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前日「子宮とりたくない」
「子どもを産めなくなるんですか」。2005年3月、初期の子宮頸がんと診断されたタレントの原千晶さん(41)は、思わず問い返した。がんの再発・転移を防ぐために子宮摘出手術を受けるよう勧められた、東京慈恵会医科大病院(東京都港区)の主治医、落合和徳さん(66)は一瞬の間をおいて、「そうだね」と答えた。「今なら子宮を取るだけで、卵巣・卵管の切除、抗がん剤や放射線の追加治療もいらないから。1週間考えて決めてください」。この場からいなくなりたい。逃げるように診察室を出た。帰りの車中、付き添っていた母親の多恵子さん(65)が言った。「ショックなのはわかるけど、お母さんは、あなたがいてくれないと困るのよ」。それまで見たことのない、悲痛な表情だった。札幌にいる父親竹男さん(67)とも、電話で話した。その5年ほど前に大腸がんの手術を経験していた。竹男さんは「俺は手術を受けてほしいと思う」と言った。いつも厳しかった父が、電話の向こうで泣いていた。「俺とお母さんに、孫の顔を見せなくちゃとか、考えなくていいから。お前が生きててくれ」。両親や友人、主治医の言葉に「とにかく手術を受けよう」と決めた。「結婚して赤ちゃんを産めなくても、しっかりと仕事をしていけば人生を切り開いていける。仕事に生きるのも一つの選択肢のはず」。いつ子どもを産んで、その間の仕事はどうするのか。それまでの漠然とした不安から、解き放たれるような気もした。手術は約1カ月後。今の自分の姿を残したいと、写真家の篠山紀信さんに頼んで、写真を撮ってもらった。だが、その後、心が揺れ始める。がんが再発したり、転移したりするかどうかは誰にもわからない。「なのに、どうして子宮をとらなければいけないんだろう」。「仕事も恋愛もうまくいかない。この上、子宮まで失ってしまうなんて」。子どもを産める可能性を少しでも残しておきたかった。入院前日、落合さんに電話をかけた。「先生、どうしても手術を受けられません。子宮をとりたくないんです」。(4月28日 朝日新聞 患者を生きる 原千晶の願いより)
Apr 30, 2015 07:57

いつか出産 信じてたのに
タレントの原千晶さん(40)は2004年12月下旬、耐え切れないほどの痛みで婦人科を受診し、子宮の入口(頚部)にできものが見つかった。詳しい検査を受けるため、東京慈恵会医科大病院(東京都港区)へ行った。検査の後、婦人科医の落合和徳さん(66)から、診断を確定させるために「円錐切除術」という手術を受けるよう勧められた。子宮頸部を円錐状に切除し、取った部分を病理検査するという。「がんの可能性もある」と説明されたが、「そんなわけない」とあまり気にとめなかった。2月下旬、手術を受けた。全身麻酔だったが。1時間もかからずに終わった。札幌市に住む母親の多恵子さん((65)が上京し、付き添ってくれた。手術の2日後には退院し、自分で車を運転して帰った。手術と聞いて身構えていたが、あっけなく終わった。おりものの異常や腹痛も無くなり、すっきりした気持だった。「こんなことなら、もっと早く病院に行けばよかった」。約2週間後、病理検査の結果を多恵子さんと聞きに行った。「何かあったらまたおいで」と言われるぐらいだろう。軽い気持で診察室に入った。「この前とったところだけど、がんでした」。予想もしていなかった落合さんの言葉に、頭が真っ白になった。子宮頸がんの一種で、頚部を覆う細胞にできる「扁平上皮がん」。がんが子宮頸部にとどまっている「1期」の中でも、ごく初期の「1a1期」という。だが、もっとショックだったのは、その後の言葉だった。「再発・転移をさせないため、子宮を前部とったほうがいいと思います」。1期で一般的な子宮の摘出手術を勧められた。その瞬間、隣にいた多恵子さんが、原さんの右手をギューと強く握った。「先生、わたし、子どもを産めなくなるんですか」。当時30歳。結婚して子どもを産む。それはいつか叶う夢だと信じていた。「どうしよう。なんでこんなことになったの。なんで子宮を取らないといけないの」涙がボロボロと、止め処なくあふれた。
Apr 29, 2015 07:53

