テレビきっかけに受診
連載では、「ただのほくろ」と見逃されがちなメラノーマ(悪性黒色腫)も取り上げました。体験者から届いた声を紹介します。 ●おしりのほくろ「似てる」 6年前のことです。家族でメラノーマについてのテレビ番組を見ていた時、娘から「お母さんのおしりのほくろに似ている」と言われました。自分では見えづらく、それまでは放置していたのですが、皮膚科に行くことにしました。念のため検査を受け、10日後に結果を聞きに行ったところ、「すぐに大きな病院へ」と告げられました。結果はメラノーマでした。がん細胞が散らばる可能性があるそうで、こぶしぐらいの大きさのかたまりをおしりから切除しました。足の付け根のリンパ節も取り、おなかの皮膚をおしりの切除部分に移植しました。おしり、足の付け根、おなかの3カ所に傷ができ、手術直後はまったく歩けなくなりました。手術から5年以上が経過し、今は友達や家族と旅行などを楽しんでいます。生きていることの喜びを感じています。「あの時のテレビ番組を見た娘の一言があったからこそ、今がある」。そう感じる毎日です。(兵庫県 女性 49歳) ●後遺症なく元気に 足の裏に変なしみがあるな」と、ずっと思っていました。ある日、テレビ番組でメラノーマというがんを知り、不安になって病院へ行きました。当時の医師の説明によると、輪郭がいびつだったことが、メラノーマを疑う決め手になったそうです。私のメラノーマは、幸いにも表面だけで小さいものだったので、手術で治りました。やはり、できるだけ早くに病院に行くことが大切だと知りました。私は45歳で乳がん、56歳でメラノーマ、そして61歳で大腸がんと、がんを3回経験しました。すべて早期発見だったことや、すばらしい医師に巡り合えたことで、後遺症もなく元気に毎日を過ごしています。還暦を過ぎましたが、これだけがんと闘ったのだから、この先はよいことが待っているに違いないと思っています。茨城県 女性 62歳 (8月14日 朝日新聞 患者を生きる 読者編より)
体調悪くても悲観せず
がんの中で日本人に多い胃がん。胃がんをテーマにした連載は、手術後の暮らしぶりをつづった便りが寄せられました。 ●主治医の言葉が支えに 36歳の時に黒い便が出て、病院で検査を受けると即日入院となり、数日後に胃がんと診断されました。3人目の子どもを産んですぐ復職したこともあり、忙しさゆえの調子の悪さと思っていました。最終的にはスキルス胃がんとわかり、胃を全摘しました。食事は全がゆからのスタートでした。恐る恐る時間をかけて口にしていました。そのうちに、病院の売店で買ったカステラを一口二口と食べられるようになっていきました。退院の日、夫が「仕事はやめてもらって養生させます」と主治医に伝えたところ、「養生なんてとんでもない。むしろがんばってほしい」と励まされました。胃をなくして12年、今は障害者の自立生活センターでコーディネーターを務めています。体調がすぐれないときもありますが、悲観しないようにしています。主治医の「がんばってほしい」という言葉が支えになっています。(静岡県 女性 48歳) ●看護師として体験生かしたい 私は今、再発の恐怖の中にいます。手術から4年目。胃がんが見つかったのは、待望の子どもが生まれて3カ月になる時でした。早期がんだったので、手術後は経過観察をしています。告知の時は、この子を何歳まで育てられるだろうかと泣き崩れました。看護師としてホスピス病棟で勤務したことがあり、どんなに闘っても、どんなに頑張っても、がんで人生を終えた患者さんを見てきました。「自分は何とかなる」とは到底思えませんでした。今でも前向きに、毎日を楽しく大切にと思う一方で、再発と死が頭をよぎらない日はありません。ただ、がんになって初めて、患者さんの思いを知ることができました。告知、入院、手術、それにがん患者として生きていくことは、看護師として働いていた時の想像をはるかに超えていました。これからも看護師を続けていく中で、がんの体験を少しでも患者さんに還元したいと思っています。秋田県 渡部美郷 41歳 (8月13日 朝日新聞 患者を生きる 読者編より)
医師との対話 心に残る
●忘れぬ医師の手の温かさ 8年前、子宮体がんで子宮と卵巣を摘出しました。いつも生理2日目には出血が多く、仕事になりませんでした。地元の産婦人科では「子宮筋腫」と言われ、信じていました。しかし、あまりに状態がおかしいと感じ、別の病院で検査をしてもらうと、子宮体がんとわかりました。医師からは「こんなに早期に見つかるのは珍しい」と言われましたが、「今後のためには子宮と卵巣は摘出したほうがよい」と勧められました。約5時間の手術は成功しました。ただ、わずかに筋肉までがん細胞が達していたため、いつ再発するのか不安でした。医師は「順調ですよ。これからは自分自身でがんばってください」と、私の手を握ってくれました。あの手の温かさは一生忘れません。これからも定期的なCT検査は続くと思いますが、何事もなく順調です。いろんな人のおかげで今日があり、生かされている。そう感謝する毎日です。(福井県 松下笑佳 47歳) ●想像越す抗がん剤のつらさ 今春、突然の腹痛で救急搬送され、卵巣がんとわかりました。両卵巣、卵管、子宮などを摘出しました。手術後、卵巣を調べると、明細胞がんの1A期でした。医師から抗がん剤治療が6回必要と言われました。しかし、1回打った抗がん剤のつらさは想像を絶し、中止しました。全身の痛さやしびれで、生活の質が低下しました。食欲はなく、家に閉じこもりがちになり、前向きに生きる気力もなくなりました。医師は「ガイドラインでそうなっているから、抗がん剤は必要」と説明するだけでした。がんの再発を防ぐ方法は抗がん剤しかないのでしょうか。再発防止のためなら、副作用による生活の質の低下は仕方ないのでしょうか。多くのがん患者からお話を聞きましたが、みな抗がん剤で生活の質が低下することを語っておられ、疑問を感じています。抗がん剤以外のホルモン療法や漢方薬などの研究をもっと進めてもらいたいと思います。大阪府 女性 54歳。(8月12日 朝日新聞 患者を生きる 読者編より)
