術を受けた。現在は小康状態だ。パゾパニブがどれだけ効いているのか、効果がいつまで続くのかは、分からない。だがそれでも普段は症状はなく「病人に見えない」と言われるとうれしい。これまで、様々な条件や幸運が重なったと女性は振り返る。自宅が東京や大阪に通える距離にあったこと。子どもがおらず、治療に専念できたこと。そして何より、治療をしてくれる医師に出会え、治験によって命をつなぐことができたこと・・・・。そのすべてに感謝して、一日一日を過ごしている。(3月28日 朝日新聞 患者を生きる 幻の薬 より)
Apr 13, 2015 08:28

せっかくだから楽しもう
後腹膜平滑筋肉腫が再発した静岡市の女性(54)は、2008年9月末から、国立がん研究センター中央病院(東京都中央区)で、新薬の治験を受けることになった。「この治験で、効果がなければ後がない」。そんな思いで臨んだ。薬は家血管新生阻害剤と呼ばれる種類の分子標的薬。1カ月入院し、毎日1錠、薬を飲んだ。その間、肺に転移していた1センチほどの腫瘍は大きくならず、副作用もほとんどなかった。担当した呼吸器内科の軒原浩医師は「続けましょう」と女性に言った。それまでと同じ、最低の用量での治験継続が決まった。退院し、自宅から東京まで通いながら治療を受けた。3週間に1度、午前9時前の新幹線に乗り、血液検査などを受け、薬を受取るとすぐに静岡に戻った。それ以外は、ほとんど自宅にこもった。再発を機にピアノ講師の仕事を辞めたが、本当は続けたかった。「生徒たちにきちんと説明もできなかった」。「どうしてこんな病気になってしまったんだろう」。気分は落ち込んだ。女性の様子を心配した夫(54)に、「せっかく東京に行くんだから、とんぼ返りしないで遊んできたらどう?」と言われ、はっとした。2009年になって、新幹線の車窓から桜を眺めながら思った。「病気になったけど、チャンスをもらって、こうやって生きている。もっと楽しもう」。軒原さんの「薬を長く飲むことができて、調子良いですね」という言葉に力づけられ、スタッフの優しさにも気づくようになった。診察を受ける日には、都内で買物や歌舞伎鑑賞を楽しむようになった。そんな日々は約3年半続いた。薬の治験は、安全性をみる1相から、肺がんに対する効果を見る2相へ進んだが、製薬会社は2012年5月、開発の中断を決め、治験は終了になった。女性も薬を使うことはできなくなった。軒原さんは「女性にはよく効いていたようだが、治験を受けた人全体でみたときに、ちりょうの効果と副作用のバランスが悪かったということでしょう」と話す。女性の支えになっていた薬は「幻」となった。
Apr 12, 2015 08:16

すがる思いで賭けた 3
「それでも、本当に受けますか?」と医師に厳しく問われた女性は「もう、このまま帰ろうか」と思った。だが、「もう後がないんだ」と思い直した。「お願いします」。女性は腫瘍以外に病気はないなど、参加の条件を満たしており、治療を受けることになった。2週間後に入院し、1日1回、薬を飲んだ。服用は午前10時半と決まっていた。看護師が時計をにらみながら、「あと1分待って」と言うこともあった。最初の採血は1日8回。血圧や心電図などの検査もあった。治療は1カ月続けて、副作用などをみる。その間に体調が悪化したり、1センチほどの肺の腫瘍が大きくなったりすれば、その時点で打ち切りだ。女性は緊張の日々を過ごした。(3月26日 朝日新聞 患者を生きる 幻の薬 より)
Apr 11, 2015 07:48

すがる思いで賭けた 2
女性の治療を担当した呼吸器内科の軒原浩医師はこう説明する。患者は治験に効果を期待するが、1相試験はあくまで安全と用量についてみるもので、効果は二の次。世界中で行われている治験薬のうち、本当に薬になるのは数%しかない。治験を受けている間は、服薬や検査など、厳重な管理が必要になる・・・・。そのようなことを説明した上で、本当に治験に参加するかどうか、決めてもらう必要がある。(3月26日 朝日新聞 患者を生きる 幻の薬 より)
Apr 10, 2015 07:52

すがる思いで賭けた
「後腹膜平滑筋腫」が再発、転移した静岡市の女性(54)は、再手術後、薬による治療が必要だった。女性の腹部の腫瘍を詳しく調べた大阪府立成人病センターの高橋克仁医師は、国立がん研究センター中央病院で(東京都中央区)で、がんの周辺に血管ができるのを防げる「血管新生阻害剤」の治験参加を募集しているのを知り、女性に参加を勧めた。肺がんを狙った薬だが、安全性を見る「1相試験」は、がんの種類を特定しない。肉腫の女性も参加できる可能性がある。「効果があるかもしれない」。2008年9月、女性は新幹線で東京に向かった。治験への参加は、医師の面接を受けた上で決まる。女性はこれまで受けた手術の日時や経過を暗記し、すぐに答えられるように準備した。なんとか治験を受けさせてもらいたい一心だった。(3月26日 朝日新聞 患者を生きる 幻の薬 より)
Apr 09, 2015 08:07

転移 希望つないだ一言 2
インターネットで論文などを検索し、肉腫を研究している大阪府立成人病センター(大阪市東成区)の高橋克仁医師を知り、紹介状を書いた。以前勤務した病院からカルテや検体を取り寄せ、一緒に送った。翌月、女性は高橋さんの元を訪れた。高橋さんはこれまでの症例から、再発・転移した軟部肉腫でも腫瘍を切除すれば延命につながるという感触を得ていた。「まずは外科手術をお願いしましょう。使える薬がないか、がん細胞を詳しく調べましょう」と話した。女性は、「生きる希望がつながった」と思った。高橋さんの紹介で、関東中央病院(当時)の外科部長だった大野烈士医師が手術を担当することになった。腹部の9センチの腫瘍を切除。肺に転移したものは小さく、経過をみることになった。だが、転移は血液中にがん細胞があることを意味する。今後も再発の可能性はある。「薬物治療も必要ですね」。望みは、治験だった。(3月25日 朝日新聞 患者を生きる 幻の薬 より)
Apr 08, 2015 08:03

転移 希望つないだ一言
2005年に「後腹膜平滑筋肉腫」というがんが見つかった静岡市の女性(54)は、腫瘍の摘出手術後、ピアノ講師の仕事に復帰した。だが3年後の2008年6月、腹部の再発と肺への転移が見つかった。医師は「手術はできない」と告げた。途方に暮れる女性に、夫(54)は「とにかく手術してくれる医師を探そう」と励ました。県外も含めて数カ所の病院を回ったが、手術を引き受けてくれるところは見つからない。再発・転移した軟部肉腫に保険が適用されている抗がん剤があったが、女性は副作用を心配していた。抗がん剤治療を受けないなら、手術の意味がないと医師は判断した。女性は同月、3年前に執刀した2人のうち、県内の別の病院に移った産婦人科医を訪ねた。診察室で、女性は泣きながら「親より先に死ねない。夫を残していけない」と訴えた。医師はがんの専門医ではないが、子宮や卵巣などの肉腫の患者を診た経験はあった。経緯を聞き、「再発したのなら、厳しいだろう」と内心思った。それでも女性に様子に、何かできることなないか調べた。(3月25日 朝日新聞 患者を生きる 幻の薬 より)
Apr 07, 2015 07:54

「あと1年」の言葉に絶望 2
手術を担当した医師らが転勤したのを機に、県内のがん専門病院で半年に1度、経過を観察した。体調も良く、「再発なんて、しないんじゃないかな」。そう思うようになっていた2008年6月、再発が見つかった。左の腹部に再び腫瘍ができ、肺にも転移があった。主治医に「手術できるでしょうか?」と聞くと、医師の答えは「できません」だった。この女性のがんを含む「軟部肉腫」は、筋肉や脂肪、血管、関節などにでき、国内の発症率は10万人に2人というまれながんだ。海外の研究では、再発や遠隔転移がある軟部肉腫の5年生存率は、2割以下とも言われる。使える抗がん剤はあったが、効果はあまりないとされていた。医師は「仕事はやめなくても良いし、好きなことをしたほうがいいですよ」と言った後、こう続けた。「あと1年か、1年半か・・・・」。その言葉に、女性は、目の前が真っ暗になった。(3月24日 朝日新聞 患者を生きる 幻の薬 より)
Apr 06, 2015 07:58

「あと1年」の言葉に絶望
「今年で10年。これまで生きてこられて、感謝です」。静岡市に住む女性(54)に、「後腹膜平滑筋肉腫」というがんが見つかったのは2005年のことだ。再発、転移し、一時は「手術はできない」「治療法はない」と言われ、絶望した。それでも「どうしても生きたい」という気持で、静岡から大阪、そして東京を何度も行き来した。希望をつないだのは、世に出ることのなかった「幻の薬」の治験に参加したことだった。ピアノ講師として働いていた2005年、スカートがどんどんきつくなるのに気がついた。「太ったのかな」と思ったが、腹部に違和感がある。3月、お恐るお恐るかかりつけ医を受診し、がんが見つかった。数日後、県内の総合病院で手術を受けた。切除した部分は腫瘍を含めて直径20センチを超えた。医師から、悪性度の高いがんであること、再発の恐れがあるという説明を受け、女性は泣き崩れた。それでも、手術で体は軽くなり、退院するころには、「腫瘍はきれいに取れましたよ」という医師の言葉をかみしめた。6月には仕事に復帰した。(3月24日 朝日新聞 患者を生きる 幻の薬 より)
Apr 05, 2015 09:19

最期まで全力疾走 6
グリベックの処方や定期検査は銚子の病院で受けながら、東病院にも3カ月に1回通った。薬があるありがたみを、雄二さんは土井さんの診察を通して実感したようだった。「頼むよ、グリベック」。そう語りかけて飲むようになった。2006年9月、交流サイト上のGIST患者や家族が患者会「GISTERS」を結成した。公恵さんは、結成の場に、足を運んだ。使える薬が増えて欲しい。願いを込めて、署名を集めた。雄二さんに新たな転移が見つかったのは、それから約1年後のおとだった。(2月17日 朝日新聞 患者を生きる より)
Feb 24, 2015 08:15

最期まで全力疾走 5
車で2時間半。柏にやってきた夫婦を待っていたのは、「治験対象外」という結末だった。この治験の対象は、グリベックが効かなくなった患者だった。「今は効いているので、グリベックを飲んでください」。消化管内科医の土井俊彦さん(51)は雄二さんに伝えた後、こう続けた。「銚子で受診しながら、うちにも定期的に通ってはどうですか」。いずれ、グリベックが効かなくなる可能性がある。そのとき、東病院で治験が実施されていれば、スムーズに参加できるだろう。(2月17日 朝日新聞 患者を生きる より)
Feb 23, 2015 08:25

最期まで全力疾走 4
公恵さんはインターネットで、GISTの患者が情報交換する交流サイトに参加した。グリベックを飲み始めて1年余り過ぎた2005年12月。交流サイトに、GISTの患者を対象にした「治験」の参加者を募る製薬企業の情報が載った。治験は、新しい薬を人に使って安全性や有効性を確認する臨床試験のうち、国の承認を目指して法律に基づき行うものだ。「これだ!」。雄二さんは飛びついた。グリベックを飲んでから、吐き気に悩まされていた。「違う薬を試してみたい」と思った。銚子市立総合病院の医師は、治験を実施する千葉県柏市の国立がんセンター東病院(当時)に紹介状を書いてくれた。(2月17日 朝日新聞 患者を生きる より)
Feb 22, 2015 09:19

最期まで全力疾走 3
GISTの治療は長らく、腫瘍を切るのが唯一の方法だった。だがこの前年の2003年、白血病に使われていた抗がん剤の「グリベック」が、GISTの患者向けとしては国内で始めて、承認された。再発や転移のある患者への延命効果が確認されていた。雄二さんは手術後間もない2004年8月、グリベックを飲み始めることになった。肝臓に転移が見つかったためだ。副作用の吐き気に苦しむこともあったが、仕事や生活は何とかこなした。医師からは、平均2年半くらいは効く、と説明された。「次の薬はないのかな」。公恵さんは思ったが、薬が効いていたこともあり、夫婦で先のことを話すことはなかった。(2月17日 朝日新聞 患者を生きる より)
Feb 21, 2015 08:26

最期まで全力疾走 2
雄二さんは38歳だった2004年6月、激しい腹痛に見舞われ、銚子市立総合病院(当時)で検査を受けた。CTを撮ると、おなかに大きなかたまりが写った。「おそらくGISTでしょう」。過去に別の病院で診た経験があった外科医はそう、推測した。夫婦には、初めて聞く病名だった。GISTは消化器にできる、患者数が少ない、希少がん。腫瘍は小腸にあり、すぐに手術で切除した。20センチ以上の大きさで、進行していた。再発や転移のリスクが高いタイプだった。(2月17日 朝日新聞 患者を生きる より)
Feb 20, 2015 08:25

最期まで全力疾走
「お父ちゃんは、最期まで全力疾走だった」。千葉県銚子市の食品卸会社社長、桜井公恵さん(47)は、夫雄二さんの6年余りの闘病をそう振り返る。2010年8月、44歳で亡くなった雄二さんは、公恵さんと長女誉子さん(18)、長男誠大さん(16)に宛てて手紙を残していた。誠大さんには、A4に2枚。びっしりと文字がしたためられていた。(中略)陽気でよくしゃべる人だった。公恵さんと結婚して、桜井家が営む食品卸会社で一緒に働いた。効果が科学的に確認されている「標準治療」が終わっても新たな治療法がないか調べ、医師に相談して治療を続けた。完治が難しい中、厳しい選択の連続だった。公恵さんは今、思う。「手紙のこの部分は、治療に臨んだお父ちゃんの姿勢そのものだ」。(2月17日 朝日新聞
患者を生きる より)
Feb 19, 2015 08:20

外出先のトイレ整備途上 4
ただ、障害や病気を持った人の旅を支援するNPO法人(ジャパン・トラベルボランティア・ネットワーク)のおそどまさこ代表は「大都市ではだいぶ増えたが、地方ではまだまだ見つけるのが大変という場所もある」と指摘する。ストーマの人が旅先で対応するトイレを見つけられるようにと、同法人は全国的にインターネットで地図化する試みを準備し始めている。「障害などに縛られず、誰もが旅を楽しむ権利がある」とおそどさん。こうした人たちの旅を支援する旅行介助ガイドを認定し、要望を受けて有料で派遣している。サイト(http://www.tabicommon.com/)に詳しい情報がある。(1月25日 朝日新聞 患者を生きる ストーマ より)
Feb 11, 2015 08:38

外出先のトイレ整備途上 3
トラブルなどに対応する専門の「ストーマ外来」も全国に600カ所以上整備された。日本創傷・オストミー・失禁管理学会のサイト(http://etwoc.org/stoma.html)から、外来を持つ全国の医療機関を検索できる。ストーマの人が使いやすいトイレは、装具を交換したり、ストーマの周囲を洗浄したりする必要があるとして、協会が整備を働きかけてきた。下腹部にストーマがある人が、パウチにたまった便を立ったままで流せる「汚物流し」のついたトイレも増えてきている。(1月25日 朝日新聞 患者を生きる ストーマ より)

Feb 10, 2015 08:41

外出先のトイレ整備途上 2
日本オストミー協会の和田透・前会長(80)は「ストーマの装具が使いやすくなり、対応するトイレの整備が進んできたことで、生活の質(QOL)がよくなった」と指摘する。自身も、ストーマになって40年近くになる。ストーマからパウチが外れると便が漏れ、においや皮膚のかゆみなどを招く。だが、最近はパウチの接着面が皮膚になじみやすくなり、動いても外れにくくなった。(1月25日 朝日新聞 患者を生きる ストーマ より)
Feb 09, 2015 08:30

外出先のトイレ整備途上
厚生労働省によると、人工肛門(ストーマ)の人は全国に約19万人いる。ストーマは、大腸がんなどの手術後につくる、人工的な便の出口。便は自然に出てくるので、パウチと呼ばれる袋にためておき、定期的にトイレに流す。連載で紹介した二宮盛さん(74)が繰り返し旅しているように、ストーマの人の多くは、入浴やスポーツなどを楽しみ、手術前と変らない生活を送っている。(1月25日 朝日新聞 患者を生きる ストーマ より)
Feb 08, 2015 09:21

抱え込まず仲間に伝える 3
がんの治療中で体力に少し不安はある。だが、主治医で消化管内科医長の山田康秀さん(52)は「スケジュールをゆったりとり、過労につながらないように気をつければ、いまのところ大きな心配はない」と話す。二宮さんは「旅を楽しむには、自分だけで問題を抱え込まないことが大切」という。ストーマをつけていることは、一緒に旅する仲間には必ず伝える。ストーマの人が使う障害者用トイレなどは数が少なく、込み合うことも多い。このため、トイレ休憩に時間がかかりがちになることも理解してもらう必要がある。「旅に出て自然の美しさに触れることは、生きがいの一つ。旅のない人生は考えられません」。6月、秋田の駒ケ岳に友人たちと登る予定だ。長い冬を越え、高山植物が咲き始める。その光景を目にするのが今から楽しみだ。(1月24日 朝日新聞 患者を生きる ストーマ より)
Feb 07, 2015 09:07

抱え込まず仲間に伝える 2
好きな旅も続けている。昨年5月、家族で京都を訪れた。桜が終わり、新緑のころ。トロッコ列車に乗り、春の空気に胸を躍らせた。10月には、山梨の奈良田温泉で「生涯、最高の湯」に出会った。12月、南アルプスの入笠山で雪を見た。輪かんじきを履いて山を上る友人の帰りを、ふもとで絵を描きながら待った。(1月24日 朝日新聞 患者を生きる ストーマ より)
Feb 06, 2015 08:31

考え込まず仲間に伝える
人工肛門(ストーマ)の性能がよくなり、神奈川県平塚市の二宮盛さん(74)は温泉旅行も楽しめるようになった。2009年7月、直腸がんと診断され、2011年5月には右大腿部の付け根、鼠径部のリンパ節にがんが見つかった。そして昨年1月、肺への転移がわかった。抗がん剤のゼローダを、朝食と夕食の後に飲んでいる。2週間のみ続け、次の1週間は休む。これを繰り返す。手足の指先が荒れる副作用などが少し出るが、多きな問題はない。3週間に1度は、東京・築地の国立がん研究センター中央病院に通い、抗がん剤アバスチンを点滴してもらっている。高血圧の副作用があり、降圧薬もあわせてのんでいる。2~3カ月に1度はCTで腫瘍の大きさを確認しているが、縮小した後、その状態を維持している。数カ月に1度、ストーマ外来で、ストーマや皮膚の状態などをみてもらっている。(1月24日 朝日新聞 患者を生きる ストーマ より)
Feb 05, 2015 08:40

療養宿 患者同士語らい 2
ストーマは人工的につくられた便の出口。便は意志とは関係なく自然に排泄される。このため、パウチと呼ばれる袋に便をためておき、定期的にトイレに流す。外出の際は、オアウチから便が漏れることが最大の不安だった。ストーマになってまもなくの箱根旅行。旅館に1泊後、美術館を巡っていたとき、においが気になってトイレに駆け込んだら、パウチが外れかかっていた。「俺、帰る」。どうしていいか分からず、旅を途中で切り上げ、仲間の車で自宅まで送ってもらった。だが、いまはストーマとパウチの接着がよくなり、外れたり便が漏れたりする心配はほとんどなくなった。手術から約5カ月が過ぎた2011年10月、二宮さんは新幹線に乗り、1人で秋田の乳頭温泉に旅立った。選んだ宿は、がん患者が多く泊まる「療養宿」。宿泊していた患者同士で、この先の不安や希望を話す機会が持てた。「(がん患者として)闘う勇気がわいてきた」。1泊2日の旅の最後、日記にそう記した。(1月23日 朝日新聞 患者を生きる ストーマ より)
Feb 03, 2015 08:31

療養宿 患者同士語らい
2011年5月、神奈川県平塚市の二宮盛さん(74)は、右大腿部の付け根、鼠径部のリンパ節に新たながんが見つかった。2009年、直腸がんの手術後に人工肛門(ストーマ)をつくってから、2年がたとうとしていた。残念ではあったが、事実を淡々と受け入れた。最初のがんのときは、がんに関する知識がなく、死は免れないと思っていた。でも、治療を受けながら、必ずしもそうではないと知った。放置すれば問題だが、きちんと見つけて治療することが大切だ。そう考えられるようになっていた。手術を受けるために約3週間、東京・築地の国立がん研究センター中央病院に入院した。入院中は体力を落としたくないと、病棟の廊下を積極的に歩くなどして過ごした。大学時代、旅サークルに入っていた。ストーマになってからも積極的に旅を続けていた。病気とストーマのことを理解してくれる、一緒に旅する仲間の存在に加え、ストーマの装具の性能が徐々によくなってきたことも、大きな支えになっていた。(1月23日 朝日新聞 患者を生きる ストーマ より)
Feb 02, 2015 08:38

手術後の2泊旅行で自信 2
それでも、早い時期から大好きな旅をすることができたのは、仲間たちがいたからだ。手術をした東京・築地の国立がん研究センター中央病院を退院して1カ月もたたないころ、大学時代の旅サークルの仲間たちが、山形への2泊旅行に誘ってくれた。「パウチが外れたらどうしよう」。「途中で気持がわるくなったら?」。不安が先に立ったが、房子さんは「そんな事を言っていたら、何もできない」と後押ししてくれた。仲間たちに相談すると、「大丈夫だから一緒に行こうよ」と言ってくれた。事前にパウチの中の便もトイレに流して空にし、温泉にも入った。体力はまだ回復していなかった。山の上にある寺院を巡るときは、ほもとで待つまど、体力と相談しながらの旅だったが、旅に出かけることができたという事実は、自信につながった。そんな二宮さんに、新たながんがみつかったのは、2年後の2011年5月のことだった。(1月22日 朝日新聞 患者を生きる ストーマ より)
Feb 01, 2015 09:18

手術後の2泊旅行で自信
直腸がんの手術を経て2009年8月、人工肛門(ストーマ)になった。ストーマは、直腸を切除した後につくる、人工的な便の「出口」。便は自分でコントロールできず、自然に出てくる。このため、「パウチ」と呼ばれる袋をつけておき、たまったらトイレに流す。神奈川県平塚市の二宮盛さん(74)は当初、戸惑った。気になったのは、においだ。電車の車内や図書館。人混みの中にいると、便のにおいがするような気がして、途中で降りたり、帰ってきたりすることもあった。「においなんかしない」。そばにいる妻の房子さん(69)に言われても、気になる。後から確認すると、漏れているわけでもなく気のせいにすぎなかった、とわかる。そんなことを繰り返した。寝ているとき、無意識にズボンの中に手が入り、ストーマからパウチを外してしまったらどうしよう?手が入りにくいようにと、上着の裾をズボンの中に入れるようになった。手が動かしにくいようにと、軍手をつけて眠ったこともある。知らず知らずのうちに、ストーマのある下腹部をかばうような姿勢をとるようになり、猫背になった。(1月22日 朝日新聞 患者を生きる ストーマ より)
Jan 31, 2015 09:12

「イコール死」は思い込み 2
山に囲まれたホテルに泊まり、森の中を歩いたり、温泉に入ったりした。懐かしさに胸が熱くなった。思い出深い、こうした旅ももう、できなくなるのか。しかし、それは思い込みだと、後から知ることになる。「死ぬんでしょう?」。医師に思いをぶつけると、「そんなことはない」と医師は言った。2009年8月、診断された大学病院ではなく、東京・築地の国立がん研究センター中央病院で手術を受けた。それぞれから治療法を聞き、家族とも相談して選んだ。がんは進行し、リンパ節への転移が疑われていた。開腹し、がんのある腸は切除する、という。さらに「がんは肛門を閉める筋肉に食い込んでいて、肛門を残すことは難しい」と、がん研究センター中央病院の医師から伝えられた。直腸を切除後、人工的に便の出口をつくる。出口に袋をつけて便はそこにため、たまったらトイレに流す。人工肛門「ストーマ」の仕組みも同時に説明された。不安はあったが、「入浴や外出、旅行などはほぼ今までどおりにできる」と聞き、少しほっとした。(1月21日 朝日新聞 患者を生きる ストーマ より)
Jan 30, 2015 08:26

「イコール死」は思い込み
がんの告知、イコール死。神奈川県平塚市の二宮盛さん(74)はそう思っていた。2009年7月の直腸がんの診断は、衝撃が大きかった。「ずっと健康だったから、逆にがんへの関心もなく、知識がなかった」と二宮さんは振り返る。身辺整理を始めた。中学時代から日記をつけていたが、細かく切断してごみに出した。高校の教員時代に袖を通したスーツは1着を残し、主文した。その1着は遺影を撮るときに着ようと考えた。妻の房子さん(69)も「あと何年生きられるのか」。庭の草むしりをしながら、泣いた。次々と見の回りのものを処分していくなか、二宮さんが捨てられなかったのが、新婚旅行の記録だった。宿泊したホテルの明細書も残してあった。「昭和45年5月5日、蓼科」と書いてあった。前の日、2人の故郷の山梨で式を挙げ、その後に訪れた。高校卒業後に登山を覚え、1人でテントを持って山に行くのが好きだった、二宮さんの憧れの場所だ。房子さんも「お見合いは、山の話ばかりでした」と振り返る。(1月21日 朝日新聞 患者を生きる ストーマ より)
Jan 29, 2015 08:44

元気な自分が、がん? 2
高校の教員を定年退職して9年が過ぎた2009年7月。持病の痔を診てもらおうと、近くの肛門科に足を運んだ。診察してくれた医師の表情が変った。「家族を呼んでください」。「がんの可能性がある」。妻の房子さん(69)とともに、医師から伝えられた。言葉の意味が、すんなりと入ってこなかった。二宮さんはそれまで大きな病気を経験したことはなかった。体力には自信があった。大学時代には旅のサークルに入り、登山やスキーを楽しんだ。富士山にも登った。30年以上の教員生活に幕を閉じた後も、大好きな山に登り元気に生活していた。「自分が、がん?」。「まさか」。2日後、紹介された大学病院を受診した。詳しい検査を受けた後、医師から「直腸がんです」と告げられた。進行度を示すステージは「3」。0~4の5段階のうち、2番目に進行度が高かった。リンパ節転移の疑いがあった。「自分の人生は、もはやこれまでだ」。二宮さんはそう思った。(1月20日 朝日新聞 患者を生きる ストーマ より)
Jan 28, 2015 08:32

元気な自分が、がん?
昨年10月、神奈川県平塚市の二宮盛さん(74)は車のハンドルを握り、山梨県にある奈良田温泉に向かっていた。助手席と後部座席には、大学時代の後輩ら3人が乗っていた。同じ「旅好き」という共通点を持つ仲間たちだ。「紅葉には少し早かったなあ」。「あと1週間くらいだったらよかったかもな」。少し色づき始めた木々の葉を眺めた。温泉からは山々が望め、肌に吸い付くような柔らかな湯が心地よかった。湯船はあまり大きくないが、お湯が「ばんばん」出ている。ヒトの出入りは少なく、少しひなびた雰囲気。どれも二宮さんの好みだった。「人生最高の湯、でした」。二宮さんの左の下腹部には人工肛門(ストーマ)がある。直腸切除後、人工的につくられた便の出口だ。出口にはパウチと呼ばれる袋がつけてある。便はそこで受け、たまったらトイレに流す。温泉に入る前はパウチを空にする。パウチはぬれても大丈夫な素材でできていて、入浴中も漏れ出る心配はない。ストーマとの付き合いはもう5年が過ぎた。
(1月20日 朝日新聞 患者を生きる ストーマ より」
Jan 27, 2015 08:39

患者と医療者とも架け橋に 3
医療ソーシャルワーカーとしてがん専門病院で長年患者相談にあたってきた兵庫医科大の大松重宏准教授は、「がんになった看護師には、患者として感じた不満や違和感を医療現場に還元してほしい。医療者が患者の思いに気づくことにつながる」と医療を内部から変えていく可能性に期待する。また、会には看護師の復職支援の役割も大きいとみる。「上司や同僚との関係、働き方の工夫や心がけなど復職時の経験を共有すれば、働き続けるヒントが得られるのでは」と話す。(12月14日 朝日新聞 患者を生きる がんになった看護師より)
Dec 29, 2014 09:44

患者と医療者とも架け橋に 2
交流のあった専門の医師の助言を受け、がん治療の基礎知識やカウンセリングを学ぶ研修会を沖縄で開いた。全国でも例のない取り組みで、東京などから問合せが相次いだ。製薬企業の助成金を得て、2013年はがんを経験した看護師の就労を考える研修会を名古屋、東京、沖縄で開催。2014年は経験を語る交流会を東京、青森、広島で開いた。会員は全国で60人を超えた。上原さんが現在、琉球大病院でがん患者の相談支援を担う。「患者は医療者とのコミュニケーションに不満がある。医療者は患者に何を聞いたらいいのかわからない。両者の架け橋になれる人を育て、会を通じて経験を共有したい」と話す。(12月14日 朝日新聞 患者を生きる がんになった看護師より)
Dec 28, 2014 10:03

患者と医療者とも架け橋に
がんになった看護師は、患者の立場を身をもって経験する半面、体力不足や体調不良、同僚の無理解などで復職に支障をきたすケースも少なくない。互いに悩みを語り合い、経験を看護師の仕事に生かそうと取り組むのが「サイバーナースの会 ぴあナース」だ。那覇市の看護師、上原弘美さん(47)が2010年10月、沖縄県内の3人の看護師と立ち上げた。上原さんは37歳から5年の間に、左右の乳がんと卵巣の境界悪性腫瘍を発症、告知後に落ち込んでいるとき、声をかけてくれると思った看護師に素通りされ、悲しい思いをした。だが「自分も以前はそうだったかもしれない」と省みた。参加したがん患者の会合は医療者への不満であふれていた。この経験から「患者と看護師という両方の立場を併せ持つからこそ、できる役割がある」と実感。「患者仲間(ピア)でもある看護師(ナース)」を目指して、人材の育成に乗り出した。(12月14日 朝日新聞 患者を生きる がんになった看護師より)

Dec 27, 2014 09:39

経験生かす 新たな挑戦
骨肉腫の治療のさなか、2010年夏にがん研有明病院(東京都江東区)に泌尿器間病棟に復職した看護師の佐藤友貴絵さん(27)は、2011年夏に治療を終えた。経過は良好だ。車いすを使うため患者の搬送は難かしいが、日勤で患者を担当し、多くのことはできるようになっていた。一方、退院前の患者に行う人工膀胱の交換方法の指導は同僚より経験が少なく、新人看護師の指導役は免除されていた。2013年4月に着任した北林真由子看護師長(39)は「みんな、佐藤さんに遠慮しているのかもしれない。できるのにさせないなら、成長の機会を奪っている」と感じた。秋の面接で「将来も看護師を続けたいなら、他の病棟の経験も必要。できることを増やしていかないと。どう思う?」と切り出した。佐藤さんははっきりと答えなかった。自分を理解してくれるこの病棟だから働ける。他病棟では難しいと思っていた。(12月13日 朝日新聞 患者を生きる がんになった看護師より)
Dec 25, 2014 08:25

支えられ大きな一歩 2
抗がん剤治療が続き、体調の悪い日もあったが、極力顔には出さなかった。同期の成長に焦り、無理して出勤した日もあった。同僚はいやなことを一つも言わなかった。事務的な職務を的確にこなし、次第に頼もしい存在になった。2011年夏に抗がん剤治療を終えると、新しい看護師長が受け持ち患者を持つよう提案した。現在副師長の山尾文子さん(33)ら同僚らは驚き、心配した。「患者さんに何かあったら、大丈夫?」。しかし「看護師の仕事は患者さんあってこそ。できるかできないかは本人が決めること」と言う師長に、みんな納得した。支えと叱咤の中で、大きな一歩を踏み出した。ただ、仕事では手助けが必要なこともある。緩和ケアの看護師になる将来像も描けなくなった。2012年春。新聞の告知で知った。がんを経験した看護師でつくる「サバイバーナースの会 ぴあナース」の懇親会に参加した。つらかった治療、仕事の不安を打ち明けると、「同じじゃなくても働いていていいんだよ」と励まされた。患者になって、患者の話に耳を傾ける大切さに気付いた仲間たちはみな、「がんの経験を仕事に生かしたい」と言う。自らの将来も見えてくるようだった。(12月12日 朝日新聞 患者を生きる がんになった看護師より)
Dec 24, 2014 08:36

支えられ大きな一歩
骨盤にできた骨肉腫の切除手術の後、歩行が困難になった看護師の佐藤友貴絵さん(27)は2010年7月、がん研有明病院への復職を目指して話し合いに臨んだ。日常生活は車いす。抗がん剤の治療も続く。それでも、治療の経験や患者仲間との出会いを経て、看護師を続けようと決意した。職場である泌尿器科の看護師長や整形外科の主治医、両親らが顔をそろえた。「応援するよ」。師長らは心強い言葉をくれた。主治医の下地尚さん(51)は言った。「できないことを伝え、できることは堂々とやりなさい。邪魔者扱いされ、つらいことを言われるかもしれないよ」。看護師は命に直結する仕事だ。重い責任がある。医療に携わる同僚として、自覚を持たせたかった。「やれることを精一杯やる」。佐藤さんは覚悟を決めた。8月末、9カ月ぶりに泌尿器科病棟に復職した。平日4日間で日勤のみ。文書処理やナースコールの引継ぎから始めた。(12月12日 朝日新聞 患者を生きる がんになった看護師より)
Dec 23, 2014 09:48

復職したいけど歩けない 2
左足は動かせなかった。理学療法士は「左足を上げて歩くのは難しいかもしれない。松葉杖での歩行を頑張りましょう」と言った。思いもよらなかった。歩行のことは手術前に説明を受けていたが、人工肛門などの可能性に気を取られ、頭に入っていなかった。歩けないのは、腫瘍とともに股関節などの一部や筋肉を切除した影響だった。傷口の感染症がおさまらず、人口股関節を入れて改善することも難しかった。「歩けなければ、看護師に戻れない」と思い、別の仕事を探し始めた。同じ5月。入院中に親しくなった同い年の女性患者が亡くなった。「私は病気で就職できないけれど、本当は資格を取って社会に出たい」「婦人科の気になることとか、整形の看護師さんに聞けたらいいよね」。彼女の言葉を思い出し、やっぱり看護師を続けたいという気持が強くなった。就業規則で定める休職の期限が近づいていた。7月、泌尿器科病棟の看護師長が病室に来た。「休職が続けば退職になってしまう。どうする?」。「辞めたくないです」。でも、自分に仕事がつとまるのか。声をあげて泣いた。(12月11日 朝日新聞 患者を生きる がんになった看護師より)
Dec 22, 2014 08:40

復職したいけど歩けない
東京都江東区のがん研有明病院に勤める看護師の佐藤友貴絵さん(27)は2010年4月、骨盤の左前部にできた骨肉腫を切除する手術を同病院で受けた。腫瘍は他の臓器に広がっておらず、直腸などを傷つけずに済んだ。難手術を終え、整形外科の主治医、下地尚さん(51)は胸をなでおろした。人工肛門や人工膀胱を付けることにはならなかった。手術後は太もも、お尻、股関節などの激痛で、動けなかった。看護師の言動に敏感になった。無言で病室に入れられると、一声かけてほしいと思った。ナースコールで呼んだことを「申し訳ない」と感じる時もあった。逆に、ベッド周りの整理や下半身の処置で配慮してもらうと、うれしくて、頼もしく感じた。リハビリを始めた。手すりで支え、震える右足で何とか立った。(12月11日 朝日新聞 患者を生きる がんになった看護師より)
Dec 21, 2014 09:33

つらさ 私だけじゃない 2
同期の看護師が、お菓子やマンガを持って見舞ってくれた。勤め先に入院したことが、逆に励みになった。抗がん剤と放射線治療を実施したが、腫瘍はほとんど小さくならず、手術に臨むことになった。骨盤にできた腫瘍は、直腸や尿道、膀胱に接し、近くには女性器もある。下地さんは泌尿器科や産婦人科の医師と検討を重ね、「難しい手術になる」と思った。腫瘍の広がりによっては、人工肛門と人工膀胱が必要になる可能性が高いこと。歩行に影響が出るが、杖1本で歩くことは可能だろうということ。下地さんら医師団は手術を前に説明した。泌尿器科に勤務し、人工膀胱をつける患者は身近だった。、だが、直面したときのショックは想像以上だった。「両方付けるなら生きたくない」とつぶやいた。泣いてたしなめたのは看護師だった。「そんなこと、言っちゃだめ」。寄り添ってくれる看護師が、身近でおおきな存在に思えた。(12月10日 朝日新聞 患者を生きる がんになった看護師より)
Dec 20, 2014 09:30

つらさ 私だけじゃない
看護師の佐藤友貴絵さん(27)は2009年秋、骨のがんである骨肉腫が骨盤に見つかった。看護師になって半年だった。勤め先のがん研有明病院(東京都江東区)に入院することになった。転移は認められなかったが、腫瘍は5センチ以上あり、骨盤の左半分を占めていた。整形外科の主治医、下地尚さん(51)は「早く治療を始めなければ」と思った・骨肉腫の標準治療は、抗がん剤でできるだけ腫瘍を小さくした後、手術で腫瘍を取る。術後も抗がん剤で再発や転移を防ぐ。1年以上かかると見込まれた。入院治療は12月から始まった。顔を知っている同期の看護師の姿が見えた。「病気にならなければ、私も働いていたのに」と気持が沈み、目をそらした。その頃、入退院を繰り返していた同じ年齢の女性患者と親しくなった。大学生で発症し、再発していた。「もう治らないのかな」と打ち明けられた。不安やつらさ、身近な人には言えないことがあるのだろう。「仕事がイヤ、と言っている人たちがうらやましいね」。いろんなことを語りあった。「つらいのは私だけじゃない。がんばって病気を治そう」と思うようになった。(12月10日
朝日新聞 患者を生きる がんになった看護師より)
Dec 19, 2014 08:37

自分の病院に入院なんて 2
経験を重ね、病棟で戦力になりつつあった10月下旬。未明に、自宅で胃の辺りがねじれるような激痛に見舞われた。近くの大学病院に駆け込み、検査入院した。エックス線撮影の結果、骨盤の左前部に腫瘍が見つかった。整形外科の医師から、骨のがんである「骨肉腫」と告げられた。頭が真っ白になった。がん研有明病院に勤めていると伝えると、医師は「そちらで治療した方がいいのでは」と勧めた。骨肉腫腫瘍の実績が多く、国内外から患者が集まることで知られていたからだ。「自分の病院に入院するなんて」。気乗りがしなかったが、周囲の強い勧めに従った。がん研有明病院の整形外科は、勤務する泌尿器科病棟と同じ階にあった。見慣れた景色の中で、医療を受ける違和感。患者を支える側の看護師なのに、自分が患者になってしまった。ベッド横の名札、患者用のリストバンド、点滴ラベル・・・・。自分の名前を見るたびに、現実を認めざるを得なかった。看護師であることを奪われたようで、悲しかった。(12月9日 朝日新聞 患者を生きる がんになった看護師より)
Dec 18, 2014 08:35

自分の病院に入院なんて
東京都江東区のがん研有明病院。泌尿器科病棟に勤務する看護師の佐藤友貴絵さん(27)は、車いすを右足でこぎ、電子カルテの入ったパソコンや薬剤を載せたカートを両手で押しながら、病棟を自在に行き来していた。病室では立ち上がり、患者に尋ねながら寝具の位置をなおす。検温、血圧測定、点滴の準備。てきぱきと仕事を進める。ベッドの棚や壁を伝い、右足を軸に動く。看護師だった母が肺がんの祖父を自宅で看護し、みとったのが高校生の時。技術や専門性にあこがれ、自分もそんな存在になりたい、と思った。看護大学に進み、2人に1人ががんになる時代だと知る。「がん患者さんの介護をしたい。将来は緩和ケアの現場で働きたい」。夢を抱いて、2009年9月、新卒で同病院に就職した。泌尿器科病棟に配属された。機器をうまく使えなかったり、術後の患者の氷枕を変えなかったり。先輩にたびたび注意された。病状の重い患者を担当し、つらい気持になった。(12月9日 朝日新聞 患者を生きる がんになった看護師より)
Dec 17, 2014 09:00

確定診断 手術が必要 2
境界悪性は、悪性ほど再発や転移のリスクは高くないが、再発や転移することもある。悪性化の恐れもある。このため、治療は悪性に準じて行う。患者は、卵巣腫瘍のうちの2割ほど。麻美さんが治療を受ける都内の総合病院によると、境界悪性の場合、発見時には多くが初期とされるステージ1だが、麻美さんは3まで進行していたという。ただ、抗がん剤治療の有効性は十分に裏づけられていない。「境界悪性は患者数が少なく、根拠を示す積み上げができていない」と東京慈恵会医大の落合和徳特命教授(婦人科腫瘍学)は説明する。「手術の前に、悪性度やステージによってどんな治療の選択肢があるのか。再発などのリスクと、人生設計を考えて自らの希望を医師に伝え、治療方法を決めることが大事。別の医療機関の意見(セカンドオピニオン)を聞くのもよいでしょう」。日本婦人科腫瘍学会の「患者さんとご家族のための 子宮頸がん・子宮体がん・卵巣がん治療ガイドラインの解説」も参考になる。(10月12日 朝日新聞 患者を生きる 麻美ゆまの再出発 より)
Oct 27, 2014 08:10

確定診断 手術が必要
卵巣がんは若い女性も発症する。自覚症状が出にくく、進んだ状態で見つかることも少なくない。年約1万人が診断され、約4500人が亡くなる。検診で死亡率を下げる有効性が確認されておらず、子宮頸がんのような自治体の集団検診は行われていない。卵巣の腫瘍が疑われたら、悪性(がん)か、再発や転移しない良性か、適切な診断が必要だ。両者の中間的な性格を持つ「境界悪性」もある。連載で紹介したタレントの麻美ゆまさんは、このタイプだった。画像で良性か悪性かをある程度判断できるが、実際に手術をして組織を調べなければ確定診断はできない。悪性なら、子宮と左右の卵巣、卵管、胃の下部にある大網という部分を手術で摘出し、ステージ(進行期)に応じて術後に抗がん剤治療をする。ただ腫瘍が片方の卵巣のとどまる場合に限り、例外的に子宮と片方の卵巣を残す場合もある。患者が若く、将来妊娠を希望する場合だ。良性なら腫瘍だけを切り、経過を観察する。(10月12日 朝日新聞 患者を生きる 麻美ゆまの再出発 より)
Oct 26, 2014 08:26

変らない自分を届ける 2
8月、治療を終えた。腫瘍マーカーの値も画像診断も問題はない。だが、腫瘍は良性ではないので、再発や、悪性に転じる可能性もある。経過観察に入った。年末から少しずつ仕事を再開した。まずはファンクラブのイベントから。アダルトビデオへの復帰を願う声も届く。「でも、おなかに傷もできたし、体力も必要。もうできないかな」。闘病経験を語る講演などへの出演が舞い込むようになった。「リ スタート」。闘病と人生をつづった自叙伝を今年5月に出した。タイトルにこだわった。「リセットだと、これまでの私がなかったことになる。過去を含めて、再出発したい」。病気をしても、私は変らない。これまでと違う形でも、私の仕事は元気や笑顔を届けること。そんな風に思っている。(10月11日 朝日新聞 患者を生きる 麻美ゆまの再出発 より)
Oct 25, 2014 08:58

変らない自分を届ける
境界悪性の卵巣腫瘍が分かり、2013年春から抗がん剤治療を始めたタレントの麻美ゆまさん(27)。回数を重ね、副作用の強さや出方も分かってきた。落ち込みがちだった時期を経て、自信を持ち、自分の時間を楽しもうと思った。地元の友達に会ったり花火大会に出かけたり、ギターを練習したり。8年前、アダルトビデオ女優としてデビューして、こんなにゆったりと過ごしたことはない。「ずっと走り続けてきたのかな」。子宮と卵巣を摘出し、子どもを埋めなくなった。子どものいる友達と会うのは複雑だったが、「産めないからこそ、子どもと一緒に遊ぼう」と思うようになった。6月、ツイッターで卵巣に腫瘍があったことを明かした。復帰したとき、応援してくれたファンに「大したことはありませんでした」とは言えないと思ったからだ。思わぬ中傷を受けた。「セックスのしすぎ」「自業自得だ」。怠けず、真剣にやってきた仕事。職業への偏見を悲しく感じた。女性特有の病気をすべて性行為と結びつける風潮はないだろうか。医師に尋ねると、「卵巣腫瘍とセックスは関係ない」と言われた。病気に対する誤解や偏見があると思った。病名を隠す女性がいることも知った。卵巣腫瘍について正しいことを知ってもらいたい、と思った。(10月11日 朝日新聞 患者を生きる 麻美ゆまの再出発 より)
Oct 24, 2014 08:16

副作用耐えステージへ 2
4月7日、ウイッグ(かつら)を着けて、ほかのメンバーとともに千葉・横浜の舞台に飛び出した。恵比寿マスカッツの「卒業式」。病気療養を宣言してから、ファンに姿を見せるのは初めてだった。しかもサプライズの出演。「おかえりーっ」。驚き、喜ぶ2千人のファンの声が、雄たけびのように押し寄せてくるのを感じた。シングル9曲を歌い、踊り、卒業証書を受けた。体力に自身はなかった。でも、不思議としんどくなかった。「よく5時間も立てたな」。気力だけだった。感謝の気持と達成感で満ち溢れた。コンサートの後も治療は続いた。数日後には2回目の抗がん剤治療が始まった。収入はほぼゼロになり、復帰後の仕事も保障されていない。家賃の安い部屋に引っ越すことにした。抗がん剤の副作用に加え、卵巣を摘出した影響で、急に体が熱くなったり、夜中に何度も目が覚めたり。更年期症状が出る中での転居だった。生活も、体も、自分だけが変っていく。つらく、耐える時間が長かった。(10月10日 朝日新聞 患者を生きる 麻美ゆまの再出発 より)
Oct 23, 2014 08:12

副作用耐えステージへ
タレントの麻美ゆまさん(27)は2013年2月、卵巣の境界悪性腫瘍のため、左右の卵巣と子宮の摘出手術を受けた。3月中旬、1回目の抗がん剤治療に望んだ。2種類の抗がん剤を点滴する。悪性の卵巣腫瘍で標準的な治療だ。月に1回入院し、計6回。8月まで続く予定だった。「こんなにつらいの・・・・」。吐き気や手足のしびれ、脱毛。副作用は事前に医師から説明されていた。だが想像を上回った。投薬直後から寒気に鳥肌。気持も悪い。翌日からは、体の痛みや手のしびれも出始めて、何もする気がしなくなった。めざすイベントが近づく。4月初めに千葉県で開かれる。アイドルグループ「恵比寿マスカッツ」の解散コンサート。「何としてもステージに立ちたい」。一時はリーダーも務めた麻美さんは、コンサートを目標に、つらい治療と向き合ってきた。体力をつけたいが、体がついていかない。4月に入ると、髪の毛が抜け始めた。最初はハラハラと。続いてバサバサと。コンサート開催のことは脱毛の勢いがすさまじく、髪はうっすらと残るだけになった。(10月10日 朝日新聞 患者を生きる 麻美ゆまの再出発 より)
Oct 22, 2014 08:25

悪性と良性の中間だった 2
約4時間の手術を終えた翌日。母と姉とともに、執刀医の説明を受けた。手術中の診断で、腫瘍は悪性と良性の中間の性質を持つ「境界悪性」だとわかった。「悪性じゃなかった」。少しほっとした。だが、腫瘍は左右の卵巣と直腸、おなか全体にもみられ、ステージは4段階の3まで進んでいた。境界悪性は、悪性に準じた治療法がとられる。このため、悪性が疑われた手術前の説明の通り、左右の卵巣と子宮は摘出しなければならなかった。抗がん剤治療も必要になるという。直腸は別だった。悪性ではないので、腫瘍はあるが、残す選択肢もある。手術中、医師からそう説明された母と姉は、その道を選んだ。人工肛門は回避した。3月中旬、今度は抗がん剤治療のために再入院した。悪性の卵巣腫瘍の治療で標準的な「パクリタキセル」と「カルボプラチン」という2種類を使うことになった。目標とする「恵比寿マスカッツ」の解散コンサートが4月に迫っていた。その日に副作用が強く出ないよう、医師と薬剤師と相談し、治療スケジュールを組んでもらった。(10月9日 朝日新聞 患者を生きる 麻美ゆまの再出発 より)
Oct 21, 2014 08:49

