右の脳に腫瘍が見つかった東京都のピアノ教師の女性(54)は2009年11月、主治医(56)から手術の方法について、説明を受けた。生命維持に関わる部分などにある腫瘍は取れないので、手術で切除できるのは最大でも全体の6、7割という。それでは腫瘍が多く残ってしまい、手術による延命効果は小さい現実が見えてきた。しかも、腫瘍が大きいので6割でも失われる脳の機能は大きいだろう。残された時間、回りの人たちといろいろなことに感動しながら生きたい。文章を書き、ピアノを弾き続けたい。延命効果に大差ないなら機能を優先したい。ずっと考えてきた希望を口にした。「豊かな気持で暮らせるよう、できるだけ脳の機能を残してほしいのですが」。女性の気持をくみ取った主治医は「切除は病理検査に必要な最小限にとどめ、残りの腫瘍は抗がん剤で治療していきましょう」と提案した。「その方法でお願いします」。女性は一呼吸おき、そう答えた。「少しでも延命効果の高い方法を選ぶべきなのでは?」と批判する親戚に、夫(57)は「本人の決断を理解してほしい」と手紙を書き、説得した。11月の手術の直前、長く米国の大学で内科教授を務めた叔父(85)からメールが来た。「医者としてではなく、ただあなたを深く愛する親類の一人として、少しでも治癒の可能性のある治療法を選んでほしい」。機能の保持を優先するため、余命を縮めても腫瘍の切除を最小限に抑えるという女性の決断に、反対する内容だった。決心は揺らがなかったが、自分を気遣ってくれる叔父の気持を思い、涙がにじんだ。11月中旬、7時間の手術を受けた。全身麻酔をかけて頭を開き、最初に決めた通り、検査に必要な最小限だけ腫瘍を切除した。手術室で目を覚ますと、医師らが視界に入った。名前を呼びながら「ありがとうございました」と声をかけた。かすれ声を出すのがやっとだったが、「感謝できる心が、手術で失われずに残っていてよかった」と思った。(9月17日 朝日新聞 患者を生きる 脳の機能を残すより)