味覚喪失 10年の思い
●「必ず治る」の言葉に勇気 大橋巨泉さんが出演するテレビ番組を偶然見たのは昨年の春でした。舌がんで入院中だった私は、放射線治療による口内炎や味覚障害の副作用に苦しんでいました。巨泉さんは自ら受けた放射線治療と味覚障害の体験をもとに、こう言われました。「今、同じように治療されて苦しんでいる方、本当に大変でしょう。わかります。でも、必ず治ります。がんばってください」。まるで、ベッドの上で苦しむ私のために言ってくれているような言葉でした。私は当時、副作用のあまりのつらさから、医師や看護師の「大丈夫、治りますよ」という励ましにさえ、疑心暗鬼になっていました。巨泉さんの言葉にどれだけ勇気をもらい、前向きな気持になれたことでしょう。今は退院して1年が過ぎ、味覚も回復に向かっております。(埼玉県 女性 71歳) ●毎日の食事楽しめず 味覚と嗅覚をなくして10年になります。結腸がんの治療で抗がん剤を使い始めて3カ月ほどで、いずれも感じなくなりました。抗がん剤の影響ではないかと思っていますが、医師もはっきりとした原因はわからないようです。味覚や嗅覚の喪失は外見からはわからず、そのつらさは他人にはなかなか理解してもらえません。慣れてきたとはいえ不便で、毎日の食事も楽しくありません。味覚と嗅覚がなくなると、それにかかわる記憶も薄れるように思います。「この前行ったあのお店、おいしかったですね」「このお酒、以前もいただきましたね」と言われても、思い出せなかったり覚えてなかったりします。巨泉さんの連載では、放射線治療に伴う味覚の喪失について紹介されていましたが、こうしたことが広く知られることは、とても意義があると思いました。東京都 岩本武史 52歳 (8月11日 朝日新聞 患者を生きる 読者編より)
服用継続へ早めのケアを
肺がんの中でも「腺がん」は、男性で4割、女性で7割を占め、最も患者数が多い。患者の約半数は、がん組織を調べると、細胞の増殖に関わる「EGFR]というたんぱく質の遺伝子に変異が見られる。変異が起こる原因はわかっていない。EGFRの異常な働きを抑える分子標的薬のEGFR阻害剤には「ゲフィチニブ(販売名イレッサ)」や「エルロチニブ」、「アファチニブ」がある。いずれも進行して手術ができないか、再発した患者が処方の対象となる。従来の抗がん剤のような脱毛や白血球の減少に悩まされない代わりに、皮膚障害や下痢などの副作用が目立つ。皮膚障害は7~9割の人が経験する。EGFRはがん細胞だけでなく、細胞の増殖が活発な皮膚や爪、粘膜などにも多く、影響を受けやすいからだ。連載で紹介した渡辺久子さん(68)のように、薬を飲み始めて1~2週間後に目立つのが、顔や胸、背中などにできるニキビのような湿疹だ。かゆみを伴うこともある。治療には炎症を抑えるステロイド軟膏を使う。症状が重いと抗生物質を服用することもある。和歌山県立医科大学呼吸器内科・腫瘍内科の山本信之教授(53)は「EGFR阻害剤は、湿疹が出る人ほどよく効くとされている。湿疹で治療をあきらめるのではなく、継続できるようケアすることが大切だ」と話す。服用後6週間ほどすると、爪の生え際が赤くなって腫れる「爪囲炎」が起こりやすい。アファチニブを服用する人に特に多い。爪に力が加わると痛みが強くなり、歩きづらくなる。爪が食い込むのを避けるため、テーピングで皮膚を保護することが有効だ。国立がん研究センター中央病院皮膚腫瘍科の堤田新医長(50)は「症状が出る前から、皮膚の潤いと清潔を保って予防することが、症状の軽減につながる」と話す。分子標的薬は初めは良く効いても、いずれがん細胞が耐性を持って再び症状は進行する。国内で治験が進む新しいEGFR阻害剤は、従来の薬剤に耐性ができた人にも効くと期待される。がん細胞にだけ効果を発揮する仕組みのため、皮膚などへの副作用も少ないとされる。(8月8日 朝日新聞 患者を生きる 副作用と向き合う 情報編より)
効果実感し、続けられた