悪性と良性の中間だった
悪性の卵巣腫瘍の疑いがあることが分かったタレントの麻美ゆまさん(27)は2013年2月、アイドルグループ「恵比寿マスカッツ」の活動やアダルトビデオ出演を仕事をすべてキャンセルした。その後、ツイッターで病気療養を宣言した。病名は出さなかった。いくつかの医療機関で治療方針の意見を聞き、最初に受診した東京都内の総合病院で治療を受けることにした。子宮と卵巣の摘出手術後は、半年に及ぶ抗がん剤治療が予定される。しかし、2カ月後の4月初めには、活動の集大成でもある恵比寿マスカッツの解散コンサートが予定されていた。「絶対、ステージに立ちたいです」。訴える麻美さんに、医師は「厳しいとは思うが、できる限りのことはしましょう」と応じた。2月中旬、手術の前夜。病室のベッドで考えた。子どもは諦めるけど、結婚はしたい。人工肛門はどうなるんだろう。傷跡は残るかな。抗がん剤治療と向き合えるかな。仕事も先が見えないな。きりがなかった。(10月9日 朝日新聞 患者を生きる 麻美ゆまの再出発 より)
Oct 20, 2014 08:06

子宮も卵巣も摘出なんて 2
2月初め。検査結果が伝えられた。「卵巣は、お腹を開けてt組織を調べるまで確定診断はつきません。でも、誰が見ても悪性を疑う所見です」。涙がこぼれた。腫瘍は左右の卵巣にある。医師からは、子宮と卵巣をすべて摘出し、抗がん剤治療を行うことになると説明された。さらにMRIを撮ると、腫瘍は直腸にも広がり、人工肛門が必要になる可能性もあるという。最初は「腸炎かな」と思っていたのに、思いもかけない展開だった。自分には仕事しかない、と思った。解散を控えた「恵比寿マスカッツ」の活動をやれる限りやろう。手術前に行われるプロモーションビデオの撮影への参加を訴えた。だが、総監督が止めた。「今は病気を治すのが仕事だ」。はっとした。現実から逃げようとしていたかも。4月にある最後のコンサートに、絶対に立つ。治療を頑張ろう。しかし、現実は厳しかった。将来、子どもを生みたい。卵巣と子宮を残せないか。三つの医療機関で意見を求めたが、望む見解は聞けなかった。毎日のように泣いて過ごした。(10月8日 朝日新聞 患者を生きる 麻美ゆまの再出発 より)
Oct 19, 2014 08:27

子宮も卵巣も摘出なんて
「腹水がたまっている。婦人科を受診してください」。2013年1月。タレントの麻美ゆまさん(27)は、東京都内の総合病院で内科の医師からそう告げられた。すぐに婦人科でCT撮影と超音波を受けた。詳しい結果は後日になるが、「子宮か卵巣の病気の疑いがある。いずれにしても、手術が必要になるでしょう」という。婦人科の病気。しかも手術と聞いて、驚いた。体を見せる仕事だから、傷跡は小さくしたい。所属するアイドルグループ「恵比寿マスカッツ」の解散全国ツアーも迫り、早く復帰したい。「手術なら傷が小さくて済む腹腔鏡手術がいいな。退院も早そう」と思った。気がかりもあった。初めて耳にした「腹水」という単語。何を意味するのか。インターネットに「腹水」などのキーワードを入れ、婦人科の病名を検索した。「卵巣がん」。表示された検索結果に、背筋が凍った。「違ってほしい」という願望。同時に、ある種の覚悟。(10月8日 朝日新聞 患者を生きる 麻美ゆまの再出発 より)
Oct 18, 2014 07:58

「経験を伝える」私の仕事
体が異変を告げたのは、ちょうどそのころだった。何だか、おなかがゆるい。「ふだんは快便なほうなのに、おかしいな」。市販の整腸剤を飲んで様子をみることにした。年が明けると、下腹部の張りが気になってきた。「ガスがたまっているのかな?妊婦さんみたい」。おなかがぽっこり出て、ズボンやスカートのウエストがきゅうくつになった。病院へ行こうと思ったが、そこまで深刻には考えなかった。解散全国ツアーを目前に控え、通院する余裕はなかった。2013年1月中旬、体重は増えないのに見た目が変るほどおなかが出てきた。整腸剤を飲み続けたが効果はない。日頃から不調があるときに通っていた都内の総合病院の内科を受診した。X線撮影と触診を終えた医師から「腹水がたまっています。最近、やせませんでしたか」と聞かれた。食べている割に太らない。年末年始の帰省の際、こんなことを母に話した。正月だったこともあり、母が「もちでも食べなきゃね」と言っていたのを思い出した。「婦人科を受診してください」。医師はそう告げた。「えっ。どうして婦人科?」おなかの調子が悪いのだから、腸炎か何かかと思っていた。医師のけげんそうな表情も、気にかかった。(10月7日 朝日新聞 患者を生きる 麻美ゆまの再出発 より)
Oct 16, 2014 08:02

へき地、足りない医療者 2
連載では、長崎県福江島で、17歳の長女をみとった家族を紹介した。訪問看護の仕組みがあり、往診する医師がいたこともあって、最期の時間を自宅で過ごすことができた。ただ、「『へき地では住み慣れたところで最期まで』という願いをかなえるだけのもの、医療を担保できる状態になかなかない」と前田教授は指摘する。特に高齢者は、子どもを頼って近隣の都市部の医療機関や介護施設を利用するために、住み慣れた地域を離れる人が多い。結果的に、へき地には介護が必要ない元気な高齢者が残るという。前田教授は「小さな離島の高齢者は元気なイメージがあるかもしれないが、元気でないと暮らしていけない現実がある」という。離島や山間部で末永く暮らし続けるためには、日々の健康管理が欠かせない。そうした予防医療の取り組みも続けられている。例えば、瀬戸内海の島々を巡る全国唯一の診療船「済生丸」はその一つ。済生会が1962年から半世紀以上、岡山、広島、香川、愛媛の4県の65島を訪れ、がん検診や健康診断にあたっている。(9月7日 朝日新聞 患者を生きる 島でみとる より)
Oct 04, 2014 08:11

へき地、足りない医療者
離島や山間部の医療は、自然や交通などの条件に大きく影響を受ける。現地の医師不足も、深刻な課題の一つだ。厚生労働省の調べでは、一定の人口がありながら医療機関に簡単に受診できない「無医地区」は、全国で705地区ある。連載で紹介した長崎県は4地区と少ない。だが、人口10万人当たりの医師数でみると、本土は301.1人と全国平均を上回るが、五島列島などの離島に限ると161.1人と著しく下がる。こうした医師不足の状況で、病院間の連携や、福祉サービスとの協力が欠かせない。長崎大学の前田隆浩教授(地域医療)は「へき地には、様々な病気でも対応でき、医療と福祉をつなぐ能力がある医師が求められる」と話す。看護師など、医師以外の医療従事者も慢性的に不足している。こうした悪条件を補おうと、ITを駆使して患者情報を共有したり、離れた場所から高齢者の健康状態を見守ったりする試みも、各地で広がっている。(9月7日 朝日新聞 患者を生きる 島でみとる より)
Oct 03, 2014 08:10

最期の時、家族とともに 2
午後2時16分、大きく呼吸をすると、息を引き取った。18歳の誕生日は迎えられなかった。「お母さん、ちーちゃんをお風呂に入れてあげませんか」。訪問看護師の柿森悦子さん(59)が提案した。体が思うように動かなくなってからは、首までお湯につかっていなかった。「最後ぐらいゆっくりさせてあげたい」。須美枝さんは、亡くなった千春さんを抱きかかえて風呂に入った。妹は泣きじゃくりながら、姉の髪をシャンプーで洗った。身きれいになった千春さんに、生前お気に入りだったスカートをはかせた。「やせたから細身のブーツやミニスカートがはける」。治療に前向きに取り組んでいたころの姿が目に浮かんだ。葬儀では、高校の友達や家族らが一輪ずつ花を添えた。ひつぎに納まる千春さんは、まるで白雪姫のようだった。その年の5月、母校の小学校に同級生たちが千春さんのことを忘れないように桜の木を植えた。校庭を見渡せる場所に植えられた「千春桜」は今年3月、初めて花を咲かせた。(9月6日 朝日新聞 患者を生きる 島でみとる より)
Oct 02, 2014 07:52

最期の時、家族とともに
小児がんが脳に転移した高校2年生の山田千春さんは2011年3月、長崎大病院から福江島の自宅に戻った。残り少ない時間を家族とともに過ごした。千春さんは尿路感染を起こして何度も高熱を出した。血小板も著しく減った。輸血で補うものの、不安定な状態が続いた。顔は青白くなっていった。食事はとれずに点滴を続けた。島の内科医の宮崎昭行さん(61)は体調が悪化するたびに駆けつけた。4月21日は千春さんの18歳の誕生日だった。その日を超えさせてあげたい。その一心だった。「寝たきりになってもいいから、千春と過ごし時間が続いて欲しい」。母須美枝さん(49)は願った。起き上がることも、声を出すこともできなくなり、3月末には呼吸の回数が減ってきた。最期の時が少しづつ近づいていた。だが、両親は「延命はしない」と決めていた。4月1日、連絡を受け、千葉県から兄も戻ってきた。家族全員がそろった。ベッドは、友人たちから送られた千羽鶴やひまわりの飾りで囲まれていた。(9月6日 朝日新聞 患者を生きる 島でみとる より)
Oct 01, 2014 07:56

ちーちゃん、お帰り 2
宮崎さんは、子どもを診た経験はなかったが「家に帰りたいという思いに応えたい」と往診を24時間態勢で引き受けることにした。3月14日、千春さんはベッドに横になったまま、酸素マスクを着けて長崎港から高速船に乗った。長崎大病院の医師が同行し、1時間半かけて福江島に戻った。港には家族や柿森さんらが待っていた。「ちーちゃん、お帰り」と声をかけると、千春さんはうっすらと目を開けて、小さくうなずいた。小学生だった弟は「病気が治っていないのに、なぜ帰ってくるの」と理解できなかった。自宅の玄関を入ってすぐ右の部屋が、千春さんの部屋になった。帰宅した夜、家族みんなで千春さんのベッドの近くで一緒に寝た。ベッドの横二ちゃぶ台を置いて、ご飯を食べるようになった。話が盛り上がると、千春さんにも「ねえ?」と話しかけた。「行ってくるけんね・・・・」。友人は登校前に家に立ち寄り、声をかけてくれた。穏やかな日々が続くと思われた。しかし、3月末になると、呼吸は徐々に弱くなっていった。(9月5日 朝日新聞 患者を生きる 島でみとる より)
Sep 30, 2014 08:42

ちーちゃん、お帰り
長崎県・福江島の県立五島高校2年生だった山田千春さんは2011年2月、入院先の長崎大病院で昏睡状態に陥った。再発した小児がんの治療が順調に進みだした、と思った矢先だった。脳を包む髄膜にがんが転移していた。「延命治療をしますか」。母須美枝さん(49)は当直の医師に聞かれた。突然のことに混乱した。主治医は「脳の転移はその後の経過がよくない」と両親に説明した。治療を終え、退院する選択肢もあると暗に次げた。「もう治らないのだったら。そうはっきり言って欲しい」と思った。可能性があるなら治療を続けたい。でも、病院で終わりたくない。家族は2週間迷い続けた。「島に連れて帰ろう」。それが、両親の出した答えだった。病院から100キロは離れた、福江島へ戻ることになった。3月2日夜、父隆之さん(51)は島にある「訪問介護ステーション福江」の柿森悦子さん(59)に相談した。島に小児科医はいるが往診はしていない。高齢者を中心に往診をしていた、内科医の宮崎昭行さん(61)を2人で訪ねた。(9月5日 朝日新聞 患者を生きる 島でみとる より)
Sep 29, 2014 08:03

高2、まさかの再発 2
幼い頃に患った小児がんの再発だった。10年以上たっての再発はまれだ。千春さんや家族、主治医にさえ思いがけぬことだった。放射線と抗がん剤の治療を受けた。8月末には腫瘍が半分以下に縮小するまでに回復した。しかし、放射線治療の副作用で唾液が減り、声がかすれた。ご飯が食べられず、体はやせこけた。病室に高校の教科書を持ち込み、勉強を続けていた。だが、秋になると体調がすぐれず、本が開けなくなった。「治療に専念して、2年生をやり直せばいい」と、隆之さんは声をかけた。それでも「同級生と一緒に大学入試センター試験を受けたい」。口癖のように言っていた。年が明けた2011年2月、腫瘍はほぼなくなった。「先が見えてきた」と喜んだ矢先、激しい頭痛や嘔吐に襲われた。予定していた外泊で島に戻ったが頭痛は悪化。姉弟が温かいタオルを交代であてた。「頭が割れるように痛い・・・」。予定を早めて病院に戻った数日後、意識を失った。(9月4日 朝日新聞 患者を生きる 島でみとる より)
Sep 28, 2014 07:58

高2、まさかの再発
4歳で小児がんの神経芽腫瘍の治療を終え、長崎県・五島列島の福江島で高校生活を送っていた山田千春さん。2年生だった2010年6月、突然肩に痛みを感じた。痛みはなかなか収まらない。初めは「ソファに寝転がっているからだよ」と父隆之さん(51)は冗談交じりに言った。だが、右肩に学生カバンがかけられなくなるほど痛みが強くなった。テストも左手で右腕を支えて受けた。島で最も大きな五島中央病院へ行くと、悪性の腫瘍ができている可能性を指摘された。だが、この病院では治療できない。本土に船で渡り、長崎大病院で詳しく調べることになった。主治医は、腫瘍が再発か抗がん剤治療の影響によるものと指摘した。「自分の前で全部話して欲しい」と、千春さんは両親と一緒に話を聞いた。取り乱さなかった。検査を終えると、千春さんはベッドでぽろぽろと涙をこぼした。母須美枝さん(49)が理由を尋ねても、黙ったままだった。検査の結果、首の骨の間に2センチの神経芽腫ができていることがわかった。神経を圧迫し、肩の痛みが起きていた。右の鎖骨にあるリンパ節にも転移があった。(9月4日 朝日新聞 患者を生きる 島でみとる より)
Sep 27, 2014 08:08

100キロ離れての入院2年
長崎県・福江島生まれの山田千春さんは2歳で小児がんの神経芽腫が見つかった。1996年1月、100キロ離れた長崎市の長崎大病院に入院。腫瘍を小さくするために抗がん剤治療を受け、5月21日に右副腎と腎臓の摘出手術を受けた。手術の3週間前、母須美枝さん(49)は院内で次女を出産した。須美枝さんはいったん福江島に戻り、代わりに祖母が病院で千春さんの世話をした。だが7月に始まった抗がん剤治療の副作用で、千春さんの体調が悪化。須美枝さんは生後2カ月の赤ちゃんを祖母に預け、再び病院で看病した。父隆之さん(51)は毎週末、片道3時間かかるフェリーに乗り、千春さんを見舞った。高速船なら半分の時間で着くが値段が高い。当時の小児科病棟は、男性が泊まれない規則だった。かさむ費用を考え、病院近くの2千円ほどの宿に泊まった。抗がん剤治療は翌年3月まで続いた。治療が一段落した後、体の細胞の一部を取って、腫瘍がなくなったかどうか調べた。だが、おなかの周辺にまだがん細胞が残っていた。再度、抗がん剤治療を受けることになり、気がつけば入院生活は2年に及んだ。(9月3日 朝日新聞 患者を生きる 島でみとる より)
Sep 25, 2014 07:32

暮らし変えた小児がん 2
検査の結果、右副腎に8センチ大の神経芽腫があることがわかった。小児がんの一種で、乳幼児から10歳以下の子どもに多く見られる。発症年齢で病状が大きく異なる。病状によるが、手術、抗がん剤、放射線を組み合わせて治療する。そのまま長崎大病院に入院した。千春さんが島を離れて暮らすのは初めてだった。大部屋に入院した千春さんには、妊婦の須美枝さんが1人で付き添った。当時の規則で、寝泊りする付き添いは女性にしか許されていなかった。同じ長崎大病院で出産することにし、千春さんの手術前になるように調整した。島には父隆之さん(51)と4歳だった長男が残された。隆之さんは、慣れない幼稚園の準備や洗濯、食事の世話を担った。突然降りかかった小児がんは家族の暮らしを一変させた。長期間にわたる、闘病の始まりだった。(9月2日 朝日新聞 患者を生きる 島でみとる より)
Sep 24, 2014 08:04

暮らし変えた小児がん
2011年4月1日午後2時16分。自宅のベッドで眠る山田千春さんの息づかいが弱くなっていった。「よくがんばったね」「ありがとう」。両親と兄弟ら8人が口々に声をかけた。千春さんは大きく息をすると、眠るように逝った。17歳だった。長崎市から100キロ余り離れた、東シナ海に浮かぶ五島列島の福江島。小児がんの治療で入院していた長崎大病院から戻り、半月しかたっていなかった。1995年の冬、2歳だった千春さんは、不機嫌そうに家でごろごろとすることが多くなった。当時、母須美枝さん(49)は妊娠6カ月。「おなかの妹に、やきもちやいているのかな」と思った。一方で、今まで元気に走り回っていた子とは思えない異変に違和感を覚えた。1996年1月、島の中核医療施設、五島中央病院に連れていった。「便秘や風邪では」と言われた。数日後に再度受診し、CT撮影をした。「あなかに異常な影がある」という。長崎大病院での受診が決まり、五島中央病院は千春さんを送るために海上自衛隊のヘリコプターを要請。だが、この日は雪で飛べなかった。翌日も悪天候は続き、船も欠航した。2日後、高速船で本土に渡り、ようやく病院にたどり着いた。(9月2日 朝日新聞 患者を生きる 島でみとる より)」
Sep 23, 2014 07:28

心の回復「5年はかかる」 2
国のがん対策推進基本計画では、精神的な苦痛に対する心のケアを含めた緩和ケアを進めることが「重点的な課題」とされている。ただし、こうした課題ががん治療に携わる医師に十分に認識されているとは言えず、見落とされることもある。聖路加国際病院(東京)の保坂隆・精神腫瘍科部長は「心の不調を感じたら主治医に伝えて欲しい。主治医を通じて精神科や心療内科の専門医につなげてもらうことが大切だ」と話す。患者という「同じ立場の人」とつながるとこで、回復に向かう人もいる。連載で紹介した「慢性疾患セルフマネジメントプログラム」は、米スタンフォード大で開発された。様々な病気を抱えた人たちが集まって話し合うワークショップ形式で進められる。感情のコントロールの仕方、服薬管理の大切さなど、「病気とうまく付き合っていくための方法」を身に付けることを目指す。世界20カ国以上で実施され、日本慢性疾患セルフマネジメント協会のサイト(http://j-cdsm.org/)に詳細が載っている。(8月31日 朝日新聞 患者を生きる 急性リンパ性白血病 より)
Sep 22, 2014 07:50

心の回復「5年はかかる」
がん患者はうつ病を併発する人が多いことで知られている。岡山大の内富庸介教授(精神神経病理学)によると、6人に1人は重いうつ病になる、と言われている。軽いうつや適応障害などを含めると「3人に1人ぐらいは、生活に支障がある程度の、何らかの心の問題を抱えている」という。診断や再発など、ショックを受ける出来事が起きた直後に多くなる傾向にある。連載では、退院後、自宅に戻った後に強い不安に襲われた。入院中は治療という目標があり、不安になっても医師や看護師の目が届きやすく、支援も受けやすい。ところが、退院して病院から離れると、人によっては「急に沖合いに放り出されたような間隔」に陥る。最近は「5年生存率」などのデータが一般的な知識として広まっている。発症から5年ほどは、地雷原を歩いているような不安感から逃れられない人は多い。「体力面などは退院して半年~1年ぐらいで回復しても、心の回復には5年かかると考えたほうがいい」と内富さんは話す。(8月31日 朝日新聞 患者を生きる 急性リンパ性白血病 より)
Sep 21, 2014 08:02

「仕事したい」相談員に 2
毎回最後に、1週間でやりたい目標を設定した。「週2回、家から外に出て散歩する」。小さな目標でも、達成できると堀田さんには自信になった。6回のプログラムの最後、「3~6カ月後の目標を決めてください」と言われた。「仕事をしたい」。自然と出た言葉に、自分が一番驚いた。2007年6月、センターの相談員に採用された。「病気の経験を生かし、患者の話を聞いてもらえませんか」とセンターから声がかかった。昨年、仕事に役立てようと、相談業務に携わる人が目指す「社会福祉士」の資格をとった。仕事とは別に、がんの患者や家族が集まって不安や悩みを語り合う「がんサロン」の活動も始めた。抗がん剤は2007年に医師と相談し、やめた。再発の心配はだいぶ減った。ただ、いまも数カ月に一度、通院して検査する。最近は、フラダンスやクラシックギターなど趣味の時間も大切にする。「楽しいと思えることに没頭できる時間を持てるようになった自分が、うれしい」。来年3月、診断から10年を迎える。(8月30日 朝日新聞 患者を生きる 急性リンパ性白血病 より)
Sep 20, 2014 08:13

「仕事したい」相談員に
熊本県難病相談・支援センターが主催する患者交流会に参加したことをきっかけに、熊本市の掘田めぐみさん(54)は、同じ血液がんの患者と交流を始めた。再発の不安を抱えながらも、不安と落ち込みの日々から、少しずつ抜け出そうとしていた。「あなたにとって必ず役に立つプログラムだと思います」。急性リンパ性白血病と診断されて1年半近くたった2006年10月、センターから自宅に、1枚のFAXが届いた。「慢性疾患セルフマネジメントプログラム」の案内だった。米国の大学が患者支援のために開発したものだという。風邪やけがなど短時間で治る病気を除けば参加できる。週1回(2時間半)を計6回。10人ほどのグループで、医療者との関係、薬の管理、落ち込んだときの感情のコントロールについて、患者同士が話し合う。誘ったのは、センターの所長だった陶山えつ子さん(57)。1型糖尿病の子を持つ親でもあった。患者会を通じてプログラムを知った。病気とともに自分らしく生きる。そんな考え方に立つプログラムを熊本で試したい、と思った。(8月30日 朝日新聞 患者を生きる 急性リンパ性白血病 より)
Sep 18, 2014 07:58

似た境遇 心の支えに 2
多くは血液難病の人で、同じ病気の人はいなかった。がんの人もほとんどいなかった。アンケートに「同じ病気の人と会いたいです」と書き、会場を出た。数カ月後、センターから自宅に電話が入った。「慢性骨髄性白血病の人がいます。会ってみませんか?」それが上天草市に住む、山口なおみさん(52)だった。山口さんもこの時期、「同じ病気の人と話したい」とセンターに連絡を取っていた。2004年4月に発症。退院し、軽い仕事を始めたころだった。ただ、半年後、1年後の自分がどうなっているのか。想像できず、不安の中にいた。同じ病気ではなかったが、ともに血液のがんで、抗がん剤治療を続けていた。高校生と中学生の子どもを持つ母親、という立場も一緒だった。「子どもが成人するまでは元気でいたいですよね」。電話やメールで連絡をとるようになり、時々一緒にご飯を食べた。同じように再発の不安を抱えながら、日々を生きている人がいる。その存在を実感することが、互いに心の支えになった。(8月29日 朝日新聞 患者を生きる 急性リンパ性白血病 より)
Sep 17, 2014 08:18

似た境遇 心の支えに
血液難病の患者を対象にした交流会。2005年冬、熊本市の堀田めぐみさん(54)は新聞で小さな記事を見つけた。急性リンパ性白血病は難病ではない。でも、血液のがんだ。連絡をとり、参加できることになった。「同じ病気の人と会えるかもしれない」と思った。退院後、気分がひどく落ち込んだ。再発の不安、社会から取り残されたような疎外感・・・。みんな、どんなふうに向き合っているの?それを知りたかった。抗がん剤の影響で髪が抜けていた。感染症の不安もあった。ニット帽を目深にかぶり、二重にしたマスクをつけて熊本市内の会場に足を踏み入れた。交流会は、難病の患者や家族らの相談を電話などで受付けている、熊本県難病相談・支援センターが主催していた。「順番に自己紹介をと言われた瞬間、「来なきゃよかった」と後悔した。また、病気の自分を受け入れられず、人前で話すことに抵抗感があった。病名を告げた後、「皆さんのお話を聞きに来ただけですので・・・・」。蚊の鳴くような声で、すぐに黙り込んだ。(8月29日 朝日新聞 患者を生きる 急性リンパ性白血病 より)
Sep 16, 2014 07:50

退院、押し寄せる不安 2
家族と一緒のときは、そうでもなかった。朝起きると、朝食の準備をし、高校に通う長女の弁当をつくる。体力が戻らず肩で息をしながらだが、それでも家族のために何かできる喜びに、心が満たされる。しかし、昼間に家に1人残されると不安になる。気付くと涙がほおを伝い、止まらなくなる。夕方に家族が帰って来て少し和らぎ、夜寝静まるとまた不安になる。その繰り返しだった。発症前は、小学校の理科の非常勤講師の仕事で充実した日々だった。実験をすると、子どもたちの目が輝いていく。その表情を見るのが好きだった。でも、そんな日々に戻れるとは思えなかった。退院してからの不安の大きさ。それは想像以上だった。再発したら、また入院しなければいけない。家族に迷惑をかけるに違いない。「私の人生、ここで終わりにしようかな」。ふと、そんな思いがわいてくるようになった。ある日、新聞の小さな記事が目にとまった。血液難病の患者を対象にした交流会が紹介されていた。これが転機になった。(8月28日 朝日新聞 患者を生きる 急性リンパ性白血病 より)
Sep 15, 2014 07:42

退院、押し寄せる不安
8カ月間の入院を経て、念願の我が家へ。急性リンパ性白血病と診断された、熊本市の堀田めぐみさん(54)は2005年11月、退院した。入院中は、家に帰ることだけを夢見ていた。だが、その思いとは裏腹に、退院すると、強い不安や気分の落ち込みに襲われた。退院直後は、抗がん剤の影響で髪の毛や眉毛が抜けていた。顔もむくんでいた。「みんなが知っている私と、いまの私は違う」。外に出て、友人と会う気持は起きてこなかった。疲れやすく、気分もすぐれなかった。抗がん剤治療で、がん細胞がほとんどない「完全寛解」の状態になっていた。しかい、がん細胞が再び増えだし、再発する心配は残っていた。「10年間は経過を観察して、再発がないか確認する必要がある」と医師から言われた。このため、退院後も定期的に熊本市民病院に通院し、抗がん剤の治療が続いた。インターネットで病気の情報を調べ、「再発」の文字を見ると、投げやりの気持になった。「頑張ったって、再発するんでしょ?」(8月28日 朝日新聞 患者を生きる 急性リンパ性白血病 より)
Sep 13, 2014 07:33

つらい副作用「叫びたい」 2
母親の不在を、家族みんなが理解していた。高校生の長女は自身の弁当と一緒に、夫(55)の弁当を作っていた。夫は仕事をしながら家事もこなし、仕事が終わると毎日見舞いに来てくれた。疲れているのか、ベッドサイドで寝入っていることもあった。市内に住む両親も見舞いに来てくれ、家事も手伝ってくれた。母親の役割を果たせていない。家族に迷惑をかけている。たまらない気持になった。退院し、家に帰れる日を夢見て、ただ時間が過ぎ去るのを耐えるしかなかった。でも退院の日は果てしなく遠く思えた。「そんな日が来るのだろうか?」「重い感染症にかかったら、生きていられないかもしれない」。そんな不安に駆られることもあった。念願だった「その日」は、入院から8カ月ほど過ぎた2005年11月。抗がん剤治療が予定通り進み、退院することができた。鐘が鳴り響くような喜び。退院すれば、そんな気持に満ち溢れると思っていた。しかし、現実はそうではなかった。(8月27日 朝日新聞 患者を生きる 急性リンパ性白血病 より)
Sep 12, 2014 07:49

つらい副作用「叫びたい」
2005年3月、熊本市の堀田めぐみさん(54)は急性リンパ性白血病と診断され、熊本市民病院で抗がん剤治療を始めた。急性リンパ性白血病は血液のがんだ。複数の抗がん剤を組み合わせて治療する。1カ月~1カ月半が1クール。点滴などで抗がん剤を体に入れ、がん細胞をできるだ減らす。免疫力が低くなり、感染症にかかりやすくなるため、その後も入院して様子をみる。落ち着いたら一度退院して1週間ほど家で過ごし、2クール目に入る。これを計6クール。順調でも、半年ほどの入院治療が必要になる。抗がん剤は効いた。1クール目の治療で、がん細胞がほとんどなくなる「完全寛解」になったが、その状態を維持するため、抗がん剤治療は続ける必要があった。副作用の倦怠感がつらかった。熱も出て、光や音の刺激がつらい。テレビはつけられず、ブラインドを閉め切って部屋を薄暗くした。髪も抜け始め、手足や足のしびれもあった。「叫びたい」。しばしば、そんな衝動に襲われた。ただ、誰に向けてその気持をぶつけたららいいのか、分からなかった。(8月27日 朝日新聞 患者を生きる 急性リンパ性白血病 より)
Sep 11, 2014 07:48

激しい息切れ 検査入院 2
「半年も?家族はどうなるの?」。長男は大学生、長女は高校生、次女は4月から中学3年生になり、受験も控えていた。小学校の非常勤講師の仕事は3月で1年間の契約が終わるが、4月からはまた、別の小学校で働くことを希望していた。それもあきらめざるを得ない。入院中の病室に戻った。ベッドのまわりノカーテンを閉め切ると、夫と2人の空間になった。「子どもにどう伝えたらいいのかな。両親にどう伝えよ?」。夫にそう話しかけた瞬間、涙が一気にこみあげてきた。手で押さえていた水道の蛇口から水があふれ出るように、涙が止まらない。夫は黙ってそばにいてくれた。3月24日、小学校の卒業式の日。「子どもたちに会いたい」。山崎さんとも相談し出席を考えていたが、体力に不安を感じて断念した。「何で来ないんだろうって、思ってるかな」。卒業証書、校歌斉唱・・・。ベッドの上で、児童たちの姿を思い浮かべた。この日、抗がん剤の治療が始まった。(8月26日 朝日新聞 患者を生きる 急性リンパ性白血病 より)
Sep 10, 2014 07:42

激しい息切れ 検査入院
1階の職員室から2階の理科室までの階段を上がれない。激しい息切れが起き、途中2,3回立ち止まる。壁に手をついて息を整える。その横を子どもたちが元気にかけのぼっていく。2006年。熊本市内の小学校。理科の非常勤講師をしていた堀田めぐみさん(54)は、自分の体に異変を感じていた。趣味のバドミントンでは息切れが激しく、ラリーを返すのに精一杯。苦しくて、その場に座り込んで動けなくなった。数年前から貧血症状があり、鉄剤を飲んでいた。でも、ここまで体調がひどくなったことはなかった。同じころ、近くの医療機関で健康診断を受けた。赤血球の数が減っていて、精密検査を受けるよう言われた。かかりつけの市内のクリニックから熊本市民病院の血液・腫瘍内科を紹介された。2005年3月に検査入院した。結果は、急性リンパ性白血病だった。院内の小さな部屋。長机をはさんで向き合った主治医の山崎浩さん(49)から、夫(55)と一緒に告知を受けた。抗がん剤の治療を始め、このまま半年ほどの入院になるという。(8月26日 朝日新聞 患者を生きる 急性リンパ性白血病 より)
Sep 09, 2014 08:08

励まし合う輪 広げたい 2
昨年12月、財団などが支援する「キャンサー・サバイバー・フォーラム」が国内で初めて開かれた。がんを経験した人たちが治療や家族、仕事との関係、偏見などの体験を紹介。「がんを知って偏見をなくそう」と宣言した。フォーラムは寄付で運営されているが、今年度は資金のめどが立たず開催は未定だ。運営団体の一つで、がんの正しい治療情報の普及を目指す、NPOキャンサーネットジャパンの川上祥子理事は「体験を共有し、それぞれの立場で何ができるか考える機会になる。今年もぜひやりたい」という。昨年の講演はサイト(http://octjapan.jp/about)で公開している。英国の「マギーズセンター」は、がん患者や家族が気軽に立ち寄れる場を提供している。医療従事者らに相談できる。このほど、日本でも東京都内に開設が決まった(http://maggiestokyo.org/)。連載に登場した鈴木美穂さん(30)は、誘致の活動をする。病院とは異なる癒しの空間を作りたいという。鈴木さんは「来年中の解説を目指す」という。
(8月24日 朝日新聞 患者を生きる 25歳からのがん より)
Sep 08, 2014 07:35

励まし合う輪 広げたい
がんの種類にかかわらず、患者同士が結びつき、励まし合う、海外で始まった取り組みが日本にも広がりつつある。がんの部位や種別ごとの患者会の取り組みとは異なる動きだ。その一つが、米国のリブストロング財団。がん患者向けの冊子を作り、米国ではがん患者に無料で配っている。治療法の助言と、治療計画の記録を2冊の冊子にしている。患者はこれを読み、どんな治療があるのかを知ったり、医師に何をどのように聞いたらいいか事前に練習したりできる。連載でも登場したビンジー・ゴンザルボさん(41)は2008年、抗がん剤治療で国立がん研究センター中央病院に入院すると、冊子を米国から取り寄せた。2011年に、財団の理念を伝える団体を日本で立ち上げた。ゆくゆくは、テキストを翻訳し配布することも検討している。現在はがん患者らを支援するリーダーを養成し、勉強会やフォーラムなどを開いている。「がん患者を励まし、患者が知識を増やせるよう力添えをしたい」という。(8月24日 朝日新聞 患者を生きる 25歳からのがん より)
Sep 07, 2014 08:10

本音 ネットで生配信 3
8月2日、初めて配信した。番組は1年間。ゲストは6年前に乳がんを発症した会社員鈴木美穂さん(30)。岸田さんが活動に取り組むきっかけになった「STAND UP!!」創設者で、若くしてがん患者になった人の情報交換の場を提供している。七つの医療機関で意見を聞いたという鈴木さんに「セブンス・オピニオンですね!」と岸田さんが驚く。「結果がどうあれ、納得した上で治療を選択することが大事です」と鈴木さんは答えた。発信後、「どうだったかな」と感想を求める岸田さん。「ちょっと雰囲気が明るすぎないか。治療中の人が見てどう思うかな」。同席した「STAND UP!!」の仲間が苦笑する。経験者の本音をきちんと伝えたい。試行錯誤しながら発信を続けるつもりだ。(8月23日 朝日新聞 患者を生きる 25歳からのがん より)
Sep 06, 2014 07:52

本音 ネットで生配信 2
岸田さんががん患者にインタビューし、インターネットで生配信する、その模様を闘病中の患者がベッドの上からでもリアルタイムで見て、質問できるようにした。「がんの経験者がつながって、情報共有の幅を広げた」との思いを患者仲間に伝えると、みな質問してくれた。治療、家族、学校、仕事、性、後遺症など、15のテーマを取り上げる構想を話した。反対されたテーマもある。代替療法だ。患者が関心を持つのは理解できるが、科学的根拠は不十分として取りやめた。(8月23日 朝日新聞 患者を生きる 25歳からのがん より)
Sep 05, 2014 08:06

本音 ネットで生配信
昨年12月、がん経験者が自身の体験を語る「キャンサー・サバイバー・フォーラム」が東京都内で開かれた。都内の会社員岸田徹さん(27)は、その舞台に立った。「胚細胞腫瘍」を発症し、抗がん剤治療を受けた。治療はうまくいき、経過観察を続けている。ただ、手術の後遺症の射精障害は回復しないままだった。岸田さんは、同じ症状に悩む患者の情報に助けられた経験を約160人の聴衆の前で語った。「何もわからないままでは不安です。がんの経験者が自分の知っている情報を伝え、シェアすることはとても大事です」。この春、IT関連会社に1年4カ月振りに復職した。がん治療の経験を伝えるサイト「がんノート」(http://gannote.com/)を、8月に入り本格的に始動させた。(8月23日 朝日新聞 患者を生きる 25歳からのがん より)

Sep 04, 2014 08:05

仲間のブログに励まされ 3
そんなことを思い、悶々としていたころ、がん患者によるフォーラムが年末、東京都内で開かれることをフェイスブックで知った。がん治療の経験を語り、患者同士がつながる催しだった。講演者を募っており、夏に講演者向けの勉強会を開くという。発信者は、入院中に若手がん患者の会「STAND UP!!」のパンフレットをくれたビンジー・ゴンザルボさん(41)。フォーラムを支援する米国の財団の取り組みを、日本に導入した人だった。フェイスブックには「若い人に語ってほしい」と記されていた。がん患者は情報を求めている。仲間を必要としている。「自分の体験が誰かの役に立つかもしれない」。岸田さんはフォーラムで講演したいと思い、申し込むことを決めた。(8月22日 朝日新聞 患者を生きる 25歳からのがん より)
Sep 03, 2014 08:43

仲間のブログに励まされ 2
がんを告知されたときよりショックを受けた。男性としてのアイデンティティを奪われたと思った。「もう治らないか」。抗がん剤治療の前に精子は残したが、「子どもをつくるのは難しいのではないか」と不安だった。役に立つ情報はなかなか見つからない。そんな中、同じ手術で夫が射精障害になった2人の女性のブログを見つけた。メッセージを送ると、「夫は3カ月後に回復しました」「参考になる学会のアドレスを送ります」と返事がきた。情報はありがたく、仲間がいることも心強かった。同時にあらかじめこの手術について情報を集めておけばよかったと思った。別の医療機関で「セカンド・オピニオン」を聴いておけばよかったと悔やんだ。(8月22日 朝日新聞 患者を生きる 25歳からのがん より)
Sep 02, 2014 07:53

仲間のブログに励まされ
抗がん剤治療と腫瘍の切除。東京都の会社員岸田徹さん(27)は半年余りかかった胚細胞腫瘍の治療を終え、昨年6月に退院した。大阪府高槻市の実家で、リハビリに励もうと思った矢先、異変に気づいた。射精障害だった。手術前にリスクはあると説明を受けていた。可能性は低いと聞いていたので、まさか自分の身に降りかかるとは思わなかった。腹部のリンパ節の腫瘍を切除する手術で、射精神経がダメージを受けたらしい。国立がん研究センター中央病院(東京都中央区)の泌尿器科医に「しばらく様子をみてみましょう」と言われた。(8月22日 朝日新聞 患者を生きる 25歳からのがん より)
Sep 01, 2014 08:05

経験者だから伝えられる 3
抗がん剤治療で入院中に見知らぬ男性から手渡されたパンフレットにも目を通してみた。表紙には「STAND UP!!」の文字。若いがん患者が情報交換したり、交流を深めたりする団体だった。同世代の患者の闘病体験に励まされた。すぐに入会した。5月上旬。腹部のリンパ節の腫瘍を切除するため、再入院した。リンパ節は腸の裏側にある。脂肪にくるまっているリンパ節を血管や神経を傷つけないよう慎重に切除する。可能性は低いが、近くを走る神経を傷つけて射精障害が起こるリスクがあると、泌尿器科医から説明を受けた。「大丈夫だろう」と気にも留めなかった。手術後、腸の機能が落ち、1週間まったく食事をとれなかった。抗がん剤治療後に体重が63キロから58キロまで落ちたが、この手術でさらに45キロになっていた。しかし、容態も落ち着き、退院することになった。大阪府高槻市の実家で療養していた岸田さんを思わぬ事態が襲った。(8月21日 朝日新聞 患者を生きる 25歳からのがん より)
Aug 31, 2014 08:18

経験者だから伝えられる 2
自らのブログのタイトルを「25歳からのがん克服記」に変え、闘病の記録を発信した。医学的な知識を責任を持って伝えることはできない。でも、経験者だから伝えられることがある、そう思った。口に出しにくいこと、聞きにくいことも書いた。例えば、抗がん剤治療の前に言い渡された「精子保存」。精巣を切除するわけではないのに「なぜ?」という驚き。診察を受けるのが、なぜか産婦人科で女性だらけの待合室の恥ずかしさ。ダジャレを交え、ユーモアたっぷりに記した。同じ思いをしている、自分と同じ若い患者が少しでも笑顔になれるように。一緒にがんばろうとと思えるように。(8月21日 朝日新聞 患者を生きる 25歳からのがん より)
Aug 30, 2014 08:36

経験者だから伝えられる
「胚細胞腫瘍」になった、東京都の会社員岸田徹さん(27)。昨年3月、国立がん研究センター中央病院(東京都)で、首の付け根と胸部の腫瘍を切除する手術を受けた。その直後、呼吸困難になり、意識を失った。気胸が原因だった。手術後、肺の周りに空気がたまり、肺が膨らむのを妨げていた。処置を受けて良くなり、4月に退院した。死を覚悟し、意識が大きく変った。人生これでいいのか。社会に何も貢献できていなかったと自らのこれまでの生き様を省みた。(8月21日 朝日新聞 患者を生きる 25歳からのがん より)
Aug 29, 2014 08:06

まだ親孝行していない 3
入院中、検査の順番を待っていたときのこと。見知らぬ男性が近寄ってきた。悪性リンパ腫で経過観察のために通院していた、米国人ビンジー・ゴンザルボさん(41)。「よければ、どうぞ」。岸田さんに冊子を手渡した。「STAND UP!!」と書かれたパンフレット。患者会のようだった。「勧誘?怪しいな」。中身をあまり見ずに、病室の戸棚にしまった。昨年1月末、全身の腫瘍は小さくなったが、まだ1センチ以上あるものもあった。がん細胞が死んだか調べるため、残った腫瘍を切除する必要があった。3月に再入院。左右の首の付け根と胸部のリンパ節に残った腫瘍を取ることになった。声のかすれや出血などの合併症リスクの説明を受けた。手術は無事終わった。だが直後、集中治療室で息ができなくなった。「人生終わったか」。もがきながら、人生を振り返ろうとした。世界一周もでき、いい人生だった。でも親孝行していない。仕事でも、社会にも貢献できていない。そこで意識を失った。(8月20日 朝日新聞 患者を生きる 25歳からのがん より)
Aug 28, 2014 08:11

まだ親孝行していない 2
「精子は保存しますか?」。入院した日、医師から尋ねられた。抗がん剤治療の影響で、精子ができにくくなる可能性があるという。思いがけない話に戸惑ったが、将来子どもは欲しい。別の医療機関で精子を採取し、保存することにした。抗がん剤治療を始めると、口内炎や肛門の痛み、発熱に悩まされた。副作用はつらかったが、友人や世界一周旅行で出会った人、同僚らが病室を訪れ、励ましてくれた。明るい笑顔を振りまく岸田さんに、乳腺・腫瘍内科の主治医野口瑛美さん(32)は「前向きにがんばっているな」と感じた。(8月20日 朝日新聞 患者を生きる 25歳からのがん より)
Aug 27, 2014 07:29

まだ親孝行していない
全身にがんが転移した東京都の会社員、岸田徹さん(27)は、2012年11月、国立がん研究センター中央病院(東京都中央区)に入院した。「胚細胞腫瘍」という珍しいがんだった。多くの場合、精巣に腫瘍ができる。その場合は手術で腫瘍を切除する。しかし、岸田さんは精巣に腫瘍がなく、3種類の抗がん剤で治療することになった。予定は約3カ月間。患者の少ない珍しいがんだが、効果があるとして世界的にも広く行われている治療法だ。(8月20日 朝日新聞 患者を生きる 25歳からのがん より)
Aug 26, 2014 08:35

告知「何とかなるやろ」 3
胚細胞腫瘍は精子や卵子になる前の未成熟な細胞のがん。10万人に1人というまれながんだ。子どもや20~30代に多く、男性では腫瘍が精巣にできることが多い。殆どは精巣が腫れることで気づく。岸田さんは精巣に腫瘍がなかったため、診断に時間がかかった。首や胸、腹部のリンパ節に転移し、進行していた。当時の主治医で乳腺・腫瘍内科の米盛勧さんは「残念ながら、がんは全身に広がっています」と、岸田さんに告げた。「人生、詰んだな・・・・」。絶望的な気持になった。「僕はどれくらい、生きられるんですか?」。「5年生存率は五分五分です」。抗がん剤が効きやすいがん、とも説明された。「5割も生きられるのか」。学生時代、海外で軍に銃口を向けられたり、検問をかいくぐって紛争地帯を脱出したりした。「今回も、何とかなるやろ」。むしろ人生のネタにしていこうと開き直った。治療が手遅れになるのを避けるため、受診したその日のうちに入院した。(8月19日 朝日新聞 患者を生きる 25歳からのがん より)
Aug 25, 2014 08:52

告知「何とかなるやろ」 2
営業の仕事に励んでいた2012年春、左首の付け根に小さなしこりができた。体調を崩し、6月に診療所で検査したが「問題なし」とされ、そのままにしていた。夏以降、38度の高熱、寝汗やだるさに見舞われた。しこりもこぶし大に大きくなった。紹介された都内の大学病院で検査を受け、11月、「胚細胞腫瘍」と診断された。この病院では患者が年間1人いるかいないかの珍しいがんだという。すぐに国立がん研究センター中央病院(東京都中央区)を受診した。(8月19日 朝日新聞 患者を生きる 25歳からのがん
より)
Aug 23, 2014 07:47

告知「何とかなるやろ」
この夏、東京都の会社員岸田徹さん(27)は、せわしない毎日を送っている。がんの治療とリハビリを終え、3月に復職した。平日の夜は、がん治療を経験した仲間らと集まって意見を交わし、インターネットで情報を発信。週末には、がんの子どもたちを支援するNPOの活動のボランティアをしている。大阪府高槻市で生まれ育った。大学生のときは、23カ国を半年かけて旅行し、現地で働く日本人を訪ね歩いた。2011年春、東京都内のIT関連会社に入社した。(8月19日 朝日新聞 患者を生きる 25歳からのがん より)
Aug 22, 2014 08:21

「なんで今・・・どうせ死ぬなら試合に出る」
がんは高齢者が患うもの、そして死とイコールの病気、と思っていた。「なんで、今なんだ・・・」。病院からの帰りのタクシーで座席に体を沈めていると、頭の中を様々な光景がよぎっていった。デビュー以来の試合の数々。耳によみがえるのはファンの声援。最高の人生だったじゃないか、と自分を納得させようとした。でも、どうせ死んでしまうなら次の試合だけは出たいと思った。3週間後の日本武道館。脳梗塞で倒れて長く休んでいた高山善廣選手の復帰戦で、タッグを組む予定だった。出ないわけにはいかない。自宅に着くと、「どうだった?」と、女性の声が出迎えた。後に妻となる真由子さん(39)。「検査結果を聞いてくる。何もないと思うけど」と言って出かけた小橋さんの帰りを待っていた。(9月3日 朝日新聞 患者を生きる 小橋建太の復帰より)
Sep 09, 2013 07:38

左ひざの大けが乗り越えた矢先
一抹の不安を抱えながら、近くの病院に行き、静脈から造影剤を入れてCTを撮ってもらった。2日後。結果を聞きに行くと、医師は口ごもり、言いづらそうにしている。「先生、はっきりお願いします。がんですか?」。少し大きめ声で尋ねると、そうです、と答えが返ってきた。4~5センチくらいのがんが右の腎臓の上部にできている、と説明は続いたが、詳しい内容は耳を素通りした。「ああ、プロレスができなくなるな・・・・」。人生のすべてを懸けて来たプロレス。計6回の手術を乗り越えた後、左ひざ前十字靭帯部分断裂という大けがを負ってしまう。絶望の底で懸命のリハビリ。4カ月半ぶりにリングに戻り、ヘビー級王座に就く。その絶頂期に降ってわいた、がんの告知だった。(9月3日 朝日新聞 小橋建太の復帰より)
Sep 08, 2013 07:55

復活の王者にがん
プロレスラーを5月に引退した小橋建太さん(46)。ジャイアント馬場が率いる全日本プロレスで頭角を現し、「四天王」の一人に数えられた。最高峰のヘビー級チャンピオンのベルトを13回防衛して、「絶対王者」と呼ばれた。そしてもう一つ、ファンが与えた称号が「鉄人」。最大の試練は2006年、脂の乗り切った39歳の夏に突然やってきた。「腎臓に腫瘍が見つかりました」。定期検診で始めて受けた腹部の超音波の後、医師から告げられた。「がん、ということでしょうか」。口を突いて出た。「その可能性は10%もないと思いますよ」。医師はそう言い、一応、精密検査を受けるように、と付け加えた。腫瘍と言われても、ぴんと来ない。体調は万全。2週間前に札幌であったタッグマッチでは、いつものように激しい技の応酬の末、王座を手にしたばかりだった。(9月3日 朝日新聞)
Sep 07, 2013 08:10

