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「左半分切除」と言われ
東京都内に住む主婦(47)は2013年の年末、舌が腫れていることに気付いた。左縁がふくらみ、刺すような痛みも感じた。最初のうちは、金属の入れ歯が舌に当たって口内炎が出来たのかと思った。「ビタミンが足りないのだろう」と市販のビタミン剤を服用した。そして、口内炎用の薬を塗って治そうとした。しかし、腫れは引かない。翌年の2月下旬頃にはさらに大きくなり、痛みも激しくなった。ただ、次女(16)が高校受験だったこともあり。診察を受けるのを先延ばしにしていた。次女が都立高校の推薦入試に合格したのを見届け、2014年3月上旬、通い慣れた歯科医院を訪れた。「すぐに総合病院を受診してください」。舌を見た歯科医師にそう言われた。5日後、歯科医師が書いてくれた紹介状を持って、大学病院の口腔外科を受診した。舌を触診した大学病院の担当医師にはこう言われたという。「細胞を取って検査しないとはっきりとは言えませんが、たぶん舌がんです」。CTやPETなどを使った精密検査の結果、3月下旬、正式に腫瘍約5センチの舌がんと診断された。がんの進行度は4段階あるうちの「ステージ3」で、舌の左半分を切除することや、そのあと腕の筋肉の一部を使って舌を「再建」するいった治療法を担当医は淡々と説明した。主婦は「がん」という言葉よりも。「舌を切る」という説明にショックを受けた。実は主婦は、事前にパソコンの検索サイトに「舌がん」「手術」の単語を打ち込み、ヒットしたサイトを片っ端から読んでいた。「手術後に舌が3倍になったような気がして、息がしづらかった」「口を閉じられずによだれが出続け、一晩にティッシュペーパーを1箱使った」。そんなコメントに目が留まった。大学病院では「舌の一部切除」という以外に、別の治療方法の説明はほとんど受けなかったという。ただ、ネット上には、手術以外にも、抗がん剤治療や放射線の一種の陽子線治療など、様々な選択肢が紹介されていた。それを見て、「舌を切りたくない」と強く願うようになっていった。(10月20日 朝日新聞 患者を生きる 舌を残したい より)



Oct 28, 2015 12:30

大変な闘病記 勇気もらう
●「がんはしつこい」実感 大腸がんの転移と治療に関する連載「転移と手術」に登場する男性と、よく似たケースでした。「そうそう」「そうなんだよね」と記事を読むたびに過去を振り返っていました。2011年9月にS状結腸がんで手術しました。ステージ4で、すでに肝臓に転移。大腸の腫瘍は取りきり、現在まで再発はありません。問題は肝臓で、4、5個腫瘍があり、外科手術は体力的に無理との主治医の判断でラジオ波焼灼術を同年11月に行いました。その後3,4回この方法を行い、今のところ肝臓には大きな変化はありません。ところが、今年3月、記事の男性と同じように肺への転移が見つかりました。大橋巨泉さんが前にこのコーナーで指摘していたように、がんというのは本当にしつこいものだと思います。4月に手術し、幸い腫瘍は1カ所で、経過を見ることになり、3,4カ月ごとにCTやMRI検査を続けています。がんになって思うのは、なぜ早く検査しなかったのかという悔いです。兆候はあったのにほっておいたのです。今は前だけ向いて生きていこうと心に決めています。(神奈川県 男性 71歳) ●「機能残したい」に共感 脳腫瘍の方の記事は勇気づけられました。私も2年前、子宮体がんで手術と抗がん剤治療を受けました。今は仕事に復帰し、普通に社会生活を送っています。ただ、いつまたがんになるかわからないと思っています。脳腫瘍の方の記事を読み、私以上に大変ながんと闘っていらっしゃることを知りました。「また、がんになってとしても闘える」と思うことができました。脳腫瘍になった女性の「脳の機能を残したい」という思いが、とてもよくわかります。記事によると、ピアノを教えていらっしゃるとのことでした。こういう方に習いに行きたいと思いました。どうか、お大事に。千葉県 林洋子 56歳。(10月17日 朝日新聞 患者を生きる 読者編より)
Oct 27, 2015 08:24

早く検査受けていれば
●症状が出ても受診しにくい 風呂で体を洗っているt時に右の睾丸が硬いことに気付きました。2004年1月のことでした。痛みや腫れはまったくありませんでした。会社で忙しい部署にいたため様子を見ることにしましたが、その直後に残業の少ない部署に異動になりました。酒の席で、先輩のがんの話を聞き、急に気になり、泌尿器科を受診しました。検査結果は、おそらく精巣腫瘍。悪性の確率が高く、すぐに摘出手術をしたほうがよいとのことでした。入院して手術をし、術後に調べたところ、やはり悪性腫瘍でした。初期の発見で転移はなく、放射線治療も抗がん剤治療も必要ありませんでした。その後、再発も転移もしていません。若い人だと恥ずかしさもあり、痛くないので受診しないのもよくわかります。私の場合、異動がなければ、また、偶然先輩に会わなければ、半年近く受診が遅れたでしょう。すぐに病院に行かないと、危険な病気であることを、多くの人に知ってほしいと思います。(東京都 男性 61歳)
●進行早いタイプも 昨年4月に71歳で亡くなった父は非ホジキンリンパ種でした。一昨年の秋口から疲れが取れないと言い始め、腹部の不調も訴えるようになりました。11月に食欲がなくなって入院しましたが、2週間ほど原因が分からずじまい。ようやく悪性リンパ腫でないかという医師の見解が出て、血液内科の専門医がいる病院に転院しました。きつい抗がん剤治療が始まりました。強い副作用に耐えながら、身体の抵抗力が落ちるために生じたヘルペスにも苦しみ、みるみる痩せていきました。それでも最後まで生きるつもりでいました。地域の役員をたくさん引き受け、自分自身の趣味のカラオケやゴルフも大好きで人生を謳歌していた父。あまりに早い別れでした。もっと早く、PET検査を受けていれば、最初から血液内科のある病院に行っていれば。ただただ、悔やまれてなりません。進行の早いタイプもあるということをお伝えしたくてお便りしました。兵庫県 上田美穂 43歳。(10月16日 朝日新聞 患者を生きる 読者編より)
Oct 25, 2015 08:06