迷える30歳 腹部に痛み
テレビの情報番組でコメンテーターなどを務めるラレントの原千晶さん(40)。千葉県内で2月に開かれた講習会で、2度のがん闘病経験を語り、がん検診を受けることの大切さを訴えた。「みなさん、私は悪い例です。どうか『原千晶』にならないようにしてください」。1994年、20歳で芸能界にデビューした。登竜門とされたキャンペーンガールに選ばれた。テレビの情報バラエティ番組の司会を務め、映画やドラマにも出演。無我夢中で20代を駆け抜けた。だが、30代を前に行き詰まった。ヒット曲がある歌手でも、賞を取った女優でもない。「テレビに出て、北海道のおばあちゃんにたくさん見てもらいたい」。ただそんな思いで仕事を続けてきた。芸能界でどんな方向性を切り開いていけばいいのか。いつかは結婚し、子どもを生みたい。先が思い描けずに悩み、疲れていた。仕事も減っていった。2003年から約1年間仕事を休んだ。久しぶりにゆったりとした時間を過ごしながら、進む道を模索した。体に異変が出始めたのはそんな2004年夏ごろのこと。30歳になっていた。そろそろ仕事を再開しようかと思い始めたころだった。毎月の生理は来るが、経血の量が多い。おなかが痛み、生理中でなくても出血があった。赤茶けたようなおりものも出るようになった。様子がおかしいと思いながらも、病院には行かなかった。重い生理通は以前からあったし、30代になったこともあり、「年齢のせいかな」と考えた。だが、症状はさらに悪化していった。生理中でなくても、下腹部に激しい痛みを感じるようになった。鎮痛剤を飲んでも、すぐにまた痛くなる。「病院に行ったほうがいいよ」。友人の言葉に背中を押され、年末にやっと東京都内の婦人科クリニックを受診した。内診した医師に言われた。「子宮の入口の頚部に、1センチちょっとのできものがあります。恐らくそれが悪さをしているのだと思います」。大きな病院で検査をしたほうがいいという。「一体、何なんだろう」。一抹の不安がよぎった。(4月24日 朝日新聞 患者を生きる 原千晶の願いより)
Apr 28, 2015 07:53

毎日がいとおしくなった
子宮筋腫と子宮頸がんが相次いで見つかった森昌子さん(56)は、2010年5月、子宮を摘出する手術を受けた。医師に勧められてから、1年近く迷った末の決断だった。本来は1時間余りの手術だが、4時間かかった。森さんの場合、子宮が腸などの臓器と癒着していた。そこをはがす必要があった。手術後、病室に戻ったが、麻酔が切れた後に下腹部が強く痛み始めた。下腹部の左側が大きく膨らんでいた。看護師に告げると、再び手術室に運ばれた。腸から出血が見つかった。子宮に癒着していた部分だった。一度縫った所から管を入れ、血を外へ出し、止血の処置をした。手術から数日後、森さんはさっそくリハビリテーションを始めた。点滴バッグをつり下げながら、背筋を伸ばし、寝間着姿で病院の廊下を歩き回る。同じようにリハビリに取り組む女性患者たちから、すれ違うたびに、「森さん?」と驚かれた。「頑張りましょうね」。互いに声を掛け合った。森さんは手術から10日後、東京都内で記者会見を開き、子宮摘出を公表した。「心身ともに健康になれた。これからはファンの前で笑顔でいられる」。当初は手術の公表に不安もあったが、会見では治療の経緯を詳しく話した。反響は大きかった。たくさんの手紙が森さん宛てに届いた。多くが女性からだった。子宮の摘出を迷い続けている人がいる一方、会見を聞いて子宮の摘出に決心がついたと、つづってきた人もいた。「怖がらないで大丈夫、と発表したことで、同じ病気で悩む女性たちが決断をするきっかけになれたのは、うれしいです」。手術後、更年期障害の症状が消え、うつ状態からも開放された。末っ子の三男が昨年成人して独立、子育てにも区切りがついた。今月15日、NHKラジオの歌謡番組。森さんはロック調の新曲「惚れさせ上手」をエネルギッシュに歌い上げた。歌手デビューから通算60曲目のシングル曲だ。この曲とともに森さんはいま、コンサートなどで全国を飛び回っている。「病気を経て毎日がいとおしくなった。大事に生きなきゃ、バチが当たっちゃいますね」と笑う。(4月23日 朝日新聞 患者を生きる 森昌子の復帰より)
Apr 27, 2015 08:03

迷った末 子宮摘出決断
2009年春、子宮頸がんと子宮筋腫の手術を受けた歌手の森昌子さん(56)は、医師から子宮を摘出する手術を勧められたものの、迷っていた。その間にも、いったん除去した子宮筋腫の再発が見つかるなど、体調に不安を抱えていた。森さんは知り合いの産婦人科医の女性に久しぶりに連絡を取った。子宮を取ったほうがよいかどうか、セカンドオピニオンを求めて相談した。すると「私も子宮を取ったほがいいと思う。でも判断するのは昌子さん。早急に決めることはないですよ」と、意見を言ってくれた。治療の相談だけでなく、子育ての悩みなど、ふだんの生活に関する話にも耳を傾けてくれた。森さんは「子宮の摘出に向けて、時間をかけて、自分の気持を整理する助けになった」と振り返る。森さんは当時、ホルモン剤を服用していた。エストロゲンという女性ホルモンの分泌を抑える薬で、筋腫が大きくならないようにするのが目的だった。当時は精神的に不安定で不眠が続き、貧血状態だったこともあり、鉄剤や睡眠導入剤なども飲んだ。ホルモン剤も含め、多いときで10種類の薬を持ち歩いていた。薬の副作用なのか、ひどい湿疹が全身に出るようになった。顔が真っ赤になり、化粧でも隠しきれなくなった。テレビ番組で森さんを見た人から「どうしたんですか」と案じる電話もかかってきた。このままの体調では、ファンや周りに心配をかける。もう迷うのはやめよう。森さんはかねて主治医に勧められていた子宮摘出手術を、ついに受ける決心をした。「先生、お願いいたします」。そう告げると主治医は「いい決断だと思います」と答えた。治療方針が決まり、森さんの迷いは消えた。(4月22日 朝日新聞 患者を生きる 森昌子の復帰より)
Apr 26, 2015 08:02