闘う勇気、家族がくれた
胆管がんの手術を控えていた4月、清水国明さんの「十二指腸がん」の記事を読みました。十二指腸や胆嚢などを切除する手術は、私が予定しているものと同じでした。19歳の頃から、全身に炎症が起こる難病の「全身性エリテマトーデス(SLE)」を患い、治療を続けてきました。併発した間質性肺炎を昨年悪化させていて、手術の全身麻酔に肺が耐えられるか、SLE自体が悪化しないか、心配はたくさんありました。でも、家族のために頑張る決意をしました。手術後は、痛みと不安で心が押しつぶされそうになりましたが、毎日見舞いに来てくれる夫が支えてくれました。下の子は15歳未満ということで病棟に入れず、ならば私がロビーまで行けるようにと、歩く練習にも励みました。退院は5月中旬。清水さんの「3週間で退院」が目標でしたが、1カ月かかりました。いつか夫と2人でバイクのツーリングに行きたい。元気に活動している清水さんをお手本に、これからも頑張ります。埼玉県 土川千恵 43歳。(6月30日 朝日新聞 患者を生きる 消化器 読者編より)
Jul 05, 2013 07:46

がんを経験、考え変る
1年9カ月前に大腸がん手術して、転移した肝臓もその4カ月後に手術、半年間の抗がん剤治療も受けました。職場復帰を果たし、体調も良好だったのですが、今年3月に肺への転移が見つかりました。がんが治る人は手術や薬で完全に治り、そうでない人は限られた余命のうちに亡くなってしまうもの、つまり治るか治らないかの2種類だと、以前は考えていました。けれど自分が当事者になり、転移・再発があっても闘い続けて生きる、たとえそれがかなわなくても、がんと付き合いながら自分の人生を全うすることができるのだ、と考えるようになりました。肺の手術は、5月に無事終了し、自宅療養を経て、また元気に職場復帰をしました。自分の体のことですので、投げ出したりできません。自分が全てを引き受けるだけ、です。埼玉県 女性53歳。(6月30日 朝日新聞 患者を生きる 消化器 読者編より)
Jul 04, 2013 08:00

将来がんに?不安抱え
6年前の人間ドックで膵臓に腫瘍が見つかり、大学病院で検査したところ、「膵管内乳頭粘液性腫瘍」(IPMN)と診断されました。膵臓の消化液を腸に流す「膵管」に、腫瘍細胞ができる病気だそうです。良性の腫瘍から、悪性のがんへと変化する可能性があるとのことで、経過観察を続けてきました。この春、内視鏡を使った膵臓の検査を受けた結果、「がんが疑われるが、確定できないグレーゾーン」とのことでした。今後も定期的な検査が必要になります。時折現れる腹や背中の痛み。膵臓がんになるかもしれないという不安。いつまで続くかわからない検査・・・・。いっそのこと早くがんになってしまえばいいのに、と頭をよぎることもありますが、高校生と中学生の子が社会に出ていくまでは元気でいたい、と願っています。膵臓の病気は一般に知られておらず、患者の不安を理解してもらえないのがつらいです。佐賀県 女性 47歳。(6月29日 朝日新聞 患者を生きる 消化器 読者編より)
Jul 03, 2013 07:45

「手術不可」でも希望を
昨年のクリスマスの日に、夫が膵臓がんと診断されました。手術できない進行した段階で見つかったので、抗がん剤治療となりました。主治医から「完治には手術が必要で、これは延命治療です」と言われました。最初はジェムザールという薬を3カ月、次にTS1という薬と放射線の照射。つらさと吐き気と痛みに耐えての治療です。がんの大きさも治療の経過も、今月の記事に登場した膵臓がんの患者さんとそっくりでした。ひとつ違ったのは、先月の検査の結果、夫のがんは小さくなっていませんでした。ただ、CTに写る影が少し薄くなり、転移もありませんでした。放射線の効果は、じわじわ表れると主治医は言います。一つの小さな望みが見えました。元気になられた患者さんの写真を紙面で見て、夫もこうなるようにと祈る毎日です。静岡県 女性 61歳。(6月28日 朝日新聞 患者を生きる 消化器 読者編より)
Jul 02, 2013 07:46

救急外来で怒られて
4年前の夏、74歳の母が小腸がんで亡くなりました。突然の腹痛に襲われ、一晩我慢しても治まらなかったので明け方に病院に行ったところ、便秘という診断でした。翌日早朝も腹痛が来て、今度は別の病院でX線写真を撮りましたが、やはり便秘とのこと。薬を飲んでも治まらず、次の明け方、また痛みが増したので再び同じ病院に行くと、「こんな事で救急外来に来られても困る」と医師に怒られました。ところが10時の診察開始を待って検査を受けると、末期の小腸がんで腸が破裂し、骨や肝臓にも転移しており、「余命、1、2週間」と告げられました。状況をのみ込めない中、医師から「この病院にはずっとは入院できない。1カ月後には出てもらいます」と言われました。せかされるように手術を受けたものの、開けて閉じただけでした。自宅に連れ帰り、孫の誕生会など有意義な1カ月を過ごして息を引き取りました。在宅診療の医師は夜中にも駆けつけてくださり、感謝しています。医師にもいろいろ、と痛感しました。神奈川県 女性 50歳。(6月27日 朝日新聞 患者を生きる 消化器 読者編より)

Jun 30, 2013 10:29

再発なく6年、命拾った
6月21日、抗がん剤治療の中止を決めたことが告げられた。天にも昇るような思いだった。以来、丸6年。定期的に画像検査などで再発がないかどうか調べてもらったいる。2センチほどの影は残っているものの、今のところ兆候は見つかっていない。「非常にまれな例だ」と吉田さんは思う。診断した2004年当時、細胞を取り出して調べる方法は一般的でなかったという。9割以上の診断率がある画像での診断を、吉田さんもよりどころにした。考えられるのは、広がって見えた腫瘍の大半は炎症で、実は小さな早期のがんだった可能性があること。その小さながんに放射線がピンポイントで作用し、抗がん剤も相乗効果があったこと、などだ。いずれにしても、た田栗さんは感謝の思いでいっぱいでいる。そして、こう語ってくれた。「拾った命。私は運が強いんです。14歳で遭った(長崎の)原爆のときもラッキーだった。がんの恐怖から開放されたとは思っていないが、結局のところ、悲観せず、日々を楽しむことが大事だと思っています」。(6月15日 朝日新聞 患者を生きる 消化器 膵がん より)
Jun 25, 2013 07:52

抗がん剤治療中止へ
「治療を始めてかなり時間が経過しました。一時、治療を休んでみようかと考えています」。抗がん剤の点滴を受ける外来治療を続けていた田栗元美さん(82)は2007年5月下旬、川崎医大病院(倉敷市)の主治医、吉田浩司さん(44)から提案を受けた。膵がんと診断されてから2年半が経とうとしていた。放射線療法を受けた当初、副作用で4カ月入院したが、その後は2週間に1回の抗がん剤の点滴だけ。経過はよく、CT検査でがんは小さくなっていた。喜ばしいことだが、吉田さんははかりかねていた。経験上、田栗さんの段階まで進行した膵がん患者の余命は1年ほど。抗がん剤が効かなくなってがんが増殖したり、転移したりしても不思議はない。だが田栗さんの場合、悪化は全くなかった。がんは本当に死滅したのだろうか・・・・。画像では、がんと見られる影は残っている。だが膵がんに多い「かさぶた」のような組織だけかもしれない。膵がんがあると増える腫瘍マーカーを念のために検査したが、数値は正常だった。(6月15日 朝日新聞 患者を生きる 消化器 膵がん より)
Jun 24, 2013 07:54

腸炎に感染 入院長引く
「いつの間に かくも痩せ細りたり これがわが身かと 突き出したあばら骨をじっとみつめる」と詠んだ。絶食が2週間続いた頃、採取した組織の検査でサイトメガロウイルス腸炎にかかっていることが判明した。放射線治療による抗がん剤の副作用で免疫力が落ち、感染したらしい。抗ウイルス作用がある点滴治療を受けると体調はようやく上向いた。当初の予定より2カ月遅れた4月、退院して我が家に戻った。人生が再スタートしたような気分だった。「悔いのないよう楽しもう」と趣味の家庭菜園に精を出し、好きな焼酎を飲んだ。2週間に1度通院し、外来で抗がん剤を点滴した。マイカーで誰に気兼ねすることなく通えたため、苦にならなかった。主治医の吉田浩司さんからは「点滴後、気分が悪くなることがあります」と注意されたが、支障が出たことはなかった。半年が過ぎ、1年がたった。気がつけば体重はもとあった60キロを超えていた。周囲に「膵がんで入院していた」と言っても、信じてくれないような血色の良い笑顔を取り戻していた。(6月14日 朝日新聞 患者を生きる 消化器 膵がん より)
Jun 23, 2013 08:37

退院のめどが立たない
腹痛や発熱の副作用に耐え、田栗元美さん(82)は2005年2月、入院している川崎医大病院(倉敷市)で全28回の放射線治療を終えた。放射線の担当医はCT画像を示し、「5センチほどあった直径が、半分の3センチほどになっている」と説明した。入院当初の説明どおりならば、これで来院し、抗がん剤の点滴を主とした外来治療に切り替わるはずだった。ところが、退院のめどは立たなかった。午後になると、腹痛とともに熱が上がる。鎮痛と解熱のために座薬を入れると汗をかき、着替える。この繰り返しが、日々、未明まで続いた。大腸カメラや超音波の検査で、大腸に潰瘍があることがわかった。肛門に近い「S状結腸」を中心に、軽い炎症も広がっているという。「もう一つ病気を抱えてしまった。2倍の戦いが始まるのか」と覚悟した。絶食が始まった。栄養は点滴のみ。食事という生活のリズムが失われ、時が消えてなくなったような気がした。体重は減り続け、43キロまで痩せた。(6月14日 朝日新聞 患者を生きる 消化器 膵がん より)
Jun 22, 2013 07:55

放射線・・・よぎる被曝体験
その後も4年ほど長崎で暮らし、就職して宮崎、岡山へと移り住んだ。元気だったが、脊椎が少し変形していた。そのせいで時折、腰が痛んだ。被曝による運動機能障害と認められ、43歳のときに被爆者手帳を受け取り、いまも持っている。治療のためには、やむを得ない。でも、ただでさえ人より多く放射線を浴びている。これ以上浴びて大丈夫なのかという不安が、頭の片隅にあった。放射線治療を始めると、すぐに副作用が出た。血液検査で血小板や白血球の数が下がっていた。抗がん剤の服用を中断し、数が減らないようにする注射を打った。37度前半の微熱が続いた。抵抗力が落ちており、マスクを付けた。2週目に入ると、毎朝、枕カバーに付いた抜け毛が気になった。「頭には浴びていないのに・・・・」。被曝体験を思い出して怖くなった。終盤は腹痛と発熱が続き、座薬と解熱剤の投与を受けた。食欲がなく、栄養剤の点滴も常用されるようになった。それでも、「今が胸突き八丁」と励まされ、耐えた。2月14日、放射線治療が終わった。全28回、ほぼスケジュール通りだった。(6月13日 朝日新聞 患者を生きる 消化器 膵がん より)
Jun 21, 2013 07:27

放射線療法
大みそかに積もった雪が、日光を浴びて輝いていた。2005年元旦。膵がんと診断されたばかりの田栗元美さん(82)は、入院中の川崎医大病院(岡山県倉敷市)から一時帰宅し、新年を自宅で迎えた。おせち料理は控えめだったが、故郷長崎のちくわ、昆布巻きなど珍味もあった。焼酎のお湯割りを少々、おそ代わりに飲んだ。この数カ月で体重が8キロ減った以外、がんであることを感じない正月だった。4日に病院に戻った。この日から放射線療法が始まった。目的は、がんを小さくして手術ができるようにすることだ。おなかの中央と左右のわき腹に目印が付けられ、それぞれの方向から1日1回、数秒づつ照射する。これを週に5日、約1カ月半続けるとの説明だった。だが「放射線」には抵抗があった。1945年8月9日、14歳で被曝した。爆心地から約2キロ。生死が混在していた。「幸運」にも生き延びた。(6月13日 朝日新聞 患者を生きる 消化器 膵がん より)
Jun 20, 2013 07:40

急な宣告、でも「頑張る」
礼子さんは「主人には隠せません。先生から、はよ、言うてください」と申し出た。28日。初診日に続いて2度目の点滴治療を受けた後、田栗さんは診察室に呼ばれた。吉田さんのほかに担当医もいて、CT画像が準備されていた。吉田さんは画像を示しながら言う。「灰色に写っている部分には異常があり、我々はこれを通常『がん』と呼びます」。いきなりの「宣告」だった。異常な影の大きさは5センチほど。膵臓の内にとどまらず背中側に広がり、腹腔動脈の周囲まで及んでいる。手術で切除するのは難しい状態。肝臓など他の臓器への転移はない。確か、こんな説明だった。「がんを抑えるため、すでに抗がん剤の治療を始めています。年明けから放射線治療を併用します。がんばってください」と吉田さんは結んだ。絶望感は不思議となかった。落ち着いた口調で理路整然と説明されたかも知れない。「がんばりますから、よろしくお願いします」。それ以外に付け加えることはなかった。(6月12日 朝日新聞 患者を生きる 消化器 膵がん より)
Jun 19, 2013 07:46

膵臓に異常
膵臓の一部に腫れが見つかった岡山県倉敷市の田栗元美さん(82)は2004年12月22日、精密検査を受けるために市内の川崎医大病院に向かった。肝胆膵内科の吉田浩司さん(44)が主治医になった。問診とおなかの超音波検査をし、前の病院で撮ったCT画像と合わせ、「膵臓に異常があることは間違いないようです」と言った。祝日をはさみ、24日に入院することが決まった。膵臓は、消化液である膵液や、血糖を調節するホルモンなどを分泌する左右に細長い臓器。胃の裏側にあり、脾臓や肝臓、十二指腸、太い血管に囲まれている。体の奥に位置しているため、当時、異常がある細胞を直接とって診断する方法は一般的とな言えなかった。診断はCTなど画像によるものが主だ。田栗さんは入院後、内視鏡を使ったX線写真を撮った。ただ、「胃に隠れて完全には写っていなかった」と言われた。その夜、妻の礼子さん(76)とこども2人が、吉田さんに呼ばれた。吉田さんは「膵がんであることを本人に伝えるかどうか」を尋ねた。(6月12日 朝日新聞 患者を生きる 消化器 膵がん より)
Jun 18, 2013 07:43

膵がんの告知
ほどなくセンターを受診し、腹部を中心にX線撮影やCT、胆嚢・膵臓のMRIなど、約2週間かけて徹底的に調べてもらった。さすがに疲れた。気づくと、体重が7キロ減っていた。12月21日。妻の礼子さん(76)と一緒に検査結果を聞きに行った。診察室に入ると、採尿をしてくるよう、医師に言われた。診察室には、礼子さんだけが残った。用を済ませて戻ると、「膵臓の一部に腫れが認められます。精密検査が必要です」と言われた。川崎医大病院(倉敷市)を紹介され、CT画像のフィルムを受け取った。「肝臓なら焼酎の飲み過ぎだろうけど、膵臓か・・・・・」。膵臓の病気は治りづらく、やっかいだということは知っていた。それでも、ようやく核心に迫れるとの思いの方が強かった。「あす病院へ行こう」と決め、いつも通り、運転して帰った。実は、採尿で中座した際、礼子さんは医師から「膵がんだ」と告げられていた。頭が真っ白になる思いだったが、「主人に知れて、動揺させては運転が危ない」と平静を装った。妻のそんな胸中を、知るよしもなかった。(6月11日 朝日新聞 患者を生きる 消化器 膵がん より)
Jun 14, 2013 07:40

みぞおち痛い 何なんだ
20代半ばでは軟式野球で国体に出た。50歳を過ぎてフルマラソンを走った。体を動かすことが好きな岡山県倉敷市の田栗元美さん(82)は、散歩が日課。これまで、大病にかかることなく暮らしてきた。だから2004年9月、73歳でおなかが張るようになっても、理由がわからなかった。「ただ苦しい。便も出にくい」。腰痛の治療に通っていたクリニックに相談すると、便秘薬、浣腸薬を処方された。おなかの張りは、それでおさまった。だが、みぞおち付近がまだ痛い。再び相談に行くと、胃の詳しい検査ができる別の医院を紹介された。ところが内視鏡で調べてもらっても、異常は見つからなかった。もらった胃薬を飲み続けたが、痛みは消えない。ずっと相談してきたクリニックも、次の策を示してくれない。「いったい、何なんだ」。1カ月ほど悶々と過ごしていると、娘が「もっと大きな病院で診てもらったほうが」と、市内にある倉敷成人病センターの検診案内書をもってきた。(6月11日 朝日新聞 患者を生きる 消化器 膵がん より)
Jun 13, 2013 07:51

「また輝ける」
「あれもこれもできない」と悲観的だった気持ちが、「まだまだ大丈夫」。普通の生活に戻れると思えるまでになった。抗がん剤が効いたこともあり、車いす生活から、杖を使って自分で歩けるように。最初は、お年寄り向けの杖を使っていたが、登山向けのカラフルなスティックに変えた。小さな楽しみは、自分で見つけることもできる。そう気づいた。退院後、病院の外見ケアチームに協力し、チームの活動をPRするポスターやパンフレットを作った。標語は「患者さんへ 輝く毎日。」と決めた。気分が落ち込んでも、自分らしさを保ってほしい。治療中でも楽しい時はある。輝くこともできる。あきらめないで。かつて自分が救われたように伝えたいメッセージを込めた。猪瀬さんは12年12月、米国の大学に復帰した。(1月15日 朝日新聞)
Feb 05, 2013 09:03

「テンション上がる」
歯磨きをする時間も立っていられない。自分の体が自分のものでないよう。すべてがおっくうに思えた。その頃、病院の外見カウンセラーで、山野美容芸術短期大教授でもある野澤佳子さんが病棟を訪れ、猪瀬さんの手にピンクのマニキュアを塗ってくれた。「なんか普通の感覚。久々にテンション上がる」。月に2度、院内で開かれている講習に行き、初めてウイッグを試した。治療中だから、と後回しだったおしゃれに再び、関心が向いた。3月末、約1万円のウイッグを買った。ストレートの長髪。髪形に似合うよう眉をかき、ほっぺにチークをはたいた。4月には、友人と花見に出かけた。ウイッグを付けて化粧をした姿に、友人は「元気そうじゃん。顔色もいいし」と言ってくれた。(1月15日 朝日新聞)
Feb 04, 2013 08:41

ユーイング肉腫
米ワシントン州の大学に留学中だった猪瀬真佑さん(23)は2011年の夏、左足にゴルフボール大のこぶがあるのに気づいた。検査の結果、10代など若い人の骨や筋肉にできやすい、がんの一種「ユーイング肉腫」とわかった。急きょ帰国し、10月から国立がん研究センター中央病院(東京)で治療を受けることになった。抗がん剤治療で入退院するたび、東京都内の自宅と病院を行き来する日々が始まった。5種類の抗がん剤は、吐き気や脱毛、のどの粘膜のただれ、貧血といった副作用を次々に引き起こした。つばを飲み込むだけで痛く、食事がのどを通らない。病気になる前に48キロだった体重は、最初の入院から4カ月後の2012年2月には、35キロまで減った。(1月15日 朝日新聞)
Feb 03, 2013 09:11

闘病25年「努力続ける」
がんとの共生が始まったのは11年前、承認されたばかりの新薬ハーセプチンを九州大学病院で最初に試すと、効果があった。効かないケースもあるという。主治医の黒木祥司さん(58)は「がんはおとなしくなったが、まだ残っている状態」と説明する。費用は1回約2万円。「薬を続けたくても続けられない仲間もたくさんいる」と思う。最初の再発から今年で22年。体力が落ち、趣味のゴルフもあきらめた。何人ものガン友えお見送った。「がんはまだ生きている。再発の恐怖は常にある」。今は少しでも不調を感じれば、すぐに確かめてもらう。乳がん患者の全国組織「あけぼの会」で、早期発見を訴える活動も続ける。この5月、福岡・天神で啓発のティッシュを配ったら、ある女性に「絶対にならないから」と言われた。「がん家系でない私もなった。ひとごとだと思わないでほしい」。長女(40)ら家族には年1回、乳がん検診を受けさせる。(10月12日 朝日新聞)
Oct 14, 2012 08:34

生きる 乳がんと
乳がんと闘って25年。毎週、投薬を続ける福岡市西区の女性の体にはがんが眠る。「ガン友」と呼ぶ患者仲間の死を経験しながら、「生きる努力」を続ける日々。10月は乳がん月間。彼女が伝いたいこととは・・・・。その女性は山下涼子さん(64)。週1回、夫(66)と営む会社を休んで福岡市東区の病院に通う。診察の後、化学療法室へ。がん細胞の増殖を抑えるハーセプチンの点滴を90分受ける。隣にいたガン友の女性(63)は「体がきついときもあるのに、そんな顔を見せない。模範的な患者よねえ」。山下さんも笑う。こうしたガン友との交流が励みだ。夜に長電話したり、年に数回、市内の高級ホテルで一緒にお風呂に入ったり。「術後のおっぱいを見せても平気でしょう」。1987年、39歳のときに左胸にしこりが見つかり、手術で左乳房を取った。3年後、鎖骨のリンパ節にがんが再発。夫と10代だった子どもを残して死ぬかもと、頭をよぎった。再発するたびに手術を受け、抗がん剤の副作用で、うつに苦しんだ。(10月12日 朝日新聞)
Oct 13, 2012 10:15

「正解ない」すっきり 3
渡辺さんの経験では、主治医の提案する治療が適切でなく、患者が不利益を被りそうな場合も1割ほどあるという。日本医科大学武蔵小杉病院(川崎市)の腫瘍内科教授の勝俣範之さんは「最初の医師からしっかり説明を受けられず、何か良い治療はないかと求めて訪れる人が多い」という。日本では患者と医師が一緒に考えて治療方針を決めることがおろそかにされ、医師が一方的に説明している場合が多い。勝俣さんは患者の声をじっくり聞き、今後どうするか一緒に考えていくように努めている。(9月18日 朝日新聞)
Sep 28, 2012 08:10

「正解ない」すっきり 2
「セカンドオピニオンを受けて良かった。まさか番う意見が出るとは思わなかったけど、それで初めて迷い、解決の道を探すようになりました」と振り返る。森さんと一緒に「がん治療 迷いのススメ セカンドオピニオン活用術」(朝日新書)を書いた渡辺さんは「がんの治療では迷う時間は十分にあります。良い治療を納得して選んでください」という。(9月18日 朝日新聞)
Sep 27, 2012 08:08

「正解ない」すっきり
抗がん剤を使うと、体がしんどくて、仕事ができないくらいだ。がんと付き合いながらどう生活していきたいのか、仕事をしながら治療できないかを考えた。次の診察で「抗がん剤を中止にしてください」などと手紙に書いて持って行った。主治医は「診療情報提供書を書くからもう一度セカンドオピニオンを受けてきて下さい」と言った。別の病院で聞いた結果は「基本はホルモン剤だが1回だけ抗がん剤を使う」。さらに違う意見だったが、「正解なんてない」と受け止めてすっきりした。その後、主治医と満足できる話し合いができるようになった。ホルモン剤で治療して様子をみるという方針で、森さんと主治医の意見が一致した。(9月18日 朝日新聞)
Sep 26, 2012 08:19

三つの治療方針示されて
診療情報提供書(紹介状)を書いてもらうため主治医に「セカンドオピニオンを受けたいんですけど」と話したが、「何でいまなの?」と聞き返され、きちんと診療情報提供書を請求できなかった。主治医への不信感表明ではないかという気後れがあった。セカンドオピニオンで診療情報提供書がないのは望ましいことではないが、検査データの記録やメモをファイルにして持参した。渡辺さんの意見は「抗がん剤は不要。ホルモン剤のみでいい」という予想外のものだった。森さんのような場合、抗がん剤を使うかどうかは専門家でも意見が分かれているという。(9月18日 朝日新聞)
Sep 25, 2012 08:15

3つの治療方針示されて
神奈川県に住むフリーライターの森絹江さん(60)は、乳がん手術後の治療方針をめぐってセカンドオピニオンを聞いた。主治医と意見が食い違って迷い、さらに3人目のサードオピニオンまで聞きに行った。5年前、乳房にうみのようなものができ、病院の乳腺外科で乳がんと診断された。抗がん剤でがんを小さくしてから手術を受けた。手術後、抗がん剤とホルモン剤を使うことになっていたが、友人の勧めで、浜松オンコロジーセンター院長の腫瘍内科医、渡辺亨さんに聞く予約をした。(9月18日 朝日新聞)
Sep 24, 2012 08:25

セカンドオピニオン
ここでの医師の意見は、甲状腺がんであることは間違いないが、手術の方法は甲状腺を全部切るのではなくて、がんが見つかった側を半分だけ切ればいいというものだった。大学病院の外科医と面談して、この結果を伝えた。外科医は「わかりました」と、半分だけ切るという手術の方針が決まった。3時間かかった手術はうまくいき、その後、再発もない。男性は「セカンドオピニオンで全部切ると言われれば受け入れる心構えでした。普通の診療では医師とじっくり話す時間がなかなかない。セカンドオピニオンで30分間しっかり話せて安心できました」と語る。(9月18日 朝日新聞)
Sep 22, 2012 08:10

手術へ「納得できた」
しばらく沈黙が続いた後、外科医から「他の先生の話もセカンドオピニオンで聞いてみますか」と尋ねられた。男性は「先生から言ってくれてすごく助かりました」と振り返る。東京のがん専門病院で予約をした。料金は30分で31500円。大学病院から細胞の写真を借り受けるなど情報を提供してもらった。必要なことをきちんと聞こうと質問項目を整理、印字して持って行った。(9月18日 朝日新聞)
Sep 21, 2012 08:21

すべて切るか、半分だけか
埼玉県に住む会社役員の男性(50)は2年前、大学病院で甲状腺がんの手術を受けた。手術直前、別の病院でセカンドオピニオンを聞いて、「納得して手術を受けられました」という。がんが見つかったきっかけは、出張先で内科を受診したこと。触診で甲状腺の腫れが見つかった。自宅近くの診療所で超音波検査を受け、甲状腺に腫瘍があるといわれた。紹介状を書いてもらって大学病院に行き、良性か悪性か調べるために甲状腺の細胞を取る検査を受けた。検査の結果は悪性だった。担当の外科医は甲状腺を全部取る手術を勧めた。男性はその場で「うーん」と考え込んでしまった。この間、がん専門病院のサイトなどを見て甲状腺がんについて詳しく調べてきた。甲状腺を全部切ると甲状腺ホルモンの薬を一生飲み続けなければならない。場合によっては甲状腺を一部残す手術もできることを知っていた。(9月18日 朝日新聞)
Sep 20, 2012 08:33

痛くても手術直後から 2
がんの種類ごとに、必要なリハビリは違う。乳がんの手術で、まわりのリンパ節を一緒に切除した場合、肩が上げにくくなったり、腕がむくんだりする。そこで手術後に、肩を動かす訓練やむくみを取るマッサージをすると、後遺症が和らぐ。舌がんや喉頭がんでは、食べ物をのみ込む訓練や発声の練習を手術後なるべく早いうちに始める。課題は、がんリハビリの診療報酬が認められるのは、原則入院中の患者に限られること。また、全国に約400カ所ある「がん診療連携拠点病院」のうち、報酬を算定する要件を満たしている施設も、まだ半数程度しかない。慶応大医学部リハビリテーション医学教室の辻哲也准教授は、「後遺症を軽減するには、退院後のリハビリが大切。外来でも積極的にリハビリを導入していけるよう、制度を改善していくべきだ」と指摘する。(7月15日 朝日新聞 患者を生きる 食道がん情報編 リハビリ より)
Jul 30, 2012 07:49

痛くても手術直後から
がんの治療は従来、手術や抗がん剤、放射線などによって病気の部分を除いたり小さくしたりすることに重点が置かれていた。しかし2006年に成立した「がん対策基本法」に患者の「療養生活の質の維持向上」が明記され、2010年からがんのリハビリが公的医療保険の対象になったことから、がんリハビリの重要性が広く認識されている。静岡県立静岡がんセンター(静岡県長泉町)は、がん治療の専門施設で初めて2002年にリハビリテーション科を設置。食道がんや肺がんの患者らを対象に、手術の前から腹式呼吸を指導し、肺の吸気量を増やす「呼吸リハビリ」を行っている。胸や腹を大きく開く手術の場合、たんを出す力が弱まり、肺炎などの合併症が起こりやすくなるからだ。食道がん手術後、肺炎の発症率は一般的に10~30%程度とされているが、静岡がんセンターでは、2002年~2005年の調査で9.2%だった。同センター・リハビリテーション科の田沼明部長は「手術の前にリハビリの進め方を説明し、十分に意義を理解してもらうことで、痛みが強い手術直後にも主体的にリハビリに取り組んでもらうことができる」という。(7月15日 朝日新聞 患者を生きる 食道がん情報編 リハビリ より) 
Jul 29, 2012 08:02

歩いて歩いて 店を再開 2
手術から半年たった7月、静岡がんセンター(静岡県長泉町)のリハビリ室で体力測定を受けると、手術前の数値に戻っていた。理学療法士の岡山太郎さん(40)は回復の早さに目を見張った。「そろそろ仕事を再開しようと思う」というと岡山さんは「復職することが、何よりもリハビリになります」と背中を押してくれた。10月、郷土料理の店「米橋」ののれんを約8カ月ぶりに掲げた。「米ちゃん、味は落ちていないよ」と常連客の一人が帰り際に言った。一つひとつの仕事がいとおしい。明け方まで仕事をしながら時折、日本酒をちびりちびり。「おかみには怒られるけど、これぞ至福の時」。戦国武将が口にした食の再現に取り組んできた。体力も戻り「絶対に完結させる」と決意を新たにしている。(7月14日 朝日新聞 患者を生きる 食道がん リハビリ より)
Jul 28, 2012 08:22

歩いて歩いて 店を再開
食道がんの手術のあと、食が細くなり体重が減った神奈川県小田原市の米山昭さん(62)は、食べやすい食材を入院中から探し続けた。2007年4月に退院し、自宅療養を始めると体重が増えだした。次は、体力の回復だ。胸や腹を大きく切り開いたため肺活量は一時、約40%も低下した。「手術後にたくさん歩いている人は回復が早い」と耳にして、散歩を始めることにした。最初は、わずかな坂道でもすぐに息が切れた。足が思うように上がらず、小さな段差でつまずきそうになる。それでも、歩きやすいスニーカーを見つけて散歩を続けると、少しずつ大量がついてきた。やがて、小田原の町を一望できる尾根や、海岸を見通せる道を1時間かけて歩くのが日課になった。コースの高低差は50メートル以上あるが、山道の急勾配を勢いをつけ、汗を流して登る。雨の日は駅前のショッピングセンターに行き、地下1階から6階まで階段で何往復もした。出かけるときは、密封容器に入れた砂糖をいつも持ち歩いている。食道や胃の手術後は食べたものがいきなり腸に流れて血糖値が急に上がる。このため、インスリンが過剰に分泌されて低血糖になりやすい。食後などにめまいを起こしたときは砂糖を口に含み、数分間じっとしていなければならない。(7月14日 朝日新聞 患者を生きる 食道がん リハビリ より)
Jul 27, 2012 07:57

「食」で闘おうと奮起 2
各病棟には、電磁調理器を備えた談話室があった。そこで、売店で売っているご飯や昆布などの食材で、さっとおじやを作った。アジのつみれや古漬のたくあん、ふかしイモなど、昔から親しんだ食材を妻のとし子さん(65)に届けてもらうと、スーとのどを通った。ある日、焼きうどんのしょうゆの香りが病棟に広がり、看護師に「抗がん剤治療の患者さんに迷惑になります」と注意された。「他の患者さんも食欲がわくかもしれないという気持ちだったが、やり過ぎてしまった」。退院後も、食道を切り取った自分でも食べられる食材を一つずつ、見つけ出した。うどんなどの麺類、ナスの煮浸しものどを通りやすい。タマネギ、ニンジン、ジャガイモを粗く切り、昆布を入れて煮込んだスープも体にしみこんだ。手術前に50キロあった体重は44キロまで減ったが、手術から3カ月で、ようやく増え始めた。(7月13日 朝日新聞 患者を生きる 食道がん リハビリ より)
Jul 26, 2012 08:09

「食」で闘おうと奮起
静岡がんセンター(静岡県長泉町)で食道がんの手術を受けた神奈川県小田原市の米山昭さん(62)は、肺炎なんどの合併症もなく2007年2月に退院。予定されていた抗がん剤治療を受けるため翌月、再びセンターに入院した。抗がん剤の点滴を始めて間もなく、行動が制限されているストレスから、「部屋に閉じ込められている」という感覚に襲われ出した。手にはびっしょり汗をかき、夜も眠れない。抗がん剤治療を担当した消化器内科の福富晃医師(40)は「治療を続けることは難しい」と判断し、3日目で休止した。米山さんは、計2週間の予定だった抗がん剤治療を全うできず、「自分だけ取り残されてしまった」と、孤独感を感じた。手術以降、食欲がわかず、体力が衰えたことにも焦っていた。それでも「食べることもリハビリだ」という医療スタッフの励ましで、「『食』でがんと闘おう」と気力を奮い立たせた。料理人の意地だった。ただし手術のための入院中、病院食は「目をつぶって食べると香りがしない」と感じていた。化学調味料も苦手のため、どうしてものどを通らない。そこで今回は病院に許可をもらい、院内で自炊生活を始めることにした。(7月13日 朝日新聞 患者を生きる 食道がん リハビリ より)
Jul 25, 2012 07:51

手術の翌朝から歩く練習 2
手術から3日間は、血の混じったたんが絶え間なく出るのが、苦しかった。しかし、手術前に教わった通りに、腹に手を当てて深く息を吸い込み、軽いせきをするように息を吐き出し、たんを出した。6日後に一般病棟に移ると、食事が再開された。メニューは重湯、具のないみそ汁、ライチゼリー。わずかな量を口に入れ、何度もゆっくりかむ。そして、神経を集中させ、ゴクリとのみ込む。1回の食事に2時間かかった。「どう、味はわかる?」と主治医の坪佐恭宏さん(46)が、料理人の米山さんを気遣って尋ねた。「先生、味覚は変ってないよ」と、笑顔で答えた。自転車をこぐ運動や、ストレッチなども始まった。「ここで20分リハビリをしても、あとの時間を寝て過ごしていたら、回復はしませんよ」という理学療法士、岡山太郎さん(40)のアドバイスにしたがい、時間を見つけては、点滴を下げる支柱を持ちながら、病棟の廊下を歩いた。岡山さんから「回復の状態はトップクラスです」と太鼓判を押され、手術から3週間で退院した。(7月12日 朝日新聞 患者を生きる 食道がん リハビリ より)
Jul 24, 2012 07:31

手術の翌朝から歩く練習
神奈川県小田原市に住む米山昭さん(62)の食道がんの手術が2007年1月、静岡がんセンター(静岡県長泉町)で行われた。右胸や腹を大きく切り開き、食道や周囲のリンパ節を取り除く手術は、9時間以上に及んだ。手術の翌朝、集中治療室のベッドで「さあ、歩いてみましょうか」という声が聞こえた。見回すと、医師や理学療法士らが顔をのぞき込んでいた。意識はまだもうろうとしていたが、胸や腹の手術跡がズキズキと痛む。でも「治りたいという意志があるのかと、こいつは試されているな」と思い、気合を入れて起き上がった。点滴や体内にしみ出す血液を出す管を何本も体につけたままでベッドに腰掛け、両脇を支えてもらいながら立った。体の中を濁流が巡るように、血液が移動する間隔がした。頭の中が真っ白になり、数歩歩いたところで引き返した。ぐったりと疲れたが、午後は、病室の中を10メートルほど歩けるようになった。(7月12日 朝日新聞 患者を生きる 食道がん リハビリ より)
Jul 23, 2012 07:56

手術後に備え呼吸法学ぶ 2
訓練器は黄色いピストンが入ったビールジョッキのような筒型の器具。筒の下部に管がついており、管の先端にあるマウスピースをくわえて息を吸い込むと、ピストンが筒の中を徐々に上がる。5秒ほど深く吸ってピストンを目安の目盛りまで上げたあと、ゆっくりと息を吐く。リハビリテーション科の理学療法士、岡山太郎さん(40)は、「毎日続けて、手術の日には今よりも元気な状態で来てくださいね」と励ました。「できるだけのことは準備しておこう」と、訓練器を病院の売店で買い、1クール5回の深呼吸訓練を毎日10クール、自宅で手術の直前まで続けた。センターの歯科口腔外科にも通い、歯石を取り除いた。歯はこまめに磨いていたので虫歯はなかったが、「歯石があると、口に細菌が繁殖しやすい。手術後に肺炎になるリスクが高くなります」と説明を受けた。正月ごろから、食べ物がのどを通るとヒリヒリする症状が出始めた。25年続けてきた郷土料理店は、快復するまで休むことにした。手術前夜、病院の特別食でおな丼を注文した。「まともな食事を食べられるのは、これが最後になるだろう」。覚悟を決め、一口ずつ味わった。(7月11日 朝日新聞 患者を生きる 食道がん リハビリ より)
Jul 21, 2012 08:19

手術後に備え呼吸法学ぶ
直径5センチの食道がんが見つかった神奈川県小田原市の米山昭さん(62)は、静岡がんセンター(静岡県長泉町)で、手術を受けることにした。「食道を約20センチ切り取り、胃の上部を細長い筒状にして残った食道とつなぎ合わせます。転移の恐れがあるリンパ節も取り除きます」。食道外科の主治医、坪佐恭宏さん(46)は手術の内容を説明した。手術直後は、痛みで呼吸が浅くなり、気管支の働きも弱まる。このため、たんが肺にたまりやすく、肺炎などの合併症を起こす恐れがある。坪佐さんは「手術の前に、あらかじめ呼吸法を習得しておくことが大切です」と強調した。手術日は2007年1月30日と決まった。その3週間前にセンターのリハビリテーション科に行き、せき払いをしてたんを出す練習をし、腹式呼吸のやり方を学んだ。深呼吸を長時間続けて、空気を吸い込む力を鍛えるための「呼吸訓練器」の使い方を覚えるのも大切だった。(7月11日 朝日新聞 患者を生きる 食道がん リハビリ より)
Jul 20, 2012 08:08

告知、覚悟していたが・・・2
12月22日、検査結果を聞きに行くと、食道外科の坪佐恭宏医師(46)は、「胃に近い食道に、約5センチのがんがあります。リンパ節にも転移が疑われます」と告げた。覚悟はしていたが、本当に自分の話をしているのか、まだ半信半疑だった。「手術でがんを取った後に抗がん剤治療をするか、手術をせずに放射線と抗がん剤で治療するかの2種類があります」。説明を聞き、手術を受ける意思を伝えた。「俺も職人。先生の腕を信用して任せるよ」と話して、診察室を後にした。食道がんが疑われた後に内科クリニックで撮影したX線写真を返され、バスで最寄のJR三島駅に向かった。自宅に着くと、腕に抱えていた写真がなくなっていた。その日の深夜、三島駅に電話をしてみると、券売機の前に忘れていたことがわかった。三島駅から自宅までどうやって帰ったのか思い出せない。冷静に告知を受けたつもりだったが、体の奥底は「がん」という現実におびえていた。(7月10日 朝日新聞 患者を生きる 食道がん リハビリ より)
Jul 19, 2012 07:54

告知、覚悟していたが・・・・
神奈川県小田原市で郷土料理店「米橋」を営む米山昭さん(62)は2006年11月、近くの内科クリニックで胃の内視鏡検査を受けた。体調に異常はないが、昔から冷たいものが胃にしみることはあった。若い職人が店を離れ、妻のとし子さん(65)とふたりだけで店を切り盛りすることになったのを機に、「念のために」と受診した。内視鏡のカメラが食道に届いた瞬間、モニターに入道雲のように盛り上がった塊が映った。医師は手を止め、「大きさが半端じゃない」と漏らした。「腫瘍のようです。すぐに病院を決めましょう」と、静岡県立静岡がんセンター(静岡県長泉町)を紹介された。ほかの人より胃が弱いのではないかと感じていたので、痛めないように食事には気をつけてきた。その日に食べた全ての食事内容を記録する「食日記」を10年以上続け、暴飲暴食をしないよう律していた。「病気の兆候があれば自分でも分かるはず。ただのできものに違いない」。そう言い聞かせながら、静岡がんセンターでCT検査などを受けた。(7月10日 朝日新聞 患者を生きる 食道がん リハビリ より)
Jul 18, 2012 07:23

娘のため生きると誓った 3
「私は自分の夢をぽんと忘れて、子宮頸がんという病気、家庭環境、うつ病、いろんなことに負けて、子どもと一緒に死のうと、そこまで思った」。病気のことを、具体的に話せるようになったのは、手術から5年を過ぎてからだ。子宮頸がんのワクチンが日本でも接種できるようになったことも、松田さんの背中を押した。そのワクチンを受けた人がいるかという質問が会場に出された。多くの生徒たちが手を挙げた。「涙が出てきました。もうちょっと早く、ワクチンが日本に入っていたら。もうちょっと早く『検診に行こう』と呼びかけていたら。年間1万5千人以上の人たちが子宮頸がんになり、毎年たくさんの人たちが亡くなっていく日本が、もうちょっと変えられたんじゃないかと」。(5月26日 朝日新聞)
Jun 18, 2012 07:46

娘のため生きると誓った 2
「子宮は全摘しないとあかん、リンパもとらなあかん、転移しているかもしれん・・・・・。娘がおむつをしておっちら歩く姿を見て泣けてきて、この子のために私の命をここで止めないでほしい。絶対生きてみせる」。そう誓ったという。手術後、再発しないかという心配が募り、「食べられない、寝られない。手術は成功したのに、どんどん心が壊れていきました」。夫ともすれ違い、2年後に離婚。仕事を探すため、娘を母親に預けて、東京に出た。だが悪化した心の病で寝たきりに近い状態。うつ病と診断された。難民支援の映画を見たことがきっかけだった。松田さんは曲づくりを始め、シンガー・ソングライターとして少しづつ動き出した。今ではボランティア団体「self」を立ち上げ、国連UNHCR協会の協力委員になった。(5月26日 朝日新聞)

Jun 17, 2012 08:29

娘のため生きると誓った
ゲストの(シンガー・ソングライターの)松田陽子さんは、30歳のときに子宮頸がんと診断され、手術で子宮を摘出した。小学校6年の娘を持つ母でもある。生徒たちに「ちょっとでも私の話が役に立って、子宮頸がんの検診に行こうと思ってくれたら、ほんまうれしい」と語りかけた。松田さんは「欧米では産婦人科にたくさんの方々が通って検診を受けている。日本では、産婦人科は(赤ちゃんを)産むところ」と思われがちで気軽に行けない現状があるとした。「内科に行くみたいに、子宮は大丈夫かな、卵巣はしっかりしているのかな、と検診にお母さんと気軽に行ける環境ができるといい」。松田さんの父親は、母親に暴力をふるった。その影響からか、「うちの母は、目を見てお話したり、抱きしめてくれたりというのができなかったんです」。だから、自分が結婚したとき、「歌手なんかもうええ。温かい家庭を持ちたい」と専業主婦に。生まれた娘が1歳半になった2001年、子宮頸がんの告知を受けた。(5月26日 朝日新聞)
Jun 16, 2012 07:53

不採用続き弱気に 2
そんな中、就職の際に有利になるよう、5月にファイナンシャルプランナー、12月に証券外務員の試験を受け資格を取った。副作用が落ち着いた11月、就職活動を始めた。今後も検査のために平日に休まざるをえない。「迷惑をかけたくない」と、健康状態の質問があると「がんの治療中」と伝えていた。不動産や金融、保険、証券、葬儀会社・・・・。計63社に応募し、10社は面接試験を受けた。だが決まらない。「手応えがあったのに不採用だと、病気のせいかと弱気になりました」。知人の紹介でこの春、コールセンターの職を得た。「私はラッキーだった。でも多くの会社は、がんについての知識がなさすぎる。患者も仕事はできる。働く世代が多くがんになる時代だからこそ知ってほしい」。(5月24日 朝日新聞)
May 28, 2012 08:13

不採用続き弱気に
千葉県船橋市の男性(43)は金融機関のマネージャー職だった一昨年11月、肺がんがわかった。年明けに、東京都の病院に入院して抗がん剤治療を開始した。勤務先は折りしもその春、別の銀行に継承されることに。多くの行員が継承先で働きたいと応募し、男性と同じ職場の同僚は皆残れたのに、男性には4月上旬、不採用通知が届いた。妻(43)はパートで働くが、小学生の娘2人を育てるのにかかる費用や2千万円ほど残るマンションのローンは、自分の収入にかかっていた。抗がん剤の副作用のため、足の裏に水泡ができ歩けない。体重は約10キロ減った。(5月24日 朝日新聞)
May 27, 2012 08:17

「迷惑かける」と転職 2
上司は「しんどかったら無理しんときや」と、一定の給与がもらえる休職制度を紹介してくれた。同僚は営業所の掃除を代わってくれた。通院や副作用で休む時は、外勤の上司が営業所に残り、事務仕事を手伝ってくれた。気遣いが心に染みた。「恵まれている」と感じた。でも迷惑をかけていると思うと申し訳なく、つらかった。次第に「このまま仕事を続けてええんやろか」と迷うようになった。転移などを抑えるための治療は、今後も年単位で続く。少なくとも週1回の通院が必要だ。仕事は生きがいで、職場はとても大切な場所と感じてきた。「健康が自分の売り」と思い、仕事に穴をあけないように、子どもの体調管理にも細心の注意を払ってきた。「だからこそ、自分が休むなんて許せなかった」。長女(11)と長男(9)は育ち盛り。生活費と、将来の蓄えも必要だ。正社員を条件に仕事を探した。知人のつてを頼りに、時間の融通がきき、同僚に代わりを頼まずにすむ、大手の営業の仕事を見つけた。会社には病気について事前に説明し、通院しやすいよう担当地域などを考慮してもらうことになった。「『その分めちゃめちゃ頑張ります』と伝えました。安心して治療できることが大切です」と話す。(5月24日 朝日新聞)
May 26, 2012 08:17

「迷惑かける」と転職
昨年10月に乳がんの手術を受けた京都市の佐々木忍さん(39)は今年3月末、勤めていた会社を辞めた。2人の子がいるシングルマザー。2年前、「自宅から徒歩10分弱で給与も良い」という会社に転職したばかりだ。周囲は治療に協力的だったが、11人の職場に内勤は自分だけ。休めば代わりが必要で、迷惑をかけると、退職を選んだ。がんがわかったのは、退職する1年前の3月だった。翌月から抗がん剤治療を受け、3週間に1度の通院を半年間続けた。午前中だけ休み、午後は出社。だが回を重ねると、強い吐き気に襲われた。10月の手術では、転移していたリンパ節も切除。左腕が上がらず、机の上にのせるのもつらくなった。(5月24日 朝日新聞)
May 25, 2012 08:06

より多くの患者が早い段階から緩和ケアを
広島市の平石智子さん(54)の夫、隆敏さん(当時53)は昨年11月、喉頭がんで亡くなった。耳の奥に痛みがあり、亡くなる約1カ月前から緩和ケア外来に通った。がんの専門看護師の槙埜良江看護師が、待ち時間に痛みの程度や困っていることを聞き取り、主治医や麻酔科医に伝えてくれた。声を失った隆敏さんは「散歩もプラモデルもできる」と紙に書き、槙埜さんに笑顔を見せた。智子さんも昨秋、乳がんの手術を受けた。「医療費が増えるのは負担だけど、緩和ケアが広がっていくのはよいことだと思う」と話した。小早川さんは「人材は限られている。医療者同士の連携をより深める態勢づくりが重要になる」と課題を述べた。(朝日新聞)
Feb 26, 2012 10:14

生活の質向上へ 外来でも
緩和ケアで早い段階から痛みや不安を軽くしてもらえれば、患者の生活の質がより向上する。しかし、日本では治療方法がなくなった末期患者が受けるダメージが根強いため、欧米に比べ質量とも不十分だ。英国などの研究報告によると、亡くなったがん患者のうち緩和ケアを受けた割合は欧米で6割以上、日本は3割弱という。医療用麻薬の消費量(人口100万人あたり1日のモルヒネ換算量)は米国の20分の1程度しかない。今回の改定では、より多くのがん患者が緩和ケアを受けられるよう、医療機関が外来で緩和ケアをすれば、新しく報酬を得られるようにした。これまでには入院患者にしか認められていなかった。研修を受けるなど一定の条件を満たした医師や看護師らで作る緩和ケアチームが、外来診療すれば3千円入る。自己負担3割の患者なら窓口で円900円払うことになる。(朝日新聞)
Feb 25, 2012 09:36