肺がんの転移が見つかった神奈川県の主婦渡辺久子さん(68)は2010年、分子標的薬「アファチニブ」の臨床試験(治験)に参加し、新薬を飲むことになった。この薬は同じタイプの従来の薬より効果が高いとされる一方、副作用が強いことが指摘されていた。渡辺さんを特に悩ませたのが、体中にできた湿疹。水ぶくれがつぶれてべとつき、下着や枕が汚れた。ひどいかゆみで眠れず、睡眠薬を飲むほどだった。治験で毎日服用したのは1錠40ミリグラム。神奈川県立循環器呼吸器病センター(横浜市)の主治医、加藤晃史さん(50)は「薬の量が多すぎる」と判断。服用を2週間休み、段階的に30ミリグラム、20ミリグラムと減らしてみた。渡辺さんは皮膚科の医師に相談して、かゆみ止めの薬やステロイドの塗り薬を処方してもらい、乾燥を防ぐ保湿剤を塗った。副作用の対策と薬の減量とで、湿疹とかゆみは次第に落ち着いた。渡辺さんは効果が落ちることを心配したが、加藤さんは「むしろ適正な量ですよ」と励ました。つらい副作用に耐えて治療を続けられたのは、薬の効果が実感できたからだった。CT撮影するたびに腫瘍は徐々に小さくなり、腫瘍マーカーの値も下がった。結果を聞くたび、「薬の効き目が長く続きますように」と祈った。薬を飲み始めて1カ月が過ぎた頃、今度は手足の爪の周りが炎症を起こす「爪囲炎」にもなった。爪の周りの肉が盛り上がり、赤く腫れて痛んだ。痛みのせいで靴を履けず、冬でもサンダルで外出するほどだった。テーピングで皮膚を保護し、痛みを防いだ。分子標的薬には使っているうちに薬が効かなくなる「薬剤耐性」が起きる。縮小していた腫瘍が再び大きくなり始め、薬の効果が見られなくなった2013年8月に治験の参加を終えた。薬の服用は3年5カ月続いた。加藤さんは「本人が皮膚のケアに熱心に取り組んだからこそ長く続けられた」と話す。がんが見つかったのが2008年。渡辺さんは「振興した肺がんで、まさか7年も元気でいられるとは思っていなかった」という。今年の春からまた新たな抗がん剤の治験に参加し、がんと闘い続けている。(8月7日 朝日新聞 患者を生きる 副作用と向き合うより)
かゆくて眠れない
2010年に肺がんの転移が見つかった神奈川県の主婦渡辺久子さん(68)は、腫瘍を小さくする効果がある新薬の臨床試験(治験)に参加することにした。渡辺さんのがんは、がん細胞が増殖する時に必要な「EGFR]と呼ばれる遺伝子に変異があるタイプだった。当時、分子標的薬の「ゲフィチニブ(販売名イレッサ)」か「エルロチニブ」を服用するのが標準的な治療だった。新薬の「アフィチニブ」はさらに効果があると期待され、従来の抗がん剤による治療と比べて有効性を確かめる段階の試験だった。3月に神奈川県立循環器呼吸器病センター(横浜市)に入院した。渡辺さんは新薬を飲むことに決まった。毎朝、薬を1錠飲んだ。「薬を飲むだけで、3週間も入院なんて」。当初、そう感じたが、3日目から下痢の副作用が始まった。1日、4、5回ある。48キロあった体重が、3週間で43キロに落ちた。さらに、口内炎や口のはしが切れる口角炎にも悩まされ、塗り薬をこまめに塗るよう心がけた。皮膚の乾燥も激しく、「まるで白い粉をふいたようだった」。4月上旬に退院すると、全身ににきびのような湿疹ができるようになった。分子標的薬の典型的な副作用だった。強いかゆみを伴い、うみのような水が出た。渡辺さんは当初、かゆみが強いのに、「体調はいい」と回答することもあった。「副作用がひどいと、治療が中止されてしまうのでは」。そんな思いからだった。頼りになったのが治験コーディネーターの山根未来さん(33)だった。医師と患者の間に立って、治験に参加する患者に薬について説明し、相談に乗る役割を担う。主治医の加藤晃史さん(50)が診察する前に、山根さんが必ず面談した。「湿疹のかゆみはどのくらいつらいか」。詳しく聞いた。「かゆみで眠れないほど」。医師に言いづらいことも、山根さんには打ち明けられた。渡辺さんは「湿疹が出るとは聞いてはいたものの、あれほどひどくなるとは思っていなかった」。加藤さんも、渡辺さんの湿疹が予想以上にひどいことに驚いた。「これほどつらい思いをさせて治験を続けていいのか」。加藤さんは迷うようになった。(8月6日 朝日新聞 患者を生きる 副作用と向き合うより)
治験 髪が抜けないなら
右の肺にがんが見つかった神奈川県の主婦渡辺久子さん(68)は2008年、神奈川県立循環器呼吸器病センター(横浜市)で中葉の摘出手術を受けた。腫瘍を詳しく調べた結果、肺がんの5割を占め、最も患者数が多い「肺腺がん」とわかった。がんは肺を覆う胸膜に達しており、さらに転移する恐れがあるという。渡辺さんは当時、近くの運送会社でパート社員として働いていた。手術を機に退職を申し出たが、会社の担当者は「体調が良くなったら、戻っておいで」と声をかけてくれた。手術後2カ月ほどで復職した。仕事中、特に息苦しさを感じることはなかった。月に1回、X線検査を受け、腫瘍マーカーの値を確認した。手術から1年3カ月後の2010年3月、左右の肺の間にある「縦隔」のリンパ節に転移が見つかった。「やっぱり、がんは散らばっていたんだ」。落ち込む気持を振り払ってくれたのは、孫たちの存在だった。「孫の成長を見続けるために、がんと闘おう」と決めた。手術で取った腫瘍は、細胞の増殖に関係する「EGFR」と呼ばれる遺伝子が変異していることがわかっていた。この遺伝子に変異がある人は、肺腺がんの半数を占める。女性に多く、たばこを吸わない人にも多い。主治医の呼吸器内科医長、加藤晃史さん(50)は、「変異がある遺伝子を標的にした薬が効くタイプですよ」と説明した。当時、この遺伝子を標的とした薬には「ゲフィチニブ(販売名イレッサ)」と「エルロチニブ」があったが、さらに効果が期待される新薬の「アファチニブ」の臨床試験(治験)が始まっていた。加藤さんは「治験に参加してみませんか」と提案した。参加してもいつでもやめられる。下痢や皮膚の湿疹などの副作用が出る恐れはあるというが、従来の抗がん剤のように髪が抜けたりしないのも魅力に感じた。「自分の経験が、誰かのためになるのであれば」と参加を決めた。治験といっても、決まった時間に新薬を1錠飲むだけだった。しかしその後、「眠れないほど激しい副作用」に悩まされるようになる。(8月5日 朝日新聞 患者を生きる 副作用と向き合うより)