森昌子の復帰
歌手の森昌子さん(56)は、2006年3月、20年振りに芸能界に復帰した。背中を押してくれたのは、3人の息子だった。歌番組にコンサート、ドラマ。かつてのように忙しい毎日が再び始まった。40代後半で、離婚に続き、芸能界への復帰と、取り巻く環境が大きく変った。そんな中、森さんは更年期障害に悩まされるようになった。脱力、疲労感や不眠、めまいの症状に見舞われながら、仕事を続けた。そのうち、うつ症状にも苦しむようになった。華やかな歌手活動。その裏で、心身の不調に苦しむ日々が続いた。2009年に入ると、突然、顔や体のあちこちのブツブツとした感じの湿疹ができた。以前から下腹部の圧迫感も感じていた。エコーで子宮の状態を調べたところ、大小30~50個の子宮筋腫ができていることがわかった。「おなかの違和感はこれが原因だったのか」と納得した。筋腫を取るため、「筋腫核出術」と呼ばれる、レーザーで筋腫だけを切り出す手術をした。だが、その後の検査で、予想外の病気がさらに見つかった。「子宮頸がん」だった。がんはごく初期のもで、粘膜の表面にとどまっていた。2009年春、子宮筋腫の手術に続き、「レーザー蒸散術」という子宮頸がんの手術を受けた。ただ、子宮頸がんが見つかった当初から、森さんは主治医から「子宮を摘出したほうがいい」と勧められていた。がんが再発する危険性を抑えるためには、摘出したほうが良いのかな・・・・。森さんはそう思う一方、この時は首を縦に降ることができなかった。「子宮を取ってしまったら、女性でなくなってしまうような気がして、どうしても承諾できませんでした」。(4月21日 朝日新聞 患者を生きる より)
Apr 25, 2015 08:03

「耐える」高校時代悟った
朝の情報番組「めざましテレビ」(フジテレビ系)のキャスターだった大塚範一さん(66)は2011年11月、急性リンパ性白血病の抗がん剤治療を始めた。入院して6日目だった。治療の基本は、大きく分けて寛解導入療法と寛解後療法がある。寛解導入療法では複数の抗がん剤を使い、がん細胞がほとんどなくなる「完全寛解」を目指す。ただ完全寛解になっても、治療を中断すると、がん細胞はすぐに増殖してしまう。そこで、さらに「地固め療法」「維持療法」とも呼ばれる寛解後療法で、別の強力な抗がん剤を大量に使って寛解の状態をより確実なものにする。同時に、強力な抗がん剤のため、肝臓や腎臓を守る薬も使う。(4月8日 朝日新聞 患者を生きる 大塚範一の闘いより)

Apr 24, 2015 08:04

必要な治療だったのか
80歳だった父は、小腸に腫瘍が見つかり、医師に「GIST(ジスト)かも知れない。とりあえず開腹手術をしましょう」と言われ、よく考える時間もないまま手術に応じました。手術後4カ月目に容態が急変し、昨年7月に亡くなりました。高齢の父は、開腹手術を受けたことで体力を消耗してしまいました。それまでは、趣味の登山やゴルフを楽しみ、普通に食事をすることもできました。しかし、手術後にあっという間に亡くなってしまいました。手術をしていなければ、もう少し人生を楽しめたのではないか。必要な治療がある一方、必要のない治療もあるのではないかと感じています。宮城県 50歳 女性。(4月4日 朝日新聞 患者を生きる 読者編より)
Apr 23, 2015 07:55

患者同士の情報、大切
スキルス胃がんの患者・家族会「希望の会」の立ち上げメンバーの一人です。3月、NPO法人として認められ、会員数は60人を超えました。会を設立したのは、私の大学の先輩の男性が、ステージ4のスキルス胃がんと診断されたのがきっかけです。このがんは進行が早く予後も不良なため、患者同士が横に手をつなぐ機会を持ちにくいのが現状です。会では、患者同士がインターネットの掲示板を通じて交流を進めてきました。全国の方々から治療に関する貴重な情報が集まり、こうした情報交換が患者の希望につながることが実感できました。記事になかに、「インターネットの交流サイトで治験の情報を得た」という趣旨の記述がありました。インターネットが発達した世の中では、患者同士が互いに情報交換をすることが、大きな力になるのだと考えています。神奈川県 松田陽子 51歳。(4月3日 朝日新聞 患者を生きる 読者編より)
Apr 22, 2015 07:59