緩和ケアを早く広く
2月上旬、広島市に住む男性(42)は、広島大学病院の緩和ケア外来を受診した。「痛みはひいています。でも本当に良くなっているのか・・・・。仕事に復帰できるかどうかも不安です」。緩和ケアチームの小早川誠医師(精神科)に訴えた。「少しづつでいいんですよ」。と小早川さんに説明され、少し気持ちが和らいだ。男性は昨年6月、血液がんの悪性リンパ腫と診断された。幼い子どもがいる。仕事も長期間休まなければならない。入院中は、精神的に落ち込んだ。痛みや不安を抱えるがん患者に受診を呼びかけるポスターを病院内で見かけ、緩和ケアチームを訪ねた。退院後は外来で抗がん剤治療に通いながら、緩和ケアも受けている。精神科医に状態を診てもらい、痛みを抑える医療用麻薬と、不安を取り除く薬を処方してもらう。「退院後も不安な気持ちを聞いてもらえ、助かっています」。(朝日新聞)

Feb 24, 2012 10:13

副作用予防 セットで
腎臓がんの分子標的治療薬は皮膚や粘膜に副作用が出やすい。ネクサバールやスーテントなどでは手足の皮膚が厚くなり、何かに触れただけで激痛が走り、靴もはけないことがある。アフィニトールやトーリセルでは口内炎が出やすく、重症化すると痛くて、食事もできない。薬を使い始めた当初、これらの副作用のために途中で多くの患者が服薬を中断した。山形大の富田さんらは事前に保湿剤を塗る、口内炎の薬を服用する、などの予防策を勧めるようになった。いまでは大半の患者が服薬をやめずにすむようになった。富田さんは「治療のためには、効果の出る量を必要な期間、服用し続ける必要があります。そのためには生活の質を落とす副作用は予防する、という取り組みも大切です」と話している。(朝日新聞)
Feb 12, 2012 08:18

がんを兵糧攻め
「免疫療法は効果の出る患者が約15%。しかもインターフェロンは肺転移には効果があるが、骨や肝臓、脳の転移にはあまり効果がなかった。分子標的薬の登場で、治療がすっかり変わりました」と香川大の筧善行教授(泌尿器科)は説明する。分子標的薬で、3~4割の患者の腫瘍が小さくなるとされている。小さくならなくても、比較的長い間、腫瘍が大きくならない患者も少なくないという。転移したがんにも効果がある。腎臓がんの分子標的薬のほとんどが、がんに栄養や酸素を送っている血管ができるのを阻害する働きがある。「がんを兵糧攻めにする薬」(筧さん)だ。分子標的薬はがん細胞以外は攻撃しないので、通常の抗がん剤より副作用が出にくいとされる。しかし特有の副作用がある。(朝日新聞)
Feb 11, 2012 09:41

分子標的薬
女性が治療に参加した薬は「分子標的薬」という新しいタイプの薬だ。がん細胞や、がん細胞に欠かせない働きをするたんぱく質だけを狙って攻撃する。腎臓がんでは2008年4月に最初のネクサバール(一般名ソラフェニブ)が発売になったのを皮切りに、2010年9月までにスーテント(スニチニブ)、アフィニトール(エベロリムス)、トーリセル(テムシロリムス)が出た。今年さらに2種類出る予定だ。尿管なども含めた腎臓全体のがん患者は年約1万人。大半を腎細胞がんが占める。治療は外科手術が中心。放射線治療の効果は限定的だ。従来は、効果のある抗がん剤もほとんどなく、手術の次の選択肢は、インターフェロンやインターロイキンによる免疫療法だった。(朝日新聞)
Feb 10, 2012 13:35

転移のがんにも効果
主治医が山形大医学部の富田善彦教授(腎泌尿器外科)を紹介してくれた。腎臓がんの薬に詳しく、未承認薬の臨床試験(治験)も積極的にしているからだ。女性は2008年2月、すがる思いで富田さんに会いに行った。選択肢の一つとして、従来の腎臓がんの薬とは働き方が異なる新しいタイプの薬の治験に参加することもできる、と言われた。その2カ月後に、やはり新しいタイプの薬が国内で初めて売り出されることを知っていた。その発売を待つこともできたが、早く治療を受けたく、治験への参加を決めた。薬を飲み始めてすぐ、日常生活が通常に送れるようになった。画像検査の結果も良好で、約1年後、職場復帰を果たした。(朝日新聞)
Feb 09, 2012 11:11

腎がん治療
福島県に住む小学校教諭の女性(38)がおなかのしこりに気づいたのは2006年、長男を出産した直後だった。腎臓がんと診断された。手術で腎臓を一つ摘出。転移予防のため、免疫療法の一種インターフェロンを始めた。翌年、肝臓に転移が見つかった。別の免疫療法を始めたが、副作用がひどく、投与のたびに高熱が出て、貧血になった。東京の病院に別の医師の意見(セカンドオピニオン)を聞きに行った。日本では未承認の新しい薬を、医師の個人輸入で使うことができると言われたが、薬代が月80万円と高額なこともあり、あきらめた。 続く・・・・。(朝日新聞)
Feb 08, 2012 09:09

膵臓がん 高リスクなら検診を
最近は膵臓がんの特徴もよくわかってきた。大阪府立成人病センターの研究で、膵臓の主膵管が太くなっているか、膵臓の中に膵嚢胞という膵液の入った袋ができている人は、そうでない人に比べて約3倍、両方の特徴がある人は27.5倍、膵臓がんになるリスクが高いことがわかった。同センターは98年から、膵臓がんの定期検診をしている。人間ドックの腹部超音波などで、いずれかの特徴が見つかった約1千人を登録して、3カ月か半年ごとに精密な腹部超音波と血液検査で経過を見ている。この検診で、昨年3月末までに27人で膵臓がんが見つかった。膵臓に両方の特徴がある人からは、年平均1.1%の頻度でがんが発見されている。一般の検診で膵臓がんが見つかる頻度は1万人に1人程度だ。田中幸子検診部長は「膵臓がんの近親者がいる人、糖尿病の人たちは特に注意が必要だ。人間ドックで膵管の拡張や膵嚢胞などを指摘されたら、必ず精密検査を受けて欲しい。がんがなくても、年に1回程度のチェックが必要」と話している。(朝日新聞)
Jan 02, 2012 10:50

超音波あて画像診断
膵臓がんによる死亡者は年間2万7千人、がんの中では5番目に多い。日本膵臓学界の調査では、最も初期のステージ0で見つかれば、5年生存率は85.3%だが、肝臓などに転移してステージⅣまで進むと、生存率は2.7%と厳しい。膵臓は内臓の奥深くにあるため、がんを早くに見つけるのは難しい。しかも膵臓は厚さ2センチほどしかなく、がんが1センチ程度でも、すでに外側まで広がっていることも多い。膵臓がん患者の大半は進行がんで見つかり、6割は手術さえできないのが現状だ。ただ、最近は浅野さんのように、超音波内視鏡検査(EUS)で、早期発見につながる例も増えてきた。口から内視鏡を入れて胃や十二指腸から、膵臓に向けて超音波をあてる。膵臓の近くから超音波を当てるため、画像の精度が高くなる。体の表面から腹部に超音波を当てる方法では、腹の脂肪や膵臓の手前にある胃の中のガスが邪魔をして、画像の映りが悪く、小さいがんの発見は難しかった。(朝日新聞)

Jan 01, 2012 16:21

膵臓がん 内視鏡で探る
自覚症状が少なく、「沈黙のがん」ともいわれる膵臓がん。見つかったときには、すでに進行していることが少なくない。最近は、画像診断の精度が向上し、2センチ以下のがんを早めに見つけて根治できるケースも増えてきている。愛知県の浅野一枝さん(62)は今年2月、膵臓から分泌される消化酵素の数値が高いと、医師に言われた。精密検査で腹部に超音波を当てて調べると、膵臓の中心を通って、十二指腸に膵液を運ぶ主膵管(通常1.5ミリ~2ミリ)が約8ミリに腫れていた。膵臓がんが疑われ、入院して次々に検査を受けた。約3週間後に先端に超音波装置がついた内視鏡による検査(EUS)で、1センチ強のがんが見つかった。幸い、転移はなく、4月にがんの手術を受け、今は趣味のカメラを手に撮影旅行にも出かけるほど回復した。「自分は幸運でした。早く見つけていただいたことに感謝しています」。(朝日新聞)
Dec 30, 2011 09:53

治った ATL
子どもの反対を押し切って、趣味だった夫婦二人の海外旅行を再会すると言い出した。中田さんは「家に閉じこもるのもよくない。2人で決めたことなら」と、特に反対しなかった。退院から3カ月もたつと、香港、インドネシア・バリ島、台湾と飛び回った。旅行先から、闘病を応援してくれた移植コーディネーターの山崎奈美恵さん(38)に、毎日のように絵はがきを送った。今年の夏、飲み続けている免疫抑制剤の副作用で骨がもろくなり、左足の大腿骨が壊死していることがわかった。札幌の整形外科医院で9月、人工関節を埋め込む手術を受けた。手術後のリハビリはきつかったが、「抗がん剤に比べれば、大したことはない」と思えた。移植から3年、ある日の診察で女性は、夫婦の闘病を支えてきた中田さんに「治ったんですね」と言われた。そういえば、移植から続いていたせきが減り、夫の小言も少なくなった。「必死で闘ってきた気持ちを切り替えて、これからどう生きていくか考えよう」。最近やっと、そう思えるようになった。朝日新聞・患者を生きる・感染症・ATL より)
Dec 29, 2011 09:16

食べる・歩く 日常が新鮮
成人T細胞白血病(ATL)を発症し、2008年7月に札幌北楡病院で骨髄移植を受けた北海道小樽市の女性(67)の体には、正常な白血球が増え始めていた。「移植細胞がこんなになじむことがあるのか」。主治医の中田さん(42)が驚くほど、経過は順調だった。移植細胞が本人の体を攻撃する移植片対宿主病も皮膚の所々が赤くなるだけで深刻な合併症はなかった。9月末、女性は退院した。一般的な骨髄移植患者より、2週間以上も早い退院だった。免疫抑制剤や抗生物質、血圧や胃の薬など6~7種類の薬を飲むことになった。小樽の自宅に帰ると、ささいなことを新鮮に感じた。郵便局まで自分の足で歩いていける。好きな魚を食べられる。「日常生活ってこういうことなんだ」とうれしかった。週1回の通院はやがて、月1回に減った。ただ、再発の不安は常にあった。夫(71)も、気持ちが沈むことが多かった。「落ち込む暇もないくらい楽しくしていれば、きっと病気にもいいはずだ」。(朝日新聞・患者を生きる・感染症・ATL より)
Dec 28, 2011 16:23

白血球が増え始めた
6月、提供者が決まった。北陸地方に住む50代の女性と知らされた。「すぐにでもお礼を言いに飛んでいきたいくらいだ」と、夫は感謝の言葉を繰り返した。移植の約1週間前に女性は無菌室に入り、抗がん剤治療を終えた。7月8日夕方、午前中に採取された提供者の骨髄が病室に届いた。間もなく女性への点滴が始まった。夫は無菌室のガラス越しに、骨髄液が入った赤い点滴袋をフックに下げる医師を見ていた。心の中で「きっと大成功だ」と声をかけた。点滴のあいだに、女性は眠りに落ちた。目を覚ますと、いつもと同じだるさと共に、ひじの内側や内ももなどが所どころ赤くなり、かゆくなり始めた。移植された細胞が女性の体を攻撃している「移植片対宿主病」の症状だ。下痢も激しく、無菌室内のトイレに何度も駆け込んだ。ほぼ毎日、血液検査で白血球の数を調べた。検査結果のメモを、女性は丁寧にファイルに残した。移植の15日目から、事前の抗がん剤治療で激減した白血球が増え始めた。移植された骨髄が新しい白血球をつくり始めた証拠だ。「やたな。大成功だ」。だるさが残る女性よりも、夫の方が、大喜びだった。(朝日新聞・患者を生きる・感染症・ATL より)
Dec 23, 2011 09:56

ミニ治療
小さいころのHTLV-1ウイルスへの感染をきっかけに、成人T細胞白血病(ATL)を発症した北海道小樽市の女性(67)は2008年1月、病気を完全に治すため、札幌北楡病院で骨髄移植を受ける準備を始めた。異常な白血球を作ってしまう女性の骨髄に、同じ白血球の型(HLA)を持つ健康な人の骨髄液を移植すれば、正常な白血球が作れるようになる。提供者を見つけるため、HLAの型が合う確立が高い女性の実弟と、子ども3人の型を調べたが、合わなかった。2月、骨髄バンクに提供者の検索を依頼した。春から中田匡信さん(46)が主治医になった。一般的な骨髄移植では、患者本人の骨髄の機能を失わせるため、事前に大量の抗がん剤と放射線による治療をする。中田さんは女性の体力を考慮して、抗がん剤の量を減らし、放射線をあえて省く「ミニ移植」を行うことにした。これだと副作用を軽減でき女性への負担も少なくできる。「提供者はまだですか」。夫(71)は女性を見舞うたびに、移植コーディネーターが詰める部屋にも顔をだした。(朝日新聞・患者を生きる・感染症・ATL より)
Dec 22, 2011 09:16

骨髄移植に望みをかける
ATL患者の多くは、60歳前後で発症する。体力が衰え始め、抗がん剤の副作用に耐えきれない場合も多い。抗がん剤が効いてがん細胞が消えても、再発率は高い。骨髄移植で正常な白血球が作れるようにならないと、完治はあり得なかった。「座して死を待つよりベストを尽くそう」と、夫は何度も女性に言い聞かせた。「お父さんの言う通りだ」。次第に女性も、移植に望みをかけるようになっていた。野口晋佐さん(34)ら3人の担当医は、移植が可能かどうか、繰り返し議論していた。骨髄移植で目安となる上限年齢は65歳。当時、女性は63歳だった。「年齢とともにリスクは高まり、2~4割は命を落とす。放蕩に移植が最善の方法か」。ある日、移植コーディネーターの山崎奈美恵さん(38)が、ふらりと女性の病室に顔を出した。患者それぞれの状況を見ながら、骨髄移植について解説したり、相談に乗ったりするのが山崎さんの仕事だ。「移植をしたいのに、移植の話まで進まない」。夫婦は訴えた。早速、山崎さんの仲介で、夫婦と担当医チームが、初めて移植について話し合った。抗がん剤はよく効き、異常な白血球は明らかに減っていた。「リスクも分かっていただけるなら」。移植に向け、準備が始まった。(朝日新聞・患者を生きる・感染症・ATL より)
Dec 21, 2011 09:11

つらい抗がん剤治療
成人T細胞白血病(ATL)と診断された北海道小樽市の女性(67)は、2007年8月から、札幌北楡病院で抗がん剤治療を受け始めた。重い副作用に悩まされることが続いていた。高熱で全身が重く、体のあちこちが痛んだ。午前3時に腰痛で目を覚まし、ナースコールを押すこともたびたびだった。抗がん剤治療が3サイクル目に入った10月は、特に苦しかった。医師や看護師が重苦しい表情で「抗がん剤は、つらいですか」と尋ねるのは、「この人はもうすぐ死ぬ」と思っているからではないか・・・。心配する言葉にも、疑心暗鬼になった。でも、死ぬわけにはかなかった。夫婦で営む医薬品を扱う会社の経理を、放り出したままだ。市の民生委員も20年間続けてきた。女性の訪問を心待ちにしている人たちがいるはずだ。病気について調べていた夫(71)は早くから、「骨髄移植しかない」と思っていた。(朝日新聞・患者を生きる・感染症・ATL より)

Dec 20, 2011 09:04

つらい治療 家族が支え
ブラシで髪をとかすと、ベッドに髪の束がバサバサと落ちた。院内の美容院に頼み、病室で、残った髪をそり上げた。カツラを作ったが、鏡の中の自分はしわだらけで、「80歳のおばあさんみたい」に見えた。誰にも会いたくなかった。だが夫(71)は、毎日だれかが病室に顔を出すように3人の子どもとシフトを組んだ。そばに人がいるほうが安心だと考えた。東京にいる友人たちにも電話をかけて、見舞いを頼んだ。「とにかくベストをつくそう」と、女性に繰り返した。「弱音を吐いたら、がんばっているお父さんに申し訳ない」。夫の必死さに引きずられるように、女性も自分を奮い立たせた。気分が悪くても、見舞い客は決して断らなかった。食事も闘いだった。抗がん剤の副作用で口内炎ができ、口に食べ物を入れるだけで激しく痛んだ。それでも「食べないと負けてしまう」と、1時間以上かかってもすべて平らげた。つらいときは、生まれたばかりの孫のことを考えた。「元気になってこの手で抱くんだ」。何度の自分に言い聞かせた。(朝日新聞・患者を生きる・感染症・ATL より)
Dec 19, 2011 09:09

ATLと診断
北海道小樽市で、医薬品を扱う会社を夫婦で営む女性(67)は、2007年夏、札幌市の札幌北楡病院で成人T細胞白血病(ATL)と診断された。がんによる胸水や腹水の影響で、女性のおなかは妊婦のように膨れ上がった。担当医の野口晋佐さん(34)が病室を訪ねると女性はベッドに横になり、肩で息をしているような状態。すぐに抗がん剤治療が始まった。ATLを引き起こすHTLV-1ウイルスは主に、母乳で母から子に感染し、数%の人が白血病を発症する。潜伏期間が長く、発症は60歳前後がほとんど。女性も母からの感染と考えられたが、他界した母に尋ねようもない。むしろ、すぐに調べたわが子3人にウイルスはなく、「母さんが守ってくれている」とほっとした。8種類の抗がん剤を3通りに組み合わせ、1週間づつ点滴を受ける標準治療を受けることになった。点滴を受ける3週間は入院し、1週間は休むというサイクルを6~7回繰り返す。治療が始まってすぐ、髪が抜け始めた。見舞いに来た長女が気づいた。「お母さん、髪が・・・・」。(朝日新聞・患者を生きる・感染症・ATL より)
Dec 18, 2011 09:36

ATL
「成人T細胞白血病(ATL)という病気です」。夫はがくぜんとした。ATLは「HTLV-ウイルス」というウイルスが原因で起こる血液のがんだと、新聞か雑誌で読んだことがあった。主に母乳で母から子へと感染し、治療は難しいと書かれていた。「大変だ。最初から大きな病院へ連れていけば良かったのに、おれは失敗したのか」。すぐに、女性が肝炎の治療のため20年来通っている専門医に電話をかけ、札幌市の札幌北楡病院を紹介してもらった。道内では、白血病の骨髄移植を最も行っている病院だった。一方、女性は「白血病」と聞いても、人ごとのようにしか受け止められなかった。夫の勢いに押されるように毎日、札幌北楡病院を受診した。血液検査の結果、正常だと丸い白血球が、花びらのように変形していた。ATLの中でも最も深刻な状態に特有な症状だ。一刻も早く、抗がん剤治療を始める必要があると言われた。入院準備のため、いったん自宅へ戻った。手当たり次第に衣類をカバンに詰めたものの、「すぐ治って退院するんだから」と思っていた。このときはまだ、病気の深刻さを分かっていなかった。(朝日新聞・患者を生きる・感染症・ATL より)
Dec 17, 2011 09:07

風邪でもないのにだるい
こんなにだるいの、初めてだわ・・・。4年前の7月末、北海道小樽市の女性(67)は突然、体調不良に襲われた。風邪でもないのに体が重く、食欲もわかない。目をさましたときからしんどかった。夫(72)と友人と、仙台七夕まつりを見に行く計画だった。だが、人ごみを歩き回る自信が持てず、ひとりで留守番することにした。8月3日、夫を送り出してから、近所の内科医院を訪ねた。女性を診察した医師は淡々と点滴を打ち、胃薬やせき止めの薬などを出した。「そんなものかな」と女性も思った。「血液検査をしてないのか」。6日、仙台から帰った夫は、女性から報告を聞いたとたん、怒りだした。夫婦で医薬品を扱う会社を30年以上営んでおり、病気にかかることには一家言あった。夫のあまりの剣幕に背中を押され、女性は再び内科医院を訪ねた。翌日、夫の携帯電話が鳴った。血液検査の結果を知らせる内科医院の医師からだった。(朝日新聞・患者を生きる・感染症・ATL より)

Dec 16, 2011 08:16

私の前立腺がん体験3
けれど、その数カ月後に、ぜひやりたい海外の仕事が予定されていた。アナウンサーとして、これらを良いコンディションものとでやりたいにだが、それを可能にする治療スケジュールは組めますか、と相談しました。先生は「その間は内分泌療法でがんの進行を遅らせ、やりたい仕事が一段落したところで、手術を設定しましょう」と提案されましyた。私は先生の明快な話し方から、この病院でお世話になることを決めました。帰国後入院し、病院スタッフからあらゆる情報を聞き、何の不安もなく手術室に向かいました。手術翌日から点滴スタンドを引きずり歩行訓練を開始。速いスピードで歩き回り、看護師から注意されたほどでした。退院後は自宅周辺を歩き体力の回復に努めました。幸い後遺症は少し尿漏れがあっただけ。今、元気なのは早期発見のかげです。PSA検査を知る場を与えてくれた母からのプレゼントかも知れません。岩佐徹さん・フジテレビ・WOWWOW元アナウンサー (朝日新聞・広告特集 より)

Dec 12, 2011 09:45

私の前立腺がん体験2
(別の病院へ。)そこでの先生は、負数の治療法とそのメリット・デメリットを詳しく説明されました。けれどやはり手術がしたかった。がんが残っているのでは?とおびえながらの人生は嫌だったのです。検査で転移がないと分かり、全摘手術が決まりました。(朝日新聞・広告特集)
Dec 11, 2011 23:03

私の前立腺がん体験
2003年、母の葬儀で兄から「前立腺がんになった」と聞き、初めてPSA検査の存在を知りました。父も病死後の解剖で前立腺がんがあり、もしやとかかりつけ医でPSA検査をしました。結果はグレーゾーン。紹介された病院で生体検査を行いましたが、結果待ちの10日間は人生で最もやきもきした時間でした。いざ当日、先生は対面するなり「ああ、出てましたね」とおっしゃった。がん告知は厳かなイメージだったので、拍子抜けでしたね。グレーゾーンの時から治療するなら手術と考えていたので、先生の勧める手術を承諾。この経験を医師だった知人に話したところ、「セカンドオピニオンを求めては」と助言をもらい、別の病院へ。(朝日新聞・広告特集 より)
Dec 09, 2011 07:04

人生のロスタイム長く
インターフェロンにはさまざまな副作用があり、高齢者ほど出やすいという。自分の年齢で治療を受けるのは難しいことも知った。それでも「条件があえば受けたい」と伝えた。伊東さんは「治療に負けない意気込みが大事」と励ました。体力をつけようと、毎朝約1時間半歩いて副作用に備えた。手術から2年後、週1回のペグインターフェロン治療が始まった。半年後にはリバビリンとの併用療法に。3週間ほど微熱が出て、肺炎のため一時休薬もしたが、治療開始から約2年後にはウイルスも陰性化した。だがその翌月に、がんの再発がわかった。「やっぱりもぐらたたきか」と落ち込んだが、がんに電極を刺してラジオ波をあてて焼く方法もあると聞いた。2カ月後に県立総合病院で治療を受け、再びがんは消えた。1年後には、ペグインターフェロンとリバビリンの併用療法を再開。昨年4月に1年半の治療が終り、半年後の検査でもウイルスは陰性だった。伊東さんと「完全駆除」の記念撮影をし、祝った。肝切除手術を受けたとき、大場さんからは「5年生存率は60%」と言われていた。「あれからもう8年、人生のロスタイムが長くなったと感じています」。(朝日新聞・患者を生きる・感染症・C型肝炎 より)

Nov 30, 2011 08:59

肝臓の切除手術
C型肝炎による肝がんを発症した静岡県島田市の杉村功さん(75)は、エタノール注入療法を受けたが、2003年8月にがんが再発した。主治医の伊東クリニック院長、伊東和樹さん(61)は、「再発の可能性はあるが、最も効果的なのは肝臓の切除手術」と、手術を勧めた。2カ月後、静岡県立総合病院で手術を受けた。執刀した大場範行(53)から「がんは取りきれた」と言われ、気持ちが楽になった。退院後、伊東さんは「がんは、取っても別のところから出てくるもぐらたたきだ」と、あえて厳しいことを言った。治療に負けない気持ちを持ってほしかった。再発への不安を打ち消そうと、杉村さんは毎月の定期検査やクリニックで開かれる勉強会に欠かさず通った。その中でインターフェロン治療の話も聞き、「自分も受けたい」と思うようになった。がんがなくなっても、ウイルスがいたままでは、不安だった。(朝日新聞・患者を生きる・感染症・C型肝炎 より)
Nov 29, 2011 08:44

がんとの長い付き合いの始まり
見つかったがんの直径は、1.5センチ大が二つだった。医師に「この位なら、エタノールを注入すれば、がんを殺すことができる」と言われ、治療にかかってみる気持ちになった。おなかから針を刺し、がんに直接エタノールを注入する療法を、入院して3回受けた。しかし、がんは完全には消えなかった。医師は「とりあえず経過をみましょう」と説明するだけで、「ここでは治らないのでは」と不安が募った。肝がん治療の新聞記事などでよく目にしていた静岡県立総合病院(静岡市)への紹介を求めた。予約の電話をすると、この病院で週1回、外来を担当していた伊東クリニック(焼津市)院長の伊東和樹さん(61)を紹介された。クリニックで経過観察中に、がんが大きくなった。2003年2月、県立総合病院で伊東さんからエタノール注入療法を受けた。伊藤さんは「この療法は完全ではなく、再発とのいたちごっこだよ」とくぎを刺していたが、案の定、半年後に1.6センチ大のがんが見つかった。がんとの長い付き合いの始まりだった。(朝日新聞・患者を生きる・感染症・C型肝炎 より)
Nov 28, 2011 08:44

肝がん「とうとうきたか」
静岡県島田市の元税務署員、杉村功さん(75)は30年来、C型肝炎とつきあってきた。9年前の1月、かかりつけの医師に超音波検査してもらったら「肝臓に黒い影がある」。すぐに近くの総合病院でCTと血液の検査を受け、C型肝炎ウイルスによる肝がんと診断された。「とうとうきたか」。浜松税務署にいた42歳のとき、人間ドックで「肝機能の検査値が正常値の3倍近い」と言われ、すぐに治療するよう勧められた。自覚症状はなかった。週2回、肝臓の炎症を抑えるグリチルリチン製剤の注射を始めたが、忙しかったこともあり、5年でやめてしまっていた。年齢的にがんが気になってきた58歳から、再び注射を打つようになった。肝炎とがんの関係は怖くて聞けず、C型肝炎のこともよく知らなかった。がんと診断された後に、図書館などで肝炎に関する本を読みあさった。肝がんの原因の多くがC型肝炎で、治療しても再発しやすいことを初めて知った。「もう長くは生きられないのか」と、落ち込んだ。(朝日新聞・患者を生きる・感染症・C型肝炎 より)
Nov 27, 2011 10:05

生存率ほぼ変わらず
ミニ移植は、日本ではここ10年ほどで盛んになった。国立がん研究センター血液腫瘍科・造血幹細胞移植科の福田隆浩副科長によると、1997~2000年、造血幹細胞をそっくり入れ替える従来の「フル移植」725件、ミニ移植36件。2005年~2008年はフル移植2354件に対し1366件と大きく伸びている。50歳以上の移植件数も129件から1619件と10倍以上に増えた。フル移植は放射線治療を徹底するなど体への負担が大きい。おおむね55歳以上の人や臓器に生涯がある患者は受けられなかったが、ミニ移植なら受けられる。海外の調査では、ミニ移植はフル移植に比べ再発率が高く、フル移植は再発以外の原因で死亡する率が高い。生存率はほぼ同じ。国内で年齢などの条件をそろえて比べると、再発率も再発以外の死亡率も差が出なかった。これまで若くて臓器などに問題のない患者は原則フル移植だった。しかし、子どもの患者の場合、強い前処置による発達障害の危険性を避けるため、ミニ移植を選ぶという研究も始まっている。(朝日新聞)
Nov 13, 2011 08:18

移植片対白血病(GVL)効果
移植自体は治療の主役ではなかったが、大阪市立大病院の日野雅之教授(血液腫瘍制御学)は「放射線と抗がん剤の前処置が重要と思われてきたが、それだけで治っているのではないとわかってきた」。放射線などで壊したはずでもがん細胞が残ることがあり、それが増えると再発する。再発率の研究から、移植自体にも重要な役割があることが見えてきた。カギは移植後の副作用「移植片対宿主(GVH)病」と再発率の関係にある。GVH病は各種の移植で最も怖い副作用の一つ。提供された臓器や血液にある他人のリンパ液が、患者自身の臓器や組織を逆に他人とみなして攻撃する。白血病の再発率は、このGVH病が起きた患者のほうが低かった。一卵性双生児間の移植はもっとも再発率が高い。遺伝子が同じため、リンパ球が他人とみなすことがないからという。GVH病やそれに近い症状になると、移植された他人のリンパ球が、患者の体に残ったがん細胞を敵とみなして倒す。これを「移植片対白血病(GVL)効果」という。ミニ移植はこの効果を積極的に利用した。「毒をもって毒を制す」という逆転の発想だ。(朝日新聞)
Nov 12, 2011 08:49

移植前の治療が軽減
「ミニ移植」は、移植前の治療の際に放射線や抗がん剤の強さを弱めたり、抗がん剤のみにしたりする。体への負担は少なくなるが、患者自身の血液細胞とともにがん細胞もある程度残る。そこに造血幹細胞を移植すると、患者と提供者の血液細胞が混ざった状態になり、移植されたリンパ球が残ったがん細胞を「敵」とみなして攻撃する。移植による従来の治療法「フル移植」は、移植の前に放射線や強い抗がん剤による処置で、がん化した白血球を徹底的に壊し尽くす。こうした治療の結果、がん細胞だけでなく、患者の骨髄の中の正常な血液細胞(白血球や造血幹細胞)まで死に絶え、血液を造る能力が失われる。その機能を補うために、他人の造血幹細胞を移植する。(朝日新聞)
Nov 11, 2011 08:58

白血病「ミニ移植」効果
大阪府の女性(64)は2005年の暮れ、37度台の微熱と全身のだるさに苦しんだ。病院でもらった抗生物質を3日間飲んでもよくならない。それどころか、突然高熱が出た。病院で血液検査を受け、「急性骨髄性白血病」と診断された。抗がん剤治療を9カ月ほど続けたが、血液の細胞に変異があり、効きにくいタイプとわかった。主治医から移植を勧められた。そのとき59歳。年齢的には通常の移植の対象外だったが、「ミニ移植ならできる」と言われ、2007年10月、臍帯血のミニ移植を受けた。「手術直後は口内炎がひどく何も食べられなかったけど、いまは好きなものを食べて普通に生活しています。移植を受けたこともだんだん記憶から薄れています」。以降ずっと、がん細胞は見つかっていない。(朝日新聞)
Nov 10, 2011 08:30

費用・期間・傷・・・・考え選ぶ
乳頭や乳輪は、再建が落ち着いた数カ月後に作成する。乳頭は、もう片側の乳頭の一部を切ったり、皮膚を盛り上げたりして作る。乳輪は、皮膚の色の濃い太ももの付け根の部分の移植や、入れ墨などの方法がある。再建のタイミングには、がん手術と同時に行う一期再建と、手術後、約1年以上経ってから行う二期再建がある。一騎再建は、乳房喪失感を余り感じずに済み、手術回数も1回減らせる。二期再建は、情報収集や医師探しに時間をかけられる。ただ、温存手術後は放射線治療を受けていると、皮膚がやけどを起こして伸びが悪くなる。昭和大学医学部乳腺外科の中村清吾教授は「再建を希望する人は、乳房を温存するか全摘するかの治療方針を決める際、主治医に相談して」と話す。再建後の乳房に求めるイメージは、「膨らみがあればOK」という人から、左右の対称性や、乳首の位置・形にこだわる人までいる。「元通りになる」のではなく、「再び立て直すという感覚でいて欲しい」とブレストサージャリークリニック(東京都)の岩平佳子院長はアドバイスする。(朝日新聞・患者を生きる・女性と病気・乳房再建・情報編 より)

Nov 06, 2011 09:18

乳房再建 考え選ぶ
がん治療で乳房を失っても、乳房は再建できる。胸の膨らみを作る材料に何を使うかにより、二通りの方法がある。一つ目が、腹や背中の脂肪と筋肉を、血管を付けたまま胸に移植する筋皮弁法だ。再建後の手触りは自然だが、腹や背中に傷痕が残る。約2週間以上の入院が必要で、筋肉を失うため力が入らなくなることもある。「患者を生きる 乳房再建」で桑田ゆかりさんが選んだ穿通枝皮弁法は、脂肪と細かい血管のもを移す。通常の筋皮弁法に比べ高い技術が必要とされ、国内での実施医療機関は数箇所に限られる。いずれも公的医療保険が適用される。1カ月に一定額以上の医療費を支払った場合、高額療養費制度も利用できる。もう一つが、人工物を入れる方法だ。胸の皮膚を伸ばす組織拡張器を入れ、数カ月間かけて生理食塩水を注入。皮膚が伸びたところで、拡張器をシリコーンなどに置き換える。自分の組織を犠牲にせず、手術時間が短く、日帰り手術も可能だ。しかし保険適用外で、100万円を超える場合もある。(朝日新聞・患者を生きる・女性と病気・乳房再建・情報編 より)
Nov 05, 2011 08:02

泳いで走って 気分弾む
9月半ば、乳がんの経過観察で甲府共立病院を訪れた。「本当にできたんだ」。主治医の飯塚恒医師(46)は、柔らかさに驚いた。筋肉とはやはり硬さが違う。デパートの下着売場で、華やかな柄のブラジャーを選べる。泳ぐときも、パッドがずれる心配はない。ジムでシャワー後、バスタオルを巻いて更衣室を闊歩できる。おなかの皮膚を使ったため肌の色は少し違うが、自分はあまり気にならない。何をするのも気分が弾んだ。秋には、市民マラソンレースに出場、約11キロを完走した。皮膚の感触は1年後に戻った。その2カ月後、修正手術を受けた。左乳房の乳輪を一部切り取り、右乳房に移植し、乳首をこしらえた。乳首の形や左右の乳房のバランスも整えた。2007年、患者会「SOG」を立ち上げた。「すてきな、おっぱい、ゲット」の頭文字だ。自分はいいタイミングで情報を得て、医師にも恵まれた。乳房再建に悩む人の気持ちに応えたいと、年に何度か講演会を開く。時には、再建した乳房とおなかの傷痕を見せる。「こんな感じです。触ってみてください」。(朝日新聞・患者を生きる・女性と病気・乳房再建 より)
Nov 04, 2011 08:24

穿通枝皮弁法再建手術
乳がんの全摘手術から1年4カ月後の2005年8月、山梨県大月市の桑田ゆかりさん(52)は、横浜市立大付属市民総合医療センターで、おなかの脂肪を使って乳房を作る穿通枝皮弁法による再建手術を受けた。乳房や腹部の組織を落ち着かせて、縫い合わせた部分の血管に負担をかけないため、48時間は同じ姿勢でベッドに寝ていなくてはならない。排尿は管を通じて行い、3日目から少しづつ動けるようになった。4日目。「順調、順調」。形成外科の佐武利彦医師(47)ににこやかに言われ、透明テープでグルグル巻きにされていた胸が姿を現した。感覚はないが、膨らみがある。それだけでうれしい。何度も眺め、触った。手術から10日後、電車で自宅へ帰った。「主婦はリハビリは必要ない」と言われ、普段通りに家事をした。洗濯物を干すときに少し引きつるような違和感があったが、まもなく消えた。佐武さんから許可をもらい、21日目にはプールに行った。体を慣らすだけのつもりがうれしくて、クロールで泳いでいた。(朝日新聞・患者を生きる・女性と病気・乳房再建 より)
Nov 03, 2011 08:18

先輩の体験に背中押され
この日、同じ方法で乳房再建をした「先輩患者」が数人、診察室の隣にある応接室に集まっていた。再建後の胸を触らせてもらったり、術後の様子を聞いたりして、イメージがわいた。標準的な手術法でない分、リスクもあるが、この先生ならと信頼感を持った。「失敗しても、私にはまだたくさん脂肪があるわ」と、楽観的に考えた。再建する乳房のイメージは、それぞれだ。桑田さんの場合は、左側と同じ膨らみが右側にでき、運動ができれば、出来上がりの形などは二の次だった。手術日は8月の盆明け。前日に佐武さんが、胸や腹に油性フエルトペンで書き込んだ。皮膚のどこを切り、どこをつなげるか。手術の「設計図」だった。手術では、その下側の腹を真一文字に約50センチ切って、約1キロ分の脂肪を皮膚ごと切り出した。ふくよかな桑田さんに必要な量だった。大きさ約0.4ミリの血管の一部も一緒に切り取り、右胸に移植し、血流を通した。10時間にわたる手術だった。個室に戻り、麻酔が切れて目覚めた瞬間、声をあげた。「あなか空いた」。(朝日新聞・患者を生きる・女性と病気・乳房再建 より)
Nov 02, 2011 08:08

脂肪と血管のみで移植
脂肪と血管のみで移植する方法での乳房再建を検討していた山梨県大月市の桑田ゆかりさん(52)は2005年4月、横浜市立大付属市民総合医療センター形成外科を受診した。右胸の全摘手術から1年。雨が降りそうな、肌寒い日だった。診察室に入った桑田さんに、佐武俊彦医師(47)は、振り向きざまに開口一番、言った。「大月は、雨降ってましたか?」。胸の状態を聞かれるとばかり思っていたので、拍子抜けした。緊張が少しほぐれた。佐武さんは紹介状を見て、全摘手術のときに大胸筋と筋肉の膜は切ったが、胸の筋肉の神経は温存していること、術後1年で安定状態にあることを確認した。また移植に必要な脂肪が腹部にあることも確かめた。「すぐに決めなくていいです。信頼関係ができてから、手術するかどうか決めましょう」。佐武さんは、説明を始めた。細い血管を縫うため、移植した組織に十分血液が通らずに、組織が壊死する恐れがある。そうなれば、再び再建手術が必要だ。感染症のリスクもある。(朝日新聞・患者を生きる・女性と病気・乳房再建 より)
Nov 01, 2011 08:07

筋肉犠牲にせぬ手術選択
「再建したいんです」と恐る恐る、切り出した。説明書も持っていった。飯塚さんは、穿通枝皮弁法をしならかった。自分が接した再建患者から、どちたかと言えば人工乳房はトラブルが多いという印象を受けており、筋皮弁法を勧めてきた。ただ、おなかに力が入らなかったり、重い荷物が持てなくなったり、人によっては出来ない動きも多かった。穿通枝皮弁法は、腹筋を犠牲にしないのが利点だった。「本当に実現できるのなら、素晴らしい」と思った。手術から1年、治療終了から6カ月。再発の兆しはなく、全摘後の傷口などが落ち着いてくるころだ。状態は悪くない。もう少し経過を見てもいいと思ったが、本人の意思が固いのなら、尊重すべきだと思った。「前向きでいいことです。この方法を僕は知りませんでしたが、一緒に勉強していきましょう」。誠実な飯塚さんに「この再建は、やめたほうがいい」と言われたら、手術を諦めるつもりだった。背中を押された気持ちになった。(朝日新聞・患者を生きる・女性と病気・乳房再建 より)
Oct 31, 2011 08:03

穿通枝皮弁法
山梨県大月市の桑田ゆかりさん(52)は、乳房を再建したいが、自分には無理だと思っていた。右胸の全摘手術から1年近く経った2005年の春、インターネットの掲示板で、おなかの脂肪だけを使って再建手術したという投稿を見つけた。術後3日で体を動かせ、1カ月後にはテニスも可能、公的医療保険も使えるという。メールを送るとすぐに返信がきた。同年代の横浜市の女性が、5カ月前に横浜市立大付属市民総合医療センターで手術を受けていた。筋肉を切らずに、腹や背中の脂肪と細い血管(穿通枝)を胸に移植して膨らみを作る「穿通枝皮弁法」という手術法で、手術費は彼女の場合、約30万円だったという。再建の高い壁となっていたのは、自分の筋肉を犠牲にすることと、費用が100万円もかかることだった。この方法なら、どちらの壁も乗り越えられる。「私が探し求めていた方法はこれだ」と確信した。手術方法の説明書を取り寄せ、初診から丸1年後の2005年3月、主治医の甲府共立病院、飯塚恒医師(46)を訪ねた。再建には、主治医の紹介状が必要だ。(朝日新聞・患者を生きる・女性と病気・乳房再建 より)
Oct 30, 2011 08:14

おっぱい やっぱり欲しい
シャワー後も、体に巻いたバスタオルの端が胸の前で留められず、かえって気分が沈んだ。私は、一生このままなのかな。自問したとき、ネット上の「乳房再建」の文字が目にとまった。手術時に再建希望について聞かれたが、自分には関係ないと思っていた。でもやっぱり、胸に膨らみを戻したい。「おっぱい、作ってもいい?」。夏なのにTシャツが着られず、夫婦の趣味の温泉巡りにも出かけなくなった妻を心配していた夫の征人さん(57)は、「やれるだけのことは、やってみたら」と、応援した。さっそく情報を集めると、再建には、自分の組織を使う方法と人工物を使う方法があろとわかった。自分の組織を使う方法は、おなかの脂肪を筋肉と一緒に切り取り、胸に移植する「筋皮弁法」が代表的だ。地元の患者会に聞くと、公的医療保険が使えるが、腹筋を失い、術後1週間は身動きできないという。人工乳房は、手術はすぐ終わるが、全額自費。約100万円もかかるという。家族にここまで金銭的負担はかけられない。再建は無理かもしれないと、あきらめかけた。(朝日新聞・患者を生きる・女性と病気・乳房再建 より)
Oct 29, 2011 07:59

乳房喪失の悲しみ
右の乳房にがんが見つかった山梨県大月市の桑田ゆかりさん(52)は2004年4月、甲府市の甲府共立病院で全摘手術を受けた。覚悟していたが、乳房喪失の悲しみは大きかった。退院後、東京の専門店でブラジャーと直径約18センチのパッドを購入した。膨らみは出たが、重さで肩こりがひどくなった。胸もとのえぐれも気になり、襟元が詰まった服しか着なくなった。1カ月後、病理検査の結果が出た。リンパ節転移はなかったが、ホルモン剤が効かないタイプだった。すぐに抗がん剤治療を始めると、髪が抜け、吐き気やだるさに襲われた。7月、抗がん剤治療が終わった。何も治療しないことが不安で、インターネットに「生存率」と打ち込み、検索ばかりしていた。主治医から再発率は15~20%と聞いており、「その中に入るかも」とおびえた。家にこもりきりではいけないと、髪が伸びるのを待ち、以前通っていたジムで泳ぎ始めた。でも、水着に入れたパッドがずれて水面に浮かんでくる気がして、集中できなかった。(朝日新聞・患者を生きる・女性と病気・乳房再建 より)
Oct 28, 2011 08:09

想像超えた胸失った衝撃
「やっぱり」。心の準備はできていた。すぐに手術の予約を入れ、10日後に入院した。入院3日目、治療方針について説明があった。選択肢は二つ。乳房を温存して放射線治療を受けるか、全摘する代わりに放射線治療を受けないか。放射線治療は5週間も病院に通わなければならない。子ども3人のうち末っ子はまだ中学3年生と手がかかることもあり、往復2時間の車の運転は難しい。全摘手術が現実的な選択だった。「乳房再建手術もあります。ご希望なら、甲府か東京の症例数の多い病院を勧めますが」。飯塚さんから説明があったが、必要ないと思った。左乳房を全摘した母親を見てきた。大丈夫、私も受け入れられる。4月半ば。飯塚さんの執刀で、2時間18分かけて右の乳房を摘出した。傷口は痛んだが、手術の翌日には起き上がることができ、経過は順調だった。だが、胸を失った衝撃は想像を超えていた。病院で初めてシャワーを浴びたとき、鏡に自分の姿が映った。ふくよかな膨らみがあった胸は鉄板のように硬く縫い跡が惨めに見えた。涙がこぼれてきた。(朝日新聞・患者を生きる・女性と病気・乳房再建 より)
Oct 26, 2011 08:01

早期の乳がん
ゴリゴリ。山梨県大月市の桑田ゆかりさん(52)は2004年3月、昼寝のとき何げなく触った右胸に、違和感を感じた。検診に行ったのは、3年前が最後。9年前には、母親を乳がんで亡くしていた。どこの科に行けばいいかわからず、地元の病院の外科を受診した。マンモグラフィー検査で「何かある」と言われ、乳房の細胞を診る細胞診の予約を入れた。帰宅後、慌ててインターネットで調べ始めた。乳腺専門の外科医がいることを初めて知り、ネット掲示板に「山梨県で乳腺専門のいい先生を教えて」と書き込んだ。名前が挙がったのが、甲府共立病院(甲府市)の飯塚恒医師(46)だった。大月市からは車で1時間ほどかかるが、いい医者に診てほしいと、すぐに受診した。飯塚さんが触診すると、しこりは約2.5センチの大きさで、砂利や砕石のように表面に凸凹があった。悪性を疑わせる官職だった。細胞診とMRI検査の結果、ほかの臓器への転移は見られず、早期の乳がんと診断された。(朝日新聞・患者を生きる・女性と病気・乳房再建 より)
Oct 25, 2011 07:54

ケアの積み重ねが大事
そのため足や腕を心臓より高く上げることや、感染症を防ぐための皮膚の保湿、専門のマッサージ、弾性ストッキングやスリーブの着用による圧迫など、「複合的理学療法」が基本だ。リンパ浮腫に詳しい松尾医師は、「病気の特性を理解し、日々のケアの積み重ねでコントロールすることが大事」と話す。患者の金銭的な負担も重い。日本医療リンパドレナージ協会やリンパ浮腫指導技能者養成協会などが、医療者らをセラピストとして養成している。しかし、マッサージには公的医療保険は適用されないため、1回につき5千~1万円程度かかる。一方、弾性ストッキングやスリーブ、包帯などには、2008年から公的医療保険が適用された。加入する健康保険の保険者に医師の指示書と領収証を提出すれば、療養費が支給される。ただし支給額には上限がある以上、1度に購入できるのは2足までなど、様々な制約がある。あすなろ会代表の森洋子さん(62)は「適切なケアをすれば、浮腫は悪化しない。患者が生活の質を保てる制度が必要だ」と話す。(朝日新聞・患者を生きる・女性と病気・リンパ浮腫・情報編 より)
Oct 24, 2011 08:07

リンパ浮腫の9割は女性
がんの手術後に足や手がむくむ「リンパ浮腫」は、子宮頸がんの治療を受けた人の3割程度に出る。乳がんや卵巣がんでも出るため、年間の発生患者数約1万人の9割を女性が占める。患者数は少ないが、原因不明の原発性リンパ浮腫もある。体の中を走るリンパ管は、老廃物を運ぶ「配水管」の役割を担う。配水管のフィルターがリンパ節で、リンパ管やリンパ節が手術や放射線治療により傷付くと、配水管が詰まり、浮腫が出てしまう。リンパ浮腫は、いったん発症すれば完治することはなく、生活の質を大きく損なう。しかし命に関わる病気ではないため、医療従事者の関心は低い。2000年に結成された患者会「あしなろ会」が、新規会員を対象に実施しているアンケートでは、回答者約1200人のうち、「将来、むくむかもしれない」という説明を医療者から受けた人は2割にとどまった。決定的な治療法も、まだない。「リンパ浮腫診療ガイドライン」によると、薬や手術による治療が有効という科学的根拠は示されていない。(朝日新聞・患者を生きる・女性とリンパ病気・リンパ浮腫 情報編 より)
Oct 23, 2011 08:23