手術で取り切れたら・・・
神奈川県に住む主婦渡辺久子さん(68)の元に、封書が届いたのは、2006年夏のことだった。2年前に退職した県内の自動車部品会社からだった。「費用を3年間負担するので、肺の検診を受けてほしい」と書かれていた。ブレーキの組み立てや製品チェックを担当していたが、部品にアスベスト(石綿)を使っていた時期もあったという。渡辺さんはかつての同僚と一緒に、神奈川県立循環器呼吸器病センター(横浜市)でX線検査などを受けた。「今にして思えばあの検診の案内が、病気が見つかるきっかけになった」と振り返る。その年の検査では異常は見つからなかった。3回目の検査を受けた2008年9月、医師から「右の肺に影が写っているので、詳しく検査しましょう」と告げられた。がんの可能性を示す血液中の腫瘍マーカーの値が高かった。CTを使った詳しい検査でも、腫瘍はがんの疑いが強まった。腫瘍は、右の肺の「中葉」にできていた。ただ、気管支鏡で肺の組織を取る検査では、がんの細胞を捉えることはできなかった。胸に影があるとわかって以来、「影が大きくなって、体のあちこちに飛んで行くのでは」と気が気でなかった。「石綿のせいか」と気にはなったが、医師からは「石綿の影響でなるのは中皮腫というがんですが、渡辺さんは違いますよ」と言われた。58歳で早期退職するまでの28年間、大きな病気をしたことはなく、たばこも吸わない。せきや息苦しさもなかった。「どうして肺がんなんだろう」。12月中旬、同センターで手術を受けた。右胸に4カ所穴を開け、胸腔鏡を入れて患部の状態を確かめながら、中葉を摘出した。病理検査の結果、肺を覆う胸膜に達する「胸膜播種」の状態だった。手術では取り切れない腫瘍が体内に残っている可能性が高いという。現在の診断基準では胸膜播種があると、病気の進行度合いを示す病期は「ステージ4」に該当し、5年生存率は1割を切る。「手術で、悪い影がきれいに取れたらいいな」。渡辺さんの希望は、かなわなかった。(8月4日 朝日新聞 患者を生きる 副作用と向き合うより)
肝転移 広がる手術適応
大腸がんで亡くなる人は年間4万人を超し、がんの部位別の死亡者数(2013年)では肺、胃に次いで3番目に多い。大腸がんが、血液の流れに乗って最も転移しやすい臓器は肝機能で、次いで肺が多い。がんは、ほかの臓器に転移すると手術では治療しにくいイメージが強い。しかし、連載で紹介した斉藤信彦さん(68)のように、大腸がんの場合は近年、他の臓器に転移しても手術で治せるケースが増えている。特に肝臓への転移では、手術中に超音波を使って残すべき血管の位置を確認しながらミリ単位で腫瘍とその周囲だけを切り取る手術が導入され、手術を受けられる患者の幅が広がった。がん研有明病院(東京都江東区)の斉浦明夫・肝胆膵外科部長(48)によると、同病院で大腸がんの肝転移が見つかった患者のうち、当初から手術が可能な人は50~60%。転移が3個以下で手術しやすいと判断された場合、同病院ではまず肝臓の切除手術を行い、その後、抗がん剤治療をすることが多い。大腸のがん本体の状態にもよるが、転移が4個以上で再発しやすいと判断された場合、抗がん剤治療をした上で肝臓の切除をし、手術後にも再び抗がん剤治療をするケースが多いという。肝臓への転移は、数が多いと手術をしにくいが、10個以上あっても手術できるケースがある。一方、転移の数は少なくても、腫瘍が血管を大きく巻き込んでいる場合などは、手術が難しい。また、肝臓以外の複数の臓器や腹膜などに転移が見つかった場合は、肝臓を切る出では治療効果が見込めず、化学療法の対象になる。肝臓には再生能力があるので、正常な組織を3割残すことができれば、ほぼ元通りの体積に戻る。当初は肝臓内に転移した腫瘍の数が多いなど、すぐに手術ができない人も、抗がん剤によって腫瘍が縮小し、手術可能になることがある。斉浦さんは「大腸がんの 肝転移は再発率が高い。しかし、再発しても切除できれば治せる可能性が高まる。たとえ肝転移が再発しても、あきらめずに治療を受けてほしい」と話す。(8月1日 朝日新聞 患者を生きる 転移と手術・情報編より)
肺も切除 あきらめない
進行した4期の大腸がんになった千葉県市川市の産婦人科医、斉藤信彦さん(68)は2007年11月、大腸の一部に加えて、転移が見つかった肝臓の一部を切り取る手術を受けた。しかし、その後も肝臓への転移が新たに見つかり、2008年9月と2009年7月にも、手術で肝臓を切除した。がん研有明病院(東京都江東区)で受けていた術後の抗がん剤治療が終わったのは、2010年6月だった。「これでもう、治ったのかな」。安心感を抱き始めていた2011年3月、CT検査のあと、治療チームの松阪諭医師(46)から説明を受けた。「斉藤さん、肺に転移がありますね」。その言葉を聞き、ショックのあまり診察室の床にしゃがみ込んでしまった。右肺の下葉に腫瘍が1個見つかった。直径は7ミリ。「転移が肝臓に収まっているうちは大丈夫だが、さらに広がったら、もう助からないだろう」と感じた。しかし、松阪さんはこう付け加えた。「これは良いケースです。