治験への理解に期待
治験を行う祭に製薬会社と医療機関、そして患者さんの間をつなぐコーディネーターの仕事をしています。記事では、抗がん剤の治験が紹介されていました。治験は、抗がん剤のほかにも、抗菌薬やワクチン、糖尿病や高血圧、アレルギーの薬など様々な分野で、将来患者さんに広く使っていただくために必要なステップです。治験は自由参加が原則で、安全と人権に配慮して行われています。しかし、「動物実験のようだ」と、悪いイメージを持つ方もいます。確かに、治験に参加しても効果が出なかったり、プラセボ(偽薬)を飲むことになったりすることもあります。しかし、いますぐメリットがなくても、自分の子どもや孫が病気になったとき、治療の選択肢を広げることにつながるかもしれません。新薬が世の中に出るには、多くの患者さんの協力が必要です。治験への理解が広がることを期待しています。福岡県 女性 41歳。(4月3日 朝日新聞 患者を生きる 読者編より)
Apr 21, 2015 07:57

孫とともに生きたい
昨年11月、肺がんが見つかり、背骨や脳の一部への転移もわかりました、肺の手術はできないとの診断に、私は大きな衝撃を受けました。まず背骨の放射線治療を行い、その後、分子標的薬による治療が始まりました。現在、がんは大きくならず、脳に転移した部分も見えなくなるなど、良い結果が出ています。それでも、定期的な検査の日は、不安でいっぱいです。記事に登場する保育士さんが診察室に入るときの「いつもバッグに入れてあるお守りをぎゅっと握って、大丈夫、大丈夫と唱えてから入る」という気持が、痛いほどわかります。一方で、めざましい開発が進む治療薬の状況など、記事を読んで希望も生まれました。昨年9月に初孫が誕生しました。もしかして神様が命をバトンタッチしなさいと言っているのかなと思ったりもしましたが、自分も孫とともに生きていきたいのです。あきらめずに、可能性を信じて生きようと思います。富山県 男性 58歳。(4月2日 朝日新聞 患者を生きる 読者編より)
Apr 20, 2015 08:01

負けずに頑張る
肺がんと闘っています。がんがわかったのは3年前です。様々な抗がん剤を試し、分子標的薬「クリゾチニブ」も使いましたが、副作用が出たため中止しました。脳への転移も見つかりましたが、放射線治療で縮小し、2カ月に一度検査を受けている状態です。新しい薬「LDK378」の治験にも昨年から参加しています。副作用の様子をみて、薬を使うのを一時的に休んだりしながら、治療を続けています。私には小学生の息子と、この春高校生になる娘がいます。「自分はまだ若いのになぜ」という思いもあります。でも、家族のためを考えて治療に取り組み、一日一日を大事に過ごしています。治療はつらいものですが、同じ病状で頑張っている方の姿を記事で読み、「メソメソしていられない」「負けずに頑張っていこう」と思いました。10年、20年と生き続けられるように、頑張りたいと思います。福岡県 女性 40歳。(4月2日 朝日新聞 患者を生きる 読者編より)
Apr 19, 2015 08:28

仕事一筋 白血病で一転
朝の情報番組「めざましテレビ(フジテレビ系)のキャスター、大塚範一さん(66)はそのとき、ゴルフ場にいた。2011年10月27日の木曜日。ラウンド中に何げなく手で首筋をなでると、そこに小さなしこりがいくつかある。反対の首筋をなでると、そこにもしこりがあった。当時63歳。自覚症状は何ひとつなっかたが、さすがに心配になった。金曜日の番組終了後、自宅近くの通い慣れた個人クリニックを訪ね、血液検査をしてもらった。事態は31日の月曜日に動き出す。「検査の結果が出たので、できるだけ早く病院に来てもらえませんか」。クリニックに駆けつけると、「血液検査で異常が見つかった」と、医師はすぐさま精密検査を受けることを勧めた。翌11月1日、東京都内の大学病院を受診した。ブラストと呼ばれる健康な人の血液には存在しないがん細胞である可能性が高い血液細胞が見つかった。その日のうちに、急性リンパ性白血病と診断された。翌日に入院した。華やかなテレビの世界から、病室の天井を見つめてt時間を過ごす生活になった。入院後に医師とこんな会話があったという。「先生、はっきり言ってください。生存率はどれくらいなんでしょうか」「3~4割です」「5割もないんですか?」。ただ、医師はこう付け加えたという。「骨髄移植が有効ですが、63歳という年齢を考えると、感染症や合併症のリスクが高まります。抗がん剤か骨髄移植か、最終的にどっちを選ぶかは大塚さんの人生観なんです」。抗がん剤治療か、骨髄移植か、まだ決めていなかった。年齢のリスクも考え、自然と抗がん剤治療で白血病と闘う方向になっていった。(4月7日 朝日新聞 患者を生きる 大塚範一の闘い より)
Apr 18, 2015 08:16