丁寧なケア重ね山登りも
寝ているときにも足に適度な圧をかけるため、弾性包帯を15分ほどかけて足に巻いていく。そして朝、10分以上かけて弾性ストッキングをはく。1日のうち素足でいられるのは、風呂上りのひとときに限られる。こうしてケアを続けていても、浮腫は少しづつ悪化してきた。さらに強く圧迫するため、1枚でよかったストッキングは、3枚重ねばきになった。左右の足の太さの違いは、最も差があるところで4センチある。仕事着も、ひざが見えるタイトスカート姿からパンツのスーツに変わった。専ら、仕事の途中に見つけた淀屋橋のブティックで購入する。体型が合い、左足の幅を直さなくてもはけるからだ。正座は厳禁。座敷での宴席では足を伸ばして座る。でも、できないことばかりではない。8年前の正月に母親(75)と一緒に近くの山に登って以来、山登りが趣味になった。「おっちゃん4人」と雪山に登ったときは、ストッキングをはき替えるときだけテントを出てもらい、乗り切った。山の空気を吸って、緑を眺める。そのときだけは、リンパ浮腫のことも頭から吹き飛ぶ。毎週末の山登りが続いている。(朝日新聞・患者を生きる・女性と病気・リンパ浮腫 より)
Oct 22, 2011 08:06

医療用弾性ストッキング
子宮頸がんの手術の影響で、左足にリンパ浮腫が出始めていた大阪府の女性(48)は、2001年2月、患者会「あすなろ会」に紹介された大阪市の松尾循環器科クリニック(現在は八尾市の松尾クリニック)の松尾医師(64)のもとを訪れた。松尾さんは足を押したり、つまんだりした後、丁寧に問診した。超音波で、水がたまっているのも確認した。やはり、リンパ浮腫だった。1着2万円以上する医療用弾性ストッキングを、早速購入した。このストッキングははいているうちに伸びるため、半年で駄目になる。あすなろ会では当時、各委員が公的医療保険の適用を求める活動を続けていた。女性も活動に参加するうち、2008年から保険適用が認められた。浮腫の治療は、日常生活の管理がすべてだ。女性も風呂から上がると、すぐにローションで足を保湿する。浮腫の皮膚は乾燥しやすく、細菌が入りやすいからだ。その後、滞ったリンパの流れを良くするため、30分ほどマッサージする。(朝日新聞・患者を生きる・女性と病気・リンパ浮腫 より)
Oct 21, 2011 08:06

患者会から連絡
ネット上では、足が何倍にも膨らんだ写真ばかりが目についた。「放っておいたら、こうなるんや」。がんになったことより、リンパ浮腫になったことの方がショックだった。足が太くなったら、おしゃれもできない。当時は、ひざ丈のタイトスカートばかりはいていた。主治医に相談すると、根拠の無い答えが返ってきて驚いた。「冷やしなさい」。看護師も同じだった。「お菓子についている保冷剤をあてたらええよ」。自分で何とかしようとネットの掲示板で情報交換する中で、「あすなろ会」という患者会を知った。書き込むうちに、浮腫を悪化させないためには、足を圧の強いストッキングで締め付けることが有効だとわかった。適切な弾性スットキング購入には医師の診断が必要だという。医師を紹介してもらうため、あすなろ会代表の森洋子さん(62)にメールを出した。ある晩遅く、森さんから自宅に電話がかかってきた。「いま、どんな感じなの」。たまっていた不安が、一気に噴き出した。見た目のこと。仕事のこと。30分以上話しているうちに、いつしか泣き出していた。(朝日新聞・患者を生きる・女性と病気・リンパ浮腫 より)



Oct 20, 2011 08:05

退院5カ月 左足むくむ
子宮頸がんと診断された大阪府の女性(48)は、2000年2月に全摘手術を受けた後、放射線治療を受けることになった。治療が始まって数日後、副作用の下痢が始まった。多い日は1日10回近く、トイレに駆け込んだ。皮膚にも、やけどのような症状が出てきた。計28回の治療を終え、4月20日に退院した。退院前に、リンパ腫の説明が主治医からあった。「たまに足が太くなる人がいてるんやけど、みんがみんな、なるわけやないから」。病院ではできるだけ歩いていたのに、体力の衰えは激しかった。2カ月ほど自宅療養し、7月に職場復帰した。仕事の勘を戻しつつあった9月、左足に違和感を感じた。眼を凝らして見ると、内もものあたりが少し白っぽくなっていた。何となく、痛みもあった。「むくみが出てきたんや」。リンパ浮腫については退院後、自宅療養中に時間があるときに、インターネットで少し調べていた。時間が経つにつれ、むくんでいる範囲は、少しづつ広がっていった。(朝日新聞・患者を生きる・女性と病気・リンパ浮腫 より)
Oct 19, 2011 08:01

がん取りきれず子宮摘出
医師の説明では、幸い早期だったが、36歳と若いため進行も早いという。1日も早く手術で子宮を取ることを勧められたが、1カ月以上入院しなくてはならない。仕事の引継ぎに、1カ月は必要だった。年明けの1月末に入院することを決め、翌日、社長に報告した。入院前日の夜。友人と鍋を食べに行った。「しばらく飲めなくなるから」と杯を重ねるうち、抑えていた思いがあふれ出してきた。「私、子宮がなくなるんやな」。涙がポロポロ、止まらなくなった。今回の手術は、数時間かかった。術前、医師は「おなかを開かないとわからないが、できるだけ卵巣などは残したい」と説明していた。ところが終わってみると、がんが転移していた骨盤内のリンパ節を切除した上、リンパ管にも広がっていたため卵巣も取ったという。浮腫や更年期障害のような副作用が出る可能性がある。医師の判断とはいえ「説明と違う」とショックだった。経過は順調で、予定の1カ月間で退院できそうだった。だが放射線治療を実施することになり、さらに2カ月間、入院を延長することになった。(朝日新聞・患者を生きる・女性と病気・リンパ浮腫 より)

Oct 18, 2011 07:56

留守番電話からの伝言
がん検診をきっかけに、子宮頸がんと診断された大阪府の女性(48)は1999年12月、大学病院で手術を受けた。手術は、15分ほどで終わった。1日だけ休み、仕事に戻った。営業で車を運転するときはおなかに力が入り、さすがに傷口が傷んだが、徐々に病気のことは頭の片隅に追いやられていった。2週間ほどたった。仕事から家に戻ると、留守番電話に、大学病院の医師から何件もの伝言が入っていた。「伝えたいことがあるので、電話をつださい」。仕事が医師がしく、その日はかけ直さなかった。翌日も留守電が入っていた。「これは、かけなあかん」。漠然とした不安を胸にかけ直すと、緊張した口調で医師が告げた。「手術で切った細胞を検査した結果、がんが取りきれていませんでした。もう一度、病院に来てください」。がんの治療は、手術で終り。そう信じていた。「仕事ができなくなったら、どうしよう。今後の生活はどうしよう」。最悪の事態が頭を駆けめぐった。(朝日新聞・患者を生きる・女性と病気・リンパ浮腫 より)
Oct 17, 2011 08:05

多様な働き方の実現を
働き続けるためには、働く人も、企業も、社会も、変わる必要があります。労働者は、働く権利を知ることが大切です。就業時間や休職制度、有給休暇などは会社の就業規則に書いてあります。自分が働いて獲得した権利を知り、会社と対話することが、働き続けるための第一歩です。企業側は、時間とお金を費やして育てた「人財」を、病気を理由に切り捨てないで欲しい。働き続けられる環境を整えて活用する方が、メリットにつながることに気づいて欲しいのです。社会の制度の整備も必要です。イタリアや北欧では、がん患者でも職業訓練を受けられます。米国は、採用時に病歴を聞くことを禁じています。働き盛りの世代には、出産や子育て、介護などさまざまなイベントが起こります。病気もその一つ。多様な働き方を考えることは、がん経験者だけでなく働く人全体の問題です。今こそ、日本人の働き方を考え直す時期だと感じています。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・読者編 より)
Oct 13, 2011 07:55

治療と仕事の両立を目指して
「読者編」の最後に、がんとともに働き続けるための手がかりをキャンサー・ソリューションズ社長の桜井なおみさん(44)に聞きました。患者の就労相談や企業向け講習会などを通じ、治療と仕事が両立できる社会の実現に向け、活動しています。
37歳のときに乳がんがわかりました。当時は設計事務所に勤めており、手術後に復職しました。しかし治療の後遺症でむくみがひどく、長時間パソコンに向かい作業を続けることができませんでした。だんだん会社に居づらくなり、退職しました。辞めて初めて、仕事が自分生きがいだったことに気づきました。私と同じ経験を、繰り返して欲しくない。その思いを胸に、2007年から「がんと就労」をテーマに調査や研究を続けています。2008年にがん患者を対象にインターネット調査をしたところ、4人に3人は「働き続けたい」と希望する一方、3人に1人は転職を余儀なくされていることが分かりました。がんは治ればいいと思われています。でも「診断後をどう生きるか」が大事なのです。働いて社会とつながることは、人としての尊厳そのものです。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・読者編 より)
Oct 12, 2011 08:03

残業を強要されて
連載「トイレマップ」で紹介された高垣諭さんのかつての症状を、今経験しています。カルチノイド腫瘍により、直腸を全摘し肛門を温存しました。1年半ほど前に人工肛門を閉じて以来、排便障害は現在も続いています。今年始めにやっと夜中の排便が軽くなり、睡眠がとれるようになりました。食事すると排便したくなるため、会社に行く前は朝食を抜きます。夕食後は今も、排便が15~30分おきに2~3時間続きます。上司は、毎日数時間残業が必要になる量の仕事を要求します。裁量労働制の給料は、残業が前提というのが上司の考えで、手術前のペースで働けないと出社されても困るそうです。しかし、同じようには働けません。昨秋、無理したところ、体調を悪化させ産業医から警告が出ました。結局、給料が大幅に下がる病欠になりました。病欠期間が終われば、転職さざるを得ないと考えています。それまでに排便の制御ができるように、少しでも体調を改善することが現在の私にできる精一杯のことです。神奈川県・男性・50歳。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・読者編 より)
Oct 11, 2011 07:51

社会全体で考えるとき
3度の手術や40回の抗がん剤治療を経て、復職したばかりです。まさか自分が「がんを抱えて働く」当事者になるとは、想像すらしていませんでした。切実に臨むのは一定期間、同じ職場、同じ職種での短時間勤務を保障する制度の整備です。患者が制度を円滑に利用できるようにするためには、医療者側の理解と協力も欠かせません。ワークライフバランスという言葉が広まり、育児休暇や介護休暇が少しずつ拡大しつつあります。同様に、がん治療と仕事の両立をサポートする仕組みも、積極的に議論されてよいのではないでしょうか。社会とつながっていることは、生活費や医療費などの経済的な問題に加え、闘病生活を続ける上で精神的なプラスの効果も大きいです。患者個人の努力だけだはどうにもならない問題も多くあります。社会全体で考えて欲しいと思います。埼玉県・長谷川美子・53歳。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・読者編 より) 
Oct 10, 2011 08:16

「生きる教材」に
高校の保健体育の教師です。野球部の監督として、部員とともに甲子園を目指しています。5年前、がんの中でもまれな消化管間質腫瘍(GIST)と診断され、小腸の腫瘍の摘出手術を受けました。4カ月後に職場に復帰。1年余りで肝臓に転移しました。抗がん剤を服用しながら仕事を続けましたが、肝臓に再びがんが出ました。当時は3年生の担任でもあり、術後2週間で職場に復帰しましたが、再発などの不安から絶望感でいっぱいでした。そんな時、同じ病気の患者の会の存在を知り、病気と闘う気持ちがわいてきました。今は抗がん剤を飲み、3カ月に一度検査を受け、体育の授業も野球部の指導も続けています。自分に残されている時間がどれだけあるのかわかりません。早期退職も考えました。でも、体が動く限り、生徒たちとのかかわりも、野球もがんばりたいと思います。今の自分にしか伝えられないことを伝えたい。「生きる教材」になれるような教師人生を送りたいです。兵庫県・武田勝・56歳。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・読者編 より)
Oct 09, 2011 08:39

闘病を機に一念発起
会社に勤めていた2005年10月ころ、右の鎖骨の少し上にしこりがあることに気づきました。検査の結果、悪性リンパ腫でした。12月に入院し、抗がん剤治療と放射線治療を受けて職場に復帰しましたが、まもなく再発。腫瘍が骨に転移し、左の上腕を骨折していました。一時は「あと3か月」と言われました。自家末梢血幹細胞移植を受けましたが再再発。幸い臍帯血移植を受けることができ、自宅療養を経て、2010年12月にやっと職場に復帰しました。同僚はみな入れ替わり、なじめませんでした。ある時、「助かったということは、まだやることがあったんだね」と誰かが言いました。「そうだ!せっかくもらった命。これからは人の役に立つことをやろう」と退社。以前から興味を持っていた定時制高校の教師を目指しました。4月から、非常勤で教壇に立っています。勉強できる幸せを生徒たちに伝えていくつもりです。千葉県・男性・56歳。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労 読者編 より)
Oct 08, 2011 08:03

美容師、続けられる幸せ
35歳だった2000年、悪性リンパ腫を発症しました。独立して美容室を始めて4年、順調に売上を伸ばしていました。マイホームに引越し、次男が小学校に入学したころでした。腸間膜のできたリンパ腫が破裂し、緊急手術を受けました。抗がん剤の治療で髪の毛が抜け落ちたときには、「美容師なのに」と、絶望感で間で涙が止まりませんでした。約4カ月後に仕事に復帰。休職中の信用を取り戻し始めた2002年3月、再発がわかりました。幹細胞移植を受け、9カ月後、仕事に復帰できました。でも、9カ月という月日は少し長すぎたようで、元のお店の活気を取り戻すことは難しく、2006年に店を手放しました。今は自宅で小さな美容室を営んでいます。再発の不安はありますが、息子たちの成長と、大好きな仕事を続けられていることに大きな喜びを感じます。埼玉県・水井清美・47歳。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・読者編 より)
Oct 07, 2011 08:02

厨房に立ちたい
2003年8月、集団検診で子宮がんが疑われ、専門医を受診しました。結果は子宮頸がんのステージ3.「摘出さえすれば心配は無く、入院は1カ月くらい」との診断でした。当時、私はカフェレストランのオーナーシェフでした。スッタフに留守を預け、常連のお客様には、「長期研修に参加する」と伝えて入院しました。入院は予想以上に長引きました。子宮内膜症とチョコレートのう腫もあり、子宮と片側の卵巣も摘出しました。細胞診の結果は悪く、抗がん剤だけでは防ぎ切れないため、放射線治療が始まりました。半袖で入院したのに、雪が舞い始めました。「コックコートを着て厨房に立ちたい」と、心の中でいつも叫んでいました。入院中はスタッフが毎日届けてくれる伝票やレシピを整理して過ごしました。12月に入り、主治医に懇願して退院。翌日から徹夜をして、クリスマスケーキを無事に届けることができました。術後3年目に、新たに洋菓子店を開きました。今も年に何度か体調を崩しますが、入院はせず、今日を生きています。福島県・佐原智恵・58歳。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・読者編 より)
Oct 06, 2011 07:26

生きていたい、でも悩む
フルタイムの小学校教師だった2006年、甲状腺がんがわかり、翌年5月に甲状腺の全摘手術を受けました。「早く休んだほうがいい」と話す同僚らの言葉をよそに、入院前日まで仕事をしました。「子どもたちの前にいると、何もかも忘れることができました。「絶対に職場に戻るぞ」と決意して、3週間で職場に復帰しました。復帰後は、1日も休まず働きました。病院へは2カ月に一度、土曜日に通いました。同情や気遣われるのは嫌だったので、子どもや保護者たちに病気のことは告げませんでした。ところが、日を追うごとに手術の後遺症が悪化しました。一日の仕事が終わると、肩から上がガチガチに硬くなり、痛くてたまりません。「このまま仕事を続けて再発、転移したときに、後悔しないか」と考え、悩んだ末、昨年3月に退職しました。今は、小学校の時間講師をしています。5年生存率、という言葉が頭の片隅にいつもあります。手術をしてから満5年は生きていたい。もう一度「正社員」として働きたいという気持ちもあります。どうすることが自分にとって一番いいのか、わかりません。千葉県・女性・54歳。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・読者編 より)
Oct 05, 2011 08:07

自分の体、大事にしたい
2年半前、乳がんになりました。当時はIT関係の会社でシステム・エンジニアとして勤めており、帰宅時間が遅いのが当たり前でした。幸い、上司は非常に理解があり、可能な限り、私の希望を聞き入れてくれましたが、副作用や周囲の迷惑も考え、休職しました。手術後の回復は順調で、無事に復職しました。時間がたつにつれ、周囲は病気のことを忘れ、自分も体力に問題はなく、労働時間が延びていきました。徹夜や休日出勤もありました。でも、再発の心配や、自分の体を守りたいという思いは常にありました。まだまだ生きたい。おばあちゃんになりたいと思っていました。半年悩んだ末、仕事を辞めて専門学校に入り、
Oct 04, 2011 07:42

大好きな仕事、がんで辞職
先日、乳がんの手術を受け、今は抗がん剤治療中です。風呂で偶然胸のしこりに触れ、母親に促されて渋々、病院に行きました。年齢も若いし軽く考えていました。一番の気がかりは仕事でした。大型商業施設の案内係の仕事で、すてきな征服を着て、お客様の案内や館内放送をしていました。以前、正社員の仕事を不景気で解雇され、やっと就けた仕事です。内容も気に入っており、どうしても失いたくありませんでした。でも、ギリギリの人数でスフトをまわしており、派遣社員という立場で、入院や手術、術後の療養などで長い休みをもらうことはできません。辞めざるを得ませんでした。今はがんを早期発見できたことを感謝し、治療に専念しようと思っています。でも、仕事や収入の心配はいずれ、必ず出てきます。休職できるような仕事に就いている若い人って、どれほどいるのでしょうか。熊本県・荒木智瑛・31歳。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・読者編 より)
Oct 03, 2011 08:03

復帰早すぎ傷痕ひどく
多くの方が失職を余儀なくされていますが、「自営業ゆえに休めない」現実もあります。家族で小さな店を営む夫は、2008年2月、たまたま受けた検査でがんが見つかりました。仕事の勤務を調整してすぐに入院。15センチ開腹して肝臓切除手術を受け、5日目に退院するよう言われました。私としてはもう少し休んでほしかったのですが、かないませんでした。夫は退院の翌日から自転車に乗って配達を始め、術儀1カ月もしないうちに20~30キロの荷物を運ぶようになりました。傷痕が盛り上がり、ケロイド状になりました。公務員や会社員の方なら、ゆっくり休めるのにと思うと、自営業の保障のなさが情けないです。2カ月おきの検査や薬剤は高額で、この先、月数万円の国民年金だけではとてもやっていけません。体の続く限り、仕事をしなければならないのです。仕事があるというのはいいことですが、「休まなあかん時」に休めないなんて。あらためて体が資本と思い知らされています。京都府・女性・59歳。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・読者編 より)
Oct 02, 2011 09:17

定年退職後が不安
6年前に慢性骨髄性白血病になり、以来毎日治療薬のグリベックを服用しています。幸い、薬のおかげで普通の生活を続けることができていますが、ネックは薬代があまりに高額なこと。6年前初めて薬代を払うときには我が目を疑いました。今は会社の健康保険組合が負担をしてくれ、個人負担は1回2万円です。でも、昨年9月末に定年退職し、現在の継続勤務も来年10月には終了します。その後は、負担が一気に増える予定で、頭の痛い問題です。連載では、薬代を節約するために2カ月分の処方を受けているとありました。私は3カ月分をまとめて処方してもらっています。しかし、1カ月分の処方しか認めない病院もあると聞きます。負担の重さに耐えかねて、グリベックの服用をやめる患者さんもいるとか。ここにも格差があるのが実態です。大阪府・男性・60歳。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・読者編 より)
Oct 01, 2011 08:04

大切な家族を守るために
現在、がん治療のため会社を休職しています。現役世代の患者にとって、「病気と就労」をどう両立させるかは課題です。病気に専念できるご高齢の方が、少しうらやましいです。私には妻と大学1年生、高校1年生の子どもがいます。治療費のほかに教育費や生活費、住宅費もばかになりません。父親の病気のために、子どもたちに大学進学をあきらめさせたくはありません。現在は、減額された給与と預金の切り崩しでなんとかしのいでいます。今後の課題は、仕事復帰ができず、失職した場合です。失業保険や生活保護では、とても今の生活水準は維持できません。最後の選択肢は、仕事復帰を優先し、場合によっては治療をやめることです。家族を生活保護に巻き込むよりも、現在の生活を維持して2人の子どもたちが大学を卒業するまで、親の責任を果たしたいです。がんになるまで、一番大切なのは「自分の命」だと思っていましたが、もっと大切なものがあることに気づきました。それは、「子どもたち」であり「家族」です。東京都・男性・50歳。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・読者編 より)
Sep 30, 2011 08:59

職場の対応に怒り
4年前に夫を亡くし、仕事が生きがいになってきたころ、肺がんが見つかりました。幸い早期発見で転移はなく、手術を受けました。退院後約2週間で職場に復帰。さあ、頑張って仕事をするぞ、という意気込みは、徐々に失望へと変わっていきました。経営者には、仕事は普通にできると訴えました。でも、入院前に担当していた仕事に戻してもらえませんでした。出勤は週3日、1日5時間ほどに抑えられました。その給料から、フルタイム時と同じ金額の社会保険料が差し引かれ、手元に残るのは2万円足らずでした。昇給と勤務時間の延長を訴えましたが無駄でした。次の勤め先があるか不安でしたが、ここではもう働けないと思い辞めました。悔しさ、悲しさ、苦しさと怒りでいっぱいです。今はこれを転機と捉え、電話相談のボランティアをしながら資格取得の勉強をしています。大阪府・女性・54歳。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・読者編 より)
Sep 29, 2011 08:00

就職で差別、現実知って
32歳で「同時性両側乳がん」と宣告され、抗がん剤、手術、放射線、ホルモン治療とあらゆることをやり、術後1年で骨へ転移。今、術後4年目です。「がんです」と言われた時、派遣社員でした。派遣元と派遣先の上司に手術前の抗がん剤治療で週1日休むが、仕事を続けたいと懇願しました。「休む分残業できますか」と言われ、退職せざるを得ませんでした。治療が一段落して通院回数が減ったころ、ゼロからやり直そうと仕事を探しました。面接まで進んでも、がんの話をすると不採用になりました。病気のことを隠さなければ生きていけないと悟りました。良い薬が開発され、がんではなかなか死なない時代になっても、(患者を支える)制度がついていかなければ、がん患者は経済的に困窮します。頑張って治療しても就職で差別を受け仕事をしたくてもできない。その現実を知ってほしいです。静岡県・女性・36歳。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・読者編 より)
Sep 28, 2011 08:06

手術後の足の機能
ただ、骨肉腫のがん細胞は、骨の外の筋肉や血管などの近くにも広がっていることが少なくない。転移・再発を防ぐため、手術では、わずかな細胞も残さないよう健康な部分で包むように切除する。手術前から抗がん剤治療を行い、骨肉腫を小さくして切除する場合が一般的だ。ひざの人工関節は、体格や残った骨、筋肉の量などに応じて部品を調整する。リハビリでは、手術の数日後から、立ったり、いすに座れるようにひざを90度くらいに曲げたりする訓練を始める。落ちた筋力を戻し、杖がなくても、階段の上り下りや信号が変わる前に横断歩道を渡れるなど日常生活に支障が出ないようにする。けれども、松本医師によると、手術後の足の機能は、がん細胞の広がりで、骨や筋肉などをどれくらい切除するかに左右される。切除する骨や筋肉の量が多い場合は、リハビリをしても、屋外では常に杖が無いと歩けなかったり、ひざを固定する装具が必要だったりする。就職では一般的な事務職は問題ないが、「ひざに過度の負荷がかかる力仕事や、ひざを使った複雑な動きが必要な職業は難しい」と話す。ひざが人工関節の場合、身体障害者手帳を取得でき、障害者雇用保険法に基づく法定雇用枠で就職する人もいるという。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・塚本泰史・右足の闘い・情報編 より)
Sep 26, 2011 08:31

骨肉腫発症 若者が中心
骨肉腫は、骨に最初にできる悪性のがんの中で最も多い。ただ、新たに見つかるのは年間100万人に1人。10台、20代に覆い。最もできやすいのが、塚本泰史選手と同じ大腿骨のひざに近い部分だ。年長者ではしばしば骨盤など手術が難しい部分にできることがある。東京医科歯科大の阿江啓介助教によると、骨肉腫の5年生存率は1960年代は10~20%だったが、70年代に抗がん剤治療が始まると高くなり、この10年は初診時に肺に転移がなければ80%程度だという。MRIなど検査技術が進み、腕や足に骨肉腫ができた場合、切断せずに、がん細胞が広がった骨や筋肉だけを切除することで、長期生存が可能な人が増えた。がん研有明病院の松本誠一・整形外科部長は、大腿骨の場合は現在、95%以上の患者で足を温存できるという。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・塚本泰史・右足の闘い・情報編 より)
Sep 25, 2011 09:28

亡き少女に励まされ
それでも、昨春の出会いから笑顔が絶えなかった。「つらいはずなのに、弱みを見せないなんて」。塚本は心を打たれた。「復帰したら、もう一度、車いすでバスケットをするんだ」。夢を語る彼女に、塚本は「じゃあ、もう一度ピッチに立つよ」と約束した。しかし今年1月、香奈は息を引き取った。まだ、16歳だった。6月、定期検診で、がん研を訪れた。主治医の下地尚医師に改めて「プロとしての運動は難しい」と言われた。だが「納得できるまで、やってごらん」と励まされた。いま、河川敷を自転車で約1時間走り、チームの練習場で汗を流す。右足のマシンの重りは14キロに増え体重も75キロとほぼ戻った。右足で踏ん張れないが軽いパス交換はできる。40秒軽く走り、20秒歩き、40秒軽く走る。走る練習も始めた。あと一歩。でも、その一歩が遠い。契約更改まで半年を切った。「下部リーグでもいい。再びピッチに立ちたい」と思う。「頑張ることは生きること」。香奈が、大好きな歌手への手紙で打ち明けていたと知った。その言葉を胸に、トレーニングに励み続ける。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・塚本泰史・右足の闘い より)
Sep 24, 2011 08:25

リハビリで涙
骨肉腫の治療で、右ひざを人工関節に換えたプロサッカーJ1大宮の塚本泰史は、2011年1月、チームと契約を更新。新たなシーズンに入った。4月から、運動量を徐々に増やした。体重は88キロと15キロ以上増えたが、全身の筋肉は落ちていた。金属製の人工関節は重さ約2キロ。初めは重く感じ、ゴリゴリっという音が気になった。脚力を鍛えるマシンで、1キロの重りも上げられなかった。「何でこんなこともできないんだ」。ピッチに立っていたころを思い出し、なぜ骨肉腫なんかに、なぜ足にと、色々な感情がこみ上げ、涙が出た。そんな時は、がん研有明病院のリハビリ室で出会った、同じ病と闘う子どもたちを思い出し、心を奮い立たせた。その一人が阿部香奈だ。中学校でバスケットボール部だった。3年前の夏、2年生で右大腿骨に骨肉腫が見つかり、人工関節にした。しかし翌秋再発し、足を切断。高校入学後の昨夏には、両肺への転移と2度目の再発が見つかった。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・塚本泰史・右足の闘い より)
Sep 23, 2011 20:59

年内の練習復帰が目標
「もう1年契約します」。両親から聞いた塚本は、うれしくてたまらなかった。今年1月、さいたま市内の事務所で、鈴木社長は塚本と二人きりで会った。「治癒したとチームとして確認できたので契約する。かわいそうだからではない。戦力として考えている」。けれども、次の言葉で塚本の顔から笑みが消えた。「ただし選手登録はしない」。塚本は食い下がった。「戦力として考えているなら、選手登録をしてください」。チームには感謝してもしきれない。ただ、選手として登録され、チームの一員として気持ちよくリハビリに臨みたかった。社長は、がん告白後、全国から支援を受けた塚本に「甘え」が出てはいないかと案じていた。チームとして練習環境は整える。しかし、自分をベストな状態に持っていくリハビリや練習は、だれも助けてやれない。鈴木社長はそう考えていた。「治療より厳しいだろうが、頑張って年内にチーム練習に復帰してほしい。そうしたら選手登録をする」と約束した。塚本は、社長をまっすぐ見つめた。「分かりました。リハビリを頑張ります」。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・塚本泰史・右足の闘い より)
Sep 22, 2011 07:48

契約更改は・・・。
右大腿骨骨肉腫と診断されたプロサッカーJ1大宮の塚本泰史は、2010年12月、通常は1年以上、時間をかける抗がん剤治療を9カ月間で終えた。がん研有明病院の主治医・下地尚医師から人工関節に換えた右ひざを使う本格的なリハビリを許された。ただ、「プロアスリートの激しい動きは難しい」とも言われた。「やっとリハビリができる」。けれど、塚本の心は晴れなかった。Jリーグでは通常、12月初旬までに翌シーズンの契約を結ぶかどうかが決まる。それなのに杖なしでは歩くこともままならない。「契約はダメだろうな」。あきらめかけていた。大宮の鈴木茂社長は契約更改を前に主治医らの意見を幹部を通じて聞いていた。「完璧な治療。人工関節も骨にしっかりなじんでいる」との報告だった。「塚本選手がチームに復帰できれば、他の患者も頑張って治そうという気持ちになる」と主治医が話していたとも聞いた。12月23日、鈴木社長が塚本の実家を訪れ、両親に伝えた。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・塚本泰史・右足の闘い より)
Sep 21, 2011 07:53

さらに追加の抗がん剤治療
手術の1カ月後、最初の抗がん剤治療が始まった。6月末、病理診断の結果が出た。一部に悪性度の高いがん細胞が見つかった。下地医師は、予定より、さらに3回多い抗がん剤治療が必要だと告げた。「終わったら12月だ。間に合わない」。拒む塚本を、下地医師は諭した。「サッカー選手である前に、病気に打ち勝つことが君の使命だろう」。追加の抗がん剤治療が始まった。1回約10日。通常1種類を塚本は2種類。毎日2~3時間、時に1日かけて点滴した。激しい吐き気とだるさに襲われた。支えになったのは、毎日病室を訪ねてくる家族だった。そして、病室の壁を埋めた大宮の仲間やサポーターのメッセージが書かれた旗やユニフォーム、3万羽以上の千羽鶴を見て、弱る気持ちを元気づけた。12月。通常1年はかかる抗がん剤治療を9カ月間で終えた。だが、松葉杖で歩くのがやっと。「契約更新はないだろう」。半ばあきらめかけていた。年が明けた1月、大宮の鈴木茂社長(58)と会い、契約について話す日が来た。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・塚本泰史・右足の闘い より)
Sep 20, 2011 07:40

説得され抗がん剤治療
右大腿骨に骨肉腫が見つかったプロサッカーJ1大宮の塚本泰史は2010年3月10日、がん研有明病院(東京)で手術を受けることになった。主治医の下地尚・整形外科副部長(48)のチームは、手術前の検査で肺などへの転移がないことを確認した。骨肉腫は最長で16センチにわたった。転移を防ぐため、数センチ余裕を持たせて大腿骨を切断した。すねの骨の上部も切り、ひざを金属製の腫瘍用人工関節に置き換えた。術後の病理診断の結果には2、3カ月かかる。MRIの画像などから、悪性度が高い可能性も捨てきれない。下地医師は「念のため、抗がん剤治療をしたほうがいい」と提案した。1年から1年半かけて、計6~9回の抗がん剤治療を行うという。「年末の契約更改までに復帰のめどが立てられない」。塚本は断った。下地医師は説得を続けた。「とりあえず3回やろう。検査で悪性度が低いと確認できたらやめる」。塚本の思いをくみ、通常の2カ月おきの間隔を1カ月半に短縮することに。塚本も「命にかかわることだから」と折れた。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・塚本泰史・右足の闘い より)
Sep 19, 2011 09:08

気持ち切り替え手術決意
姉の恭代(31)は、専門外だが著名な脳神経外科医のサイトを見つけ、メールで相談した。しかし、いずれも答えは「手術し人工関節に」だった。2月5日、都内の別のがん専門病院を最後に、塚本は心を決めた。決断を前に、兄の浩史が話したことがあった。「人工関節でのプレーは、俺も危ないと思う。でも、夢を追い続けたからこそプロになれた。あきらめないでほしい」。社会人サッカーのクラブチームでプレーする自分だけが、分かってやれると思ったからだ。「結果的に無理だったとしても、ここまで頑張ったという気持ちになれるなら、再びピッチに立てる可能性が1%でも、0.5%でも応援し続けるよ」。塚本は気持ちを切り替えた。「無理だと言われても、やってみないと分からない。人工関節でピッチに立った前例がないなら、自分が最初になろう」。3月、全国最多クラスの骨肉腫の治療経験がある、がん研有明病院(東京)での手術が決まった。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・塚本泰史・右足の闘い より)
Sep 18, 2011 07:50

どう慰めていいのか
2010年1月下旬、サッカーJ1大宮の塚本泰史は右大腿骨の骨肉腫と診断された。がんを骨ごと取り除き、ひざは人工関節に換える治療が必要で、もうサッカーはできないと医師に告げられた。ショックで、ただただ、泣くばかりだった。東京医科歯科大の阿江啓介医師は、納得して手術できるよう、他の病院でも話を聞くことを勧めた。「どれくらい時間の余裕はありますか」。父・繁(56)の問いに、「3月中旬くらいまで」と話した。検査で入院していた塚本は、家族と埼玉県川口市の実家に戻った。家に着いても、誰も一言も話さなかった。「どう慰めていいのか」。繁は、言葉が見つからなかった。その夜。「大丈夫だ。なんとかなるよ」。リビングに戻ってきた塚本が、自らに言い聞かせるように口にした。繁は、つかの間だが救われる思いがした。その一言で少しづつ、家族に会話が戻った。次の日から、みんなで別の治療法を探した。インターネットで病院を検索し、電話をかけた。診断書や画像を手に、一緒に群馬や東京など4~5カ所の医療機関を回った。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・塚本泰史・右足の闘い より)
Sep 17, 2011 07:52

骨肉腫で人工関節に
1月22日、最終的な病理検査の結果が出た。「悪性度の低い骨肉腫」だった。翌23日、塚本は両親、兄、チームドクター、トレーナーらと診察室に呼ばれた。阿江医師の暗い表情に不安を覚えた。「骨肉腫でした」。骨を切り取るので、ひざを人工関節に換える必要があること、激しい運動をすると、つなぎ目で折れたり、骨が削られて人工関節が緩んで早く再手術が必要になったりする可能性があるといった説明が続いた。「サッカーは、もうだめですか」。そう尋ねるのがやっとだった。しかし返ってきたのは「ゼロに近い。プロとしては難しい」という言葉だった。「俺の足は移植できませんか。俺の骨をあげたい」。とっさに社会人サッカーで活躍する兄・浩史(29)が尋ねたが「無理です」との答えだった。サッカーができなくなるなんて、考えもしなかった。「夢じゃないのか」。塚本はシャツを頭上にたぐり寄せて泣いた。その後のことは、覚えていない。17センチの体を兄に預け、肩を抱かれながら診察室を後にした。診察室を出ると、母・正美(56)は待っていた姉と抱き合って泣いた。父がトイレで泣いていたことは、後から知った。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・塚本泰史・右足の闘い より)

Sep 16, 2011 07:33

ひざに痛み 相談せず試合に出続けた
3年目に入った2010年正月3日。出身高校のサッカー部で初蹴りがあり、紅白戦の最中にみ右ひざに痛みを覚えた。夜になっても、痛んだままだった。前年の夏から痛みはあったが、つかみかけたレギュラーの座を失いたくなかった。だれにも相談せず、試合に出続けていた。翌日、Jリーグの選手登録に必要な健康診断を受けた。その後、「ひざが・・・・」とチームドクターの池田医師に相談した。池田医師が右ひざに触ると少し腫れていた。MRIを撮るとひざの上の大腿骨に細長い楕円形の黒い影が写っていた。「骨肉腫かもしれない」。そう疑ったが、塚本には黙っていた。すぐに、提携先の東京医科歯科大(東京)の整形外科助教で、骨肉腫に詳しい阿江啓介医師(43)に、画像をメールで送った。「詳しく調べるべきだ」。画像を見た阿江医師は、池田意思の電話に答えた。3日後、訪ねてきた塚本に「慢性骨髄炎の可能性が高いが、骨肉腫の疑いもある。細胞を取って検査する必要がある」と話した。塚本は、骨肉腫という病気を、その時、初めて知った。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・塚本泰史・右足のy闘い より)
Sep 15, 2011 07:26

骨肉腫の診断
2010年2月、プロサッカーJ1大宮アルディージャの塚本は記者会見に臨んだ。右ひざが痛み、検査をすると、大腿骨に骨肉腫があると診断されたと発表した。骨肉腫は骨のがんだ。悪い部分を骨ごと切り取り、ひざを人工関節に換えると説明した。「サッカーは無理だと言われました」。そう口にした瞬間、涙がこみ上げた。「復帰は難しいのか」。メディアからの質問に、同席したチームドクターの池田浩夫医師(51)が「激しい運動は好ましくない」と答える声が聞こえた。陰で、泣きじゃくりながら絞り出すように誓った。「大好きなサッカーを、選手として続けられるようがんばりたい。同じ病気の人に勇気を与えたい」。三つ上の兄を追うように幼稚園からボールを蹴り始めた。大宮入団後の背番号は「2」。精度が高いフリーキックが持ち味で、右足から繰り出す「無回転のブレ球」のキレはチーム1.周囲の期待も高かった。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・塚本泰史・右足の闘い より)
Sep 14, 2011 07:22

専門科受診で早期回復
精神腫瘍外来を開設している聖路加国際病院(東京都)が、昨年4月~12月に精神療法を中心に治療を受けた100人を分析したところ、約3割の患者が1~2カ月の短期間で治療がいらなくなるまで改善した。保坂隆・精神腫瘍科医長は、「うつ状態や不安の原因がはっきりしているので、対処法を提案したり悩みを聞いてあげたりすることで、早期回復することが多い」と話す。ただ、精神科や精神腫瘍科の受診に抵抗を感じる人も少なくない。岡山大学の内富庸介教授(精神神経病態学)は「心の問題は患者の尊厳にかかわので、受診の勧め方やかかわり方は難しい」と話す。精神科医への受診には抵抗があると感じる場合、がん診療連携拠点病院にある相談支援センターを利用する方法もある。看護師やソーシャルワーカーらが様々な相談に応じている。国立がん研究センターの「がん情報サービス」(http://ganjoho.jp/public./index.html)で、病院名を検索できる。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・心の痛み・情報編 より)
Sep 13, 2011 07:41

がん患者の悩み
「何かの間違いではないか」「ショックで家から出られなくなった」・・・・。厚生労働省研究班が、がん体験者約8千人の声を集めたところ、再発や死への恐怖など、悩みの半数は心の不安に関するものだった。国内外の研究によると、がん患者の約6人に1人がうつ病、6人に1人が適応障害に悩むという。うつ病になった場合、治療に積極的になれないなどの影響が出るため、早めに心の痛みを取り除くことが必要だ。がん患者の心に与える影響を研究する学問は、サイコロジー(心理学)とオンコロジー(腫瘍学)からなる造語でサイコオンコロジー(精神腫瘍学)と呼ばれる。日本サイコオンコロジー学界によると、精神腫瘍カを掲げる病院は、標準的ながん治療を行える「がん診療連携拠点病院」(388施設)を中心に、約40カ所ある。治療は、抗うつ剤や抗不安薬を飲むなどの薬物療法や、精神療法が中心だ。精神療法には、「2割も再発する」ととらえるのでななく、8割は再発しない」と考え方を修正する認知行動療法などがある。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・心の痛み・情報編 より)「
Sep 12, 2011 08:14

諦めていた子ども授かった
闘病を乗り越えられたのは、仲間や家族のお陰。節目の場で、感謝の気持ちを伝えたかった。告白で、一区切りがついた。「やりたいことを、やれるときにやろう」と心に決めた。大学院で学ぶという学生時代の夢に挑戦してみた。専攻は生物工学。試験に合格し、自己充実休暇を取ることにした。直後、妻妊娠がわかった。精子の凍結保存の機会を逃したため、子どもはほとんどあきらめていた。「学校の生徒たちが、かわいいわが子だ」と、自分を慰めた時期もあった。妻も自分も、うれしさよりも驚きが先にたった。手術から5年が経過していた。2008年に長男、昨年夏には長女が生まれ、4人家族になった。「この子たちを、守り続けねばならない」。患者同士が交流できる場を作ろうと、ネット上に、精巣がんの患者会も立ち上げた。会員には大学に入りたての人もいれば、患者の母親や妻、彼女もいる。ネット上で悩みを相談するだけでなく、年に数回は食事会で会い、励ましあう。「自分がつらいとき、相談できる場が少なかった。その経験が他の人の参考になれば」。その輪は、250人に広がった。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・心の痛み より)
Sep 11, 2011 07:27

学級担任に復帰
2002年に精巣がんの手術を受け、半年後に職場復帰した東京都の私立学校教師の男性(37)は、完全復帰するまで1年近く、短時間勤務で働けた。学校の理解も大きかった。ただ、適応障害と診断され、抗不安薬は手放せなかった。薬を飲むと眠くなり、仕事への集中力が落ちた。だが飲む量を急に減らすと幻覚が出ると聞き、また不安になった。結局、1年近くやめられなかった。念願の学級担任に復帰したのは、完全復帰から2年を経た2006年春だった。同時に、闘病後に知り合った同僚(32)と結婚した。最初の食事で病気の話をして、結婚するにあたり、「子どもができないかみしれない」と告げた。妻は「2人で生きていくのも構わない」と思った。精巣がんと闘う「戦友」を訪ねる旅にも、一緒にでかけた。結婚式には、戦友の1人も呼んだ。親しい友人や当時の職場の同僚にしか伝えていなかった闘病経験を、式の2次会で、初めて告白した。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・心の痛み より)
Sep 10, 2011 07:43

同病の患者と交流したい
2004年4月に完全復帰を果たした後も(腫瘍マーカーは)正常値に戻らなかった。精巣がんは、他のがんと異なり20~30代の若い患者が多い。同世代に悩みを理解されず、孤独に陥る患者も少なくない。男性も入院時にがんと闘う友人はできたが、同じ病の人には出会わなかった。初めて同じ精巣がん患者と会ったのは、ネットを通じて知り合った埼玉県の年下の男性だった。健康食品を交換し合い、彼の退院時には焼肉で祝った。数カ月後、職場復帰したはずの彼に年賀状を送った。年賀状の代わりに、メールが送られてきた。肝臓への転移がわかり、余命わずかだという。その後、連絡は途絶えた。帽子をかぶり笑顔で手を振っていた彼を思い出し、一人、部屋で泣いた。もっと同じ病の患者と交流し、支え合いたい。そう思い2004年夏にホームページを立ち上げると、神奈川県の会社員(36)からメールが届いた。術後に再発を経験していた。実際に会うと、初対面で意気投合、飲み屋を3軒ハシゴした。肩を組んで渋谷の繁華街を歩いた。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・心の痛み より)
Sep 09, 2011 09:03

復職、再び教壇に戻るが・・・。
2002年に精巣がんがわかり、左の精巣を摘出した東京都の私立学校教師の男性(37)は退院後、強い不安感に襲われた。精神科で適応障害と診断され、抗不安薬を処方された。休職のまま新年度を迎えた。4月のある日、復職時期や条件について相談するため学校に出向いた。「授業がある時間だけ出勤すればいい」という上司の言葉に甘え、5月の連休明けから教壇に戻った。1学期は、週4時間の理科の授業だけ、2学期は週12時間と、徐々に体を慣らしていった。時間があいているときは、おいっ子と遊んだ。おいっ子と過ごすと「自分は結婚し、子どもを持てるだろうか」と不安になった。精子を凍結保存できることを知らなかったとはいえ、保存しなかったことを悔やんだ。一方、闘病を支えてくれた彼女とは、徐々に疎遠になった。彼女は就職したばかり、男性は病との闘いに精一杯で、お互い余裕がなくなっていた。職場復帰後も、月に1度は病院でCT検査と採血をした。画像は「異常なし」が続いたが、腫瘍マーカーの値が下がらない。毎月、値に一喜一憂した。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・心の痛み より)

Sep 08, 2011 08:00

不安募り「適応障害」に
自分がいなくても、学校は回っている。社会に必要とされていないのか。電車や車を見ると「自分なんて、ひかれてしまえばいい」と自暴自棄になった。退院から20日。焦りと不安はピークに達した。「精神状態がおかしい」。何としても安定させなければと、近所の精神科クルニックに駆け込んだ。カウンセラーが優しく自分の不安を聞いてくれて、大泣きした。医師の診断は「適応障害」。がんと治療のストレスを受け止められず、抑うつや不安などの症状が出ていた。抗不安薬が処方され、心が少し軽くなった。セカンドオピニオンも取ることにした。「経過観察で」という主治医の方針は自分にとって最良の選択なのか。病理やCT検査の飼料を貸し出してもらい、別の総合病院に行った。しかし、長く待った割りに対応は素っ気無く、最終的には主治医を信頼することにした。気がつけば、卒業シーズン。自分が授業を受け持った生徒を見送れない寂しさが募る一方、「こんなに休んだらクビになる」と、びくびくしていた。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・心の痛み より)
Sep 07, 2011 07:38

退院し、自宅療養に入ったが・・・。
2002年11月に精巣がんの手術を受けた東京都の私立学校教師の男性(37)は、約3カ月ぶりに退院し、自宅療養に入った。腫瘍マーカーの値が下がらなかったが、主治医の原田昌幸医師(47)らの判断で、経過をみることになった。検査のため社会保険中央総合病院に行く以外は、都内の実家か一人暮らしのマンションで過ごした。闘病記録を作ったり、精巣腫瘍に関するウエブサイトを読みあさったり、。同じ病の患者の闘病記に一喜一憂し、自分の知らない治療法に出会うと、「そちらの方が良かったのでは」と動揺した。寝る前になると、心臓の拍動が急に激しくなり、手ががたがたと震えだした。正しい治療法なのか、微熱はがんの再発でなないのか。身近に不安を打ち明けられる相手がいなかった。病院に電話して、同年代の看護師に分30分ほど話あいてになってもらったこともあった。ほぼ毎日のように、同僚や友人が見舞いに来てくれた。つい仕事が気になり、学校での出来事を聞いてしまう。生徒の進路や新学期の人事の話を聞き、余計に落ち込んだ。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・心の痛み より)
Sep 06, 2011 08:49

聖夜も正月も82日間入院
入院中は、毎日のように彼女が見舞ってくれた。学校の上司も「若いんだから、完全に治してから出勤を」と繰り返し、休職規定など説明してくれた。生徒たちからは、「早く元気になって戻ってきて」という寄せ書きや、千羽鶴が届いた。生徒たちの思いが嬉しく、病室で涙があふれ出した。それでも、心細さは消えなかった。都内の実家を離れ、一人暮らしを始めて3年目。ろくに実家に帰ることがなかったのが毎日、病院の公衆電話から家族の声を聞いた。手術した日、2歳上の兄に初めての子どもが生まれた。男性の快復を願い、男性の名前の一文字を入れて命名したと聞き、胸が熱くなった。折々、外泊は認められたが、クリスマスイブも正月も病院で過ごした。「新しい年はどう過ごしているんだろう」。病室でそんなことばかり考えた。2008年2月1日。82日間の入院生活に、ようやく別れを告げた。病院の休憩所などで仲良くなった患者仲間が、タクシー乗り場まで見送ってくれた。退院できる、喜びをかみしめた。だが、孤独と向き合い大変なのは、これからだということに、まだ気づいていなかった。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・心の痛み より)
Sep 05, 2011 09:02

精巣がんと診断
2002年11月、精巣がんと診断された東京都の私立学校教師の男性(37)は、9日後には社会保険総合中央病院(東京都新宿区)で手術を受けた。直径8~9センチまで腫れていた左の精巣を摘出した。病理検査の結果、放射線治療があまり効かないタイプと分かった。周囲のリンパ節にも転移していて、抗がん剤治療をすることになった。治療で3か月ほど入院が必要と言われ、激しく落ち込んだ。精子を作る機能に障害が出るタイプの抗がん剤も使うという。学級担任として、3学期には授業に戻れると思っていた。漠然とだが、つきあっていた彼女との結婚も、子どもと暮らす将来も、頭の中にあった。ただ、「放っておけば命にかかわる」と説明されると、選択の余地はなかった。12月から3種の抗がん剤治療が始まった。白いご飯の匂いを「臭い」と感じ、食欲不振や吐き気に襲われた。脱毛に備え、あらかじめ5分刈りにしたが、残っていた毛髪もシャワーのとき、ゾリッという感触とともに全て流れた。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・心の痛み より)
Sep 04, 2011 07:35