希望持ち続けるために
●高齢の母、全摘は不安 四国の実家で独り暮らしをしている母は5月下旬に血尿が出て、6月に「膀胱がん」と診断されました。7月下旬に膀胱の全摘手術を受けることになりました。しかし、80歳の母が今後自分でストーマ(人工膀胱)を扱えるのか、母も私も不安になり、本を読んだりして勉強しました。一方、病院では2週間近い入院中、ストーマの具体的な説明がなく、本人がストーマ生活をイメージできない状態で膀胱を失うことに疑問を感じました。そこで、膀胱を取らないですむ治療を積極的に行っている病院をインターネットで調べました。大阪医科大付属病院を見つけ、膀胱温存療法を主治医から申し込んでもらいました。通院のため、しばらく兵庫県の私の家に滞在する予定です。1カ月で母は5キロ以上やせたそうで、電車で2時間かけて大阪医科大まで連れて行くのも不安ですが、希望を持って治療に挑みたいと思います。(兵庫県 女性 43歳) ●効果高い治療に保険適用を 6年前、ステージ3の乳がんと診断されて、右乳房を全摘し、わきの下のリンパ節を3分の2摘出しました。抗がん剤と手術。治療を乗り越えたと思った1年後に、肝臓に転移が見つかりました。毎月入院して「肝動脈化学塞栓療法」という治療を受けました。膀胱がんの連載記事に出ていた「BOAI」と似た治療で、太ももから入れたカテーテルを通じて、高濃度の抗がん剤と塞栓物質を肝臓にじかに流し込むものです。1年半の間に再発、再々発。治療は7回にわたりました。3年が経ち、今は画像で治療痕が見えるだけです。今この時を生きていることに感謝しています。「BOAIの治療は約100万円の自費負担」という記事に、やり切れない思いです。「生きられる治療」を患者が自費負担の高さであきらめることがないように、、効果の高い治療こそ保険適用になることを願っています。東京都 伊東小百合 52歳。(10月15日 朝日新聞 患者を生きる 読者編より)

Oct 23, 2015 08:04

透析患者 定期検査を
●定期検査が重要 私は5年前、超音波検査で右の腎臓にがんが見つかり、摘出手術を受けました。今年1月、左の腎臓にも見つかり、3月に摘出しました。早期の発見で転移もなく、何とか元気にすごしています。私は約10年前から週3回の血液透析を受けています。しかし、「慢性腎不全や人工透析を受けている人は、一般の人と比べて10倍~数十倍も腎臓がんの発生率が高くなる」という情報については、よく知りませんでした。病院で定期的に検査を受けていたため、早期に発見できました。ただ、ハイリスクな透析患者でも、無症状なうちからチェックをしている医療機関は少ないようです。慢性腎不全の患者や透析患者は、自覚症状がなくても定期的な超音波やCTなどの画像検査で腎臓がんのチェックを受けることが極めて大切であることを十分に周知してほしいと思います。(広島県 男性 60歳) ●透析患者のリスク知って 私の夫(58)は、腎不全のため透析療法を始めて8年になります。今年4月、胆石の疑いがあり、近くの病院で数年ぶりに腹部の超音波検査を受けました。その検査で、右の腎臓に腫瘍が見つかりました。総合病院で詳しい検査を受け、腎臓がんと診断されました。7月に腎臓の摘出手術を受けました。周辺のリンパ節への転移が疑われ、現在も抗がん剤での治療を続けています。夫は腎臓がんになっても、血尿や痛みといった自覚症状は何もありませんでした。透析患者に腎臓がんが高率にできることを、私も夫も手術後に初めて知りました。前もってそのような情報を得て、定期的に検査を受けておけば、転移する前に発見できたのではないかと日々後悔しています。全国の数多くの透析患者さんやその家族に、夫と私たち家族の厳しい体験を少しでも役立てて頂ければ幸いです。愛知県 平山真理子 56歳。(10月14日 朝日新聞 患者を生きる 読者編より)
Oct 22, 2015 08:01

提供者が増える移植法
白血病は白血球のがんだ。白血球が骨髄でつくられる過程で、がん化して白血病細胞となる。病状の進み方で「急性」と「慢性」があり、がん化した白血球の種類によって「骨髄性」と「リンパ性」とに分けられる。連載で紹介した宮崎県日向市の女性(21)がなった「急性リンパ性白血病」は、発熱や貧血、疲れやすさなどの症状が出る。白血病細胞が増えることで正常な血小板が減ると、あざができたり、出血しやすくなったりする。治療は複数の抗がん剤を組み合わせた化学療法で、白血病細胞を一定数まで減らす「寛解導入療法」をする。8割ほどの人は「寛解」の状態になるが、再発する確立も高い。このため、寛解後も化学療法を追加したうえで、骨髄や臍帯血などからの造血幹細胞移植が検討される。最初の選択肢となるのが、血縁者からの骨髄移植。八つの白血球の型(HLA)がすべて一致するのが原則で、その確率は最も高いきょうだいでも25%しかいない。女性が再発後に受けた「ハプロ移植」は、HLAが半分だけ合う血縁者から提供を受ける。まだ研究の段階だ。兵庫医大は2005年から500人以上に実施し、国内最多となっている。自治医大血液科の神田善伸教授(48)は、ハプロ移植に利点に、提供できる人が増えることを挙げる。HLAは父母からそれぞれ半分ずつ受け継ぐため、型の半分が一致する確率は親子間なら100%、きょうだい間でも50%ある。また、この移植は型が違う分、移植した細胞の免疫が強く働き、白血病細胞を攻撃する力が増す。東京都立駒込病院血液内科の大橋一輝部長(53)によると、一般的な造血幹細胞移植の後に再発し、「打つ手がない」と言われた患者でも、延命の可能性が期待できるという。一方、正常な組織も攻撃されるので、下痢や黄疸などを起こす「移植片対宿主病(GVH病)」の危険がある。兵庫医大は、移植前の抗がん剤や放射線照射を軽くし、移植後のGVH病に体が耐えられるようにしておく。さらに、移植直後からステロイドで炎症を抑え、GVH病が重症化するのを防いでいるという。(10月10日 朝日新聞 患者を生きる 白血病 情報編より)
Oct 21, 2015 07:54