肺の中でも取りやすい場所に腫瘍がありますから」。その言葉を聞き、治療チームを信じて任せることにした。4月上旬。4回目となる手術を受けた。腫瘍とともに肺の下葉の一部を切除し、1時間20分で終わった。それから10日ほどで退院。その後は3カ月に1度、現在は半年に1度、検査を受けている。今年の春で、最後の手術から4年が経過した。体調は良好で、再発は見られない。「一日でもねばって長生きすれば、新しい治療法がきっと出てくる。がんの転移と今闘っている患者さんも、あきらめないでほしいですね」。地域に根ざした産婦人科医院の院長として、再び診療に取り組む日々が戻った。医院の待合室には、油性ペンで書いたビラを貼って、検診を呼びかけている。「いただいた命。現場の医師として、がん検診を患者さんに勧めたいと思います」。いまは、地域のがん患者を減らすために、少しでも役に立ちたいと願っている。(7月31日 朝日新聞 患者を生きる 転移と手術より)
3回の切除 期待と不安
千葉県市川市にある産婦人科医院の院長、斉藤信彦さん(68)は2007年11月上旬、大腸の下部にある「S状結腸」に進行した4期のがんが見つかった。がんはすでに、肝臓に転移していた。転移した腫瘍は計6個あり、最大で直径3センチだった。入院したがん研有明病院(東京都江東区)の担当医から「5年生存率は25~30%」という説明を受けた。「きっと5年後には、生きていないだろう」。そう感じて、落ち込んだ。手術は11月下旬、約9時間かけて行われた。開腹手術で、まずS状結腸を腫瘍ごと約15センチ切除して縫い合わせた。続いて、肝臓の約15%を切除した。経過は順調で、10日余りで退院できた。12月上旬、退院したその足で、自分が経営する産婦人科医院へ向かった。「待合室に5人ほど患者さんがいた。その姿を見て、本当にうれしかった」。再び医師として働ける喜び。しかしそれも長く続かなかった。翌年2月上旬、MRI検査で、最大で直径1.3センチの腫瘍が6個、新たに肝臓に見つかった。「ここまで来たら、先生たちに任せて最後まで頑張るしかないな」。斉藤さんは腹を決めた。3月中旬から半年間、抗がん剤による治療を受けた。その上で転移した腫瘍とともに肝臓を部分的に切り取る手術をするという。「お父さん、悪いモノがあって、取れるんだったら、取ってもらいましょう」。妻で眼科医の紀子さん(65)はそう励ました。9月中旬、斉藤明夫・肝胆膵外科部長(48)のチームが執刀し、肝臓を部分切除する2度目の手術をした。しかし、肝臓への転移は完全には消えず、翌2009年6月上旬にも、CT検査で肝臓に最大1.7センチの腫瘍が4個見つかった。約1カ月後、3度目の切除手術をした。ただ、肝臓が再生してほぼ元通りになるのに必要とされる3割以上の組織は残すことができた。切除手術が終わると、すぐに再発するという繰り返し。「自分はもうだめかもしれない」との不安と期待の間で、心が揺れていた。(7月30日 朝日新聞 患者を生きる 転移と手術より)
医院は休診 治療に専念
千葉県市川市の産婦人科医、斉藤信彦さん(68)は2007年11月上旬、地元の病院で大腸内視鏡検査を受けた。S字結腸に、直径4センチの腫瘍が見つかった。「大腸がんだとすると、肝臓に転移しているかもしれない。エコー検査で調べてみましょう」。担当医に勧められ、すぐに超音波検査を受けた。検査のあと、担当医が言いにくそうな様子で結果を告げた。「転移と見られる腫瘍が、肝臓に複数見つかりました。S字結腸がんの4期だと思います」。帰りがけ、担当医から、こう声をかけられた。「これからが大変です。でも、生きる希望をお持ちになってください」。夜7時過ぎ、病院の駐車場へ戻ると、真っ暗になっていた。涙があふれて止まらなくなった。「どうしよう」。経営している産婦人科医院の今後のことや家族のことが、頭をかけめぐった。「肉眼で見える血便はなかったし、そのほかの自覚症状もほとんどなかった。本当に、いきなりでした」。がんの治療に専念するため、産婦人科医院は休診することにした。それまで通院してくれていた人たちには、「しばらく外来を休むことになりました」とだけ告げ、代わりの医療機関を紹介した。「もうこれで、この医院にも帰って来られないかも知れない。そう思うと、寂しい気持でいっぱいでした」。地元の病院からは、がん研有明病院(東京都江東区)で治療を受けるよう勧められた。11月中旬に入院し、CTやMRIなどの精密検査を受けた。11月下旬に手術するという。MRIの画像を見ると、肝臓への転移が広い範囲に散らばっていた。「これはきっと、予後がよくないだろうな」。日記には「きついなー」と書き込んだ。入院した部屋は窓からの眺めがいい。妻の紀子さん(65)は「飛行機がよく見えるわよ」と、努めて明るく話しかけた。でも、景色を眺める気分にはなれず、3日間、カーテンを閉め続けた。(7月29日 朝日新聞 患者を生きる 転移と手術より)
まさかの「医者の不養生」