治療の選択肢、増えて
1月、夫を47歳で亡くしました。肺がんのステージ4と診断され、3年間の懸命な闘病生活でした。夫は地方公務員で、抗がん剤のイレッサが効いていた1年半は普通に出勤し、夫婦で旅行もできました。記事の保育士の方もおっしゃっていましたが、がんが完全に治らなくても、うまく付き合っていければ上出来だと思います。当初はあまりつらい思いをせずに治療ができましたが、それもがんに薬への耐性ができて効かなくなるまでに限られました。治験に参加したくても、なかなかチャンスがありませんでした。新薬の認可には時間がかかり、闘病生活が長くなるにつれて、だんだん治療の選択肢は少なくなりました。本人もつらかったでしょうが、支える私もなぐさめる言葉が見つかりませんでした。どうか少しでも治療の選択肢が増えますように。耐性ができるまでの時間が延びますように。そう願ってやみません。山口県 長井由美子 48歳 (4月1日 朝日新聞 患者を生きる 読者編より)
Apr 17, 2015 08:10

GISTに光当てて
検診がきっかけでGISTが見つかったのは2012年の暮れでした。翌年2月に開腹手術を受け、腫瘍の大きさは9センチでした。他の臓器への転移は見られませんでしたが、「転移や再発のリスクが高い」との説明を受け、不安が増すばかりでした。グリベックを飲み始めて、2年が経過したところです。安定した状態がいつまで続くかは誰にも分からないので仕方のないことですが、私よりもっと苦しんでいる方がたくさんいるのも事実だと思います。そして、私の治療に関するデータは、同じ病の患者さんのために生かしてほしいと思います。患者にとっては、症例が少ないということだけでも大きな不安になります。情報がたくさん集まれば、患者の不安も解消されるでしょうし、治療の手がかりになるのでないかと思います。今回の記事を機に情報が集まり、GISTにもっともっと光が当たることを願っています。埼玉県 女性 70歳。 (3月31日 朝日新聞 患者を生きる 読者編より)
Apr 16, 2015 08:31

情報の少なさを痛感
せきが続き、ぜんそくの疑いがあったため病院で念のためCT検査を受けたことが、GISTが見つかるきっかけになりました。胃の真ん中より噴門(胃に入口部分)寄りのところで、12センチの大きさでした。肝臓にも転移しており、昨年5月に手術を受けました。胃の一部と、肝臓の左葉を切除しました。抗がん剤「グリベック」の服用を続けていますが、貧血がひどく、通院以外は外出もなかなかできません。病気になる前は仕事をこなしながら友人と食事を楽しむことができたことを考えると、もう少し頻繁に健康診断を受けておけばよかったと思います。相談をしたかかりつけの医師は、GISTがどういう病気か知らず、逆に質問されてしまい、ショックを受けました。このようにGISTに関する情報はとても少なく、今回記事に掲載されたことを、ありがたく思っています。大阪府 島奈緒子 51歳 (3月31日 朝日新聞 患者を生きる 読者編より)
Apr 15, 2015 08:11

軟部肉腫 進み出す治験
軟部肉腫は、筋肉や脂肪、血管、神経などにできる悪性腫瘍(がん)だ。国内の患者数は年間で数千人とされる。「患者を生きる 幻の薬」の静岡市の女性(54)は、内臓を包む腹膜の外、背中側にある後腹膜の筋肉に軟部肉腫ができた。手足にできたものは整形外科、子どもの場合は小児科が診察する。胸やおなかの中にできる大人の軟部肉腫は診療科の区分が難しく、専門医も少ない。いずれの軟部肉腫も、治療は手術で腫瘍を取り除くことが一般的だ。悪性度の高いものは、肺などに転移する場合が多く、抗がん剤や放射線治療などを組み合わせる。大阪府立成人病センターによると、軟部肉腫全体の5年生存率は約70%。悪性度によって差が大きく、再発・転移すると2割以下になると言われる。軟部肉腫は患者数が少ないために薬の開発がなかなか進まず、従来は既存の抗がん剤を使っていたが、効果ははっきりしなかった。2012年に国内で使えるようになった分子標的薬・パゾパニブは、欧米や日本などで国際的に治験を行うことで、データを多く集めることに成功し、効果があると認められた。その後も乳がんの抗がん剤であるエリブリンや、欧州などで承認されているトラベクテジンなどの薬の治験が国内で進められている。大阪府立成人病センターの高橋克仁医師は、「パゾパニブが登場するまで悪性度の高い軟部肉腫に効果があると言える薬はなかった。再発・転移した場合、薬による治療法がないので手術もしない、というのが一般的な対応だった」と話す。高橋さんは、2009年に肉腫の患者を担当した経験のある医師同士で情報を共有したり、セミナーを開いたりする「キュアサルコーマセンター」をつくり、医療施設間の連携を進めている。参加施設では、再発や転移した軟部肉腫も積極的に手術で切除している。その結果、再手術は延命効果があることが分かってきたという。「薬の選択肢も増えつつあるので、今後は学会を立ち上げてデータを集め、診察のガイドラインをつくっていきたい」と高橋さんは話している。(3月29日 朝日新聞 患者を生きる 幻の薬情報編 より)
Apr 14, 2015 07:51