半分一致の母から移植
骨髄移植から1年9カ月後の2013年11月、宮崎県日向市の女性(21)は白血病が再発した。治療方針を話し合う場で、母親(48)の言葉に驚かされた。「お母さんが提供者になる。ハプロ移植をしよう」。聞いたこともない治療法だった。ハプロ移植は、両親からそれぞれ半分ずつ受け継ぐ八つのHLA型(白血病の型)のうち、半分合った骨髄を移植する。患者の両親は持病などがなければ100%提供者になれる。骨髄移植は完全一致が原則。ハプロ移植は白血球の型は違う分、免疫の力でがん細胞を攻撃する効果が大きく、再発して難治性の白血病でも治癒を目指せる可能性がある。その一方で、提供者の細胞が患者の体を攻撃する移植片対宿主病(GVH病)も激しく出る危険性がある。母親は以前、兵庫医大病院が、白血病を再発した患者にハプロ移植を実施しているのをテレビ番組で見たことがあった。「もし娘の病気が再発しても、まだこの選択がある」と考えていた。両親は、宮崎県立延岡病院の主治医の外山孝典さん(51)に紹介状を書いてもらい、兵庫医大血液内科の小川啓恭教授(63)を訪ねた。ハプロ移植に期待を抱きながらも、GVH病への懸念を伝えた。小川さんは「最近は薬でコントロールできるようになってきています。うちで治療しましょう」と応じた。母親から造血幹細胞を提供してもらってハプロ移植をすることが決まった。2014年2月、女性は兵庫医大病院へ転院した。母も5日間入院し、造血幹細胞を採取した。「型が少し違っても、お母さんの細胞だから大丈夫」。女性はそう信じた。移植から11日後、母の造血幹細胞からつくられた白血球の数が基準値を超え、「生着」と呼ばれる状態に達した。移植から2カ月後の5月には退院できた。現在も病院に近い兵庫県西宮市内に借りたアパートで暮らし、週1回通院しながら体調のチェックを続けている。今秋にも、日向市の自宅へ帰る予定だ。それは、次の目標のステップでもある。「もう一度勉強して、今度こそ高校を卒業したい」。(10月9日 朝日新聞 患者を生きる 白血病 より)
Oct 20, 2015 08:20

再発 母が新治療を提案
急性リンパ性白血病と診断された宮崎県日向市の女性(21)は2012年1月、骨髄移植を受けるため九州地方の総合病院に入院した。骨髄の提供者は「40代の女性」とのことだった。骨髄移植を受ける患者は、前処置として、大量の抗がん剤を点滴し、全身に放射線を当てて白血病細胞を減らし、同時に自分の造血幹細胞も死滅させる。その後、提供者から採取した骨髄液を移植し、提供者の健康な造血幹細胞が患者の骨髄で血液細胞をつくるようになる。さらに、移植した骨髄液には免疫細胞の「Tリンパ球」が含まれていて、その細胞が女性の体に残る白血病細胞を攻撃して減らす効果も期待できる。一方で、提供者のリンパ球が、女性の体を異物とみなして攻撃する移植片対宿主病(GVH病)を起こす恐れもある。下痢や黄疸、皮膚の炎症などが起き、重症になると命にかかわる。それでも女性は「移植を受けなければ治らない。怖がるよりも移植のメリットを信じて進もう」と腹を決めた。移植の日、病室に届いた骨髄液の容器を見て、女性は提供者のことを思った。「健康な体に針を刺して骨髄を提供してくれた人がいる。必ず治そう」。移植後は、GVH病による激しい吐き気に見舞われ、ほとんど食事もできなかった。自宅に戻れたのは、移植から半年後の2012年7月。2013年春からは通信制の高校へ転入し、勉強を再開した。移植から1年9カ月がたった2013年11月、検査に通っていた県立延岡病院で、主治医の外山孝典さん(51)から、恐れていたことを告げられた。「再び白血病細胞が出てきました。再発しているようです」。女性は外山さんの前で始めて涙を見せた。「これから先はいいことばかりだと信じていたのに」。外山さんは女性の両親と、今後の治療を話し合うことにした。母親(48)は、以前にテレビ番組で見た新しい治療法について、外山さんに尋ねた。「ハプロ移植」。八つのHLA(白血球の型)が完全に一致でなくても、半分合っていれば移植をする方法だ。親子なら必ず提供者になれる。母親は「自分が提供者になろう」と決めていた。(10月8日 朝日新聞 患者を生きる 白血病 より)
Oct 19, 2015 07:50

友人がまぶしく見えた
宮崎県日向市の女性(21)は、高校1年だった2011年1月に白血病と診断され、県立延岡病院に入院した。検査の結果、白血病の中でも、白血球の一種のリンパ球が若い段階でがん化する「急性リンオア性白血病」とわかった。すぐに3種類の抗がん剤を点滴して白血病細胞を減らし、正常な血液細胞の増加を促す「寛解導入療法」が始まった。1カ月後、骨髄液中に含まれる白血病細胞が一定以下のレベルに減る「寛解」になった。ただ、寛解に至っても、治療を続けなければ1年以内に8割の人が再発する可能性がある。このため、3月からは再発を防ぐ「地固め療法」を受けた。地固め療法による抗がん剤治療は約4週間を1クールとして、5クール続いた。治療が始まると、薬の副作用で口の中がただれ、強いだるさを感じた。病院のベッドで、ほぼ寝たままで過ごした。高校は1年生の3学期から休学していた。時折、友人が千羽鶴や寄せ書きを持って見舞いに来てくれた。毎日、パジャマ姿で過ごす女性の目には、よそ行きの服を着ておしゃれをしている友人たちがまぶしく見えた。「元気な友人に会うのが嫌だと思う、黒い心の自分がいる」。母親(48)にそう漏らした。入院から8カ月後の9月下旬、退院できることになった。ただ、急性リンパ性白血病は、再発する可能性が高い。治癒を目指すには、HLA型(白血球の型)からが適合する人から、赤血球や白血球、血小板をつくり出す造血幹細胞を移植する必要がある。姉(24)と弟(18)は「自分の骨髄を提供したい」と検査を受けたが、2人とも女性とはHLA型が適合しなかった。主治医の外山孝典さん(51)は、提供者を求めて日本骨髄バンクに登録した。退院後の10月から高校に復学した。「クラスに私の居場所はないかもしれない」。不安な思いで登校すると、友人たちが歓迎会を開いてくれた。12月には東京と鎌倉への修学旅行にも参加できた。「学校へ通う当たり前の日々が、とても大事に思えた」。翌2012年1月、外山さんから連絡が来た。「骨髄の提供者が見つかりました」。(10月7日 朝日新聞 患者を生きる 白血病 より)
Oct 18, 2015 08:18