千葉県市川市に住む斉藤信彦さん(68)は、地元で産婦人科医院を開業して30年余り。現役の医師として診療を続けている。2007年10月下旬、休みを取って、妻で眼科医の紀子さん(65)と1週間余り、カナダを旅行した。体に異変を感じたのは、その旅の最中だった。現地で教会巡りをしていたとき、急におなかが張り、背中に寒気を感じた。「帰国したら一度、検査を受けてみようかな」。痛みがなかったこともあり、それほど深刻には考えなかった。帰国後の11月上旬、「念のために」と、便の潜血検査を受けた。検査の結果、2回採取した便の検体は、両方とも「陽性」。血液反応が出ていた。その検査結果が印字された用紙を見て、急に不安がこみ上げてきた。「ヤバイな。もしかして、大腸がんかな、これは」。たばこは吸わず、毎日、地元のスポーツクラブに通って水泳を続けていた。健康には気をつけていたはずなのに、なぜ自分が・・・・。すぐに地元の病院を受診し、2日後に大腸内視鏡の検査を受けることになった。検査の当日。肛門から内視鏡を挿入してすぐのことだった。大腸の内部を映し出すモニター画面いっぱいに、赤みを帯びた腫瘍が広がっているのが見えた。そこから血がにじみ出ている様子も、画面から読み取れた。この日の検査では、いったん大腸の奥まで入れた内視鏡を、引き抜きながら腸内の様子を観察する予定だった。しかし、大腸の下部にあり、S字状に曲がっている「S状結腸」に腫瘍が大きく広がっていた。このため、内視鏡をS字結腸から先に進めることが難しい状態になっていた。腫瘍は直径4センチほど。肛門から約8センチのところにできていた。「しっかり検診を受けていれば、もっと早く見つけることができたはずなのに」と深く後悔した。「医者の不養生です。『自分だけは大丈夫だ』という気持が、どこかにあった。(7月28日 朝日新聞 患者を生きる 転移と手術より)
再発防ぐ運動習慣
乳がんは女性が最もかかりやすいがんで、12人に1人が診断される。ただ、早期に発見すれば、生存率は比較的高い。連載で紹介した東京都の女性(61)のように、手術後のホルモン療法などを長期間続ける人も多い。こうした人の生活を支える取り組みとして、運動が注目されている。日本乳癌学界によると、一定の運動をした人は、ほとんど運動しない人に比べて、乳がんの再発リスクが約25%、乳がんによる死亡リスクが約35%低かったという報告がある。学会は、不安や抑うつなどの軽減にも効果的として、「少し汗ばむ程度の歩行や軽いジョギングなどを週1回以上、無理のない範囲で行うとよい」と勧める。さらに、診断時の肥満が乳がんの再発リスクを高めることも報告されている。乳がんが多い40代以降は年齢的にも代謝が落ちるため、ホルモン療法中に体重が増えることに悩む人も多いという。聖路加国際病院(東京都中央区)は昨年度、乳がんの手術後にホルモン療法を続ける人向けの減量プログラム「シェイプアップリング」を開催した。国立がん研究センターの研究事業の一環で、30~60代の32人が参加した。8人ずつ週1回、管理栄養士による栄養指導や、ダンス・筋力トレーニングなどの運動指導を受けた。自他でもDVDを見ながら運動をし、体重をグラフ化してもらった。参加者同士が交流しながら、個人やグループの減量目標を設定することで、モチベーションの維持も図れる。1カ月のプログラム終了後、平均で約1キロ減量できた。参加者からは「運動習慣がついた」「考え方が前向きになった」などの声が聞かれたという。プログラムで運動を指導した「キャンサーフィットネス(東京都港区、http://cancerfitness.jp/)の広瀬真奈美さん(52)は米国のがん患者向けリハビリエクササイズのインストラクター。がん体験者対象の運動教室を開いている。広瀬さんは「体を動かすことで気持も前向きになり、笑顔を取り戻す人が多い。ウオーキングや階段の上り下りなど、できることから始めてみてください」と話す。(7月25日 朝日新聞 患者を生きる 乳房の切除 情報編より)
患者のためのブラ企画
乳がんで左胸を全摘した東京都の女性(61)は2009年秋、再発を防ぐ目的で1日1錠のホルモン剤を飲み始めた。ホルモン療法はホルモンバランスが乱れて、一時的に副作用が出ることがある。女性は抗がん剤治療から続いて、様々な症状に悩まされた。手足にピリピリとした痛みが走り、体がだるい。おりものの量が増えた。下着パタンナーの仕事には意欲がわかず、決まった作業をこなすのが精一杯になった。翌年、「たまには受けたら」と夫を健康診断に誘った。すると、夫に進行の早い肺がんが見つかった。約2年後、ホスピスでみとった。64歳だった。自身の病気への不安と夫の死。沈みがちだった女性は2014年、ホルモン療法で通院する聖路加国際病院(東京都中央区)で、主治医の山内英子さん(52)から乳がん体験者の減量プログラムに誘われた。乳がんは太っていると再発リスクが上がるため、1カ月間、週1回集まって運動や栄養指導を受けるという。女性は血液検査で肝機能の数値が悪化し、別の医師からも運動を勧められていた。プログラムでは、ほかの参加者と話しながら、手術後に肩が凝り固まるつらさや、再発の不安を共有できた。配られたDVDを見ながら、家でも体を動かした。運動が習慣になり、プログラム終了後も週3回ジムに通う。体重は半年間で約6キロ減り、だるさはなくなった。血液検査の数値も改善した。「自分から動かなければ変らないんだ」。再発への不安には、「小さな芽を摘んでいこう」と思えるようになった。下着パタンナーとしては「患者が考えた患者のためのブラ」を企画した。手術後、皮膚が敏感になったわきの辺りにブラジャーが当たって痛かった。どんな構造や素材なら痛くないか、自分でつけて試しながら試作品を仕上げた。術式や治療法の違いによる要望を知りたくて、患者たちにアンケートも試みた。商品化には金銭面や資材調達、メーカーとの契約など課題は多いが、あきらめてはいない。「毎日身につけるものだからこそ、気に入ったものがあればうれしいはず。喜んでもらえるお手伝いがしたい」。(7月24日 朝日新聞 患者を生きる 乳房の切除より)