小康状態 すべてに感謝
「後腹膜平滑筋肉腫」というまれながんになった静岡市の女性(54)は、再発後、東京の国立がん研究センター中央病院で新薬の治験を3年8カ月受けた。症状は安定していたが、2012年5月、薬の開発は中断され、薬は飲めなくなった。女性は、肉腫の研究をしている大阪府立成人病センターの高橋克仁医師に相談した。2012年中には、悪性の軟部肉腫を対象にした始めての分子標的薬、パゾパニブ(商品名ヴォトリエント)が発売される予定だった。「それまでなんとか抑えよう」。ほかの治療を探した。高橋さんの勧めで新たに参加したのは、白血病の抗がん剤の適応を広げるための治験だった。女性は東京郊外の病院に入院したが、薬を飲み始めてから1カ月後の8月、腹部に腫瘍の再発が見つかり、参加は終了となった。あとは新薬を待つしかない。9月、再発時の手術を担当した大野烈士医師のいる淵野辺総合病院(神奈川県相模原市)で、3度目の手術を受けた。小腸の周りにできた5センチの腫瘍を手術で切除した。パゾパニブが発売された11月、高橋さんの診察を受けて薬を商法された。「何とか、生き延びた」。そんな気持だった。1日1回服用する日々が始まった。だが、肺に転移した腫瘍が徐々に大きくなり、肺炎を併発。呼吸困難になった。腹部と肝臓にも新たな腫瘍が見つかった。2014年の夏には、肺と腹部、肝臓の合わせて4か所を一度に切除する大手術を受けた。現在は小康状態だ。パゾパニブがどれだけ効いているのか、効果がいつまで続くのかは、分からない。だがそれでも普段は症状はなく「病人に見えない」と言われるとうれしい。これまで、様々な条件や幸運が重なったと女性は振り返る。自宅が東京や大阪に通える距離にあったこと。子どもがおらず、治療に専念できたこと。そして何より、治療をしてくれる医師に出会え、治験によって命をつなぐことができたこと・・・・。そのすべてに感謝して、一日一日を過ごしている。(3月28日 朝日新聞 患者を生きる 幻の薬 より)
Apr 13, 2015 08:28

せっかくだから楽しもう
後腹膜平滑筋肉腫が再発した静岡市の女性(54)は、2008年9月末から、国立がん研究センター中央病院(東京都中央区)で、新薬の治験を受けることになった。「この治験で、効果がなければ後がない」。そんな思いで臨んだ。薬は家血管新生阻害剤と呼ばれる種類の分子標的薬。1カ月入院し、毎日1錠、薬を飲んだ。その間、肺に転移していた1センチほどの腫瘍は大きくならず、副作用もほとんどなかった。担当した呼吸器内科の軒原浩医師は「続けましょう」と女性に言った。それまでと同じ、最低の用量での治験継続が決まった。退院し、自宅から東京まで通いながら治療を受けた。3週間に1度、午前9時前の新幹線に乗り、血液検査などを受け、薬を受取るとすぐに静岡に戻った。それ以外は、ほとんど自宅にこもった。再発を機にピアノ講師の仕事を辞めたが、本当は続けたかった。「生徒たちにきちんと説明もできなかった」。「どうしてこんな病気になってしまったんだろう」。気分は落ち込んだ。女性の様子を心配した夫(54)に、「せっかく東京に行くんだから、とんぼ返りしないで遊んできたらどう?」と言われ、はっとした。2009年になって、新幹線の車窓から桜を眺めながら思った。「病気になったけど、チャンスをもらって、こうやって生きている。もっと楽しもう」。軒原さんの「薬を長く飲むことができて、調子良いですね」という言葉に力づけられ、スタッフの優しさにも気づくようになった。診察を受ける日には、都内で買物や歌舞伎鑑賞を楽しむようになった。そんな日々は約3年半続いた。薬の治験は、安全性をみる1相から、肺がんに対する効果を見る2相へ進んだが、製薬会社は2012年5月、開発の中断を決め、治験は終了になった。女性も薬を使うことはできなくなった。軒原さんは「女性にはよく効いていたようだが、治験を受けた人全体でみたときに、ちりょうの効果と副作用のバランスが悪かったということでしょう」と話す。女性の支えになっていた薬は「幻」となった。
Apr 12, 2015 08:16