歩くだけでひどい疲れ
宮崎県日向市に住む女性(21)が体の異変に気付いてのは、高校1年生だった2010年12月、体育の授業で持久走をしたときだった。400メートルトラックを4分の1ほど走っただけで、肩で息をするほど苦しくなった。「運動不足でしょ」。女性の母親(48)は当初、気にしていなかった。中学ではソフトボール部に所属していたが、高校入学後はあまり体を動かしていなかった。しかし、2学期の終業式直前の12月下旬になると、校内で友人と並んで歩くだけでひどく疲れ、まるで全力疾走しているように感じた。自宅の階段をはうようにして上る娘の姿に、「普通の体じゃない」と母も不安を抱いた。自宅近くの内科クリニックを受診し、血液検査を受けた。翌2011年1月4日、クリニックから電話がかかってきた。「普通の貧血ではないようです。県立延岡病院へ行ってください」。翌日、紹介状を持って受診した。女性が別室で輸血を受けている間に、内科医長の外山孝典さん(51)は母親に告げた。「ほぼ間違いなく白血病です」。白血病は血液のがんの一つ。白血病細胞(がん細胞)が異常に増えて正常な血液細胞が減ることで、免疫力が落ち、発熱やだるさなどが起こる。血液検査の結果、女性は血液中に多くの白血病細胞が見つかり、逆に、血小板の数は健康な人の10分の1ほどだった。「誰かとカルテを間違えているのでは?」。母親は、外山さんのパソコン画面をのぞき込んだ。しかし、画面上には娘の名前が表示されていた。駆けつけた父親(53)と3人で女性にどう説明するか相談した。外山さんは「本人にしっかり治そうという気持を持ってもらうためにも、説明しましょう」と提案。そのまま入院することになった女性に、「白血病は、骨髄にある白血休や赤血球などの元になる造血幹細胞ががんになる病気です」と伝えた。「私はどうなっちゃうんだろう」。女性は不安に駆られたが、外山さんが最後に言った言葉を胸に刻むことにした。「今は白血病は治る病気だよ。一緒にがんばろう」。(10月6日 朝日新聞 患者を生きる 白血病より)

Oct 17, 2015 08:03

超音波でも早期発見難しく
胆管は、肝臓でつくられた消化液(胆汁)を十二指腸まで運ぶ通り道の管のことだ。肝臓内の細い管が集まって1本の太い管になり、十二指腸に向かう。国立がん研究センターによると、胆管と、胆汁をためておく胆嚢のがんの推計患者は、2013年で2万2600人。がん患者全体の約3%を占める。60~70代の患者が多い。5年生存率は20%程度。初期の段階ではほとんど症状がなく、早期発見が難しい。胆管は太い部分でも直径7ミリ程度で、がんがこの部分を塞ぐと胆汁が流れずに皮膚などに黄疸が出る。神戸大医学部肝胆膵外科の具英成教授は「わずかでもすきまがあれば胆汁は流れるので、黄疸が出るのは胆管が完全に塞がったとき」と説明する。胆管は胃や膵臓の裏側にあり、超音波を使っても初期のがんは見つけにくく、肝機能や腫瘍マーカーから診断することも難しいという。治療は手術が基本だ。肝臓内やその周辺にがんが広がっていれば、肝臓を含めた広い範囲を切り取る必要がある。十二指腸、膵臓近くにできたがんでは、膵臓を含めて切り取る必要がある。切り取った後、胆管や膵臓の管をつなぐ必要があり、大がかりな手術になるという。一方、腹膜やリンパ節などに複数の転移があって手術できない場合や、手術後の再発を予防するために、抗がん剤のゲムシタビンやシスプラチン、TS-1などが使われているが、今のところ効果は限られている。印刷会社の労災で、発がんの原因と推定された化学物質は「1,2ジクロロプロパン」と「ジクロロメタン」。厚生労働省の報告書によると、通常、低い濃度で体内に入った場合は、肝臓の酵素で代謝されるが、高濃度になると、代謝が追いつかなくなり、胆管での代謝が起きる。それが長期間続くことでがんが発生すると考えられている。この問題を受け世界保健機関(WHO)は2014年、「1,2ジクロロプロパン」をもっとも危険性が高い「発がん性がある」グループに認定し、「ジクロロメタン」は「発がん性を持つ可能性がある」(2A)に引き上げた。(10月3日 朝日新聞 患者を生きる 労災で胆管に 情報編より)
Oct 16, 2015 08:15

体は元に戻らないけれど
胆管がんの手術を受けた徳島県鳴門市の野内豊伸さん(37)は2カ月半後の2013年4月、大阪市立大病院を退院した。入院中、元勤務先の印刷会社で使われた二つの化学物質が、がんの原因だろうとする厚生労働省の調査がまとまった。大阪労働局の強制捜査で、印刷会社が法律で義務付けられた換気方法を当時とっていなかったこともわかった。労災申請が認められ、同年5月に支援団体の関西労働者安全センターで記者会見をした。「貯金を取り崩していたので、ほっとした。追い詰められた気持で治療をしている」。報道陣に訴えた。秋に復職したものの、体の調子はなかなか戻らなかった。すぐに疲れを感じ、風邪をひくと熱が長引いて3日は寝込んだ。主治医で、大阪市立大病院肝胆膵外科の久保正二さんは、化学物質が原因と考えられる胆管がん患者の症例を見ながら「通常よりも再発率が高いかも知れない」と、野内さんに説明した。再発は、がん細胞が血液に乗ってほかの臓器などに移動して生じることが多い。だが、野内さんの場合、胆管全体や肝臓も傷ついていて、がんになる直前の状態が、あちこちにある可能性があった。今年4月、定期検査で受けたCT撮影で、肝臓の外側にある太い「総胆管」と呼ばれる部分にがんが見つかった。「とかげのしっぽみたいに、また出てくるもんやな」。予想はしていたが、落ち込んだ。すぐに2度目の手術を受け、胆管の一部と、がんになりかかっている部分を切除した。1週間後、病院のベッドに寝ていると寒気を感じ、発熱した。傷口の化膿が原因で一時は40度に達した。「このまま死ぬのか」。高熱は4日間続いた。退院した後、印刷会社から補償金が支払われた。それで体が元に戻るわけではない。今も月に1度診察を受け、抗がん剤を飲み続けている。ただ、落ち込んでばかりいられない。以前ほどは飲めなくなったが、同じ趣味の仲間とたまにバーに集まってワインを飲み、病気のことを一時忘れる。「体のことは、気楽に考えるしかない」。今はそう思っている。(10月2日 朝日新聞 患者を生きる 労災で胆管に より)
Oct 15, 2015 08:08