29歳、人生終わるのか
選んだのは社会保険中央総合病院(東京都新宿区)。受診のときには、つきあっていた8歳下の彼女が付き添ってくれた。診察室で超音波検査を受けると、女性医師の顔が曇った。左精巣の断面の組織が均一でなく、精巣腫瘍の疑いがあるという診断だ。腫瘍マーカーの三つの値はいずれも正常値から大きく外れていた。「すぐに入院の準備をしてください」。医師の説明の途中から、涙で周囲がかすんできた。診察室を出ると、すぐに勤務先の学校に電話した。「精巣がんかもしれません」。言いながら、号泣していた。帰り道、乗り込んだタクシーの車内ラジオから流れてきたのは、がんの話題だった。涙が止まらなくなった。1週間後に入院。やはり精巣がんだった。CT検査では、腫瘍の大きさは2センチほどで、周囲のリンパ節にも転移があるようだった。俺は、いつくなのだろう?まだ29
歳だ。人生、終わってしまうのだろうか。教壇に再び立てるのだろうか。ぼんやりと、自問した。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・心の痛み より)
Sep 03, 2011 08:01

身体に異変が
「なんか、大きくなっているのかな」。シャワーを浴びたとき、何となく触れた左の睾丸が腫れていた。東京都の私立学校教師の男性(37)が、身体の異変に気づいたのは、9年前の夏の終わりのことだった。当時は中学生の学級担任に加え、理科の授業、軽音楽部の顧問と忙しかった。合間を縫って自宅近くの病院に行くと、医師は患部に全く触れることなく、尿路結石と診断した。処方された鎮痛剤が切れると激痛が走り、職場を相対することが多くなった。睾丸はだんだん膨らんでいき、気がつくと野球ボールほどの大きさになっていた。下着を着けてスーツを着ると以外に目立たなかったが、激しい痛みで歩くのも大変になった。11月はじめ、我慢できずに早退し、10キロほど離れた自宅まで、タクシーで帰った。座ることすらつらく、後部座席に横たわっていた。限界だった。「早く石の破砕手術をしてもらおう」と、インターネットで泌尿器科に強い病院を検索した。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・心の痛み より)
Sep 02, 2011 07:50

海外はシャント法が普及
簡単に習得できる「電気式人工喉頭」という方法もある。しかし、電気ひげそり器のように振動する機器を首に押し当てるため、音質が機械的になってしまうという欠点があるという。一方で、発声教室が充実していない海外では「気管食道シャント法」が普及している。気管と食道の間に特殊なチューブを入れ、永久気管孔を指でふさげば、呼気を口から出して声を出すことが可能だ。肺の空気を使うので、発声時間が長く、声量も大きい。摘出手術後も適応可能で、特別な訓練なしに声を出せるという。現役世代の場合、仕事を休んで発生教室に通うことは難しい。早く復職したい、食道発声が習得できないなどの理由でシャントを希望する人もいるが、問題は維持費だ。永久気管孔に付けるカセットの費用など、自己負担は毎月1~2万円。挿入したチューブは3カ月に1度は交換するため、公的医療保険の3割負担でも1万5千円前後かかる。欧州では焼く9割の患者がシャントで話しているが、日本は数%にとどまるという。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・声を取り戻す情報編 より)
Sep 01, 2011 08:04

食道発声法
喉頭を摘出すると声帯がなくなり、呼吸の通り道も切断されてしまう。新たに声を出す手段を得るため、多くの患者が「食道発声法」を訓練する。呼吸は首に穴を開けた永久気管孔で行うため、肺の呼吸を口から出すことはできない。そのため、空気を食道に取り込み、吐き出すときに、食道の粘膜を振動させて発声する。慶応大学病院リハビリテーション科の言語聴覚士、羽飼富士男さんは「若い人や、術後でも食道などが柔らかい人は習得しやすい」と話す。早ければ半年で話せるが、どうしても習得できない人もいるという。病院のリハビリ期間中に習得できなかった場合、各地の患者団体が開く発声教室に通うことになる。1954年に設立された銀鈴会(東京)では、現在約200人が指導を受けている。1年程度でコミュニケーションが取れるようになるといい、新美典子会長は「8割の方が成功しています」。日本喉摘者団体連合会のホームページ(http://www.nikkouren.jp/)で、全国の教室を調べることができる。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・声を取り戻す より)
Aug 31, 2011 07:21

手術前より笑顔が増えた
退院予定までの10日間は、より明瞭に話すための訓練が行われた。リハビリテーション科の言語聴覚士、坪井郁枝さん(27)から課題も与えられた。「発声するときに気管孔の雑音を下げましょう。あとは声量を上げることですね」。これまでは息を吐きながら発声していたため、同じ感覚で話そうとすると、永久気管孔から「ヒュー、ヒュー」という雑音が出てしまう。空気を取り込む量を増やそうとすると、力んでいたことに気づいた。意識せず空気を取り込み、吐き出すときに少し頭を左側に向けると、雑音が減り、声量も増えた。約1カ月の入院生活を終えた台さんは、翌日から店に立った。久しぶりに来店した顧客から「あれ声どうしたの」と質問攻めにあっても、「喉頭がんで、声帯、取っちゃった」と笑い飛ばした。電話で仕事の話もできるし、趣味のバドミントンと軟式野球も続けている。抗がん剤を飲んでいるため毎月の通院は欠かせないが、手術前より笑顔が増えたと妻(43)は感じている。「告知のとき、少し、落ち込んだだけ。落ち込んでも、よくならない、からね」。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・声を取り戻す より)
Aug 30, 2011 08:01

自主訓練
2009年12月に喉頭の全摘手術を受けた台一宏さん(59)は、入院中から慶応大学病院リハビリテーション科で食道発声の訓練を始めていた。初日から食道に空気を取り込み、発声しやすい母音を出せた。2日目には「あお」「いえ」など、母音が二つ続く単語も発声。空気の摂取量も増え、「たまご」「さかな」など、母音より発声が難しい子音が三つ続く単語も話せてしまった。進歩が早かったのは、自主訓練のたまものだった。入院中は午前に1時間、午後に20分の訓練を受けていたが、廊下を歩きながら食道発声を繰り返し、病室に戻ると新聞や雑誌を音読。3日目の訓練を前に、日常会話に不便しない文字の単語を話せるようにもなった。退院前に食道発声が使いこなせる患者は少ない。患者会の発声教室で習得するのが普通だ。「でも、おれには、教室に、行く時間が、ないから」。店を1人で切り盛りする台さんは、これ以上、仕事を休むわけにはいかなかった。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・声を取り戻す より)
Aug 29, 2011 07:46

「あっ」と発声 結構いい
失った声を取り戻すため、台さんは食道発声法を習得することになっていた。リハビリ初日は、食道に空気を取り込む訓練から始まった。リハビリテーション科の言語聴覚士、羽飼富士男さんから「吸気注入法」を教わった。「気管孔から息を吸うことで肺と一緒に食道も広がります。息を吸いながら広げるように、舌の根元を食道に押し込むようにして、空気を取り込んでみてください」。普段は、意識して食道に空気を取り込むことはない。だが、カエルの声をまねていた小学生の頃を思い出して、グッと空気を取り込んでみた。あれ、入っちゃたよ。自分でも驚いた。「そもまま『あ』と言ってみましょう」。口を大きく開けて空気を吐き出した。「あっ」。空気を取り入れては、母音を一言づつ出してみた。「いっ」。「うっ」。「えっ」。「おっ」。結構いいんじゃないの。表情が和らいだ。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・声を取り戻す より)

Aug 28, 2011 08:33

「ヒュー、ヒュー」と、のど元から風
喉頭がんになった東京都の台一宏さん(59)は、2009年12月に喉頭摘出と周囲のリンパ節を掃除する手術を慶応大学病院で受けた。呼吸の通り道である喉頭が無くなったため、首に開けた永久気管孔から息を吸うようになった。全身麻酔から目覚めた台さんは、のど元に手を近づけた。「ヒュー、ヒュー、ヒュー」。なま暖かい風をかすかに感じた。その手を鼻と口先に向けてみると、今度は何も感じない。喉頭を取るってことは、こういうことなんだ。今はもう、声がでないってことか。はっきりしない意識の中で、現実を知った。翌日は腕を上げる運動神経が傷ついていないか、両腕を上げてみた。ゆっくり動かすと、頭上へまっすぐ伸びていった。店の棚に積まれた建築資材を取れなければ、仕事を続けることは困難だ。今まで通りの生活が送れるとホッとした。好きなバドミントンと軟式野球チームにも、ほどなく戻れそうだ。入院中から腹筋やスクワットを繰り返し、体力の低下を予防した。2週間ほどで食事ができるようになると、代用音声の訓練が始まった。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・声を取り戻す より)
Aug 27, 2011 08:05

永久気管孔から呼吸
喉頭を取ると声帯がなくなり、今まで通りには話せない。呼吸も鼻や口からできず、首に開けた永久気管孔から行うことになる。そこで、空気を口から食道に入れ、吐き出すときに食道入り口の粘膜を声帯代わりに振動させて発声するという。発声源は食道のため、ゲップのような音に近い。しかし、胃の中まで空気を取り込んでしまうと、自由に出し入れしにくいことから、何年かかってもできない人もいるという。「こんな感じですか」。台さんは空気を軽く取り込み、吐き出した。「あっ」。「いっ」。「うっ」。「えっ」。「おっ」。小学生の頃、「カエルみたいな声だろ」と、ふざけてやっていたことを思い出していた。まだ喉頭を摘出していなかったため、羽飼さんは「空気の取り込み方が食道発声とは少し違いますが、スムーズに空気を食道に入れられれば、習得は早いですよ」と話した。術後の状態がよければ、短期間で習得できそうだと期待を寄せた。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・声を取り戻す より)
Aug 26, 2011 08:25

生きていくため全摘即決
東京都で建築資材を扱う店を営む台一宏さん(59)は、2009年11月慶応大学病院で喉頭がんと告知された。耳鼻咽喉科の主治医、斉藤康一郎さんが治療方針を説明した。がんの状態は4段階のうち、少なくとも3段階まで進行していること。放射線など喉頭を残す治療を選ぶより、全摘の方が治る確率が高いこと。その代わり、普通の発声はできなくなること。妻(43)と、高校生の娘、中学生の息子の3人を養わねばならない。声を失うより、これから生きていく方が大事だ。即決で摘出手術を了承した。「でも、店を休まなくちゃいけないのには参ったな」。12月中旬に入院し、退院まで1カ月かかる見通しだった。年末年始に仕事ができないため、入院直前まで、棚卸しなどに追われた。入院当日、筆談が必要になるだろうと、妻が買い集めた何種類ものノートがカバンに入っていた。妻の思いとカバンの重みを感じながら手続きを終えると、早速、リハビリテーション科の言語聴覚士、羽飼富士男さん(53)が、術後のリハビリについて説明した。「食道発声法」を訓練するという。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・声を取り戻す より)
Aug 25, 2011 08:15

腕が上がらなくなる恐怖
検査結果が出る前日。同じ町内で八百屋を営んでいた知人を訪ねた。喉頭がんになり、5年前に全摘手術を受けていた。「ごめん。おれも同じかもしれない。どんな感じになるか、いろいろ教えてくれないかな」。会話は筆談で行い、ノートに書き込んでもらった。「においが分かりにくくなる」。「鼻fがかめない」。「お風呂に肩までつかれない」。台さんも疑問をぶつけた。「仕事でシンナーを扱うけど、のどの穴は大丈夫かな」。「もし渓流釣りで川に落ちて、穴から水が肺に入ったら?」。知人は、首の近くを通る運動神経が手術で傷つき、腕が肩より高く上がらなくなったことも打ち明けた。長年続けてきた八百屋をたたんだのは、野菜や商売道具を運べなくなったのが理由という。台さんの店の棚にも、数十キロに及ぶ重い資材が所狭しと積まれている。腕が上がらなくなれば、仕事を続けることは難しい。趣味のバドミントンや軟式野球だってできないだろう。そうなることが一番、怖かった。翌日、診察室で告知された。喉頭がん、だった。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・声を取り戻す より)
Aug 24, 2011 08:18

悪性のため喉頭全摘出
東京都の台一宏さん(59)は2009年10月、慶応大学病院に入院した。喉頭がんの検査は、喉頭と周囲の組織を全身麻酔で採取する。4日間の入院が必要だった。入院中は、建築資材を扱う自分の店を休業することも考えた。しかし、なじみの大工などの要望に応えられるよう、不在の間は顧客をよく知る母親(82)に店番を頼むことにした。検査が終わった夜、主治医の斉藤康一郎さんから告げられた。「悪性で、進行している可能性が極めて高いです。根治を目指すには、喉頭すべてを摘出するのが望ましいと思います」。喉頭は「のど仏」の部分にある。鼻や口から肺につながる空気の通り道で、食べ物の通り道を分かれるところだ。声は喉頭にある声帯を震わせてつくるため、喉頭を摘出すれば声を失い、空気の通り道も分断される。手術でのど元に永久気管孔という穴をつくり、呼吸することになる。それでも、台さんが動揺することはなかった。悪いところは全部取っちゃえばいい。声を失うことに、恐怖はなかった。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・声を取り戻す より)
Aug 23, 2011 08:41

悪性腫瘍の疑いが・・・。
とにかく検査に行ってくれと言われるほど、不安なことはない。「おれ、悪い病かな。ひょっとするとやばいかも」。これまでの生活習慣で、のどに負担をかけていたとすれば、たばこぐらいだ。38年間、毎日1箱は空けていた。若い頃は大酒を飲んでいたものの、年を重ねるごとに酒量は減っていた。もしかして、がんかもしれない・・・・。前向きな性格の台さんですら、ちょっと心配になった。病院に行ったことを黙っていた妻(48)に、声をかけた。「何か、おかしいらしい。大学病院で診てもらうことになったから、一緒にいかないか」。3日後には、慶応大学病院(東京都)の耳鼻咽喉科を受診。喉頭ビデオスコープに加え、発声中の声帯の振動状態を観察できる内視鏡検査も受けた。左右にある声帯のうち、左側の声帯が動いていなかった。診察した斉藤康一郎さんは考えられることを率直に話した。「肉眼的には、悪性腫瘍の疑いが極めて濃いです。組織を採って、病理学的にきちんと見極めましょう」。4日間の検査入院が、その場で決まった。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・声を取り戻す より)
Aug 22, 2011 07:59

のどに異変、声がれも
東京都中野区の「丸市商店」は、建築資材を扱って60年以上になる。台一宏さん(59)が、脳梗塞で倒れた父親のあとを継いで2代目となったのは、38歳のときだった。当時は鉄工所に勤めていたが、子どもの頃から手伝ってきた店をたたむわけにはいかなかった。1人で店を切り盛りしていた台さんが、のどの異変に気づいたのは2009年9月のこと。のどの違和感だけでなく、前日まで何ともなかった声の変化にも気づいた。「あれ、いつもと違う。何かおかしいな」。せき払いをしても変わらない。近所つきあいのあった知人に相談すると、耳鼻咽喉科で診てもらいことを勧められた。声がれに戸惑いつつ、仕事の合間に総合病院を受診。直径3センチほどの喉頭ビデオスコープを鼻から挿入された。ビデオの加増を見た医師から、思いもよらない言葉を耳にした。「大学病院を紹介するので、すぐに行ってください」。耳鼻咽喉科の医師は、病名を口にはしなかった。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・声を取り戻す より)
Aug 21, 2011 09:14

就労体験など公的支援必要
新潟県立がんセンターの浅見恵子小児科部長が、同じ厚生労働省研究班で、就職時に健康診断書の提出が必要か、上場・未上場計4500社(回収率)に調査すると、上場企業の85%、未上場の76%が必要と答えた。既往症の記載が、採用や配置などへの対応に「まったく関係しない」と答えたのは、上場38%、未上場47%だった。経験者の場合は、主治医に既往症を書いてもらう際、「既往症の完治あるいは一般業務に支障なし」と書き添えることが必要と、研究班は報告書で指摘した。米国では法律で、就労に際し、一時的に特別な配慮が必要な人の対象に、がん経験者も入っているという。石田さんは「日本でも企業が仕事に慣れるまでの期間を設ける配慮や、特に小児がん経験者の場合は就労体験を積む場を設けるなど公的な支援が必要だ」と話す。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・小児がん・情報編 より)
Aug 20, 2011 07:24

仕事や対人関係が心配
15歳以下の小児がんは、年間2千~2500人が新たに発症する。大人と違い、白血病、脳腫瘍、リンパ腫で半分以上を占める。聖路加国際病院小児科の石田也寸志医長によると「小児がん全体の5年生存率は現在7~8割だ。しかしその事自体、知られていない」。長期生存が可能になったことで、時間の経過や成長に伴って「晩期合併症」が出る場合があることが分かってきた。低身長や肥満、やせなどの成長発育障害、成長ホルモンなどの内分泌障害、2次がんなどだ。石田さんが主任研究者を務める厚生労働省研究班が2008年度、小児がん経験者に生活の質や治療後の経過をアンケートしたところ、189人のうち、男性の64%、女性の50%に晩期合併症があった。現在心配なことに、就職や仕事、対人関係があがった。ただ晩期合併症の有無や程度は、がんの種類や治療時期のほか、個人差も大きい。また小児がん経験者では、幼児期や思春期という社会性を見につける時期に命にかかわる病気になり、人とのかかわりが苦手だったり、能力を十分に生かしきれなかったりする人も少なくない。就労への影響も考えられるという。石田さんは「就労は社会的自立、生きがいの点からも大切な問題」という。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・小児がん・情報編 より)
Aug 19, 2011 09:09

体力面問われ何度も転職
土産物の酒店などバイトも含め4、5回仕事が変わった。その間、いくつもの企業に履歴書を送った。経歴欄を書くとき、勤務先がいくつも変わっているのがつらかった。就職の面接で、一度だけ白血病だったと話したことがある。「可愛そうに。苦労したんですね」。担当者に言われた。結局、採用されなかった。
理由はわからないが、病気が原因ではないかと、思った。白血病の治療は4歳で終わり、小学校の高学年からは定期的な通院も必要ない。だから、面接で病気のことは言わないことにした。今年1月、食品加工の会社で販売担当の採用試験を受けた。面接で、いつものように体力面を聞かれた。「重いものを運んだりしますが、大丈夫ですか」。「土産物の酒店では接客もしていました。日本酒の一升瓶を半ダース持てます。大丈夫です」。陽子さんはそう答えた。結果は、採用だった。試用期間が終わり、今春、念願の正社員になれた。「もっと背が高ければ」と時々、体力面で悩むこともある。でも、辞めるのは簡単。この会社で長く働きたいと思う。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・小児白血病 より)

Aug 18, 2011 08:30

寝具店に契約社員で勤めたが・・・。
新潟市の山田陽子さん(26)は、生後6カ月で急性リンパ性白血病と診断された。当時は、中枢神経へ細胞が広がるのを防ぐため、頭に放射線を照射した。身長が標準より十数センチ低いのは、治療の後遺症の可能性が高いと説明を受けた。高校卒業後、市内のホテルに、2年間の契約社員として就職した。白血病だったことは伝えなかった。契約期間は1年延びたが、正社員には、なれなかった。その後、寝具店に半年の契約社員で働き始めた。面接や働き始めた当初、職場の人たちは「大丈夫だね」「高いところは、いいよ」などと、配慮してくれた。2人1組で布団を陳列棚に置くときも、相手と身長が合わなかったり、袋に入った布団の端を少し引きずったりしたが、周りで助け合おうとしてくれた。ただ新しい店長が来ると、「仕事に差し障りが出ている」と、暗に退職を促されたという。話を聞いた父の修さんは怒ったが、陽子さんは、居ずらくなって辞めた。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労。小児白血病 より)
Aug 17, 2011 07:12

低身長 後遺症の可能性
両親は、浅見さんから、当時の急性リンパ性白血病の5年生存率は40~50%であること、放射線治療の影響で知的発達が遅れたり、身長が十分伸びなかったりする可能性があることなどを説明された。「1日でも長く生きてほしい」と、両親は治療を了解した。1989年3月、4歳のとき、最後の抗がん剤治療が終わった。5年後、小学4年生のころには「もう再発の心配はないだろう」と言われた。そのころ、陽子さんは身長が低いことを気にしていた。気がつけば、整列すると、一番前。修さんは「早生まれだから」と気にしなかったが、中学生になっても周りより十数センチ低く、不安に。浅見さんに尋ねると「放射線を頭に照射した後遺症の可能性が高い」と説明を受けた。高校入学前、陽子さんは浅見さんから「実は白血病という血液のがんだったの」と、初めて知らされた。再発の心配はほとんどないと聞き安心した。ただ、身長が低いことから、高校卒業後、就職で苦労が続いた。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・小児白血病 より)
Aug 16, 2011 07:21

急性リンパ性白血病
新潟市の山田陽子さん(26)は、身長約144センチ。身長が低いのは、白血病の治療で、頭に放射線を照射した後遺症と考えられるという。父の修さん(62)夫妻にとって陽子さんは初めての子どもだった。1985年夏、生後6カ月のとき、1カ月ほど微熱と鼻水が続いた。「かぜが長引いているんだ」と思っていた。だが、街で会った友人に「赤ちゃんなのに顔が普通の白さじゃないね」と言われ、心配になり、近くの病院に連れていった。「うちでは手に負えない」とすぐに新潟県立がんセンター新潟病院を紹介された。対応した小児科の浅見恵子医師(62)から、急性リンパ性白血病との診断を受けた。命にかかわる極度の貧血状態でもあり、即入院し、抗がん剤治療が始まった。抗がん剤は、脳や脊髄など中枢神経に入りにくい。当時の治療法では、白血病細胞が中枢神経で増えて広がるのを防ぐため、頭に高い線量の放射線を予防照射していた。現在は中枢神経への放射線照射は再発リスクが高い場合に限られ、線量も低く抑えられている。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・小児白血病 より)
Aug 15, 2011 08:24

喜ぶ顔のそばで働きたい
新しい店舗に配属されたが、4カ月後に「今月いっぱいで。ごめんね」と言われた。その後、接客しながらお菓子やパンの仕上げもできる菓子店など十数店の面接を受けたが、採用されず、落ち込む日が続いた。「自分の生活費は稼がなきゃ」。何でもいいからアルバイトをしようとしたときだった。「ハートリンク共済」の事務局長・林三枝さん(58)から「働いてみない?」と声をかけられた。生命保険への加入が難しい小児がん経験者のためにつくられた入院見舞金などが出る医療保障だ。林さんの娘が同じ病気で、知り合いだった。林さんらは別法人を立ち上げ、近い将来、カフェなど小児がん経験者が就労体験を積む場を新潟市内に計画中だという。「パティシエじゃなくても、お菓子を食べて喜ぶ顔が見えるところで働きたい」。それだけに、就労体験の場で「クッキーを作ってほしい」と言われたのがうれしい。「目標ができた。体力をつけてがんばろう」。ちょっと前向きになれた。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・小児白血病 より)

Aug 14, 2011 07:08

白血病のことは伏せ・・・・。
新潟県の女性(22)は小学校の卒業式目前に急性骨髄性白血病と診断された。再発し、中学2年の時、母親(47)から血液のもととなる細胞を移植した。高校を卒業後、専門学校で菓子作りを学んだ。でも、実際にパティシエとして働くとなると、特に見習い中は重い原材料を運んだり、下ごしらえをしたりと想像以上に重労働で、自信がなくなった。2,3カ月に一度は県立がんセンター新潟病院に通い、1日がかりの検査に、主治医の診察を受けなければならない。移植の拒絶反応を防ぐため、免疫抑制剤も欠かせない。数年前、2,3日、軽いせきが続くだけで肺炎になっていた。原因は不明だが、皮膚が弱く、転んで皮膚が大きくはがれたり、裂けたりしたこともある。就職できても体力が持つか、周囲に迷惑をかけないか、心配だった。就職先に白血病だったことを話し、配慮を求めることも考えた。でも、それで雇ってくれるだろうか。「性格で落とされるならいい。正直に打ち明けて落とされるのなら、言いたくない」。結局、白血病のことは伏せ、昨春、菓子店の接客部門にパートで勤め始めた。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・小児白血病 より)
Aug 13, 2011 07:29

面接で話すべきか悩む
「貴重な体験だったんだ」と女性は思った。両親が家庭教師をつけてくれて、さかのぼって勉強するうちに落ち着いた。女性は小さいころから、お菓子を食べたり、作ったりするのが好きだった。バレンタインデーに中学の友だちに「友チョコ」をあげたとき「おいしい」と喜んでくれたのがうれしかった。パティシエになりたいなと、高校を卒業後、専門学校でお菓子作りを学んだ。問題は就職だった。移植の拒絶反応を防ぐため、免疫抑制剤を飲んでいることから、肺炎などの感染症が心配された。合併症として、コレステロールや血糖値が高いなどの症状や月経不順などもあった。数種類の薬を毎日のように飲まねばならない。移植から6年、日常生活に不自由はないが、就職の面接で告げたほうがいいのか悩んだ。専門学校の先生や知人らに相談すると「本気で就職するなら、通院が必要なことなどきちんと話さなければ」と助言を受けた。一方で、こうも言われた。「病気を理由に、雇われないことがあるかもしれない」。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・小児白血病 より)
Aug 12, 2011 07:36

本当の病気を告知
新潟県の女性(22)は、小学校の卒業式目前に、急性骨髄性白血病と診断された。抗がん剤治療で、がん細胞が検出されなくなったが、翌年の2003年に再発。血液のもととなる幹細胞を母親(47)から移植された。中学2年生だった。白血病のことは、女性本人や同級生には内緒だった。復学を前に、担任らに入院先の新潟県立がんセンター新潟病院に来てもらい、主治医の小川淳医師(小児科)が体の状態、激しい運動ができないことなど学校生活での注意点を説明した。学校に戻ると、女性に仲の良い友達もできた。ただ、3年生になって高校受験が近づくと「勉強についていけず、何から手をつければと、パニックになった」。両親から相談を受けた小川さんは「本当の病気を告知したほうがいい」と判断した。「話があるからお母さんと来て」と言われ、女性は診察室へ入った。小川さんから、がんだったと知らされた。他の人が経験できないことを経験したこと、命をかけた闘いをしていることに積極的な意味を持って欲しいとも、話してくれた。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・小児白血病 より)
Aug 11, 2011 07:40

末梢血幹細胞移植
小学校の卒業式にも中学校の入学式にも出られなかった。両親は「重い貧血」と女性に告げ、本当の病名は伏せた。中学1年の秋、抗がん剤が効き、がん細胞が見つからなくなった。しかし、半年近くたった2003年3月、何の症状もないのに、毎月の定期検査で血液中にがん細胞が見つかった。再発だった。両親、きょうだい計4人の白血球の型を調べると、母からの移植が可能だった。主治医でがんセンター小児科の小川淳医師(51)は末梢血幹細胞の移植を両親に勧めた。末梢血幹細胞移植は、提供者の血液から赤血球や白血球など血液のもととなる細胞を取り出し、患者に点滴で移植、残りは提供者の体へ戻す方法だ。6月、女性は移植を受けた。3カ月ほどで退院。秋から、中学校に通えることになった。抗がん剤の副作用で、髪の毛が抜けていたが「病院では同じような頭の子がいて恥ずかしくなかった」。学級担任が同級生の手紙を病室に届け、女性の様子を学級で伝えてくれていた。それでも女性は病院のほうが居心地がよく、学年途中で不安を抱えながら復学した。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・小児白血病 より)
Aug 10, 2011 07:47

小学校卒業直前に発病
アルバイトが休みの4月のある日。パティシエを目指している新潟県の女性(22)は、桜餅を20個ほど作った。「家族も好きだし、桜の季節だから、あげても喜んでもらえるでしょ」。2002年3月。小学6年生のとき、女性は急性骨髄性白血病と診断された。15歳以下で発病する小児がんのうち、白血病は約4割と最も多い。あと1週間ほどで小学校の卒業式だった。インフルエンザが流行し、数日前から、微熱が続いていた。給食を食べている間に吐きそうになり、手や体中にブツブツができた。かかりつけ医に3度、かぜ薬を処方してもらったが、せきは続いた。「元気な子なのに、おかしい」。母(47)は女性を、近くの病院へ伴った。血液検査を受けると、県立がんセンター新潟病院の受診を勧められた。女性は救急車で、がんセンターに搬送された。がんセンターで骨髄も調べると、がん化した細胞が、白血病診断の目安を大きく超えて増えていた。即入院となり、すぐに抗がん剤治療が始まった。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・小児白血病 より)
Aug 09, 2011 07:42

あきらめないで 相談を
障害年金の申請は、患者自身もできるが、専門知識が必要なため、社会保険労務士らに依頼する場合が多い。社労士の藤井雅勝さん(京都市)によると、申請には、①初診日を証明する書類 ②病歴や就労状況を書いた申立書 ③医師の診断書などが必要という。①は、医療機関に申請すれば初診証明を出してもらえるが、数千円程度かかる。医療機関が出した領収証や、日付が入った診察券でも証明できる場合があるという。「病気やケガで病院にかかる場合は、捨てずに保管して欲しい」と藤井さん。②は、障害が原因で日常生活においてどう困っているか、普段から日記やメモに残しておくと書きやすい。③は診察の際に病状を詳しく話し、生活上どう困っているか、普段から具体的に医師に説明しておくといい。障害年金は、病気やケガの程度により一定期間ごとに見直しがある。社労士の山下律子さん(東京都)は「医師の前ではつい『大丈夫です』と答えたしまいがち。障害年金を扱い慣れていない医師も多いため、あきらめずに訴えて欲しい」と話している。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・障害年金・情報編 より)
Aug 08, 2011 08:08

がんでも支給 障害年金
足を切断したり、視力を失ったり・・・。障害年金は、体の機能が失われた場合に支給されるというイメージがある。しかし日常生活や労働に支障が出るようになった人が対象のため、がんでも支給される場合がある。NPO法人障害年金支援ネットワークのまとめでは、昨年1年間に、がんを対象とした相談は247件。相談の段階で申請をあきらめる人も多いため、実際に請求したのは11件で、うち10件に支給が認められた。申請は、初診日の2カ月前までの年金に加入すべき期間のうち滞納期間が3分の1を超えないことが前提だが、超えていても、初診日の2カ月前からさかのぼり1年間滞納がなければ特例で認められる。原則は初診日から1年6カ月後の障害を判定するが、その後障害が重くなった人も請求可能で「患者を生きる 障害年金」で紹介した小野崎卓子さんは、この例にあたる。障害は何年前のものでも判定されるが、支給は申請月からさかのぼって直近の5年までしか認められない。初診日が20歳以降にあれば収入制限はなく、働きながらでも受け取れる。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・障害年金・情報編 より)
Aug 07, 2011 07:48

娘たちの自立した姿をこの目で見たい
働き続けていられるのは、薬剤師の国家資格があったからだとしみじみ思う。端がネズミにかじられたようにちぎれている薬剤師の免許証を、事あるごとに娘たちに見せ冗談めかしてこう言う。「あなたたちを食べさせているのは、この紙なのよ。感謝するのよ」。勤務先の計らいもある。勤務日は、付近の病院が休診で、患者数が少ない日を割り当ててくれている。今も月に度1度の血液検査と半年に1度のCT検査が続く。だが体調は、化学療法を重ねるたびに悪くなり、1年にうち3分の2は口内炎ができる。今年の春。親類のお祝い事の手伝いでお茶出しをしただけで、翌日は足がパンパンに腫れ、首も痛くなった。無理がきかない体だ。小野崎さんの場合、3年後に再び年金受給の審査を受けなくてならない。そのときに体がどういう状態にあるのか。今はまったく想像できない。長女は国際機関で働く夢を描き、次女は進路を考え中だ。「娘たちの自立した姿をこの目で見たい」。その思いを支えに、1日でも長く働きたいと思っている。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・障害年金 より)
Aug 06, 2011 08:10

月額5万4千円に感謝
2007年に卵巣がんの手術を受けた埼玉県白岡町の薬剤師、小野崎卓子さん(50)は、大腸への転移がわかった昨年夏、再び切除手術を受けた。患者会の勉強会で、日常生活に支障があれば、がん患者でも障害年金を申請できると知り、術後に申請することにした。申請手続きは、勉強会で知り合った社会保険労務士の宇代謙治さん(57)に依頼し、2万円の着手料を支払った。診断書を主治医に依頼し、初診日がわかるよう前の病院に初診証明を請求。住民票や娘たちの在学証明書などもそろえた。申請書の書き方を習い、「短時間なら働けるが、家事は家族の助けがないとできない」と訴えた。準備には、3カ月間かかった。3カ月後。「著しい困難があり労働が制限を受ける」に相当する3級の認定を受けた。支給額は月約5万4千円。11年1月にさかのぼり支給されることになった。「真面目に年金を払い続けていてよかった」。月十数万円の収入では娘たちの教育費を払うのがやっと。年金は、食費や光熱費にあてることにした。宇代さんには成功報酬として10万円を支払った。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・障害年金 より)
Aug 05, 2011 08:07

障害年金
「やっぱり」。今回の大腸への転移は、覚悟していた。大腸が癒着し、便が出にくくなっていたこともあり、3度目の手術を受けることになった。その頃、時々参加する「がん患者会シャローム」で、障害年金の勉強会があった。勉強会の後、講師を務めた社会保険労務士の宇代謙治さん(57)に相談してみた。「がんが再々発していますし、家事が満足にこなせないのなら、もらえる可能性が高いケースだと思います」。手術後の様子を見て、申請することにした。手続きには、主治医の診断書が必要だ。自治医大病院の主治医に頼むと、「患者さんのためになることなら」と、了承してくれた。3回目の闘病は、2人の娘の大学・高校受験の追い込みシーズンと重なった。国立大学を目指していた長女の慈慶さん(18)は、学校や図書館で勉強しながら食事作りを担い、次女の有慶さん(15)は、洗濯や掃除を勉強の合間に手伝った。2人とも親の病気を理解してくれていた。三者面談も電話で済ませ、卒業式にも行けなかった。親として、十分に応援してあげられないのが、切なかった。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・障害年金 より)
Aug 04, 2011 08:03

大腸に転移「やっぱり」
卵巣がんの手術から1年後。肝臓への転移がわかり、再手術した埼玉県白岡町の薬剤師、小野崎卓子さん(50)は体調が戻らず、勤務先の薬局を辞めた。その後、知り合いが経営する薬局に2009年8月、パートとして再就職した。週30時間ほど働くことになった。食事の用意と洗濯、掃除は2人の娘がこなし、小野崎さんは外で働く「分業態勢」ができあがった。ただ、月十数万円の収入では、3人で生活するのがやっとだった。当時中学2年生だった下の娘の学習塾代は月3~4万円、夏季や冬季講習には10万円以だったが、どうしてもひねり出せなかった。「ごめんね。でも有効に使うから」。心の中でつぶやきながら、コツコツとためてきた学資保険のうち約130万円を取り崩した。再スタートが切れているかもしれない。そう考えるようになった昨年6月ごろ。便秘が続くようになってきた。腫瘍マーカーの値も上昇していた。自治医大病院でPET検査を受けると、大腸に転移していた。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・障害年金 より)
Aug 03, 2011 07:57

悩んだあげく退職
前回使ったタキソールは手足のしびれがきつかったため、抹消神経障害がより緩やかと言われるタキソテールに変えた。免疫力が落ち、2巡目から薬の量も8割にした。それでも副作用は前回よりつらく感じ、仕事には戻れなかった。傷病手当金は、卵巣がんで13カ月、うつ病で1年以上もらった。有給休暇も使い果たした。2年以上休み、職場に申し訳ない。悩んだあげく退職した。収入の道が断たれては、母娘3人が路頭に迷う。月に数日、下の姉が経営する薬局を手伝ったが、家に帰ると疲れて何もできなかった。「バンザイ」の格好をして、娘たちに服を脱がせてもらう日もしばしばだった。通院、仕事、家事・・・・。1日数時間、一つのことしかできないことが、ようやくわかってきた。このままいけば、仕事も家事も破綻する。小野崎さんは娘たちにある決断を迫った。「お母さんが働かないで家事をやるか。お母さんに稼いでもらって、あなたたちが家事をやるか。どうする?」。2人の答えは明確だった。「家にお金がなくなったら私たちが困る。お母さん、お願いだから働いて!」(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・障害年金 より)
Aug 02, 2011 07:40

復職できず「うつ病」に
卵巣がんの手術を2007年1月に受けた埼玉県白岡町の薬剤師、小野崎卓子さん(50)は、シングルマザーとして、1日も早い職場復帰を目指した。主治医の自治医大病院の種市明代医師は、化学療法を始める前、「半年後には仕事に戻れるようになる」と話していた。だが治療が終わって半年が過ぎても、体調は戻らなかった。体がつらく、1日のほとんどを横になって過ごした。「自分を甘やかしているのかな」。そう思い無理して家事をすると、翌2日間は痛みで動けなくなった。復職できない自分を責め、落ち込んだ。毎晩2時間しか眠れず、心療内科を受診すると「うつ病」と診断された。睡眠薬をもらい、ようやく5時間続けて眠ることができた。手術からちょうど1年後の2008年1月、腫瘍マーカーの値が上がってきた。CTとPET検査で、肝臓への転移がわかった。「どうして・・・」。ショックだったが、もう化学療法は嫌だった。抗がん剤も使うが、手術で肝臓を切除してほしいと希望した。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・障害年金 より)
Aug 01, 2011 08:03

重い副作用 手にしびれ
退院後は実家の離れに住み、食事の用意や身の回りの世話は姉や母親がしてくれた。だが術後も腫瘍マーカーの値は、なかなか下がらなかった。主治医の種市明代医師は再発予防のため、抗がん剤のタキソールとカルボプラチンを使う化学療法を勧めた。小野崎さんは、薬の添付文書の副作用の欄を見て、不安になった。抹消神経障害、関節痛、脱毛・・・。深刻なものは心筋梗塞、肝機能障害など、丸々1ページびっしりと副作用の症状が書いてある。通院しながらの化学療法は、3カ月間にわたった。恐れていた副作用は、治療が終わる頃からひどくなった。手足がしびれ、常にゴム手袋をはめてものに触る感覚。熱したフライパンの縁に触っても気づかず、何度もやけどをした。味覚もおかしく、耳鳴りもあった。病院に支払った医療費は100万円を超えた。「早く仕事にも戻らなければ」。気ばかりあせった。母娘3人の家計は、小野崎さんの収入だけが支え。傷病手当金は月約25万円と、以前の収入の6割に落ちていた。しかし体調は戻らず、仕事を再開できる気がしなかった。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・障害年金 より)
Jul 31, 2011 07:49

手術の結果、転移はなし
2006年11月、卵巣がんと告げられた埼玉県白岡町の薬剤師、小野崎卓子さん(50)は、「手術が必要」と言われたその日、娘2人を連れて栃木県矢板市の実家に相談に行った。一番心配だったのは、入院中の中学2年生と小学5年生の娘の預け先だった。幸い、自宅近くに住む下の姉が面倒をみてくれるという。診断を受けた病院への不信感もあった。「実績がある」と、親類に勧められた栃木県下野市の自治医大病院に転院することを決意。3日後には病院に行った。「できるだけ早く手術するように」。医師に言われ、手術は正月明けに決まった。車の運転もつらく、職場には休職届けを出した。腹部の痛みで食欲が落ち、入院前に体重が10キロ落ちた。2007年1月10日、開腹すると、子宮内膜症の影響で腸と子宮の癒着がひどかった。卵巣とともに、転移しやすい子宮も摘出した。ただ、病理診断ではがんは卵巣内にとどまっており、念のため一部切除し調べたリンパ節にも、転移は見られなかった。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・障害年金 より)
Jul 30, 2011 07:50

突然の告知
「卵巣がんとして説明可能な所見です。骨盤内両側にリンパ節腫大が見られ、リンパ節転移と考えます」。「まさか。私が、がん?」。自分が入院している間、娘たちはどこで過ごせばいいのだろう。当時、長女の慈慶さんは中学2年生、次女の有慶さんは小学5年生で、まだまだ親の助けが必要だった。これから進学でお金がかかる時期なのに・・・。頭の中が真っ白になった。両親と姉の家族が暮らす栃木県の実家に電話した。小野崎さんは三人姉妹の末っ子。実家のみそ製造業を継ぐ上の姉(54)、自分と同じ薬剤師の仕事をしている下の姉(52)、どちらも頼りになる存在だった。「とにかく家に来て。これからのことを相談しよう」。上の姉の言葉にうなずき、娘たちを連れ実家へ向かった。勤務先の薬局の上司には、その日のうちに電話で告げた。「すみません。私、がんです。とりあえず何日か休みます」。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・障害年金 より)
Jul 29, 2011 07:30

「手術が必要」、
3月下旬、埼玉県白岡町の薬剤師、小野崎卓子さん(50)の元に障害年金3級の支給決定を知らせる封書が届いた。シングルマザーとして、月十数万円の収入で大学1年生の長女と高校1年生の次女を養う。卵巣がんの再々発による治療の影響で、働けるのは週約10時間。体力が落ち、家事もほとんどできない。これからは2カ月に1回、約10万8千円が銀行口座に振り込まれる。「これで、生活費の足しになります」。体の不調が始まったのは2006年春。フルタイムで勤務中に突然、猛烈な吐き気に襲われた。その後、下痢や腹痛にも見舞われることが続いた。「さすがに我慢できない」。7月に入り、自宅に比較的近い総合病院に駆け込んだ。超音波で診ると、左の卵巣に4センチほどのチョコレートのう胞が見つかった。経過観察となったが痛みは続き、徐々にひどくなっていった。10月に再び病院を訪ねると、卵巣が少し大きくなっていた。11月にMRI検査を受け、結果を聞きにいくと、医師がいきなり告げた。「手術が必要です」。「なぜ手術が必要なのですか」。何度も問いただすと、MRI検査の診断報告書を読み上げ始めた。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・障害年金 より)
Jul 28, 2011 07:39

周囲の理解、就労のかぎ
人工肛門は、腸の一部をおなかの外に引き出して作る便の出口だ。出口は「パウチ」と呼ばれる袋でしっぽり覆い、便が漏れないようにする。パウチの中に排泄物がたまると、トイレの便器に捨てる。人工肛門や人工膀胱は、「オストミー」とも呼ばれる。約1万1千人の正会員がいる公益社団法人日本オストミー協会によると、人口肛門を作った人は全国で約12万人。パウチには、粘着力があるリング状の「面板」がついていて、この部分を人工肛門の周囲に密着させて使う。「面板部分がうまく密着するか、周囲の皮膚の状態をうまく管理できるかが、生活の質を左右する。パウチの改良も進み、普通の仕事で支障が出ることはほとんどない」と同協会の竹内恒雄事務局長はいう。だが協会が昨年実施した調査では、生活上、抱える悩みとして、大腸に人工肛門をつけた回答者約350人のうち、41%が便の漏れやにおい漏れを挙げていた。装着部の皮膚のただれやかぶれを選んだ人も45%にのぼった。仕事への制限もまったくないわけではない。トイレに自由に席を外すことが難しい職種や職場では、負担が大きい。人工肛門の周りの皮膚の状態が悪くなれば通院も必要になる。周囲の理解が得られるかが就業へのかぎをにぎるが、職場の仲間に知られてもいいと答えた人はわずか3%しかいなかった。飲食業や食品業につく人は、顧客からの誤解を恐れたり、異性からの印象を気にしたりして、職場で話せない人も多い。20~40代の女性を中心に集まる「ブーケ」(若い女性オストメイトの会)代表の工藤裕美子さんは「職場でも支援が必要なことを伝え理解させることが必要だが、その環境はまだまだ整っていない」と話す。さらに「人工肛門をつけた人がどんな場面で困り、助けを必要とするのか、まず経営者や人事担当者が正確な情報を知り、支援する姿勢を示すことが職場の理解を深める」と訴えている。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・人工肛門・情報編 より)
Jul 27, 2011 07:58

被災、窮状に支援次々
3月11日、東日本大震災が仙台市を襲った。激しい揺れに交換用のパウチと尿のカテーテル、抗がん剤を真っ先に手に取った。自宅は無事だったが、夫の実家は津波で流され、3人の親族を失った。抗がん剤の副作用で下痢が続くのに、断水で人工肛門のケアができず、炎症が悪化した。相談すべき病院に電話はつながらず、パウチの供給も途絶えた。しかし、窮状をつづったブログに励ましの言葉やパウチの供給情報を伝える書き込みが並んだ。仕事仲間や友人からウエットティッシュや医療用タオルなどの支援物資が次々と届いた。震災から1カ月後、長女の小学校の入学式に出席した。医師から「入学式を見届けるのは難しい」と告げられたのが4年前。それが今、弔辞は最前列で背筋を伸ばし、名前を呼ぶ先生を見つめて手を挙げている。長女の姿が、涙でかすんだ。「人とつながっているから生きてこられた。決して独りではない」。そんな思いを伝えたいと、被災したサロンの再開や避難者の支援に奔走している。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・人工肛門 より)
Jul 26, 2011 08:03

人工肛門からの音に気を使い・・・・。
小腸がんの手術で人工肛門を作った仙台市の佐藤千津子さん(40)は2009年秋、アロマテラピーサロンを開いた。内部障害や抗がん剤の副作用に悩んだ経験を、患者や介護者のケアに生かそうと思った。当時住んでいた盛岡市の自宅の部屋を改装し、窓の光を布で遮り落ち着く空間に仕上げた。サロンを最初に訪れたのは、「ママ友」の女性。オイルの皿がぶつかりあう音にも気を使う静けさの中、仰向きに寝る女性の頭上に座り、緊張しながら顔の施術を始めたときだった。ぽこっ、ぽこぽこ・・・・。人工肛門からガスが抜ける音が、部屋中に響いた。「腸が動くと人工肛門から空気が抜ける」。とっさに説明した。動揺と恥ずかしさで冷や汗が噴出した。人工肛門からの音やパウチの漏れを気にしながらの仕事は楽ではなかった。面識のない利用者には、説明も難しい。腸の動きを抑えるため、施術の1時間前からっは絶食することにした。だが佐藤さんに共感する知人の協力、支援もあり、経営する店は4カ所に増えた。昨年末には、夫の実家に近い仙台市に引っ越した。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・人工肛門 より)
Jul 25, 2011 08:06

サロン開業
2~3日に1回、ハローワークをのぞき、就職情報誌をめくった。自分のペースにあわせて仕事ができる内職にも応募したが、「納期を守れないと困る」と断られた。「通院が突然入ることもありますね」と尋ねられて、答えに窮した。7社に不採用が決まった翌年夏、考え方を変えた。経営者の立場になって考えれば、「体調が悪いので明日休む」という人は、採用したくないだろう。「3回手術を受けても、生きている。人生リセット、自分でできることをやればいい」。入院した病院で見た、たくさんの涙がよみがえった。家族が帰った夜の病棟。がんの痛みや抗がん剤の副作用に苦しむ患者を、同室の人たちが、背中をさすり、手を取って助けていた。病院に足湯のボランティアに訪れた夫婦は、1カ月以上入浴していない自分の足を、ゴム手袋なしにもんでくれた。「痛みや不安で疲れた体を休め、笑顔を取り戻して欲しい」。抽出した精油の香りで体や心をいやすアロマテラピーが趣味だった。その知識を生かしてセラピストの資格をとり、2009年秋、サロンを開いた。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・人工肛門 より)
Jul 23, 2011 05:27

不採用通知に怒り
小腸がんのため3度の手術を受けた仙台市の佐藤千津子さん(40)は、かさむ治療費を補い、生きがいを取り戻すため、働き始めることを決意した、しかし、採用選考を受けようと、履歴書を作り始めて考え込んだ。治療のことを書かないほうがいいのか。ただ、経歴欄で治療の期間を空白にするのも不自然だった。退院後も続いた化学療法や人工肛門のケア、自己導尿の経過観察のため、週に2~3回の通院が必要だった。仕事を始めれば、職場にがん治療のことを隠すことはできない。履歴書には、「内部障害があり、通院が必要です」とだけ記した。「治療しながら働けます」、地元建設会社の事務職の面接では、担当者3人を前に意気込みを語った。ところが、担当者の対応は思いのほか冷たかった。「抗がん剤治療をやっているのなら、療養したほうがいいのでは」。服飾点を経営した7年間の経験や復職への思いを懸命に伝えても、理解してもらえなかった。不採用通知を前に怒りが込みあげた。'朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・人工肛門 より)
Jul 22, 2011 21:53