迷いながら選んだ再建
2009年夏から3カ月、東京都の女性(61)は聖路加国際病院(東京都中央区)に通院しながら、左胸の乳がんの抗がん剤治療を受けた。がんの広がり具合から左乳房は全摘することになり、乳房を再び作る「再建」をするかどうか迷っていた。当時55歳。年齢とともに自然に下がっていく右胸と、人工乳房を入れた左胸のバランスは、年々不自然になっていくのではないか。下着を通して女性の美しさにこだわってきた下着パタンナーの仕事柄、気になった。体の中に異物を入れることにも抵抗感があった。Dカップの乳房は経験上、片方約500~600グラムの重さがある。どちらかを摘出すれば、左右の肩のバランスが偏るのではないかと感じた。再建したほうがジムや温泉に気軽に行けると聞き、人工乳房による再建を決めた。10月中旬、約2時間半の全摘手術を受けた。同時に、乳房の再建に向けて、「エキスパンダー」と呼ばれるシリコーン性の袋を入れた。この袋に生理食塩水を入れて膨らませ、約半年かけて胸の皮膚をのばした後、手術で人工乳房と入れ替える。左胸の全摘は、「仕方がない」と覚悟していた。だが、手術から2日目、ガーゼの交換で初めて術後の左胸を見た時はショックだった。エキスパンダーを入れた分、胸に多少の膨らみはあるが、豊かだった胸は跡形もない。生々しい傷痕、乳輪も乳頭もなく、「まるでのっぺらぼうみたい」。乳輪・乳頭は、皮膚を移植して再建する手術があるが、「これ以上、体にメスを入れたくない」と、入れ墨をする方法を選んだ。退院後まもなく、左わきの下のリンパ節2カ所への転移がわかった。がんの病期は0~4の5段階で「ステージ3」になった。再発の不安を抱える生活が始まり、がんを告知された時よりも落ち込んだ。その翌日、夫に誘われて箱根に紅葉狩りに出かけた。晴れ渡る空に、富士山も見えた。「60歳になったら仕事をやめて、日本全国を車で回ろう」。お互い病気のことはほとんど口にしなかった。こうして気分転換をしながら、現実と向き合っていくしかないのだと思った。(7月23日 朝日新聞 患者を生きる 乳房の切除より)
手のぬくもり 支えに
「がんになっちゃた」。2009年6月中旬。乳がんと診断された東京都の女性(61)は、病院を出るとすく、家族に携帯電話をかけた。母親(86)はその10年前に乳がんで全摘手術を受けていた。「私も大丈夫だったから、お前も大丈夫」。母からそう励まされた。医師に勧められ、手術前に抗がん剤の点滴を受けた。7月初めから3週間に1度通院した。副作用は予想以上にきつかった。体はだるく、手足はむくんだ。口内炎ができ、味覚障害で何を食べてもおいしさを感じなくなった。大好物のミカンも、のどを通らなくなった。かろうじて食べられたトマト味の野菜スープを、毎日のように作って食べた。髪は抜け、顔はむくんだ。その姿を目にしたくなく、鏡は見なくなった。それでも、副作用で黄色くくすんだ手と、黒く変色した爪はいやでも目に入った。ブラジャーなどを製作する下着パタンナーの仕事は続けた。自分と3人のスタッフだけの会社のため、代わりはきかない。平日は朝から夕方までパソコンに向かった。土日は疲れて起き上がれないほどだったが、仕事をしていたことで気は紛れた。取引先になるべく違和感を与えないようにと、ウイッグを買って着用した。しかし、夏場でウイッグから汗が流れ落ちた。髪が短くはえ始めると、思い切ってつけるのをやめた。3クール目の抗がん剤治療で、足の甲から太ももまでパンパンにむくみ、立っていられないほになった。その頃から毎晩寝る前に夫が30分ほど手足をさすってくれた。女性は横になったまま、その日の出来事を話した。夫のマッサージはお世辞にも上手とは言えなかったが、手のぬくもりが伝わってきた。抗がん剤治療にくじけそうになる心を支えてくれた。手術は、聖路加国際病院(東京都中央区)の医師、山内英子さん(52)が担当になった。仕事のことを話すと、山内さんに言われた。「乳がんの手術をした患者さんに合うブラジャーはなかなかない。あなたの経験が、いつかほかの人の役に立つかもしれない」。(7月22日 朝日新聞 患者を生きる 乳房の切除より)
痛くないのに全摘なんて
東京都の女性(61)は、ブラジャーなどの下着をデザインして、型紙を作る「下着パタンナー」だ。「姿勢も着こなしも、下着次第で美くなります」。腕を上げ下げしてもずれにくい機能性や快適さも追及し、1千人を超す女性の胸を計測してきた。服飾専門学校で学び、アパレル企業に就職。子育てが落ち着いてから独立した。取引先と契約して工場に生産を発注。毎月、海外の工場に出張する生活が続いた。2009年4月、聖路加国際病院(東京都中央区)で3年ぶりに健康診断を受けた。終了後、面接をした医師に告げられた。「マンモグラフィーで異常が見つかりました。すぐに詳しい検査を受けてください」。画像を見せてもらうと、左胸の上部に白いかたまりがあるのがわかった。乳がんの疑いもあるというが、実感がわかない。「しこりなんて全くないのに・・・」。乳がんと言えば、コリコリとしたしこりができるものだと思っていた。