手術後に1週間の高熱
2012年11月、徳島県鳴門市の野内豊伸さん(37)は大阪市立大病院(大阪市阿倍野区)で、胆管がんと診断された。主治医の肝胆膵外科の久保正二医師から「今から手術しますか」と聞かれた。「がん」と言われることは覚悟していたが、受診したその日のうちに手術をするという話はさすがに驚いた。「そんなに大変な病気なんや」。それでも、仕事の都合もあって、急に休むことは難しいと思った。幸い、がんは周りの組織にまで広がっていないようだった。手術は年が明けてから受けることにした。自宅に戻った野内さんは、趣味で集めたワインのボトルを眺めた。胆管がんについてインターネットなどで調べ、進行すると生存率が低いことを思い出した。「手術したら、飲めへんやろな」。思い切って貴重なウィン12本、合わせて約50万円分の栓を開け、手術までの2カ月間で飲み干した。2013年1月、手術で肝臓の3分の1を切り取った。手術はうまくいったものの、切り取った周辺が化膿して、1週間近く高熱に苦しんだ。久保さんは「化学物質を大量に浴びてほかの臓器も傷つき、合併症が出やすいのだろう」と考えた。発熱が治まると、再発を予防するための抗がん剤治療が始まった。胆管がんの治療では通常、ゲムシタビンという点滴薬と、TS-1という飲み薬が使われるが、化学物質が原因の症例ではデータがなかった。久保さんからは「抗がん剤がどれほど効果があるのかはわからないが、とにかく使ってみましょう」と勧められた。点滴は週に1度通院する必要があるため、飲み薬だけにした。薬は1日2回。副作用で肌が硬く、がさがさになり、特にひじの内側がかゆくてたまらなかった。こらえきれずにかきむしると、血が出て、さらに荒れがひどくなった。手術費や2カ月半の入院費は50万円を超えた。印刷会社の元同僚や支援団体に相談して、労災の申請をすることにした。胆管がんでの申請は、野内さんが17人目だった。(10月1日 朝日新聞 患者を生きる 労災で胆管に より)
Oct 14, 2015 08:14

「今から手術しますか」
徳島県鳴門市の会社員野内豊伸さん(37)は2012年5月、かつて勤めた印刷会社の同僚が相次いで胆管がんで死亡したことをニュースで知り、自分もがんではないかと疑った。近くの病院で診察を受けたがはっきりわからず、経過観察になった。元の勤務先に連絡しても「検診費用は支払う」という事務的な対応しかなかった。波紋はその後も広がった。問題を指摘された印刷会社は従業員13人が胆管がんを発症し、うち7人が死亡していたほか、宮城県内の別の印刷会社でも2人が発症していた。印刷機械の洗浄剤に含まれていた化学物質が、呼吸や皮膚を通じて体内に入り、胆管に運ばれて発症につながったと見られた。胆管がんの診断は専門医でないと難しい。大阪市立大病院(大阪市阿倍野区)に同年8月、「胆管がん特別外来」が設置された。肝胆膵外科の久保正二医師は「患者はもっと増えるだろう。どこを受診すればよいかわからない人のために、窓口が欠かせない」と考えていた。不安な日々を過ごしていた野内さんは、テレビで「特別外来」の存在を知った。問題の会社で働いていたことや、肝機能の数値などを予約時に伝えた上で、11月に病院に出向いた。自覚症状はなかったが、改めてCTを撮ると、肝臓内が白く写った。肝臓で作られた胆汁が流れる細い胆管が詰まっていた。診察に当たった久保さんから「胆管がんですね。間違いありません」と告げられた。覚悟はしていたので、その言葉にもうろたえずに済んだ。通常は、がんの広がりや転移の有無でステージが決まるが、野内さんの場合は、化学物質の影響で臓器全体がダメージを受けている可能性が高かった。胆管がんは症状が出にくいため、倦怠感や黄疸などが現われる段階になると、がんが肝臓やリンパ節に転移して手術が難しくなってしまうことが多い。説明を終えた久保さんは、こう切り出した。「今から手術しますか」。予約時に伝えられた経歴などから、病院はすぐにでも手術ができるよう、態勢をあらかじめ整えていた。(9月30日 朝日新聞 患者を生きる 労災で胆管に より)
Oct 13, 2015 07:59

印刷会社の元同僚の死
2012年5月、徳島県鳴門市の会社員、野内豊伸さん(37)はテレビのニュースを見て、「あっ」と声を上げた。大阪市内の印刷会社で、元従業員4人が胆管がんで死亡していたことが明らかになり、作業で使っていた洗浄剤が原因ではないか、と伝えていた。会社名は伏せられていたが、かつての勤務先だとすぐわかった。1997年から約6年間、刷り上った印刷物の色を点検する仕事に就いていた。風通しの悪い地下の作業場で、図鑑やパンフレットを数部刷っては、洗浄剤を染み込ませた布で機械に付いたインクをふき取った。多い日には、この作業を5分ごとに繰り返すこともあった。ペットボトルのような容器に入った洗浄剤は、鼻をつく刺激臭があった。同僚と「体に悪いかも」と話していたが、マスクを着けるなどの対応はしていなかった。2002年、転職して鳴門市に移った。その後、かつて工場長と同僚ががんで亡くなった。葬儀では、相次ぐ死を不審に思う元同僚から「あの会社、何か隠していないだろうか」と言われた。自身の体調に変化は感じていなかったが、数年前から肝機能のγGTP値が徐々に上がって正常値の6倍の300近くに達し、健康診断で異常を指摘されていた。「お酒の飲み過ぎだろう」と思って好きなワインの量を控えても、改善しなかった。ニュースを見て、「自分のがんかもしれない」と不安を抱いた。鳴門市内の総合病院で診察を受けた。肝臓の周りをCTで撮影し、医師に「何かあるね」と言われた。だが、はっきりと診断はできず、経過観察になった。印刷会社での胆管がん問題は、ネットの匿名掲示板で様々な情報が連日書き込まれた。「一体、何が起こっているのか」。報道から約1カ月後、印刷会社から実家に封書が届いた。「伝えたいことがあるので、連絡をください」と記されていた。「胆管がん」という文字はどこにもなかった。「あれだけ報道されているのに、どういうことや」。事実をごまかそうとしているような気がした。(9月29日 朝日新聞 患者を生きる 労災で胆管に より)
Oct 12, 2015 09:52