治療費は数百万円
3度の手術で10カ月以上の入院や、免疫療法など治療費は数百万円に上った。保育園の送り迎えや家事は、不動産会社を経営する夫の役目になっていた。夫の収入は、3分の1以下に落ち込んだ。二つの人工肛門につけるパウチやガーゼ、カテーテルや消毒薬の出費も月数万円はかかる。障害者手帳を取得し、購入費の補助を受けてしのいだ。「おなかの中も、仕事も、収入も、みんななくなった」。喪失感は強まる一方だった。人工肛門をつけ、子宮や卵巣も失い、女性ではななくなったような感覚が募った。「こんな生活で楽しいの」。長い診療の待ち時間、押し寄せる不安をこらえきれずに、思わず付き添いの夫に気持ちをぶつけた。夫は、優しく言った。「痛さは代わってやれないが、お金のことは何とかなるから。先えおみてできることを考えていこう」。夫の言葉にはっとした。家で薬を飲み、テレビを見る日々。経営者として華々しかった過去ばかり、思い出していた。「このままではだめになる。自分の役割を見つけよう」。2008年の夏、仕事探しを始めた。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・人工肛門 より)
Jul 21, 2011 07:06

副作用や治療費に苦悩
服飾店wp経営していた仙台市の佐藤千津子さん(40)は2007年7月、小腸をふさいでいたがんを取った。がんは直腸や子宮にも転移していた。2人の子どものために生きたいと、翌年1月、「転移がんも手術できる」という医師を頼り、別の病院に入院した。医師は、一番大きながんがあった直腸を切除し、へその右側に人工肛門をつけた。子宮も取った。膀胱の一部も摘出したため自分で尿を出せず、カテーテルを使って排尿する生活が始まった。再び腸閉塞を起こし、二つ目の人工肛門を作った。4月に退院したが、人工肛門とのつきあいがわからなかった。体重はまだ30キロ台で、痩せた体とパウチの隙間から中身が漏れ、皮膚がただれた。卵巣摘出の副作用も深刻だった。女性ホルモンの分泌が止まり、夜中に突然、滝のように汗が流れ出す。意識がもうろうとするのに寝付けず、午前2時に台所に立ち、翌朝のパンをこねるのもたびたびだった。かさむ治療費も、家計を圧迫し始めていた。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・人工肛門 より)
Jul 20, 2011 11:22

人工肛門
絶食状態を脱するため、がんによってふさがれた小腸の閉塞を取ることが先決だった。2007年7月に開腹し、小腸がんと転移があった結腸と左右の卵巣を摘出した。手術後、消化器外科医が言った。「取りきれない部分はそのまま閉じました。進行を遅らせながら治療していきましょう」。最期のときを覚悟した。社長復帰の見通しが立たず、7年間経営していた店は、手術前にたたまざるを得なかった。20歳前後の従業員から、思いがけず届いた色紙やビデオレターを見て泣いた。苦楽を共にした職場を失い、彼女たちこそ苦労しているはずなのに。悔しくてたまらなかった。がんは直腸や子宮、腹膜にも広がっていた。化学療法のための入院と一時退院を繰り返し、3種類の鎮痛剤で、体中の痛みを抑える日々が続いていた。佐藤さんと同じように腹膜にがんが散らばっても、元気で暮らしている女性患者を紹介するテレビ番組を見たのはその頃だった。すがりつく思いで、テレビに登場した医師を訪ねた。医師は言った。「手術できる。でも人工肛門になります」。もっと生きたかった。せめて2人の子どもたちが小学校に入学するのを見届けたかった。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・人工肛門 より)
Jul 19, 2011 07:28

小腸がん あちこち転移
若い女性向けの服飾雑貨店を経営していた仙台市の佐藤千津子さん(40)は2007年5月、当時住んでいた盛岡市の岩手県立中央病院に入院した。食事がのどを通らなくなり、体重は31キロに激減した。入院から3日後、ベッドでへそのあたりに手をあて、消化器内科医に訴えた。「このあたりの感じがおかしいんです」。ゆっくりと腹部を触診した主治医は「小腸のあたらいに何かがある」と血相を変えた。7人の医師が集まり、再検査が始まった。小腸専用の内視鏡を口から入れると、盛り上がった真っ黒な腫瘍が映し出された。検査を終え、診察室に向かった佐藤さん夫婦を前に、主治医が告げた。「小腸がんです」。信じたくなかった。しかし、見せられたMRI画像は、素人目にもわかる異常なものだった。がんが転移し、おなかのあちこちに白い粒が点在していた。ショックのため冷たくなった手を、夫の手で温めてもらいながら、病室に戻った。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・人工肛門 より)
Jul 18, 2011 08:11

体重減り 腹部に違和感
不調の始まりは、2005年8月だった。当時は長女が生まれて半年。事務所に一緒に通勤し、仕事の合間に授乳した。1歳の長男を保育所に迎えにいくため夕方に仕事を抜け、夕食を作り事務所に戻る毎日だった。「仕事や子育てが楽しくて、眠る時間も惜しかった」。しかし店の仕入れのため東京に出張中、繊維問屋街でおなかの痛みに襲われトイレに走った。便器が赤黒く染まった。血便だった。自宅に戻り、胃や大腸の内視鏡検査を受けたが、原因が分からなかった。翌年春にも血便が出た。徐々に体重が減り始めた。「社長、無理してない?」。20代の従業員にも気遣われた。仕事の後のビールもおいしくない。2007年5月とうとう体が食事を受け付けなくなった。脱水と栄養不足で2週間で体重が8キロ落ち、31キロになった。歩けなくなり、岩手県立中央病院(盛岡市)に緊急搬送された。摂食障害を疑われ心療内科医の面談を受けながら、腹部の違和感を訴えた。消火器内科医に診てもらうと、触診の手がへそ周辺で止まった。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・人工肛門 より)
Jul 17, 2011 08:03

「相棒」の人工肛門
植物から抽出した精油の香りで体や心をいやすアロマテラピーサロンを経営する仙台市の佐藤千津子さん(40)は4月、インドネシア行きの機内にいた。本格的な施術が学べる学校を現地に立ち上げるための準備だ。片道7時間のフライト中は始終、へその左側に顔を出す人工肛門に付た袋「パウチ」を気遣っていた。パウチは15×20センチほどのポリエチレン製で、腸から押し出された便をためる。機内で袋がよじれて中身が漏れれば、においや衣服の汚れで面倒なことになる。袋の膨らみ具合を確かめ、1~2時間おきに狭いトイレの中で体を折り曲げ、中身を便器に捨てた。愛着をこめ「相棒」と呼ぶ人工肛門とは、小腸がんの手術で直腸や肛門を取って以来、3年のつきあいになる。2000年に盛岡市の中心街に、若い女性向けの服飾雑貨店を構えた。立ち上げたブランドは人気を集め、東北に4店を数えるまでになっていた。流行を察知し、企画から3週間で商品化にこぎつける小回りの良さを強みに、月の半分は発注のためソウルや東京に出張していた。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・人工肛門 より)
Jul 16, 2011 11:15

肛門温存か人工肛門か
温存術では、肛門を残せたという満足感は得られる。だが直腸の大部分を取った場合は、頻便や便失禁に悩むことがある。人工肛門では、意図せず出る音やにおいが気になったり、装具で服装も制限されたりする。だが頻便や失禁に悩むことはない。石黒さんらのグループは、温存術を受けた直腸がん患者63人の生活の質を追跡調査した。70歳未満の患者で直腸の大部分を取ったが肛門を温存した人と、人工肛門を作った人とくらべると、仕事や日常活動への影響、家族や友人とのつきあいへの影響など、どの項目の指標にも統計的な差はなかった。温存術後の排便障害は少しずつ改善する一方、人口肛門の患者も装具の使い方などに慣れ、生活の質が改善していた。防衛医大病院の上野秀樹講師は「頻便による仕事への影響は、人工肛門よりむしろ温存術のほうが大きい」という。運転手や警察官など、仕事によっては温存術を勧めにくい患者もいる。「術後に予想される事態についてよく知り、手術法を学ぶことが大切」と話している。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・トイレマップ・情報編 より)、
Jul 15, 2011 07:51

肛門温存術 長短理解を
2006年の統計では、大腸がんと診断された患者は年間10万人以上。人口10万人あたりでみると、30年間で2倍以上に増え、男性は胃がん、女性は乳がんに次ぎ2番目に多い。だが治療法の進歩で早期がんの5年生存率は9割を超え、治る病気になりつつある。大腸癌研究会が作成した「大腸癌治療ガイドライン」によると、がんが小さく、腸壁まで広がっていなければ内視鏡手術が選ばれる。また、直腸にできた早期がんなら、肛門から電気メスを入れてがんを取る「経肛門的切除術」を選ぶこともある。しかし直腸がんが肛門に近く、進行している場合、開腹手術で直腸と肛門を切除し、腹部に人口肛門を作るのが標準治療だ。「患者を生きる トイレマップ」で紹介した高垣諭さんも当初は標準治療が検討された。ただ、90年代以降、括約筋を部分的に切除しつつも、肛門は残す温存術が広がっている。指針の作成委員で東京医科歯科大の石黒めぐみ医師は「肛門温存術にも人工肛門造
設術にも一長一短がある。よく知ってから選択する必要がある」と指摘する。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・トイレマップ・情報編 より)



Jul 14, 2011 07:49

独立・資格・・・・支えられ
昨年末、5年間勤めた輸入会社を退職し、販売代理店として独立した。会社が営業分野を見直すことになったのを機に、自ら退職を申し出た。体調に合わせてできる仕事も増やしていこうと、ファイナンシャル・プランナー2級の資格も取った。激しい頭痛に襲われたのは、独立した矢先の今年1月のことだった。生命保険販売の資格をとるために所沢市内で研修中に、頭に強い痛みが走った。脳の毛細血管からわじかな出血が見つかり、2週間入院した。独立に伴うストレスが原因とみられた。後遺症は出なかったが、出ばなをくじかれ、再び病を抱える不安に落ち込んだ。だが一家の主として、いつまでも落ち込んでいるわけにはいかない。2月には仕事を再開し、顧客回りを始めた。5月には再発の可能性が1%以下となる術後6年目を迎えた。花が持つ癒しの力や、潤いの力を生かした商品を届けたい。「トイレマップ」を胸にしのばせつつ、営業に走り回る日々は続く。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・トイレマップ より)
Jul 13, 2011 07:27

がん治療後に一変
直腸がんの手術で、直腸の全てと肛門の括約筋の一部を取った埼玉県所沢市の高垣諭さん(41)は手術以来、頻便に悩まされるようになった。しかし、手術から3年もたつと、便意の「波」を予測できるようになってきた。頻度が高いのは朝と夕方。ビールを飲んだ後は、高い確率でやってくることがわかった。加工花の営業の商談はなるべく昼過ぎに入れ、ファクスかメールを事前に利用。話は30分以内に切り上げるようにした。冗談が言える間柄になった顧客には、臆さずに事情を話し、理解してもらった。見た目には、排便障害は分かりにくい。わかってもらうためには、自分から言わなければならない。ただ最近は、波の回数も確実に減ってきた。がん治療後に一変したのは、仕事の進め方だけではなかった。以前は仕事仲間だけでなく、趣味のジャズバンドの仲間にも「やり方がまずい」と自分の考えを押し付けがちだった。病気を経験した今は「数々の失敗を受け止めてくれた取引先や仕事の同僚、家族の支えがあったからこそ、今の自分がいる」と思えるようになった。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・トイレマップ より)
Jul 12, 2011 07:18

トイレマップ
「どうせなら、この状況を楽しもう」。トイレマップを作り始めたのは手術から1年がたったころだった。通勤や営業でよく使う路線の駅や商業施設で、トイレの場所や混み具合、個室数を調べ手帳に書き込んだ。対処が難しかったのが、商談中も容赦なく襲ってくる不意の便意だった。なじみの顧客には、病気への理解を求め、商談を中座することもできる。だが初対面の顧客を前に、頻繁にトイレに行くのは気がひけた。昨年秋、都内の企業から、ネット電報につける花束について「相談にのって欲しい」と依頼があった。サンプルやデザイン資料を手に意気込んで訪れた。直前にトイレも済ませ、準備万端、1人で商談にのぞんだ。担当者を前に商品の説明を始めた矢先、便意に襲われた。脂汗をかいてこらえたが我慢しきれずトイレへ駆け込んだ。先方は理解してくれたが、穴があったら入りたい気分だった。ただ、手術から3年たつ頃には、押し寄せる便意の「波」を予想できるようになっていた。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・トイレマップ より)
Jul 11, 2011 07:32

通勤中の便意と闘う
加工花の輸入会社で営業を担当していた埼玉県所沢市の高垣諭さん(41)は2006年8月、防衛医大病院で、直腸がんの手術後に一時的に付けた人工肛門を閉鎖することになった。「人工肛門を閉じると、排便障害がつらい時期が1~2年ほど続く」と、主治医から説明されていた。だが、便をためる直腸がないことで起きる排便障害の苦労は、想像以上だった。就寝中などに意識せずに下着を汚す「便漏れ」は、括約筋の働きが戻るにつれ、半年ほどでおさまった。念のため、次男のオムツパッドを下着に付けることも、1年後にはなくなった。しかし、便をためる直腸がないため、1日何度も便意に襲われる症状に苦しんだ。便が小出しになるため、トイレに行ってもすぐに次の便意が訪れる。体調によっては、1日10回以上もトイレに駆け込んだ。逃げ場のない通勤電車は、地獄だった。1時間余裕を見て、就業の2時間前には自宅を出た。しかし、修羅場が何度も訪れた。次の駅までの3分間が、30分に感じる。駅ごとに下車してトイレに駆け込み、就業に間に合わなかったこともある。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・トイレマップ より)

Jul 10, 2011 09:16

人工肛門での生活
手術結果は、進行がんだった。大腸と肛門をつなげた傷が治るまでの3カ月間、一時的に人工肛門での生活が始まった。退院後、自宅療養を続けたが、仕事が気になり、いても立ってもいられなくなっていた。退院から2週間後には、1日6時間の短縮勤務で復帰した。しかし体力の低下は思っていた以上だった。人工肛門から出る便をためるため、へその右横に貼り付けたパウチと呼ばれる袋の扱いも悩みの種だった。復職から間もない6月、花の講習会を開いた出張先のトイレでバランスを崩し、パウチの中身をひっくり返してしまった。汚れたチノパンをどうすることもできない。店を出て、がに股でさまよい歩きながら、偶然見つけた作業着店に飛び込んだ。購入した作業ズボンにはきかえ仕事を続けた。みじめだった。人工肛門からの排泄は、自分でコントロールできない。人工肛門を閉じ、自分の意思で排便できる日を待ちわびていた。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・トイレマップ より)
Jul 09, 2011 08:18

家族考え肛門温存術
健康診断をきっかけに直腸がんと診断され、2006年4月に防衛医大病院に入院した埼玉県所沢市の高垣諭さん(41)は、手術法を迷っていた。早期がんか、進行がんか。手術前の判断は難しかった。高垣さんのがんは、肛門の括約筋の上端から1センチほど上にあった。進行がんなら直腸とともに肛門も切除し、腹部に人工肛門を作る手術が必要になる。「まだ標準的な治療ではありませんが」。上野秀樹講師(46)が切り出したのが、直腸は全摘するが、肛門の括約筋を一部残す温存術だった。ただ、肛門温存術は、がんを取り切っても、直腸の便をためる機能がなくなる。1日10~20回の排便となる可能性があった。早期がんの場合は、肛門から電気マスを入れ切除するという方法もあった。ただ、直腸や肛門は残せるが、再発の可能性も残るという短所があった。高垣さんは「家族のためにも絶対に死ねない」と考えた。一方、人工肛門を作れば排便障害は避けられるが、子どもと水泳や風呂で一緒に過ごしたい。妻も同じ考えだった。「排便障害が残っても一緒に頑張って乗り越えよう」。家族で出した結論は、早期がんでも進行がんでも、肛門温存術だった。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・トイレマップ より)
Jul 08, 2011 08:35

進行がんの可能性
「詳しく検査をしないとわからないですが、早期のがんでしょう」。手術が必要だが、差し迫った感じではなさそうだ。胸をなで下ろした。当時は、加工花の輸入会社で営業を担当していた。お祝い事が重なる春は、仕事が一番忙しくなる時期だった。社長に電話すると「仕事のことは考えるな。治すことに専念すればいい」。欠勤中の給料の辞退も申し出たが「心配しなくていい」。社長の言葉が心強かった。4月半ばに入院。内視鏡検査や腹部超音波検査などが始まった。しかし検査が進むにつれ、より深く広がった進攻がんの可能性が出てきた。内壁の粘膜層などにとどまる早期がんなら、開腹せずに肛門から電気メスを入れ、がんの周辺だけを取る手術をすることができる。しかし、がんが外側の筋肉層まで達した進行がんなら、転移を避けるため開腹し、直腸の全摘手術が必要だった。がんと肛門の間が2センチより短ければ、直腸とともに肛門も取り、おなかに人口肛門を作ることになる。人口肛門になったら、子どもたちと風呂に入ったり、水泳に行ったりできなくなるかもしれない。手術への不安も募り、落ち込む日々が続いた。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・トイレマップ より)
Jul 07, 2011 08:13

直腸にポリープ10個
埼玉県所沢市の高垣諭さん(41)は2006年3月、市民医療センターで大腸がんの内視鏡検査を受け、その結果に驚いた。直腸にポリープが10個も見つかり、肛門近くにあるポリーオウは大きすぎて内視鏡では取りきれないという。写真を見ると、どす黒く盛り上がったこぶの周囲に血がにじんでいた。「尋常じゃない」。帰宅してすぐにインターネットで似た写真を検索した。直腸がんの画像は、内視鏡検査で見た直腸のこぶとそっくりだった。妻や、おしゃべりし始めた長男、つかまり立ちを始めた次男の将来のことを考えると、深夜の書斎で流れる涙が止まらなかった。翌週、紹介された防衛医大病院(所沢市)を受診した。しかし、内視鏡写真を見た内科医の言葉に拍子が抜けた。「これ、がんだから。切って取るのが早い」。内科医の紹介で受診した下部消化官外科の上野秀樹講師(46)は、おなかを触って説明した。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・トイレマップ より)
Jul 06, 2011 07:55

転職直後、腸の異常が判明
精密検査を受けようと、所沢市民医療センターに問い合わせると、内視鏡検査まで3カ月待ちだという。ほかの医療機関を薦められたが、病院探しに時間を取られるのが煩わしかった。花を扱う仕事を始めて10年以上。大阪に本社を置く輸入会社の東京営業所開設の話を聞きつけ「関東での営業を任せてほしい」と社長に売り込み5カ月前に入社したばかり。仕事で結果を出すことが求められていた。当初の営業担当は1人だけ。多いときは1日5件の営業先を訪れ、商品リストの作成や説明資料の和訳などもこなした。「急ぐこともないだろう」。検査の予約だけ入れて顧客の新規開拓に打ち込み、内視鏡検査を受けたのは3カ月後だった。腸の中で内視鏡があちこち角度を変えて動き回り、破けそうなほど突っ張っているのがわかる。痛みに耐えるのが精一杯で、腸内が映るモニターを見る余裕もなかった。「あー、これは。間違いないね」。1時間近くたったころ、医師のつぶやきで我に返った。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・トイレマップ より)

Jul 05, 2011 08:19

検便で鮮血反応
今日はちょっと、お尻の具合が良くないな。そんな日の商談前、埼玉県所沢市の高垣諭さん(41)は、顧客にそれとなく事情を説明しておく。「途中でトイレに中座させていただくかもしれません」。5年前直腸がんと診断され肛門を収縮させる括約筋の一部を切り取る手術を受けた。肛門の働きは残せたが便をためる直腸を失ったため日によっては頻繁に便意を催す。「商談中に決壊するわけにはいきませんから」。高垣さんは生花を長持ちさせるよう加工処理した「ブリザードフラワー」を卸す販売代理店を経営する。昨年末に5年間勤めた輸入会社を辞め、独立した。関東一円の生花店やフラワー教室への営業や販売店の開拓に飛び回る日々だ。高垣さんの体に異常が見つかったのは、2005年12月。会社で受けた健康診断の検便で、鮮血反応が出た。1年ほど前から、大便にすっと赤い筋が入っていることがあり、腰や背中の鈍い痛みも続いていた。しかし、特に偏った食生活でもなく、大酒を飲むわけでもない。ストレスによる痔だろうと、気には留めていなかった。(朝日新聞・患者うぃ生きる・がんと就労・トイレマップ より)
Jul 04, 2011 08:25

高リスク化学療法後の吐き気や嘔吐
しかしすべての医師が制吐薬の使用に積極的なわけではない。ガイドライン作成に携わった四国がんセンター(松山市)乳腺外科の青儀健二郎医師は「ある程度、吐き気や嘔吐は仕方ないと考える医師もいまだに多い」と指摘する。通院化学療法の場合、医療者は遅発性の吐き気や嘔吐の場面に遭遇しない。そのため実際に患者が追うとを経験する率に比べ、医療者が予想する割合は半分程度にとどまるという研究もある。患者の側から、症状を訴えることも重要だ。脱毛を防ぐため、抗がん剤の点滴中に、冷却液が流れるシリコーン製の帽子をかぶり、頭皮を冷やす装置も海外では発売されている。冷却により頭の血管が収縮し、血中の抗がん剤の循環量が減るという仕組みだ。国内でも、国際医療福祉大三田病院(東京都港区)の吉本賢隆乳腺センター長の協力を得て、メーカーが開発を進めている。吉本さんは「人目を気にしてかつらをかぶっている患者も多い。早く完成させたい」と話している。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・派遣社員・情報編 より)

Jul 03, 2011 07:48

吐き気 薬で抑えられる
「抗がん剤」には、吐き気や脱毛といった強い副作用がつきものだ。がん患者の生活の質を改善するためのケアは支持療法と呼ばれるが、日本は欧米に比べ、この分野が遅れているといわれてきた。「患者を生きる 派遣社員」に登場した深澤みゆきさんは、乳がんの再発後、エピルビシンとシクロホスファミドという副作用の強い抗がん剤を使った。抗がん剤による吐き気や嘔吐には、24時間以内に出る「急性」と、それ以降の出る「遅発性」がある。急性の吐き気を抑えるには、ステロイド薬などが使われるが、深澤さんの治療法では遅発性の副作用も出やすく、当時はこれを抑える薬は日本では発売されていなかった。しかし2009年12月に「アプレピタント」、2010年4月に「パロノセトロン」の2種類の制吐薬が発売された。ステロイド薬を組み合わせれば、最も副作用の出やすいタイプの抗がん剤でも、吐き気や嘔吐を7割程度抑えられるという。日本癌治療学会も昨年5月、制吐薬の適正使用ガイドラインをまとめ、抗がん剤を嘔吐を催しやすいリスクで分けた。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・派遣社員・情報編 より)


Jul 02, 2011 09:08

再発し退職 心理学勉強
仕事は生きがいだった。両親とは別居しているとはいえ、幼い娘2人を抱えるシングルマザーとして、収入を失いたくなかった。一方で、がんが分かったときから上司、同僚は暖かく見守り、支援してくれた。自分が辞めれば、別の人が入社し、これ以上迷惑をかけずに済む。悩んだ末、「辞めます」と伝えた。抗がん剤の副作用はひどく、3週間に1度の治療のたびに、入院せざるを得なかった。産業医のいうように、仕事を続けるのは難しかっただろう。それでも「正社員だったら休職制度を活用して、続けられていたかもしれない」と思うと、悔しかった。8月から抗がん剤タキソールの治療が始まり、髪の毛だけでなく、まつげや眉毛も抜けた。ウイッグをかぶりながら、計25回の放射線治療を受けた。現在はホルモン剤を飲んでおり、体調は落ち着いている。銀行時代の仲間からは、よく、「いつ戻ってくるの」と聞かれる。しかし今年4月、通信制の放送大学に入学し、心理学を学び始めた。「心と体はつながっていることに、病気を経験して改めて気づいたんです」。自宅の台所を勉強机代わりに教科書を読み、週1日は自転車で15分の学習センターに通い、講義ビデオを見る。「可能なら自分の経験を生かし、心のケアにかかわる仕事に就きたい」。新たな仕事に挑戦するため、24年ぶりの学生生活が始まった。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・派遣社員 より)

Jul 01, 2011 08:22

転移再発
乳がんが見つかり、2007年9月に左乳房の全摘手術を受けた東京都小平市の深澤みゆきさん(42)の転移再発が分かったのは、2009年3月だった。主治医はすぐに手術を受けるように勧めたが、次女の小学校入学式を待ってから手術を受けた。銀行の派遣社員の仕事を休み、自宅療養の日々が続いた。就業規則では、6月半ばまで2カ月間の欠勤が認められる。復帰前の5月に入り、副作用の強い抗がん剤を試した。予想通り、ひどい吐き気だった。5月下旬、復職の相談のため産業医に会うと、思いがけない言葉が返ってきた。「抗がん剤治療を受けると免疫力が落ちる。接客でいろいろな人と接する仕事は、難しいのではないか」。一度辞めて、また機会があれば復職してはどうかと打診した。保健師も同じ意見だった。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・派遣社員 より)
Jun 30, 2011 08:29

乳房再建後 再発の感触
「お母ちゃんね、実は乳がんだったんだよ」。長女の美沙紀さん(13)はびっくりして泣き出した。「おなかが痛いといっていたけど、実は違うんだろうと思っていた。でも、まさかがんだとは思わなかった」。次女の詩穂香さん(8)は告知以来、別々に入っていた風呂に一緒に入れるようになったのが、うれしかった。2008年10月の定期健診では異常が見つからず、普段通り仕事を続けていた。2009年3月、乳がんと診断された歌手の川村かおりさんを採り上げたテレビ番組を見た。「そういえば最近、自己触診していないな」。何の気なしに左胸のあたりを触ってみると、わきの下にぐりぐりとした感触があった。再発だった。初発のときは、がんはリンパ節に転移していなかった。「それなのに、なぜ」。今度は、抗がん剤と放射線治療を受けなければならない。脱毛や嘔吐といった副作用が怖く、主治医には「受けたくない」と訴えた。考えが変わったのは、美沙紀さんの言葉だった。「髪の毛が抜けても、また生えるからいいじゃない」。娘たちにがんのことを伝えたことは間違いじゃなかったと、うれしく思った。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・派遣社員 より)
Jun 29, 2011 08:23

乳房再建「胸の形が戻った」
東京都小平市の深澤みゆきさん(42)は、2007年9月に乳がんの手術を受け、2カ月間の傷病欠勤を取った。5カ月後、再び乳房再建手術のため入院し、1カ月ほど休んだ。派遣社員の身で何度も欠勤し、「申し訳ない」と感じていた。これまで病気のことは、ごく一部の同僚にしか伝えていなかった。しかし2度の休職を経て、「もういい加減、周りにも伝えよう」と考えるようになった。同僚から体調を尋ねられれば、「実は・・・・」と病気のことを明かすようになった。復職から3カ月後。乳房に乳輪と乳頭を作る手術を受けるこになった。股のつけねの色素が濃い皮膚を乳房に移植し、乳輪とする。入院期間は1泊2日だったが、満員電車の接触で皮膚がはがれるのを避けるため、再び2~3週間休んだ。「胸の形が戻った」。深澤さんにとって、それは大きな喜びだった。そろそろ子どもたちに事実を伝えてもいいかもしれない。夏休みのある日。当時、10歳と6歳だった娘に告げた。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・派遣社員 より)
Jun 28, 2011 08:05

乳房再建
職場では、現金自動出入機(ATM)の裏にある硬貨や紙幣の回収など、重いものを持つ仕事も結構あった。困っている深澤さんを見て、同僚の女性が何も言わず手伝ってくれた。乳房再建のため、左胸には「エキスパンダー」と呼ばれる袋が埋め込まれていた。生理食塩水を袋に入れ、左胸の皮膚を伸ばすためには、休みを取り通院する必要があった。月に1度、ホルモン剤の注射を受けに行く際は半休を取った。有給は、入院前の検査などですべて使い切ってしまった。手取りが月約16万円の中、通院のため欠勤し、収入が減るのは痛かったが、仕方なかった。幸い4~5回の通院で、皮膚を伸ばすことができた。エキスパンダーを取り除き、シリコンと入れ替える手術をすることになった。だが再び、就業規則の壁が立ちはだかった。同じ病気を理由に再度、長期間休むことはできないという。「胸を再建するには、銀行を辞めなければならないのか」。悩む日が続いた。だが幸い、乳がん手術と再建手術は、別の病気だとみなされた。今度は約1カ月間、休むことにした。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・派遣社員 より)
Jun 27, 2011 08:42

規則通りフルタイム復帰
乳がんと診断され、2007年9月に左乳房の全摘手術を受けた東京都小平市の深澤みゆきさん(42)は、自宅療養を終え、11月に職場復帰することにした。勤務先の銀行の就業規則では、非正社員の傷病欠勤は最長2カ月しか認められていなかった。復帰する前に、本社の産業医との面談を求められた。診断書を渡すと、手術の様子や、働く上で注意することを聞かれた。「重いものが持てない」と伝えたが、復帰のゴーサインが出た。支店長に電話で報告すると、「よかったね」と我がことのように喜んでくれた。復帰初日。職場の同僚で、乳がんの手術を受けたことを知っているのは、直属の上司らに限られていた。「何か聞かれたら、どうしよう」。ドキドキしながら職場に行った。だが気を使っているのか、誰からも何も聞かれなかった。就業規則では、短時間勤務では「復帰」と認められない。そのため初日から、午前9時から午後5時までのフルタイム勤務で働かねばならなかった。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・派遣社員 より)
Jun 26, 2011 08:20

左胸全摘 体力落ちた
職場でも、一番仲のいい同僚を除き、乳がんであることは伝えなかった。手術前の検査で休むときは、「子どもの具合が悪い」と言い訳した。周囲から特に気遣われないお陰で、仕事中は病気のことを忘れられた。だが夜、家族が寝静まった後は不安の連続だった。「何でがんになったんだろう」「離婚したのに、また親に迷惑をかけるのか」。堂々巡りの考えが駆けめぐった。就業規則では、非正社員でも2カ月間までは傷病欠勤が認められるという。前日まで普通に働き、9月に入院した。同僚には、「少し体調を崩した」と伝えるよう上司にお願いした。子どもには、「おなかが痛くて手術する」とうそをついた。左胸の全摘手術を受け、2週間後に退院した。利き腕の左腕が思うように動かなくなり、家事や着替えにも手間取った。体力が落ち、寝たり起きたりの生活が続いた。当時4歳だった次女と入っていたお風呂も「おなかの傷跡が痛いから」と別々にした。そうこうしているうちに、傷病欠勤の上限である2カ月が近づいてきた。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・派遣社員 より)
Jun 25, 2011 09:03

涙で「仕事が、仕事が」
左胸に乳がんが見つかった東京都小平市の深澤みゆきさん(42)は2007年5月、勤め先の銀行の上司に告げる覚悟を決めた。だが、2人の娘を育てるシングルマザーとして、派遣社員の職はどうしても失いたくなかった。乳がんと診断されたことを告げると、上司は絶句した。深澤さんはいつしか涙を流しながら、「仕事が、仕事が」と訴えていた。「子供もいるんだし、仕事より自分の体が大事だよ」。後で分かったことだが、上司は数年前に、妻を胃がんで亡くしていた。深澤さんの気持ちを受け止め、支店長にもかけあってくれた。支店長も「辞めなくてもいい方法を調べてあげる」と本社の制度を調べ、奔走した。一緒に住む両親には、診断された時点で伝えた。母の露子さん(71)は「おさない子供を2人抱えて。なぜ、娘が乳がんで苦しまなければならないのか」と思うと、涙が止まらなかった。ただ、子供たちには、あえて余計な心配をかけさせまいと思い黙っていた。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・派遣社員 より)
Jun 24, 2011 08:55

離婚から1年余 しこり
細胞の組織を取って調べる細胞診まで進んだ。1週間後、結果を聞きにいくと、医師がやぶから棒に話を始めた。「早期の乳がんですが、がんが胸全体に広がっているので、全摘しないとだめですね。手術しますが、数日で退院できます。体液は自分でカテーテルで出して・・・・」。ひとごとのように話す医師も、カーテンで仕切られただけの診察室も嫌だった。友人に相談し、乳がん治療で有名な東京都内の病院で再度、検査を受けた。やはり結果は同じだったが、医師の説明の仕方は違った。「若くてかわいそうだけど、命を優先させるために全部取りましょう。乳房再建も考えましょう」。この先生にお願いしようと思った。職場にはずっと、がんの精密検査を受けていることは黙っていた。自分は派遣社員の身。がんであることを告げたら、すぐ辞めさせられるのではないか。そう思うと、なかなか言い出せなかった。だがいつまでも、隠し通せるはずはなかった。(朝日新聞・患者うぃ生きる・がんと就労・派遣社員 より)
Jun 23, 2011 08:40

気になる胸のしこり
左胸の上にある、「コリッ」とした感触。これは何だろう。東京都小平市に住む深澤みゆきさん(42)が左胸にしこりを見つけたのは4年前。風呂上りに、体をふいていたときだった。高校を卒業後、大手都市銀行に就職。8年間勤めた後に退職し、生命保険会社で働いた。28歳で結婚。2人の娘にも恵まれ、2004年から派遣社員として再び別の銀行で働き始めた。だが翌年、結婚生活にピリオドを打った。働き方も短時間勤務から週40時間勤務に変えた。胸のしこりが見つかったのは、離婚から1年余り後。新しい仕事にも生活にも慣れ、ようやく一息ついた頃だった。「まだ38歳なのに」。半信半疑で、顔見知りの産婦人科医院に行った。医師は超音波を耳に当て「たぶん、気のせいだと思うけど、専門医に診てもらったほうがいい」と言いながら、紹介状を渡してくれた。地元の病院に行くと週1回しか乳腺外科医は来ないという。ようやく予約が取れたのが2007年5月。マンモグラフィー、超音波と検査を重ねたが、医師は首をかしげるばかりだった。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・派遣社員 より)

Jun 22, 2011 09:03

長期負担 支える制度を
「患者を生きる 高額療養費」で紹介した女性は、薬代を節約するため、グリベックを毎月ではなく、2カ付分まとめて処方してもらった。薬代を年12回払うより、6回に減らしたほうが、自己負担額が少なくなるからだ。入院の場合はあらかじめ健康保険組合などから認定証をもらい、病院に提出すれば、高額療養費の上限分だけ払えばよい。しかし通院の場合はいったん、請求額を払わなければならない。約3カ月後に戻ってくるものの、数十万円を立て替えるのは大変だ。厚生労働省は、窓口での負担を上限内ですむよう制度改正を準備中だ。来年4月の全面導入を目指している。東大の児玉さんは「経済的な理由で治療を中断している患者さんもいる。現行の高額療養費は、手術などで一時的に高い医療費がかかることを想定した制度。高額な薬を使い続ける患者を支援する仕組みが必要だ」と指摘する。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・高額療養費・情報編 より)
Jun 21, 2011 08:48

増大するがん患者の経済的負担
最近登場したがんの薬は高額なものが多く、患者の経済的負担の重さが問題になっている。たとえば、慢性骨髄性白血病の治療薬グリベックは標準的な使い方で1カ月の薬代が約33万円。3割負担でも月約10万円に上る。グリベックは原則的に一生飲み続ける必要があり、長期間、負担が続くことになる。東京大医科学研究所特任研究員で看護師の児玉有子さんらが2009年12月~2010年1月までに患者会などを通じて、白血病患者ら227人にアンケートをした結果、「医療費を負担に思う」と回答した人は69%いた。高額療養費制度を利用した人は51%で、その92%が自己負担の限度額の引き下げを求めていた。支払い可能額は「月1万円以下」を挙げる人が多かった。高額療養費制度では、所得に応じて、1カ月の限度額が決まっている。70歳未満で一般的な所得(健康保険の場合は標準報酬月額が53万円未満)の人の場合には、自己負担の限度額は月8万円余に上る。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・高額療養費・情報編 より)
Jun 20, 2011 08:43

「わたしはがんには負けません」
再び、仕事のある生活が始まった。相談に訪れる人の多くは中高年の男性だ。時間は1人約30分。1日で4~5人の話を聞く。半年間から1年間、通ってくる人もいる。病気をきっかけに仕事を失った人も多く、収入だけでなく、自信もなくしていた。かつての自分と重なり、いたわりながら、じっくり話を聞くようにしている。がんの治療中に失職し、高額な医療費を抱え相談にきた人がいた。一通り話した後、「わたしはがんには負けません」と語る相手に、思わず、「一緒にがんばりましょう」と声をかけた。勤務時間は正職員と変わらないが、嘱託のため年収は200万円程度。以前、経理の仕事をしていたときの半分以下だ。高額療養費制度を利用しても、医療費は年に20万円以上かかる。治療のためにも働き続けなければならないから、職場で、病気のことを話すつもりはない。また職を失うのが、怖いからだ。新しい薬が次々と開発され、がん患者でも普通に仕事ができる時代になった。一方、病気に対する世間の理解は変わっていないことを、日々痛感する。「それでも病気を経験し、周囲に支えられて生きていることが分かった。今のほうが幸せです」。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・高額療養費 より)
Jun 19, 2011 10:13

経験生かし福祉相談員へ
慢性骨髄性白血病をきっかけに仕事を失った関東地方の女性(45)は患者会の活動の傍ら、就職活動を続けていた。職を失ってから3年半。不採用は数十社に達していた。2010年春、住んでいる自治体の広報誌にあった事務員募集のお知らせが目にとまった。履歴書を書いて面接に行った。「何か仕事があればお知らせします」という話だった。数日後、電話で連絡がきた。「全く別の部署の仕事なのですが、いま人を探しています。来てもらえませんか」。誘われた仕事は福祉部門の相談員の嘱託職員だった。医療、介護、就職の相談を受ける。患者ボランティアの活動をしていることが評価されたらしい。カウンセリングの勉強をしてきた経験を生かせる。就職で苦しんできた自分が、自立に向けできるた手伝いができる立場になるなんてと、運命的なものを感じた。夫(53)も喜んでくれた。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・高額療養費 より)
Jun 18, 2011 08:16

患者サロン始め情報交換
職場では理解されず苦しんだが、患者会に参加し、語り会える仲間ができて楽になった。そんな「出会いの場」を、仲間と出会えていない、ほかの患者にも提供したかった。女性が呼びかけ、病院の中で、血液の病気の患者やその家族が集まり、思い思いに語り会える「患者サロン」を始めた。病院側の理解を得るために、粘り強く説明に回った。2カ月に1回、7~8人が会議室に集まってくる。常連もいれば新顔もいる。お茶は自分たちで持ち寄った。「セカンドオピニオンを聞きに行ったら希望が見えたよ」「あの先生はよくわかってくれるよね」 周囲から理解されず、孤独感に悩む患者は多い。「やっと分かってもらえた」と泣き出す人もいた。2時間があっという間に過ぎた。新しい治療の情報を吸収するため、仲間と一緒に学会発表も聞きに行った。日韓の患者交流会にも参加。政府などに働きかけ、治療薬グリベックの費用負担を実質ゼロにした韓国の患者の話を聞き、勇気をもらった。患者会活動に打ち込むうち、仕事探しにも天気が訪れた。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・高額療養費 より)
Jun 17, 2011 08:26

職探しを始めたが・・・
関東地方に住む女性(45)は慢性骨髄性白血病の発病をきっかけに、2006年に職を失った。再就職のために取り組んだ産業カウンセラーの勉強と並行して、職探しを始めた。折込広告の求人に目を通し、ハローワークに通った。職種にはこだわらず、思いつく限り応募した。事務員、病院の受付、国税局やスーパーのお中元のアルバイト・・・。面接では、「長年勤めた会社を辞めた理由は?」と、必ず尋ねられた。そのたびに「親の介護で」と答えた。うそではなかった。当時、父親が末期がんを患っており、ちょくちょく実家に帰っていた。自分の病気のことは、絶対に口にしまいと決めていた。がんであることを打ち明けたら、採用してもらえるはずがない。だがずっと就職先は決まらなかった。40代という年齢では難しいと言い聞かせたが、不採用のたびに、自分が否定される苦しみを味わった。そんな時期、打ち込んだのが患者会のボランティア活動だった。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・高額療養費 より)
Jun 16, 2011 08:49

再就職目指して勉強
「先生、薬を2カ月分まとめて処方していただけませんか」。それまでは2週間分ずつもらっていた。薬をずっと飲み続けていて、自己負担限度額は月約4万円。毎月この金額を負担するより、2カ月に1回の方が負担は半減する。一方、職場の理解は、退職を求められてから1年たっても変わらなかった。頑張って通勤してきたが、不眠にも悩まされるようになった。再就職を見据え新しい勉強をしようと心理カウンセラー講座を申し込んでいた。夫から「薬代はおれが働くから心配しなくてもいい。もう辞めてもいいよ」と言われ、退職を決めた。学ぶうちに、もっと実務に役立つ勉強をしたいと、産業カウンセリングの講座も受け始め、7カ月間通った。今でも忘れられない講師の言葉がある。「相手の奥にある思い、心の叫びをじっくり感じなさい」。これまで、自分も他の人の思いを聞けていなかったと反省した。会社で機械設計の仕事をしていた夫も一緒に講座に通った。夫は海外での仕事も多く、お互いで話す時間も少なくなっていた。一緒に勉強するうち相手をより理解できるようになった。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・高額療養費 より)

Jun 15, 2011 09:08

休職を経て復帰するが・・・
慢性骨髄性白血病と診断された関東地方の女性(45)は、病気を理由に退職するよう、勤め先の担当者から言われた。薬代のためにも、経理担当の正社員として働き続けたいと、2カ月間の休職を経て復帰した。同僚には病名を伝えていなかった。「戻ってこられてよかったね」と喜んでくれた。しかし経理の仕事は、正社員に「格上げ」された派遣社員が担当していた。自分はその社員の手伝いという立場になった。「休職とはこういうことだったのか。屈辱的だった。仕事量は激減した。仕方なく、仕事がないときには、経理の勉強をして過ごした。薬の副作用で体にむくみが出てきたが、治療は順調に進んでいた。医療費の負担も抑えたいとインターネットなどで情報を集めるうちに「高額療養費」という制度を知った。医療費の自己負担には月ごとの限度額があり、それを超えた分は申請すればあとで戻ってくるという。医療費の見通しが立って、少し安心できた。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・高額療養費 より)

Jun 14, 2011 09:27

「薬代を、稼がなければ」
休職の間に、治療を本格的に始めることにした。慢性骨髄性白血病の治療法には、骨髄移植などがある。だが2001年にグリベックという薬が登場し、治療法は一変した。薬を飲み続けることで異常な細胞が減り、白血球が正常化する。従来の薬と比べると、強い副作用が出ることは少ない。ところが大学病院で薬を処方され、会計で渡された請求書を見て驚いた。2週間分の薬代や検査代だけで窓口負担が1万円を超えるはずはないのに、73530円とある。一瞬、桁が間違っていると思った。医師からは、薬代についての説明は全くなかったからだ。思わず窓口の人に確かめたが、金額に間違いはなかった。現金の持ち合わせがなく、クレジットカードで支払った。グリベックは当時の薬価で、1カ月の薬代が約40万円に上った。公的医療保険の自己負担の割合が3割の場合、支払いは薬代だけで、約12万円に上る。「やはり、辞められない。薬代を稼がなければ」。勤め先の要求をのむわけにはいかないと、心に決めた」。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・高額療養費 より)
Jun 13, 2011 09:14

自宅待機に
経理担当の正社員として働いていた関東地方に住む女性(45)は、慢性骨髄性白血病と診断された直後、人事担当者から呼び出された。窓はない椅子二つだけの狭い面談室。向かい合った人事担当者が「何の病気なのか」と聞いてきた。病名を答えると、担当者は淡々とした口調で話した。「病気の治療で入退院を繰り返します。他の人に迷惑がかかることになりますから、辞めていただけませんか」虫垂炎が疑われ、2週間ほど検査入院したときから目をつけられていたらしい。実は病名を告知されたばかりで、自分でもよく理解できていなかった。だが「薬を飲んでいれば他の人と同じように仕事ができます」と反論した。さらに、入院の必要はなく土曜日に通院すること、同僚には迷惑をかけないことを説明したが、聞き入れられなかった。担当者との話し合いは幾度にも及んだ。正社員からパート勤務への降格も提案されたが、応じないままでいると、2カ月間の自宅待機を求められた。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・高額療養費 より)
Jun 12, 2011 10:00

流産に続き、白血病告知
決算が近づき、忙しい時期ではあった。だが、「なぜ、そこまで」と恐怖を感じた。思い返せば、病気になって辞めさせられた同僚が何人もいた。血液内科で詳しく検査してもらうため、大学病院を受診した。骨髄に針を刺して髄液を取り出し、異常な細胞がないか調べてもらった。結果が出たのは、3週間後の土曜日。夫と二人で診察室に入ると、医師が淡々と言った。「残念な病名です。慢性骨髄性白血病です」。慢性骨髄性白血病は、骨髄で作られる白血球が増え続ける病気だ。病気の初期は目立った症状はなく、進行も遅い。急性期になると、命にかかわるが、幸い、まだ深刻な状況ではなく、薬で十分悪化を防げるという。医師が治療方法を説明し始めると、夫が途中から泣き出した。女性の目からも大粒の涙がこぼれ落ちた。どうやって自宅まで戻ったのか、よく覚えていない。流産に続くがんの告知。つらいことが重なった。ショックもさめやらない週明け。事務所に行くと、人事担当者から突然、面談室に呼び出された。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・高額療養費 より)
Jun 11, 2011 08:57

病気の発見
関東地方に住む女性(45)は毎日、「1錠2749円」の薬を4錠、欠かさず飲んでいる。慢性骨髄性白血病と診断されてから6年。女性にとって、進行と止めてくれる命の薬だ。病気が見つかった当時は、大手企業の正社員として10年近く、経理を担当していた。簿記の資格を生かし、現金の出し入れや顧客への請求額の計算を担当。同僚の信頼も厚かった。病気の発見は、流産がきっかけだった。結婚して13年。7つ年上の夫とともに、待ち望んでいた初めての妊娠だった。流産した直後、おなかの痛みと微熱があって病院に行ったら、血液検査で、白血球の数が異常に多いことがわかった。腹痛はあさまり、特に体の不調はなかった。異常になる原因は思いあたらない。虫垂炎を疑われた。2週間入院して精密検査したものの、結局、原因はわからなかった。入院中、勤め先の人事担当者が病院に電話をかけてきた。「なぜ入院したのか説明しなさい」と、問い詰められた。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・高額療養費 より)
Jun 10, 2011 08:38

勤めに限界 1人で起業

そんな時、50歳代のベビーシッターが肺がんになり、3カ月ほどで亡くなった。「どうして彼女は亡くなり、自分は生きているんだろう」。生き残ったからには時間を無駄にしてはいけない。その思いが、起業への夢を後押しした。2008年7月、約2年間勤めた会社を辞めた。会社をつくるという夢の実現のため、知人4人に相談したが、理解してもらえない。もうやめようと思った直後、お金を貸してくれる人が見つかった。登記などの手続きにはインターネットで手探り。住んでいた都内の住所に会社登記をすると、「イメージが大事」と周囲に言われ、六本木のレンタルオフィスの住所に登記をやり直した。2008年10月、イベント会社の「社長」になった。生バンドのカラオケや、ツーリングツアーなどを企画する。年商は約350万円。社員は自分1人で、時々はアルバイトもする。「会社を続ける」ことが目標だ。3月11日の東日本大震災を機に、もっと直接的に人助けをしたいと思うようになった。がんの経験を語る講演活動に力を入れ、業務の幅を広げたい。手始めに、子ども向けカウンセラーの資格を取るための勉強を通信講座で始めた。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・働きたい より)

Jun 09, 2011 09:24

病気の事 一斉メールで流したが
「約2年前、私は子宮頸がんになりました。体を酷使したら、病気が猛威をふるいます」。保育園を運営するベンチャー企業に勤めていた阿南里恵さん(29)は2006年9月、十数人の同僚に一斉メールを送った。手術の後遺症で、残業が続くと足がむくみ熱が出る。無理を重ねると、リンパ浮腫や腸閉塞になる危険性もあった。平日は正午から午後9時までの勤務。週2日は休むことについて、理解を求めた。社長も「皆さん、協力をお願いします」と一斉メールを流した。だが同世代の社員からは、何の反応もなかった。効率よく仕事すればよい。最初はそう思った。しかし同じ部署の先輩が辞め、社員は自分1人になった。問題が起こると、残業や休日出勤さざるを得ない。仕事のせいで、合併症を起こすことは避けたかった。転職も考えた。だが、がんを打ち明けずに就職したら、同じことの繰り返し。会社勤めに限界を感じ始めていた。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・働きたい より)
Jun 08, 2011 08:59

