3年前の10月、進行した膀胱がんと診断された奈良県の有川勝己さん(41)は翌日、地元の病院に入院した。全摘手術を前提とした化学療法を受けるためだった。「寿命を縮めてでも膀胱を取りたくない」。そう訴える有川さんのため、妻の由佳理さん(42)は「温存療法」に力を入れている大阪医科大の東治人教授(52)を訪ねた。外来で6時間半待っているうちに感情がこみ上げてきた。涙があふれてうまく話せず、付き添いの友人がほとんど事情を説明した。「大丈夫です」と言う東さんが頼もしかった。退院した有川さん自身が12月に大阪医科大を受診した。東さんは「大丈夫、大丈夫。治る、治る」と告げた。その言い方があまりにもあっさりしていたこともあり、治療を託したいと思った。当時は転移がある患者の治療例がまだ少なく、効果は未知数だった。それでも、東さんは「前向きに治療に臨んでもらえるような言葉をかけるようにしています」という。東さんらの温存療法は膀胱の上流にある動脈の血流を止め、通常の数倍になる高濃度な抗がん剤を1時間ほど流し込む。血液が来ない酸欠状態と抗がん剤の両方で、がん細胞を徹底的にたたく。この治療法を受ける前に、通常の化学療法をさらに2回受けることになった。「いつになったら、本来の治療を受けられるんだろう」。入院生活が長くなるにつれ、心がすさんできた。「うるさい、帰れ」「君らは生きる目的があるからいいよな」。病室に見舞いに来た由佳理さんや子どもたちにあたった。がんだと聞かされていない子どもたちはなぜ叱られたのかわからず、戸惑うばかり。由佳理さんは泣きながら、「全摘手術を受けていれば入院は終わっていた。そのほうがよかったかも」と思った。一人になると、有川さんは「言い過ぎた」と後悔した。一方で「そうは言ってもしょせん家族でもこの苦しみはわからないよな」とも思った。東さんのことは信じていたが、果たしてうまくいくかどうかわからない。不安に襲われ、精神的に最悪の状態だった。(8月19日 朝日新聞 患者を生きる 膀胱取らずに治す より)