53タイプ 進み方に差
悪性リンパ腫は血液がんの一種で、細菌やウイルスから体を守る働きがあるリンパ球のがんだ。リンパ節以外にも、骨髄や血液に生じたり、胃や大腸などの臓器にしこりを作ったりする。主な症状としては、首やわきの下、足の付け根などの腫れや、発熱・体重減少・ひどい寝汗などがみられることがある。2011年に国内で2万5千人が新たに診断され、血液がんの中では最も患者数が多い。男性に多く、60代以降に起こりやすい。悪性リンパ腫は、細胞の形状などから、大きく「ヒジキンリンパ種」と「非ホジキンリンパ種」に分けられ、国内では約9割が非ホジキンリンパ種だ。虎の門病院(東京都港区)血液内科の伊豆津宏二部長(46)によると、悪性リンパ腫は53のタイプに分類され、病気の進行の仕方や治療法などが異なる。診断には、リンパ節などを一部切除する生検が必要だ。さらに、リンパ腫の広がり具合を示す病期などに応じて治療法が選択される。国内で最も多いのが、非ホジキンリンパ種の「びまん性大細胞型B細胞リンパ腫」というタイプだ。悪性度は「中悪性度」とされ、未治療の場合、主に月単位で病気が進行する。標準的な治療は、分子標的薬や抗がん剤を用いた標準的治療「R-CHOP療法」。伊豆津さんによると、この治療で半数以上で治癒が期待できるという。2番目に多いのが、連載で紹介した奈良県の穐鹿恭悦さん(68)と同じ「ろほう性リンパ種」というタイプだ。「低悪性度」で、年単位でゆっくり進行する。ろほう性リンパ種も、RーCHOP療法などの治療で、腫瘍が小さくなったり、消えたりすることが期待できる。だが、再発するケースも多い。再発時期は数年~十数年後と、人によって異なる。このため、治療を終えた後も、血液検査やPET-CTなどによる画像検査を定期的に行う。一方、ろほう性リンパ種と診断されても、症状がなく、腫瘍が小さい、などの場合には、これまでの研究結果などから、治療せずに定期的に診察を受ける「経過観察」も③拓士になっている。(9月26日 朝日新聞 患者を生きる 悪性リンパ腫 情報編より)
Oct 11, 2015 15:07

今は治療せず自然体で
2006年に悪性リンパ腫の治療を終えた奈良県の穐鹿恭悦さん(68)は、経過観察のために病院に通った。1~2カ月後に1度、血液検査で腫瘍マーカーを確認し、年1回ほどPET検査を受けた。「異変がみられます」。そう告げられたのは、5年後の2011年の年末だった。腫瘍マーカーの値が上がり、腹部のリンパ節が少し大きくなっているようだという。「病気が再発したのか」「治療が本当に必要なのか」と聞いても、納得のいく説明は得られなかった。自分の置かれた状況がよく分からず、不安になった。「ほかの先生にも意見を聞いてみたい」と医師に伝え、これまでのCTやPET画像データをもらった。ちょうどそのころ、長女(43)が悪性リンパ腫に関する新聞記事を見つけてくれた。その記事に名前が出ていた近畿大医学部付属病院(大阪府大阪狭山市)の血液・膠原病内科の辰巳陽一教授(55)に、セカンドオピニオンを聞きにいくことにした。年が明けた2012年1月末、穐鹿さんが持参した画像を見て、辰巳さんは「確かに正常とは言い難いが、今すぐ慌てて治療する必要はないでしょう」と説明した。穐鹿さんは、年単位でゆっくり進行する、ろほう性リンパ種というタイプで、無症状であれば、経過観察が選択されることも多い。「少しでも正常でなかったら気が済まない、という方なた、治療したほうがいい。ですが、やらなかったら、命にかかわる、という段階ではありません」気になるなら、という程度であるなら、吐き気で食事も満足にできなくなった、あの治療の苦しみを味わいたくはない。すぐに治療はせず、辰巳さんの元でそれまでと同じく経過観察を続けることにした。治療の必要性は、それまでの経過と現状から、総合的に判断される。「治療を延ばさない方が良い段階になったら、言ってほしい」と頼んである。将来、必要となった場合は、治療を受ける覚悟をしている。「がんの治療方法は10年後にはもっと進歩するだろうし、30年たてば新しい世界が開けるはず。それまで、自然体で長生きしたい」。(9月25日 朝日新聞 患者を生きる 悪性リンパ腫より)
Oct 10, 2015 07:49