「病気は私の一部」同僚に説明
運良く正社員として採用され、六本木の職場に通い始めた。配属先は、ベビーシッターを派遣する部署。社員は自分も含め2人だった。朝9時から夜遅くまで働き、自宅に戻ると、ベッドに倒れこんだ。終電近くまで残業が続くと足が赤く腫れ、翌朝は38度近くの熱が出た。このままでは、体がもたない。勤め始めて1カ月後、直属の上司に打ち明けた。「実は2年前にがんになり、今も経過観察中なんです」。課長は「無理しなくていい。残業はせず、休みも取ってください」と理解してくれた。勤務時間は、正午から午後9時までになった。だが多い日は40人ほどのベビーシッターの行先を手配し、地図をファクスする。「到着した」「これから帰る」という電話連絡が、相次ぎ入る。シッターが急に休んだ場合は、代わりの担当者を探し、見つからない場合は自分が駆けつける。派遣先は増え続け、仕事は忙しくなる一方だった。もう1人の先輩社員が「なんで阿南さんだけ特別なシフトなの」と陰で言っていることが、同僚から漏れ伝わってきた。「他にもそう思っている人はいるんだろうな」。がんについて皆に知ってもらうほかしかない。「約2年前、私はがんになりました。私にとって病気は体の一部です」。約2時間かけて、社員十数人に向けてメールを打ち、これまでの経緯や体調についても簡単に説明した。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・働きたい より)
Jun 07, 2011 08:50

再び上京し就職
2005年1月に子宮頸がんの手術を受けた阿南里恵さん(29)は、体力が落ち、東京の会社を辞めた。療養のため、大阪の実家にいったん戻った。体への負担が少ない、パソコン教室のアルバイトを始めた。客にお茶を出したり、受講生の予約を取ったり。1年経つと、6時間勤務を週5回、こなせるようになった。起業すると言う夢が、再び頭をもたげた。「東京でしか、かなえられない」。そんな思いを胸に2006年5月、1年振りに上京し、アパートを借りた。子どもにかかわる仕事がしたいと、保育園を経営するベンチャー企業の採用試験を受けた。履歴書に「子宮頸がんの経過観察中」と書くべきかどうか。迷ったが、書けば採用されないだろうと思うと書けなかった。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・働きたい より)
Jun 06, 2011 08:34

体力衰え退社 実家へ

骨盤への放射線治療は通院で、5週間続いた。貯金を崩し、新宿に借りたアパートから病院まで地下鉄で20分ほど。移動するだけで息が上がり、全速力で走った後のように「ゼーハー」という呼吸になった。副作用で下痢もした。治療が終われば、会社に戻るつもりだった。だが足がむくみ、尿もうまく出ない。体力はすっかり衰えていた。皆が終電まで働く中、以前のように働けるだろうか・・・・。歩くだけで精一杯、日常生活さえままならない自分がふがいなく、部屋で一人、何度も泣いた。会社に籍を置き続ければ未練が残る。6カ月間の休職の末、総務の担当者に電話して「辞めます」と告げた。会社近くのレストランで、仲間が送別会を開いてくれた。役100人の同僚を前にしたお礼のあいさつ。思わず夢を口にした。「私はいつか社長になります。阿南という名が皆さんの耳に入るよう頑張ります」。憧れだった社長は「有能なら独立しろ」とよく言っていた。がんを経験し、一変した人生に区切りをつけよう。充電するため、実家に戻ることにした。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・働きたいより)

 

Jun 05, 2011 09:20

始まったがん治療
東京都内の不動産ベンチャー企業で営業の仕事を始め1カ月半。子宮頸がんがわかった阿南里恵さん(29)は、2004年11月、実家のある大阪に戻った。大阪府立成人病センター(大阪市)に入院し、腫瘍を小さくするための抗がん剤治療が始まった。副作用で、長い髪がどんどん抜けていく。抜け落ちた毛を見るのが嫌で、美容室でそってもらった。病室では東京タワーのはがきばかり眺めていた。ある日、東京の職場から、2人の社員が千羽鶴と色紙を手に見舞いに訪れた。「早く元気になって、たくさんマンションを売ろう」。メッセージはうれしいが、華やかな格好の社員と、パジャマにニット帽の自分とに違いを感じ、つらくなった。2005年1月末に6時間の手術の末、子宮を摘出。周辺のリンパ節なども切除した。退院後は、同じ病院で放射線治療を受ける予定だった。しかし「東京で受ける」と宣言し、国立がん研究センター中央病院への転院を決めた。早く戻らないと、会社に居場所がなくなってしまう。気ばかりあせっていた。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・働きたい より)
Jun 04, 2011 09:31

仕事に情熱 矢先に出血
激務が続いていたある日。生理でもないのに下着に血がついた。1カ月以上続き、だんだん量が増えていった。不安になり都内の婦人科診療所で内診を受けると「子宮頸がんと見られます。すぐに大きな病院に行ってください」と紹介状を渡された。「お母さんごめん。がんになった」。診療所を出て、母(64)に電話した。翌日、国立がん研究センター中央病院の婦人腫瘍科を受診すると、笠松高弘医師(55)は両親を呼ぶように言った。数日後、3人で訪れた。「子宮を全部取ることになるかもしれません」。がんは早期とはみられず、手術の後遺症で、手足がむくむリンパ浮腫や膀胱神経マヒになる可能性もあるという。手術は実家近くの病院で受けることにした。数日後、がん治療のために休職することを同僚に告げた。先輩らは「戻ってこいよ」と泣きながら見送ってくれた。やりがいのある仕事を見つけ、まだ1カ月半、治ったらまた、ここで働こう。「それまでの我慢だ」と、自分自身に言い聞かせた。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・働きたい より)
Jun 03, 2011 09:05

仕事に打ち込んでいたのに

ストライプ柄の黒のパンツスーツに高めのピンヒール靴。阿南里恵さん(29)は定番の格好で、連日終電まで東京都内を走り回っていた。2004年秋、22歳の頃だった。勤め先は渋谷に本社を置く不動産販売のベンチャー企業。売れ残っていた新宿のワンルームマンションを受け持つと、飛び込みで呼び鈴を押した。「資産価値があります」。5度足を運んだ30代の男性客が、3千万以上の部屋を買ってくれた。入社1カ月ほどで立て続けに2部屋を売り、歩合制の月給は50万円を超した。同僚からも、一目置かれた。大阪市東大阪市出身。地元の専門学校を出て、都内に本社がある大手の製造業に勤めた。だが、活気が無い職場に嫌気がさしてやめた。不動産チラシ配りのアルバイトをきっかけに、不動産業界に飛び込んだ。仕事が楽しく、休日は2週間に1回程度。帰宅後も休みの日も、早く会社に行きたくて仕方がなかった。当時27歳の男性社長は、高校中退後に会社を起こし、10年で従業員450人の会社に育てた。腰が低くて頼りがいがある、憧れの存在だった。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・働きたい より)

 

Jun 02, 2011 09:11

容体が急変 

思いあまって、ハローワークの職員に相談した。「病気(がん)のことを隠してもいいでしょうか」。職員は「後でわかったときに大変だから、伝えるように」と言う。人材派遣会社にも登録したが、秋になっても仕事は見つからなかった。受けた会社は、20社を超えた。10月、再び左肺の下にがんの転移が見つかった。3度目の手術を受け、18日間入院した。失業給付の支給は10月で終わり、11月からは無収入になった。切りつめても、月々の生活費と治療費で30万円はかかる。それでも、できるだけ家族と一緒に過ごそうと、各地を旅行し、職探しも続けた。再び春を迎えた3月29日、呼吸困難が激しくなり、再び入院することになった。「今回は日にちがかかりそうだな」。そう思い、病室にパソコンを持ち込んで、復帰に備え病気の経過を詳しく記録していた。だが容体が急変し、4月19日、54年の生涯を閉じた。妻は言う。「最期まで、働きたいという気持ちを持ち続けていました」。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・働きたい より)

Jun 01, 2011 09:15

20社不採用
肺がんの手術後にがんが転移し、治療を続けてきた千葉県の男性(54)は2009年9月、約30年間勤めた会社を早期退職した。幸い、約1年間は失業給付がもらえる。闘病と仕事に疲れた体を休ませようと、半年間はのんびり過ごそうと思った。月1度の抗がん剤治療も続いていた。「こんなに気持ちが悪くなって、仕事に就けるのか」という不安もあり、なかなか就職活動に踏み出せなかった。桜の花が散り始めた頃、ようやく仕事を探そうという気になった。しかし腫瘍マーカーの値が、少しずつ上がっていた。主治医と相談し、様々な抗がん剤を試した。副作用で腎機能が悪化し、体がだるくなった。それでも、7月に入ると体調が一段落した。自宅近くのハローワークに通い、条件に合う学校事務やマンション管理員の職に応募するようになった。だが書類選考だけで、落とされる日々が続いた。面接にこぎつけられた社も3社だけあった。しかし健康状態を尋ねられ、正直にがんであることを告げると、二度と連絡は来なかった。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・働きたい より)
May 31, 2011 09:22

早期退職して社宅を出た
しかし退職金が上澄みされ、早期退職に応じれば約2800万円が手に入ることを知って心が揺れた。「体が資本。これ以上、仕事でストレスを抱えたくなかった」。会社は早期退職支援の斡旋会社も紹介してくれるという。支店長を歴任した自分のキャリアであれば、再就職先もすぐ決まると思った。「会社にしがみつくべきだ」と助言してくれた同僚もいたが、妻とも話し合い、退職を決めた。転勤続きで、ずっと社宅暮らしだった。退職すれば、社宅も出なければならない。こつこつと貯めてきた住宅財形と退職金の一部を取り崩し、1350万円で築10年の庭付き中古住宅を買った。結婚依頼、初めての一戸建てに、妻と息子は喜んだ。サラリーマン人生最後の日。職場で短く別れのあいさつをし、花束を受取った。合併後、つきあいの日が浅い同僚も多く、拍子抜けするほどあっさりとしたものだった。自宅に帰る途中、妻と息子から相次いで携帯にメールが入った。「長い間、お疲れ様でした」。帰宅後、近くの居酒屋に三人で行き、これからの門出を祝いビールで乾杯した。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・働きたい より)
May 30, 2011 09:19

リストラ
肺がんの胸椎への転移が分かった千葉県の男性(54)は、抗がん剤と放射線治療を受けるため、1カ月ほど入院した。2008年10月には退院したが、暖かくなる翌年3月まで、自宅で療養した。職場に復帰すると、会社は他社と合併し、名前も変わっていた。職場の顔ぶれも一部変わっていた。それでも復帰当初は、あまり違和感を感じなかった。しかし企業風土の違いが、徐々に明らかになってきた。元の会社は風通しがいい、家族的な雰囲気だったが、合併した他社は「売ってなんぼ」の世界。同僚間の競争も激しかった。予想していたリストラの波も、思ったより早くきた。合併から4カ月語には、早期退職者の募集が始まった。男性は当初、会社に残るつもりでいた。治療費だけで年間100万円近くかかり、生命保険料の支払いも月8万円近くにのぼる。大学生の長男(21)を抱え、パートで働く妻(53)の手取り13万円の給料だけでは、とても暮らしていけない。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・働きたい より)
May 29, 2011 09:30

転移し入院中 会社合併
手術から2年たった2008年春、肩甲骨付近に痛みを感じた。大学病院の主治医に告げると、整形外科を受診するよう言われた。X線検査では、異常は見つからなかった。しかし痛みは治まらない。毎月撮影を続けていると、数カ月後、X線にうっすらと影が写った。恐れていた、胸椎への転移だった。放射線と抗がん剤治療を受けるため、再び入院することになった。年下の部長に告げると「仕事のことは考えないでください」と快く送り出してくれた。今度の入院期間は、1カ月間近くにわたった。抗がん剤タキソテールの副作用で、二日酔いのようなムカムカが続き、味覚障害も起きた。そのころ、会社は同業他社との合併に向けた話し合いの真っ最中だった。「新しい会社の名前が決まったぞ」。入院中、同僚がメールで教えてくれた。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・働きたい より)
May 28, 2011 09:38

異動と降格

異動を打診された部署は、自分のように支店長を経験した「古参兵」が集まる部署で、居心地も悪くなさそうだった。ただ、主査への降格が条件だった。900万円の年収が、50万円程度に下がるという。それでも、仕事のストレスでがんが再発するほうが怖かった。職場にもこれ以上、迷惑をかけられない。納得して異動を受け入れた。「給料をもらえるだけで、有難いと思った」。以前のように、バリバリ働きたいという気力も失せていた。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・働きたい より)

 

 

May 27, 2011 09:23

がんと就労
肺がんの胸腔鏡手術から5カ月後。千葉県の男性(54)は、職場復帰した。地域統括部の副部長から部付の部長代理に降格され、仕事の内容も軽くなった。しかし本調子に戻るまでは1年近くが必要だった。抗がん剤を飲みながら、3カ月に一度はCT検査を受け、仕事を続けた。ようやく体力が戻り、無理なく仕事がこなせるようになった2007年秋。人事部の担当者から呼び出された。「審査部にあいているポストがあります。異動する気はありませんか」現在の職場は、全国の支店を統括する営業の最前線で、気苦労も絶えなかった。審査部の業務は、各支店からあがってくる顧客の財務情報を確認する仕事。営業ほどきつくはない。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・働きたい より)
May 26, 2011 12:58

職場復帰後 降格された
3月に入り、職場復帰の意向を部長に伝えた。すると「もっとゆっくり休め」という言葉が返ってきた・実のところ、手術後は体力が衰え、もう少し病んでいたかった。ありがたく従うことにした。季節は夏に変わり、7月に入り、ようやく職場復帰できた。上司の計らいで、週3日、短時間労働の慣らし勤務から始めた。通勤に片道1時間40分かかる身には、朝夕のラッシュを避けられ助かった。仕事の内容も、データ入力など負荷が少ないものを任された。復帰から1カ月語。役職が、副部長から部付の部長代理に降格された。同僚が、自分の代わりに副部長に就任した。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・働きたい より)
May 25, 2011 08:59

働きたい
「予算や人事がまだ決まっていません」。心配する男性に、上司は口々に「今は体を治すことに専念してほしい」 「代役を立てるから大丈夫だ」と言葉をかけた。早めに帰宅し、自宅で夕飯を用意中の妻(53)に告げた。「肺がんだった」。「あら、本当」。妻が動揺を抑えようとしているのが伝わってきた。手術は、2週間後に決まった。気もそぞろで仕事に集中できなかったが、家であれこれ考えるよりはましだと、手術直前まで通勤した。胸に小さな穴を開け、胸腔鏡を入れてがんを切る手術法が選ばれた。リンパ節に転移が見つかったが、抗がん剤でたたくことにした。12日間で退院。1カ月ほど自宅で過ごした。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・働きたい より)
May 24, 2011 08:52

なぜ自分が肺がんに
千葉県に住む男性(54)は2006年2月、人間ドックの受診をきっかけに、左肺上部に腺がんが見つかった。大学病院で告知を受けた瞬間、頭が真っ白になった。「なぜ自分が」。治療方針を説明されても全く頭に入らなかった。会社に戻るため、バスに乗ったところまでは覚えているが、途中の景色の記憶は全くない。職場に戻ると同時に、部長に声をかけた。「どうやら、肺がんらしいんです」。驚いた部長は「すぐに役員に説明したほうがいい」と慌てて呼びに行った。ちょうど年度末で、副部長として、統括する10支店の来年度の収支計画や営業予算を決める時期だった。春の人事異動も控え、所属する部署は一年でも最も忙しい時期を迎えていた。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・働きたい より)
May 23, 2011 08:42

肺がんと診断
3日に1箱のペースでたばこを吸ってきたが、大病の経験はなかった。ただ、今にして思えば、人間ドックの直前は風邪が1カ月近く治らなかった。半信半疑で会社近くのクリニックを受診すると、「東京都内の大学病院で精密検査を受けるように」と言われた。大学病院でCTや肺の組織を調べた。検査結果を見て、年配の医師が申し訳なさそうに告げた。「右肺のうえにがんがあります。手術で切りましょう」。肺がんの中で最も多い、腺がんだった。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・働きたい より)
May 22, 2011 10:03

順調に出世していたのに
大学を卒業後、九州の小倉を振り出しに全国各地の支店を回った。30代前半での支店長就任は、同期の間でも早い方だったという。「自分でいうのも何だけど、部下の適正を見抜き、育てるのがうまかった。できの悪い社員がいると、『あいつの所に送れ』なんて言われたものです」。朝8時過ぎには出社し、仕事が終わると取引先や後輩と飲みに行った。順調に出世を重ね、がんが見つかったときは、本社の地域統括部の副部長の役職にあった。「このまま行けば、役員の一歩手前くらいにはいけるかな」。そんなことを考えていた矢先、人間ドックで、肺に小さな影が見つかった。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・働きたい より)
May 21, 2011 09:16

がんと就労 働きたい
午前7時半に起床。ゴミ出しをして、天気がいいと家の周りを30分ほど歩く。自宅に戻り、新聞を読みながらパンと冷蔵庫の残り物で朝食を済ませる。それから1時間ほど、パソコンでハローワークの求人情報を検索する。月給15万円以上、職種は事務職・・・・。希望に合う仕事が見つかっても、なかなか次の行動に移せない。「今は気持ちがなえていて。すぐに仕事は見つかると思っていたんだけどね」。これまでに20社以上を受験し、落ちた。千葉県に住む男性(54)は2006年2月、肺がんと診断され、手術を受けた。術後も抗がん剤の治療を続けながら、仕事と闘病の両立を図ってきた。しかし1年半前、治療に専念するため、約30年間勤めた東証一部上場の会社を退職した。妻(53)と、大学4年生の息子(21)の3人家族。失業保険も切れ、貯金を取り崩しながらの生活が続く。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・働きたい より)
May 20, 2011 09:53

公演見すえ、激痛耐える
「待って頂けるのなら出させてください。舞台に向けて、治療もけいこも頑張ります」。最初の抗がん剤治療では、4種類の薬剤を2週ごとに計8回点滴する計画だった。2回目までは入院したが、3回目からは通院で行うことができた。薬剤が体内に流れ込むと、腕にトラックでひかれたような鈍痛と、アイスピックで突き刺されたような激痛が襲った。副作用で髪の毛が抜け落ちた。治療中は免疫力が落ちるため、人ごみを避ける必要がある。けいこ場には通えなかったため、けいこの様子を撮影したDVDが自宅に送られてきた。点滴を受けてからの3日間は、全身の激痛と吐き気で立つことさえ難しい。そして、倦怠感が1週間ほど続く。副作用が始まると、リモコンの再生ボタンを何度も押して、演出や振り付けを覚えていった。それでも動きが速い踊りになれば息が切れ、貧血で倒れそうにもなる。DVDの中では代役の演技がうまくなり、共演する「モーニング娘」と息が合っていくのがわかった。「私がいなくたって、舞台は出来上がっているじゃない」。不安が募るばかりだった。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・愛華みれ・舞台はクスリ より)
May 19, 2011 09:33

舞台はクスリ
女優の愛華みれさん(46)は2008年3月、悪性リンパ腫と診断され、翌月の舞台を降板した。年内の仕事も、すべてキャンセルすることになった。20歳で宝塚歌劇団に入ってから、舞台は「生きがい」だった。生まれて初めて仕事に穴をあけてしまい、絶望感に押しつぶされそうになっていた。そんなとき、8月公演予定の「シンデレラ the ミュージカル」の制作側から連絡が入った。配役を代えずに復帰を待ってくれるという。演出は宝塚時代からの恩師、酒井澄夫さん(77)だった。酒井さんには三つの確信があった。血液のがんだった知人が抗がん剤で死ぬほど苦しんだが、1週間もすると苦しみから解放されたこと。宝塚トップスターを務めた愛華さんの度胸なら、ぶっつけ本番でもできること。人間は、一つの希望があれば元気になれること・・・。つらい治療と、けいこが両立できる保証はない。事務所の社長から「どうする?」と聞かれても。迷いはなかった。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・愛華みれ・舞台はクスリ より)
May 18, 2011 08:49

がん治療に専念 覚悟の降板
悪性リンパ腫は、リンパ球が悪性化したがんで、いくつかのタイプに分かれている。愛華さんのがんは「ホジキンリンパ腫」だった。幸い、抗がん剤が効きやすいタイプだった。治療に専念することが大事だと、頭では理解している。しかし、仕事は手放せない。「次の舞台に立ちたいんです。よろしくお願いします」。4月4日開幕のミュージカルまで1カ月を切り、けいこ場と病院を往復する日々が続いた。がんの進行度を調べて最適な治療法を選択するため、骨髄や脳脊髄液の採取など、つらい検査がいくつも続いた。造影剤の影響で、激しい吐き気やじんましんにも苦しめられた。検査だけでも体がフラフラだ。照明が落ちた暗闇の中、セットの階段を下りようとしたときだった。「この階段をもし踏み外したらどうなるだろう」。けいこ中に、経験したことのない恐怖を感じた。高熱が出ても、ぎっくり腰になっても、舞台に穴をあけたことは一度もなかった。だが、公演中に自分が事故を起こせば、降板より無責任なことになるかもしれない。心の葛藤を、事務所の幹部に打ち明けた。「仕事がなくなると、愛華さんは駄目になってしまうと思って黙っていました。降板しましょう。治療に専念しましょう」。その言葉を聞いて、ホっとした。と同時に女優という仕事は終わったとも思った。そう考えていた。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・愛華みれ・舞台はクスリ より)
May 17, 2011 11:21

結婚目前「悪性リンパ腫です」

ネックレスを外そうとすると、指先にゴルフボールほどの膨らみを感じた。「あれ、こんなののなかったよね。ばい菌でも入ったかな」 首の付け根のできた軟らかいしこりは、押しても痛みは感じない。家族の勧めで耳鼻咽喉科の診療所に行くと、「リンパ腫の疑い」と告げられた。「リンパ腫?疑い?リンパが腫れてるってこと?」 どんな病気か知りたくて、書店に入った。医学書には「死を連想させる文字」ばかり。リンパ腫のページをめくる前に店を飛び出してしまった。紹介された癌研有明病院(東京)に足を運ぶまで、1カ月かかった。生検を終えると、診察室で医師が前触れもなく話し始めた。「悪性リンパ腫です。つまり、血液のがんですね」 プロポーズされてから、わずか2カ月。夢にまで見た結婚を目前にして、死を覚悟しなければいけないなんて・・・・・。診察室を出た途端、涙があふれ出た。(朝日新聞・患者を生きる・がんと就労・愛華みれ・舞台はクスリ より)

May 16, 2011 09:45

抗がん剤「もうやらない」と中断
腎臓にがんが見つかった長野県松本市の磯辺紀子さん(73)は昨年6月、次女の恵美さんが住む飯田市内の病院に入院した。右側の腎臓にできた腫瘍は、心臓近くの静脈や、左側の腎臓の静脈の中でも破れやすい場所にまで広がっていた。このままでは、手術はできない。さらに調べると、がんは尿路につながる「腎う」という場所にできる、転移しやすいタイプだとわかった。何もしなければ、余命は1カ月単位。でも、抗がん剤で腫瘍が小さくなれば、手術ができるようになる可能性も残っていた。抗がん剤治療は予想以上につらかった。食欲が落ち、だるさが日毎に増した。水を飲むと「生き返るなあ。水が一番おいしい」と話した。じんましんも出た。副作用に加え、点滴の管につながって動ける範囲が狭まったことや、腎機能障害を防ぐための利尿剤のせいで夜中も1時間おきにトイレへ行くことが、紀子さんには耐えられなかった。抗がん剤が効く望みは、ないわけではない。でも、その確率は低い。医師である恵美さんの夫はそう考えていた。紀子さんと恵美さん夫妻は、病院の談話室で、今後の抗がん剤治療について、話し合った。「縛り付けられたくない。もうやらない」と紀子さんは言った。恵美さんも、日頃から「コロリと逝きたい」と繰り返していた母の思いを尊重しようと考えた。「やめよう。帰ろう」。抗がん剤の中断を決めた。翌日紀子さんは退院し、疲れとだるさをひきずりながら恵美さんの家に戻った。(朝日新聞)
May 15, 2011 09:20

負けないで
白血病を患いながら子育てをする女性。前向きな姿に刺激を受けた。弟から骨髄移植を受け、1年の闘病生活を乗り越えた。高校に進学し、「ドキュメンタリーを撮りたい」と、大学の映像学科に進学した。健康を取り戻せた。しかし、病気だったことは「人生の負の部分」と、周囲に話せない。心と体が一致しないような違和感もあった。前に進みだそうと、1年間、リュック一つで海外を回ろうと考えた。主治医は「普通の人より免疫力が弱い」と渋ったが、2008年夏に旅に出た。バスで中国からモンゴル、ベトナム、タイ、インドなどを回り、孤児院などで働きながら出会った人たちにビデオカメラを向け、写真も撮り続けた。14カ月をかけた旅は「生」を感じさせてくれた。今春から看護師の資格を取るために大学に通う。人の役に立つ技術を持って、再び海外に行きたい。そして、病気の人たちを元気付けられる映像作品を作りたい。(朝日新聞)
Mar 20, 2011 09:36

告知
告知とは、もっと重々しいものだと思っていた。「白血病ですね」。高校2年生のとき。微熱やだるさが続いて病院へ行き、伝えられた病名に驚いた。血液検査の数値はかなり悪く、1日後なら手遅れだったと聞かされた。しかし、医師のあっさりした言い方に、かえって深刻さを感じなかった。「きっと大丈夫なんだろう」。入院生活は、副作用との闘いだった。抗がん剤で吐き気が続き、髪の毛が抜けた。病室の窓からは高校が見えた。自分だけ病室で過ごすのが悔しかった。「きっと死ぬんだろう」と、治療に対しても投げやりになっていた。そんな時、テレビのドキュメンタリーに衝撃を受けた。続く・・・・。(朝日新聞)
Mar 19, 2011 11:27

◆子宮頸がん闘病記 5
全国の自治体でワクチンの公費助成はまだ300カ所ぐらいしかありません。国にもっと助成してもらえるように、昨年の初めから活動しています。中学に入学した女の子全員が、国からの贈り物としてワクチンを打ってもらえるよう願っています。(仁科亜希子さん・女優) 朝日新聞より
Jan 09, 2011 11:22

◆子宮頸がん闘病記 4
再発の不安もあります。体のどこかが痛いと思うと胸がどきどきしたり、免疫を高めるというサプリメントを飲んでみたりします。がんは精神的にも金銭的にも、時間的にもマイナスの多い病気です。11~14歳ぐらいの女の子はぜひワクチンを受けてください。そして、20歳を過ぎたら子宮頸がん検診に行ってください。ヒトパピローマウイルスは、人はみな持っているウイルスです。男の方にもあります。だから男の方が知らん顔ではいけないのです。お父さんも、ワクチンや検診についてぜひ発信してください。((仁科亜希子さん・女優) 朝日新聞より
Jan 08, 2011 11:18

◆子宮頸がん闘病記 3

がんは、治療して終わる病気ではありません。一生の問題です。私も卵巣を取って女性ホルモンのバランスが崩れ、いきなり更年期障害のような症状が出ました。夏なのに寒さで震えたかと思うと、シャツが汗でびっしょりになることもあります。今もホルモン補充療法をしています。子宮頸がんは女性特有な病気なので、手術をすると多くの割合で排尿障害が起こります。膀胱に水がたまっていることがわからなくなります。私も肉体的にも精神的にもつらい思いをしました。今でもロケや舞台の前には前日から水分を控えるなど、いつも気をつかいながら生活しています。(仁科亜希子さん・女優) 朝日新聞より

 

Jan 07, 2011 15:34

◆子宮頸がん闘病記 2
手術してからは放射線治療を受けました。放射線は週に5回を7クールぐらい。体が非常にだるくなり、皮膚がただれてしまいましたが、最後のほうになると金曜の夜からは外泊許可をいただいて家に帰れるようになりました。6カ月といわれていた入院は、4カ月で退院できました。ただ、入院中は先生、看護師さんが見守ってくださいますが、退院後は一人で孤軍奮闘になります。患者としての寂しさ、不安、恐怖感は、退院してから増してくろと思います。続く・・・。(仁科亜希子さん・女優) 朝日新聞
Jan 06, 2011 09:12

◆子宮頸がん闘病記
私のがんが見つかったのは38歳の時です。食中毒で受診した内科の先生から勧められてついでに検診を受けたところ、子宮頸がんが見つかりました。5月でした。入院は子どもの1学期が終わって夏休みにでもと思っていたのですが、一刻でも早くということで6月に入院しました。最初は抗がん剤の治療でしたが、想像していた以上の吐き気に襲われました。しかも1回目が効かず、2回目の抗がん剤治療をしました。このときは見事に効いて、髪の毛も3日間でなくなってしまいました。続く・・・。(仁科亜希子さん・女優) 朝日新聞
Jan 05, 2011 10:04

◆福岡で18・19日開催
「自分のことを悲劇のヒロインと思っていた自分が恥ずかしかった。何らかの理由があって今、生かされているのかも知れないと思うようになった」と宮部さん。2008年秋、夫の転勤に伴い福岡へ、そこで「リレー・フォー・ライフ」をやろうと、インターネットで仲間を募るなどして昨年10月、初開催にこぎつけた。約2000人が集める盛況だった。現在は治療を終えて症状が安定。定期検査に通う日々を過ごしている。18日は正午スタート。参加費は大人千円で、がん患者と高校生以下は無料。患者や関係者以外でも趣旨に賛同する人なら参加できる。1人での参加や当日参加も認め、その場合は実行委で混合チームを編成してくれる。問い合わせは宮部さん(080-3998-6500)へ。(朝日新聞)
Sep 09, 2010 09:06

◆命のリレー 集い拡大
直近では18、19日、福岡市東区の国営海の中道海浜公園で開かれる。福岡では2回目。キャッチコピーは「好いとー福岡 笑うて生くばい!!」。実行委員長の宮部治恵さん(42)は、「大好きな福岡で笑って生きていこうという気持ちを込めた。多くの人に参加してほしい」と話す。宮部さんは神奈川県に住んでいた2002年に子宮頸がんを発症した。その後、がんは甲状腺、大腸へと転移。東京で入院生活を送っていた2006年、茨城県で日本初の「リレー・フォー・ライフ」が計画されていることを知り、すぐに連絡を取った。なぜ自分が、という憤りや悲しみを抱えて生きてきた。何か変わるきっかけが欲しかったのかも知れない。歩く元気があると確認することで、希望を感じたかった。開催1カ月前に退院して参加。がんと向き合って生きる大勢の人と歩くうち、「苦しいのは自分だけじゃない」と思えるようになったという。(朝日新聞)
Sep 08, 2010 09:09

◆がん医療費配慮を
1997年、29歳の一人息子を悪性リンパ腫で亡くしました。無菌室への長い入院、頭髪は抜け、吐き気と嘔吐の繰り返し、食事は受け付けず、1カ月後に体重が10キロ減りましたが、本人は社会復帰を目指し、つらい治療に耐えました。病院中に聞こえるような声で「足を切ってくれ!」と叫び、息を引き取りました。入院中は病院の近くにアパートを借り、二重生活でした。血液のがんは国の特定疾患と思っていましたが、そうではなく、請求書を見てびっくりしました。本人が一番つらかったでしょうが、がんの医療費のことを国は配慮していただきたいと思います。そうなれば、患者も家族も少しは心が軽く治療が受けられるのではないでしょうか。(福岡県飯塚市・69歳女性) 西日本新聞「異見/医見」より
Sep 03, 2010 09:00

◆頑張るときは、いつも今
日大三校が5月下旬、遠征で熊本市にくることを新聞記者に教えてもらった。体調は思わしくなかったが、家族に頼んで熊本に駆けつけた。山崎選手の投球は、テレビで見るより迫力があった。試合後、面会する時間を作ってくれた。「手紙ありがとう。渡すものがある」と山崎選手。2枚のサイン色紙と手紙をもらった。色紙の1枚は甲子園準Vナインの寄せ書き。もう1枚は山崎選手が座右の銘を書いたものだった。思い切ってカーブの投げ方を聞いた。山崎選手は実際にボールを使ってカーブの握りを教えてくれた。帰りの車の中で手紙を読んだ。山崎選手と会ってから友納君は、毎日昼休みや放課後を使って投球練習するようになった。中体連の試合には出られなかったけれど、ベンチから声をからしてチームメイトに声援を送った。続いていた発熱はいつの間にかなくなった。気持ちが前向きになって、免疫力が高まることがある、と医師に教えてもらった。「頑張るときはいつも今」山崎選手からもらった色紙は、朝一番に見ることができるよう部屋のベッドに飾っている。(西日本新聞)
Aug 12, 2010 14:19

◆小児がん経験者の出会い
つらい闘病生活が続いた。がんが転移していないかを調べる検査は腰に針を刺す。激しい痛みが伴った。抗がん剤の点滴を打てば、吐き気や嘔吐、頭痛が襲ってくる。食べ物は口を通らない。副作用で髪の毛やまゆ毛が抜け、体重は増えた。退院したのはクリスマス(12月26日)。入院して半年がたっていた。年が明けると学校に戻り、少しずつ部活動にも参加したが、体力がついていかない。免疫力が低下しているため、月に2~3日は発熱し、学校を休まなければならなかった。頑張りたいと焦る気持ちに体がついていかす、落ち込んだ。そんな時だ。4月上旬、自宅のテレビで選抜高校野球を見ていた。片方の投手に目が止まる。そのピッチングは目に焼きついた。日大三高(東京)の山崎福也という名前だった。しばらくして西日本新聞の医療面(4月26日朝刊)に「小児がん 闘病は一人じゃない」という記事が載っているのを母親に知らされた。山崎選手が2年前に脳腫瘍を患ったことも書かれていた。「僕は乗り越えた、勇気づけた」と見出しにある。「あの人も同じ境遇だったのか」と驚いた。山崎選手に手紙を書くことにした。新聞社を通して山崎選手に届けられた。(西日本新聞)
Aug 11, 2010 08:49

◆白球に勇気を乗せて
つらい経験をした人が、同じような境遇の人を励まし、前向きに生きる力を与えることがある。小児がんと診断されて闘病生活を送った福岡県小郡市の三国中3年友納祐貴君(14)は、新聞記事を通して巡り合ったあこがれの高校球児から勇気をもらった。友納君が体の異変に気付いたのは昨年の7月上旬だった。発熱が続き、おなかの右側に違和感も感じた。久留米大学病院を受診すると、医師に「すぐ入院してください」と言われた。悪性リンパ腫だった。検査の結果を聞くために診察室に入ったら、すでに病名を告知された両親が泣いていた。医師に「野球ができますか」と聞こうと思ったが、怖くてできなかった。所属する野球部は中体連の真っ最中だった。30人近くいる2年生で、ベンチ入りした数少ない一人。あきらめきれなっかたが、ユニフォームを部に返した。「何で病気はおれを選んだの」。悔しくてたまらなかった。(西日本新聞)
Aug 10, 2010 10:28

◆大勢のがん患者への応援に
「健康と病いの語り」の主担当者の射場典子さん(47)は看護大学の教官だった4年前に卵巣がんを患った。体験者にできるだけ多くの思いを語ってもらうよう慎重に耳を傾け、インタビューは合計で100時間を超えた。治療法は専門医に2年をめどに監修してもらい、最新の医療事情に合っているかチェックする。「一人ひとりの人生を預けてもらっているから、編集作業は丁寧にやりたい」という。乳がん体験をサイトで語っている女性は20代でがんを告知され、同じ境遇の人がどういう思いなのか知りたくてネットで情報を必死に探したことがあった。「このウエブの患者自身の語りには現実感があって、大勢の患者さんの応援になると思う」と話す。(朝日新聞)
Jun 13, 2010 09:24

◆たくさんの希望の光を
肺がんになり、痛みに苦しみながら亡くなった友人の姿を思い出し、怖くなった。「まさか自分ががんなんて・・・」。しかし、気持ちの切り替えは早かった。その友人のために、がんについて勉強し、がんを克服した人の話を詠んだことを思い出した。闘病記などを買い込み、退院すると本の筆者らに会いに出掛けた。抗がん剤の副作用で抜けた眉毛を母親の眉墨で描き、出歩いた。どのようにがんと闘ったのか、患者から生の話しを聞くことで勇気付けられた。そんな経験から雑誌作りを思いついた。雑誌「メッセンジャー」編集長・杉浦貴之さん(38)は、最近は各地で講演し、体験をもとに自分で作った歌も歌う。「患者は絶望のなかで希望を探している。一人の力は微力で希望の光は小さくても、たくさんあれば見つけやすい。そんな世の中にしたい」
Jun 04, 2010 09:22

◆体験談から勇気受取って
がん患者の体験談、闘病記を集めた情報誌「メッセンジャー」を2005年1月から発行している編集長の杉浦貴之さん(38)。「がんを克服した人たちの思いを紹介することで、たくさんの患者が元気になるんじゃないか」との思いからだ。今年3月で30号目。当初は当時住んでいた宮崎県内だけだったが、現在は全国に発送。多い部は7千部を発行している。かつての自分が欲しかった雑誌だ。1999年10月、突然の腹痛に襲われた。左の腎臓のなかで、牛乳瓶2本分も出血していた。「がんでななさそう」と言われた病院で3カ月後に再検査を受けると、「腎臓がん」と診断された。すぐに摘出手術を受けた。国内では症例が少ないタイプの腎臓がんで、両親は医師から「余命は短くて半年。2年後の生存率はゼロ」と伝えられていた。続く・・・。(朝日新聞)
Jun 03, 2010 09:45

◆悪い知らせの良い伝え方
確かにインフォームドコンセントは医療の前提だと思うのですが、このごろ、ちょっと首を傾けたくなることがあります。それは、標準治療では打つ手がなくなった末期がん患者への説明です。余命を含めシビアな事実が伝えられたあと、緩和ケア病棟への転院や在宅ホスピスケアが勧められます。そのときの若いドクターたちのあまりにも場にそぐわない態度に驚くことが多いのです。事務的な説明の途中に携帯電話に出て笑いながら話をする、打ちひしがれた患者や家族が代替医療のことを尋ねると「あ、それ効きません。エビデンス(科学的根拠)ないですから」と余韻もなく切り捨てる。しかも緩和ケア病棟を勧めながら、どんなところかも知らないみたい。余命6カ月のインフォームドコンセントは、伝える側にも聞く側にも、人間としての力量が要求されます。「悪い知らせの良い伝え方」を医療者は学んでほしいものです。(波多江伸子の楽しい患者ライフより・西日本新聞)
May 25, 2010 09:13

◆インフォームドコンセント
当時は、情報を十分に与えられ、患者が納得して上で初めて治療が開始されるという「インフォームドコンセント」の考え方は日本の医療の中にはありませんでした。病名や治療方針について医師に問いただしたりせず、黙って従うのが良い患者だったのです。20年後に甲状腺がんが再発して手術を受けたときは、初回とな打って変わって治療のリスクや後遺症など事前の詳細な説明があり、時代の変化に感慨を催した次第です。続く・・・。(波多江伸子の楽しい患者ライフより・西日本新聞)
May 24, 2010 10:21

◆当時は、医師にだまって従うのが良い患者

最初の甲状腺がん手術をしたのは1981年、出産したばかりの30年も昔の話です。赤ん坊の1カ月検診のついでに受けたエコー検査で疑いを指摘され、精密検査を受けることになったのですが、医師はどんな検査か教えてくれません。放射線技師にしつこく尋ねて、甲状腺に集まる性質の放射線物質(ラジオアイソトープ)を体内に注入し、CTでその分布を調べる検査だと知りました。知った瞬間に私は断乳する決心をしました。放射線物質入りのお乳を我が子に飲ませるわけにはいきません。いまかんがえても断乳は正解だったと思います。後に息子の甲状腺が腫れたことがあったのですが、あのときの放射線物質のせいではないか・・・と余計な心配をしなくてすみましたから。その後まもなく、放射線検査の待合室に「妊娠中・授乳中の方はお申し出ください」との張り紙を見かけるようになりました。続く・・・。(波多江伸子の楽しい患者ライフより・西日本新聞)

 

 

May 23, 2010 10:58

◆闘病記 ネットで販売 全国の患者へ
注文の内容も様々だ。「膵臓がん関連を10冊ほど」との要望もあれば、「助かった人の闘病記は抜いて」という在宅治療する肺がんの男性からのメールもあった。「死へ向かう心構えを知りたかったのでしょう」 プライバシーには決して立ち入らない。「同じ病でも性別や年代、既婚か未婚、子どもの有無や住む地域によって本のニーズは変わります」と星野さんは話す。本のリストをネットで公開し、定価のほぼ半額で売る。送料は全国一律380円だ。3月発売の単行本「病気になったときに読むがん闘病記読書案内」(三省堂)には共同編者の一人として、真っ先に呼んで欲しい本を紹介した。人生の岐路に直面した名もなき人が、わが身をさらした魂の告白。その闘病記を「埋もれさせるわけにはいかない」と、今日も街を歩く。パラメディカのHPはhttp://homepage3.nifty.com/paramedica/ (朝日新聞)
May 22, 2010 14:44

◆妻の病死きっかけ 専門の古本屋
東京・代々木の大手予備校職員だった1993年夏、同い年の妻の乳がんが見つかった。「体験者も多いから心配ないよ」と言い、休日に一人、都心の大型書店で「情報」を集め始めた。でも陳列棚には、難解な医学書か有名人の手記ばかりだった。再発し、妻は4年後に他界した。唯一の家族を失って、仕事を辞めた。親が残した古いビルを管理しながらの失意の日々にあって、ふと、「闘病記を残そう」と思い立った。「同じ立場の人はどう考えていたのか。妻は再発後、知りたがっていたんです」毎日午後になると電車に乗り、首都圏の古本チェーン店や商店街の小さな古本屋を巡った。闘病記は発行部数が少なく、絶版も目立つ。最初の数年は大みそかも正月も、本の発掘に励んだ。田舎町で道に迷い、暗闇の国道を本を背負って歩いたこともある。ある日、東京の八王子郊外にある大きな古本屋で、一冊を手に取った。レックリングハウゼン病の患者の声を紹介した単行本。国内の患者は約4万人という、まれな難病で、体にできるこぶで外見が変わってしまった写真もあった。差別で苦しむ人の心の叫びに、涙があふれた。発行日は20年近く前。「必要な人に渡さねば」と買った。続く・・・。(朝日新聞)
May 21, 2010 10:36

◆闘病記 届けたい
突然、医者から妻の病を告げられ、すがるように書店へ。でも同じ患者の気持ちがわかる本はなかなか見つからない。そんな経験から闘病記専門の古本屋を営む人がいる。星野史雄さん(58)。ネット販売する約2500点は、自ら買い集めた。「名もなき人の希少な記録を、必死で探す人に届けたい」と。さいたま市のJR浦和駅前、雑居ビルの一室に「古書パラメディカ」はある。1998年10月に創業し、8年前からオンライン専門にした。取り扱う闘病記の病気の種類は361に上る。うち、がんは部位別に細かく分けて122種類、約1200点。自宅を兼ねた14坪のフロアの半分を本が埋め尽くす。日々の病院食や点滴の薬剤名まで克明に書かれたもの、麻酔後の幻覚を細かに記すもの、残していく子への思い、夫婦のすれ違い、医療過誤の告発・・・。文章の完成度もスタイルが違う。そして大半は、病気にならなければ本を書くこともなかった人たちだ。続く・・・。(朝日新聞)
May 20, 2010 09:03

◆手術後のこと
手術で腫瘍の周辺のリンパ節も切除した手術後、排液を外に出すドレーンという管を付けていた。ところが、1~2週間で止まるはずのリンパ液が、なぜか止まらない。熱まで出てきて、病室の外に出て歩くのもしんどくなった。27日、リンパ液もほぼ止まり、ドレーンを抜去。29日にようやく退院の運びとなったが、この「最後のひと山」は、いきなり無理をしてはならないとの警告だったのかもしれない。濱口医師にも「再発の恐れはある。しっかり経過観察をしないといけません」と念を押された。濱口医師は私の治療を振り返り、「抗がん剤がよく効くと分かっていても、治療してみないと分からない。(がん細胞が死滅したのは)ラッキーと言えばラッキーだった」と話してくれた。11月16日。つに私はまる10カ月ぶりに、懐かしい職場に再び足を踏み入れた。(朝日新聞・おじさん記者のがん闘病記より)
Apr 17, 2010 10:49

◆「腫瘍死滅」に風景一変

手術は午前9時から始まった。手術時間は4時間57分。全身麻酔が効いていたため、手術中の私の記憶はほとんどない。終了後、主治医の濱口医師(40)は、400CCの輸血をしたことなどを妻に説明したという。手術後、硬膜外麻酔で痛みがないはずだったのに、全身麻酔から覚め、意識が戻るにつれて、猛烈な痛みが襲ってきた。ベッドの上でのたうち回った。「手術のほうがいい」と言った妻を、この時ばかりは心底恨めしく思った。だが、妻の言葉は正しかった。2日もすると、確かに痛みはだいぶ和らぎ、少し歩けるようになった。入院12日目の10月13日。手術の抜糸を終えベッドで横になっていた夕方、濱口医師が、息せききって病室にやってきた。病理検査の結果が出たのだ。「残存腫瘍は全部壊死していました。今後は経過観察になります」 自分を取り巻く風景が一気に変わった。空の色さえ違って見えた。「ありがとうございます」。何度も濱口医師に頭を下げた。(朝日新聞・おじさん記者のがん闘病記より)

Apr 16, 2010 11:16

◆切除手術 2
抗がん剤治療に苦しんだ私は「手術で一発でケリを付けたほうが楽だ」と思っていた。だが、実は私は看護師さんらの間でも有名な「痛がり」だった。点滴や注射でさえ痛がる私が手術の痛みに耐えられるのか不安だったが、ほぼ1年前に子宮筋腫の手術を受けた妻(44)は「手術の痛みは2日くらいでなくなるよ。3日目くらいには普通になるし」。ともかく、それを信じた。手術を前に、麻酔医が病室に来て、麻酔の内容を説明してくれた。手術は全身麻酔と硬膜外麻酔(腰椎から鎮痛目的で細いチューブを入れる麻酔)を併用。硬膜外麻酔は術後の痛みのコントロールにも使えるという。なるほど、これなら痛みも軽そうだ。(朝日新聞・おじさん記者のがん闘病記より)
Apr 15, 2010 12:40

◆切除手術
昨年1月から約9カ月にわたった精巣がんの治療も、いよいよ最終段階に入った。後腹膜に残った腫瘍とその周囲のリンパ節を取り除く手術を受けるのだ。済生会福岡総合病院に緊急入院して以来、入院も6度目を数えていた。原発の精巣がんを取り、転移した後腹膜の腫瘍を抗がん剤でかなり縮小させることができたことは、検査ですでに分かっていた。手術の結果、①切除した腫瘍の細胞が死んでいる ②周囲のリンパ節にがん細胞がない の二つが確かめられれば、今後は定期的にCT(コンピュータ断層撮影)検査を受けるなどの経過観察に移り、治療はひとまず終了する。逆に、がん細胞がまだ生きていたら、新たに別の抗がん剤を使った治療を受けなければならない。10月2日に入院。手術は6日と決まった。(朝日新聞・おじさん記者のがん闘病記より)
Apr 14, 2010 09:10

◆肺の影消えた 妻と「ホッ」
退院から15日目の9月10日。抗がん剤治療の成果をみるため、外来で後腹膜のCT検査をした。そして14日、泌尿器科外来を訪ねた。今までにも増して、結果が気になった。正直、聞くのが怖い思いがあった。医師は私たちに「腫瘍の大きさは4センチ×3センチ。第3クールが終わった時とほぼ変わっていません」と説明。そしてこう付け加えた。「肺の影は消失していますね。炎症性変化で、一時的に影が出ていた可能性が高いです」。 やった。妻と顔を見合わせて喜んだ。ホッとした。血液検査の結果、がんがあるかどうかの指標になる腫瘍マーカーの値も以前は高値だったのだが、正常に戻っていることが判明。がんは死滅しているのかも知れない。いよいよ最後の治療、残った腫瘍を切除する手術が決まった。(朝日新聞・おじさん記者のがん闘病記より)
Apr 11, 2010 09:34

◆気がかりな肺の影
だが肝心の病状は芳しくなかった。肺炎の症状が消え、ようやく抗がん剤の投与が始まったのは、入院20日目の8月3日。のちに政権交代が実現する歴史的な衆院選が目前に迫っていた。今回の抗がん剤治療は、投与を始めた時から吐き気がきつく、何度もトイレに行き、しゃがみ込んで便器につかまるような日々が続いた。食事がのどを通らず、体重は入院時から8キロも減った。飲み物も飲めず、いかに水分を取るかで苦労した。白血球の数値が下がって免疫力が落ちる骨髄抑制も再び起こった。約1週間だるさに