すがる思いで賭けた 3
「それでも、本当に受けますか?」と医師に厳しく問われた女性は「もう、このまま帰ろうか」と思った。だが、「もう後がないんだ」と思い直した。「お願いします」。女性は腫瘍以外に病気はないなど、参加の条件を満たしており、治療を受けることになった。2週間後に入院し、1日1回、薬を飲んだ。服用は午前10時半と決まっていた。看護師が時計をにらみながら、「あと1分待って」と言うこともあった。最初の採血は1日8回。血圧や心電図などの検査もあった。治療は1カ月続けて、副作用などをみる。その間に体調が悪化したり、1センチほどの肺の腫瘍が大きくなったりすれば、その時点で打ち切りだ。女性は緊張の日々を過ごした。(3月26日 朝日新聞 患者を生きる 幻の薬 より)
Apr 11, 2015 07:48

すがる思いで賭けた 2
女性の治療を担当した呼吸器内科の軒原浩医師はこう説明する。患者は治験に効果を期待するが、1相試験はあくまで安全と用量についてみるもので、効果は二の次。世界中で行われている治験薬のうち、本当に薬になるのは数%しかない。治験を受けている間は、服薬や検査など、厳重な管理が必要になる・・・・。そのようなことを説明した上で、本当に治験に参加するかどうか、決めてもらう必要がある。(3月26日 朝日新聞 患者を生きる 幻の薬 より)
Apr 10, 2015 07:52

すがる思いで賭けた
「後腹膜平滑筋腫」が再発、転移した静岡市の女性(54)は、再手術後、薬による治療が必要だった。女性の腹部の腫瘍を詳しく調べた大阪府立成人病センターの高橋克仁医師は、国立がん研究センター中央病院で(東京都中央区)で、がんの周辺に血管ができるのを防げる「血管新生阻害剤」の治験参加を募集しているのを知り、女性に参加を勧めた。肺がんを狙った薬だが、安全性を見る「1相試験」は、がんの種類を特定しない。肉腫の女性も参加できる可能性がある。「効果があるかもしれない」。2008年9月、女性は新幹線で東京に向かった。治験への参加は、医師の面接を受けた上で決まる。女性はこれまで受けた手術の日時や経過を暗記し、すぐに答えられるように準備した。なんとか治験を受けさせてもらいたい一心だった。(3月26日 朝日新聞 患者を生きる 幻の薬 より)
Apr 09, 2015 08:07

転移 希望つないだ一言 2
インターネットで論文などを検索し、肉腫を研究している大阪府立成人病センター(大阪市東成区)の高橋克仁医師を知り、紹介状を書いた。以前勤務した病院からカルテや検体を取り寄せ、一緒に送った。翌月、女性は高橋さんの元を訪れた。高橋さんはこれまでの症例から、再発・転移した軟部肉腫でも腫瘍を切除すれば延命につながるという感触を得ていた。「まずは外科手術をお願いしましょう。使える薬がないか、がん細胞を詳しく調べましょう」と話した。女性は、「生きる希望がつながった」と思った。高橋さんの紹介で、関東中央病院(当時)の外科部長だった大野烈士医師が手術を担当することになった。腹部の9センチの腫瘍を切除。肺に転移したものは小さく、経過をみることになった。だが、転移は血液中にがん細胞があることを意味する。今後も再発の可能性はある。「薬物治療も必要ですね」。望みは、治験だった。(3月25日 朝日新聞 患者を生きる 幻の薬 より)
Apr 08, 2015 08:03

転移 希望つないだ一言
2005年に「後腹膜平滑筋肉腫」というがんが見つかった静岡市の女性(54)は、腫瘍の摘出手術後、ピアノ講師の仕事に復帰した。だが3年後の2008年6月、腹部の再発と肺への転移が見つかった。医師は「手術はできない」と告げた。途方に暮れる女性に、夫(54)は「とにかく手術してくれる医師を探そう」と励ました。県外も含めて数カ所の病院を回ったが、手術を引き受けてくれるところは見つからない。再発・転移した軟部肉腫に保険が適用されている抗がん剤があったが、女性は副作用を心配していた。抗がん剤治療を受けないなら、手術の意味がないと医師は判断した。女性は同月、3年前に執刀した2人のうち、県内の別の病院に移った産婦人科医を訪ねた。診察室で、女性は泣きながら「親より先に死ねない。夫を残していけない」と訴えた。医師はがんの専門医ではないが、子宮や卵巣などの肉腫の患者を診た経験はあった。経緯を聞き、「再発したのなら、厳しいだろう」と内心思った。それでも女性に様子に、何かできることなないか調べた。(3月25日 朝日新聞 患者を生きる 幻の薬 より)
Apr 07, 2015 07:54

「あと1年」の言葉に絶望 2
手術を担当した医師らが転勤したのを機に、県内のがん専門病院で半年に1度、経過を観察した。体調も良く、「再発なんて、しないんじゃないかな」。そう思うようになっていた2008年6月、再発が見つかった。左の腹部に再び腫瘍ができ、肺にも転移があった。主治医に「手術できるでしょうか?」と聞くと、医師の答えは「できません」だった。この女性のがんを含む「軟部肉腫」は、筋肉や脂肪、血管、関節などにでき、国内の発症率は10万人に2人というまれながんだ。海外の研究では、再発や遠隔転移がある軟部肉腫の5年生存率は、2割以下とも言われる。使える抗がん剤はあったが、効果はあまりないとされていた。医師は「仕事はやめなくても良いし、好きなことをしたほうがいいですよ」と言った後、こう続けた。「あと1年か、1年半か・・・・」。その言葉に、女性は、目の前が真っ暗になった。(3月24日 朝日新聞 患者を生きる 幻の薬 より)
Apr 06, 2015 07:58