「ずっと付き合う病気」
悪性リンパ腫と診断された奈良県の穐鹿恭悦さん(68)は2005年末、県内の総合病院に入院し、分子標的薬と抗がん剤などを組み合わせた「R-CHOP療法」を受け始めた。新年は自宅で迎え、1月3日に病院に戻って、翌日、医師の診察を受けた。首とわきの下のリンパ節の腫れは引いているという。治療開始から10日足らず。「こんなにすぐ効果が出るのか」と驚いた。ただ、採血の結果、抗がん剤の影響で白血球の減少が見られた。感染症にかかりやすため、かぜなどを引かないよう注意が必要だと説明された。治療開始から約2週間後、シャワーを浴びているときに、髪の毛がゴソッと抜けた。臭いに敏感になり、ムカムカと吐き気がした。食事もほとんど食べられない。約1カ月間の入院で、体重が10キロほど落ちた。退院後は約3週間ごとに、治療を受けるときだけ1泊2日で入院した。治療の回数を重ねるごとに副作用の苦痛は増した。口内炎ができ、味覚障害も出た。足がむくんでパンパンになったり、指先にしびれが出たりもした。体力を付けようとたまに近所を散歩したが、坂道を歩くのがきつかった。2006年5月、半年間に及ぶ治療が終わった。点滴や採血で腕の血管や周りの筋肉に何度も針を刺したため、硬くなって刺せなくなっていた。手の甲や足の血管に針を刺して採血した。6月下旬に受けたCTとPET検査の結果、「がん細胞の活動はどこにも見られない」との説明を受けた。ただ、「この病気は今後再発の恐れがあり、長期間の定期観察を受ける必要がある」とも言われた。穐鹿さんのがんは、悪性リンパ腫の中では悪性度の低い「ろほう性リンパ種」というタイプだった。だが、悪性度の高いタイプに変化することもあるという。「ずっと付き合っていく病気なんだな」。改めて、そう感じた。とはいえ、治療が終わり、「とりあえずはひと安心」。心配をかけた妻や、3人の子どもたちが喜んでくれたことが、何よりうれしかった。この年の夏、約半年ぶりに職場復帰を果たした。(9月24日 朝日新聞 患者を生きる 悪性リンパ腫より)

Oct 07, 2015 07:56

「治療に専念」覚悟決めた
血液がんの一種「悪性リンパ腫」と診断された奈良県の穐鹿恭悦さん(68)は2005年12月、自宅近くの総合病院に入院して治療を受けることになった。リンパ腫の広がりなどから判定する1~4の病期は3期だった。大手メーカーに入社して以来、仕事優先で働きづめだった。当時は定年退職が見えてきたころで、仕事を任せられる部下もいた。治療を優先させたいと思った。会社に電話をし、「悪性リンパ腫の中でも進行が遅いタイプです。それほど治療を急ぐ状態ではないけれど、自分としては早く治療をしたい」と状況を伝えた。入院後、改めて詳細な検査を受けた。尿・便・採血検査のほか、CT、腹部・胸部のX線、エコー。骨髄にがん細胞が広がっていないかを調べるため、骨髄の抜き取り検査もした。12月27日、本格的な治療が始まった。「R-CHOP療法」と呼ばれる治療法で、「R]は分子標的薬「リツキシマブ(販売名リツキサン)」の頭文字。それと抗がん剤による治療を、2~3週間ごとに計6~8回ほど、約半年かけて繰り返す。リツキシマブは2001年に保険適用された当時まだ新しい薬。この薬の登場で、悪性リンパ腫の治療成績はかなり向上したと言われる。1クールは5日間。はじめの2日間は点滴治療で、少し胸のあたりにむかつきを感じたが、体調の変化はそれほどなかった。錠剤だけ服用する日もあった。妻(68)が、腫れ物を治す神様として知られる神社に通い、何度もお百度参りをしてくれた。その妻がもらってきてくれたお守りを、入院中は寝巻きのポケットにいつも入れていた。治療開始から5日目。大みそかにいったん自宅に戻ることができた。帰省した長女や次女、長男。孫たちと一緒に過ごした。新年を迎え、「人生最大の岐路にいる」と感じた。好きな言葉は、「人間万事塞翁が馬」。大学受験も就職も、人生の局面を振り返っても、未来を正確に予測できたためしはない。人生はその繰り返しだ。「とにかく目の前の治療に専念するしかない」。そう覚悟を決めた。(9月23日 朝日新聞 患者を生きる 悪性リンパ腫より)
Oct 06, 2015 07:43

「腫れ」自分で気づかず
奈良県の穐鹿恭悦さん(68)は以前から右の脇腹がキリキリ痛むのが気になっていた。会社員だった10年前、2005年秋のことだ。「筋肉痛かな」とも思ったが、どうもおかしい。地元の病院で、腹部のエコー検査を受けることにした。結果を聞く予定日の数日前、病院から電話がかかってきた。「予定より早く来てもらえますか」。不安を抱えつつ受診をすると、医師から言われた。「おなかのあたりのリンパ節が腫れています」。「リンパ節の腫れ」と言われても、ピンと来なかった。脇腹の痛みとは関係ないが、PET検査で詳しく調べる必要があるという。PETが、がんを調べる時に使う検査であることは知っていた。「ひょっとしたら・・・」という思いがよぎった。12月初め、結果を聞きに行くと、医師から「悪性リンパ腫と思われます」と告げられた。聞いたこともない病名だった。血液の悪性腫瘍の一つで、診断のためにはリンパ節などの一部を切除して病理検査する「生検」を受ける必要があるという。「こんない大きくなっているのに、分かりませんでしたか」。紹介先の大学病院で、医師はリンパ節のある首や脇、足の付け根を触りながらそう言った。自分では気づかなかった。生検では左首の付け根のリンパ節を調べることになった。局所麻酔で意識があるまま、首もとを切られるのは恐ろしかった。12月下旬、生検の結果が出た。悪性リンパ腫の中でも「ろほう性リンパ腫」というタイプと診断された。「大変なことになってしまった」。診断結果を聞いて動揺した。悪性リンパ腫は低・中・高の3段階の悪性度に分けられる。悪性度が高いと月単位で進行するが、穐鹿さんが診断された「ろほう性リンパ種」は、年単位でゆっくり進行する「低悪性度」だった。「点滴で行う抗がん剤治療で効果があります」。医師の説明を聞くうちに、「治る病気なんだ」と感じ、気持の落ち着きを取り戻した。(9月22日 朝日新聞 患者を生きる 悪性リンパ腫より)