以前、自分で乳房をさわって確かめる自己検診の方法を習ってから、たまに浴室でチェックしていた。だが、しこりを見つけたことはなかった。ただ前年ごろから、胸に異変はあった。左胸の乳首が乳房の内側に埋没する「陥没乳頭」になっていた。それが乳がんの兆候となるケースもあるとは知らなかった。数日後、乳がんを専門に診る院内のブレストセンターを受診。針生検や超音波検査と進み、「もしかしたら」という怖さがじわじわと増した。検診から2カ月後、医師から結果を告げられた。「乳がんです。全摘手術になると思います」。病期は0~4の5段階のうち、「ステージ2」だった。「痛くもかゆくもないのに、手術しないといけないんだ」。現実味がなく、医師の説明もほとんど耳に入らなかった。「仕事はどうしよう」。まずその事が気になった。新しいブラジャーができると、自分の体でつけ心地を確かめ、不具合を修正するのも大事な製作工程だった。手術後は、それができなくなってしまう。そんなことを考えた。(7月21日 朝日新聞 患者を生きる 乳房の切除より)
仲間集め 明るく前へ
2012年6月、メラノーマ(悪性黒色腫)の摘出手術を受けたグラフィックデザイナーの徳永寛子さん(33)は、取ったリンパ節を詳しく調べた結果、転移が見つかった。7月、2度目の手術を受け、左わきのリンパ節とリンパ管を摘出した。手術後、再発予防のため、毎月1回、インターフェロンを注射することになった。転移がわかった時、徳永さんは、メラノーマの患者が集まるソーシャルメディアのグループで、「リンパに転移が見つかりました」と書き込んだ。「ショックだよね」「私も転移があったよ。がんばろう!」仲間から次々と反応があった。何げない一言でも、同じ病気を持つ仲間の言葉は力になった。入院した国立がん研究センター中央病院では、同室になった肺がんの女性のもとに、同じがん患者の仲間が見舞いに来ていた。「お互いを『がん友』と呼んで仲良く話す姿に、メラノーマも患者同士が、同じ悩みを話せる会を作りたいという気持がふくらんだ」。2013年、徳永さんはネットに「患者会を設立しようと思いますが、どう思いますか」と書き込んだ。すると、東京都内に住む堀江泰さん(35)から「僕も作りたいと思っていました」と返事がきた。堀江さんはメラノーマで親友を亡くした経験があった。主治医の山崎直也さん(55)も「応援するよ」と後押しした。メラノーマの正しい情報を広め、新薬の承認の請願をする上で、患者会の役割は大きいと考えたからだ。その年の8月、メラノーマの患者会「Over The Rainbow」(http://melanoma-net.org)が誕生。徳永さんは代表となった。海外では皮膚がんは黒いリボン、メラノーマは白黒模様のリボンがトレードマークだ。「白黒なんて縁起が悪い。明るい色をたくさん入れよう」。徳永さんは虹色のロゴを自らデザインした。会員数は約50人を数え、お茶会などを開いて集まるようになった。「がんは人生の中で土砂降りの雨のようなできごと。でも雨上がりの空にかかる虹のように、『私は元気です』と明るく、前へ進んでいきたい」。(7月17日 朝日新聞 患者を生きる メラノーマより)
退院2週間後「転移あり」
東京都のグラフィックデザイナー、徳永寛子さん(33)は2012年6月、国立がん研究センター中央病院でメラノーマ(悪性黒色腫)の摘出手術を受けた。腫瘍の厚さが1ミリ以下なら早期のがんで、1センチ外側までを切れば済む。厚さが1ミリを超えると進行度に応じて切る範囲は1~2センチ外側になる。主治医の山崎直也さん(55)は「腫瘍は1ミリより厚く、早期ではない」と判断した。傷口に皮膚を移植するかどうかは、手術中に判断することになった。さらに手術では、がんが転移した場合、最初に行き着くリンパ節を調べる検査もする。もし転移が見つかれば、周囲のリンパ管を含めて切除するのが一般的だ。手術は3時間ほどかかった。麻酔から覚めた徳永さんに、山崎さんは「手術中の検査では、リンパへの転移は見つかりませんでした。ただ、詳しい結果が出るまでに時間がかかります。皮膚は移植せずに済みましたよ」と伝えた。10日間の入院中に30歳の誕生日を迎えた。入院前は、チラシなどを制作するデザインの仕事が忙しく、終電で帰る日々だった。帰りが遅いと不満を言う夫43)に、「仕事で遅いのに、何が悪いの?」と開き直ることもあった。だが、がんになって、仕事を最優先に考える価値観が変った。仕事は週3日だけにして、休日は自宅で夫と過ごす時間を大事にした。「もう一度、人生を見直せよ、と言われたようだった」。この頃、会員制のブログのサイトで、メラノーマの患者が集まるグループに入った。会ったこともない人たちだが、患者同士だからこそできる共通の話題で、気持が通じることが多かった。退院2週間後に受診すると、山崎さんから告げられた。「残念だけど、取ったリンパ節を詳しく調べた結果、小さな転移がありました。もう一度手術して、脇のリンパ節をできるだけ取ります」。徳永さんのがんは、転移がなければステージ2で、5年生存率は70~80%。わずかでも転移していれば、ステージ3となり、生存率は50~60%に下がる。「メラノーマとわかった時よりショックでした」。(7月16日 朝日新聞 患者を生きる メラノーマより)
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