「あと1年」の言葉に絶望
「今年で10年。これまで生きてこられて、感謝です」。静岡市に住む女性(54)に、「後腹膜平滑筋肉腫」というがんが見つかったのは2005年のことだ。再発、転移し、一時は「手術はできない」「治療法はない」と言われ、絶望した。それでも「どうしても生きたい」という気持で、静岡から大阪、そして東京を何度も行き来した。希望をつないだのは、世に出ることのなかった「幻の薬」の治験に参加したことだった。ピアノ講師として働いていた2005年、スカートがどんどんきつくなるのに気がついた。「太ったのかな」と思ったが、腹部に違和感がある。3月、お恐るお恐るかかりつけ医を受診し、がんが見つかった。数日後、県内の総合病院で手術を受けた。切除した部分は腫瘍を含めて直径20センチを超えた。医師から、悪性度の高いがんであること、再発の恐れがあるという説明を受け、女性は泣き崩れた。それでも、手術で体は軽くなり、退院するころには、「腫瘍はきれいに取れましたよ」という医師の言葉をかみしめた。6月には仕事に復帰した。(3月24日 朝日新聞 患者を生きる 幻の薬 より)
Apr 05, 2015 09:19

治験 リスクも理解して 3
対照的なのが1相試験だ。すべての参加者に新薬が使われ、偽薬(プラセボ)を割り当てられる心配はない。ただし、安全性を確認するのが主な目的で、がんで1相を実施する医療機関は、態勢が整ったごく一部に限られる。募集する参加者も数人だけ。参加を望む患者が全国から集まってくる。1相の薬は人に使った経験がないケースもあり、未知の副作用のリスクは高いという点にも注意がいる。1相で安全性に問題が見つかり、2相へ進めないまま治験を終える薬もある。治験に参加する際は、医師や担当のコーディネーターから詳しい説明を受ける。国立がん研究センター東病院早期・探索臨床研究センターの設楽紘平さんは、「試験のメリット、デメリットについての説明を十分に理解した後で、参加を決めることが重要です」と話す。(3月22日 朝日新聞 患者を生きる 胃がん より)

Apr 04, 2015 09:08

治験 リスクも理解して 2
治験には1~3相の三つの試験がある。製造販売元の日本イーライリリー社によると、男性が参加した3相試験には、日本の140人を含む世界の665人が参加。薬の効果を厳密に評価するため、665人を新薬を使うグループと、使わないグループに分けて行なわれた。どちらに振り分けられるのかは、患者本人も医師も分からない仕組みになっている。3相試験は参加者の規模が大きく、全国の医療機関で比較的受けやすい。ただ、新薬を使わないグループに入る可能性も理解した上で参加する必要がある。(3月22日 朝日新聞 患者を生きる 胃がん より)
Apr 03, 2015 08:18

治験 リスクも理解して
胃がんは日本人に最も多いがんで、早期発見ならば90%以上が手術できる。一方、診断時に転移があったり術後に再発したりすると、治療が難しくなる。このため、国内外で新しい抗がん剤の開発が進んでいる。連載で紹介した埼玉県の男性(68)が県内の病院で2011年11月から1年近く参加した治験は、新薬という成果に結びつきそうだ。腫瘍に栄養を送る血管が新たに作られるのを阻む「サイラムザ」。厚生労働省の部会は今月5日、製造販売について「承認しても差し支えない」との見解を出した。近く承認され、手術不可能な胃がん患者向けに販売が始まる見通しだ。(3月22日 朝日新聞 患者を生きる 胃がん より)
Apr 02, 2015 07:50

治療5年目 人生前向き 3
「5月に旅行に行きたいのだが、どうだろう」。男性は高木さんに尋ねた。毎春、小中学時代の仲間と海外旅行へ行く。今年はインドネシアの予定だ。高木さんはできる限り支えたいと思った。「入院中じゃなければ」と答えた。2月中旬、退院した。服薬をやめていた治験の薬は、量を減らして再開したが、のどに違和感が出て、3月に入って再びやめた。腫瘍も少し大きくなった。3月中旬、設楽さんと相談し、今の治験への参加を中止することにした。今後の方針はこれから決める。それでも男性の表情は明るい。海外旅行、北アルプス登山、九州各地のお城めぐり・・・・。春から夏にかけて、スケジュールが埋まりつつある。「私と同じようにがんを治療する人たちに、少しでも勇気と希望を与えられれば」。前向きに人生を楽しむ姿勢は、治療から5年目に入っても変らない。
Apr 01, 2015 08:19


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