Oct 05, 2015 08:13

症状・進行 人それぞれ
脳腫瘍は頭蓋骨の中に生じる腫瘍の総称だ。脳や脳を包む膜自体から生じる「原発性脳腫瘍」と、ほかの場所で生じたがんが原因になる「転移性脳腫瘍」がある。「原発性」の発生率は年間で3万人に1人程度。国立がん研究センターは、今年新たに原発性脳腫瘍になる患者数は5100人と推計している。腫瘍があると、頭蓋骨内の圧力が高まり、慢性の頭痛や吐き気などが起きる。また、腫瘍の場所によって、その部位が担当している「読み書き」「聴力」「視力」などの機能に障害が出る。連載で紹介したピアノ教師の女性は、脳腫瘍の中でも「グリオーマ」と診断された。脳そのものは、神経細胞と、神経細胞に栄養を与える役割などがある「グリア細胞」でできている。グリア細胞から生じる腫瘍がグリオーマだ。「神経膠腫」とも呼ばれ、原発性の約3割を占める。グリオーマは一般に悪性とされ、多くの種類がある。脳内にしみこむように広がり、腫瘍と正常組織との境界があいまいで、手術で取るのが難しい。一方、脳を包む髄膜や下垂体などに生じる腫瘍は、良性のものが多い。腫瘍と正常な部分の堺がはっきりしていて、切除しやすく、手術で治しやすい。グリオーマなど悪性の脳腫瘍は、手術でできる限り腫瘍を取り、残った腫瘍を放射線治療や化学療法でたたくのが通常の治療方法だ。ただ、脳腫瘍は患者数が少ない半面、種類が多い。このため、それぞれの種類ごとの標準治療が確立されていない。現在、日本脳腫瘍学界が診断や治療のガイドラインを作成中だ。脳は薬剤が到達しにくい性質があるため、治療薬の開発を難しくしている。ほかの臓器のがんに有効な抗がん剤の転用も難しい。慶応義塾大の佐谷秀行教授(腫瘍生物学)は「一人一人の症状や進行は違うので、ほかの患者さんの例を自分に当てはめて、あきらめたり、楽観したりするべきではない」という。また医師によって治療法をめぐる見解が異なることも多く、「セカンドオピニオン」で主治医以外の意見を聞くことも重要だ。(9月19日 朝日新聞 患者を生きる 脳の機能を残す 情報編寄り)
Oct 04, 2015 08:14

何があっても後悔しない
右の脳に腫瘍が見つかった東京都のピアノ教師の女性(54)は2009年11月、脳の機能保持を最優先して病理検査に必要な少量だけ腫瘍を取る手術を受けた。手術後、女性は夫(57)から言葉を話せない患者を見かけた、と聞いた。「大きな手術の痕があった。大きく取ったせいで障害が出たんだと思う」。夫が根拠のない推測を言うのは珍しいと驚いた。「機能を残す方法を選んでよかったと確信しるため、これからも私たちは様々なこじつけを考えていくのだろう」。そう思った。検査の結果、腫瘍には抗がん剤が効きやすい遺伝子の特徴があった。女性は「脳腫瘍を野放しにせず、闘える」とほっとした。化学療法を2010年の年明けから2011年4月まで続け、腫瘍の拡大はいったん止まった。2013年、腫瘍が再び広がり始めているとわかった。腫瘍は脳の左側にも達していた。左側には会話や読み書きの機能がある。自分の経験を書きつづって、医師やほかの患者に伝えたいという思いが強くなった。「一番やりたいことを奪われる」と、強いショックを受けた。再開した化学療法は効果が見られず、「強度変調放射線治療」という治療に切り替えた。放射線の強さを細かく調整でき、脳の機能を守るのに適していたからだ。今年3月から4月に計28回の治療を受けた。約1カ月後のMRI検査で、左脳まで広がった腫瘍が右側に後退していた。見た目は正常でも、物を落としたり、足がもつれたりする恐れがあり、こもりがちになった。救いは、2011年に入会した患者団体「脳腫瘍ネットワーク」だ。病気に詳しい患者や家族が助け舟を出してくれるので、会合に参加しやすい。団体の田川尚登副理事長(58)は「勉強熱心で医師との会話などを克明にメモしている」と感心する。この6年間、抗がん剤の点滴で激しい痛みに襲われたり、起き上がれなかったりして苦しんだこともあった。でも手術の後遺症はなく、望んだ通り、ピアノの指導も続けている。「考え抜き、先生方にも十分手を尽くしていただいたのだから、何があっても自分の決断にには後悔しない」と、思っている。(9月18日 朝日新聞 患者を生きる 脳の機能を残すより)
Oct 03, 2015 08:01

「最小限の手術」を希望
右の脳に腫瘍が見つかった東京都のピアノ教師の女性(54)は2009年11月、主治医(56)から手術の方法について、説明を受けた。生命維持に関わる部分などにある腫瘍は取れないので、手術で切除できるのは最大でも全体の6、7割という。それでは腫瘍が多く残ってしまい、手術による延命効果は小さい現実が見えてきた。しかも、腫瘍が大きいので6割でも失われる脳の機能は大きいだろう。残された時間、回りの人たちといろいろなことに感動しながら生きたい。文章を書き、ピアノを弾き続けたい。延命効果に大差ないなら機能を優先したい。ずっと考えてきた希望を口にした。「豊かな気持で暮らせるよう、できるだけ脳の機能を残してほしいのですが」。女性の気持をくみ取った主治医は「切除は病理検査に必要な最小限にとどめ、残りの腫瘍は抗がん剤で治療していきましょう」と提案した。「その方法でお願いします」。女性は一呼吸おき、そう答えた。「少しでも延命効果の高い方法を選ぶべきなのでは?」と批判する親戚に、夫(57)は「本人の決断を理解してほしい」と手紙を書き、説得した。11月の手術の直前、長く米国の大学で内科教授を務めた叔父(85)からメールが来た。「医者としてではなく、ただあなたを深く愛する親類の一人として、少しでも治癒の可能性のある治療法を選んでほしい」。機能の保持を優先するため、余命を縮めても腫瘍の切除を最小限に抑えるという女性の決断に、反対する内容だった。決心は揺らがなかったが、自分を気遣ってくれる叔父の気持を思い、涙がにじんだ。11月中旬、7時間の手術を受けた。全身麻酔をかけて頭を開き、最初に決めた通り、検査に必要な最小限だけ腫瘍を切除した。手術室で目を覚ますと、医師らが視界に入った。名前を呼びながら「ありがとうございました」と声をかけた。かすれ声を出すのがやっとだったが、「感謝できる心が、手術で失われずに残っていてよかった」と思った。(9月17日 朝日新聞 患者を生きる 脳の機能を残すより)
Oct 02, 2015 07:53

息をのんだMRI画像
激しいけいれん発作に見舞われた東京都に住むピアノ教師の女性(54)は2009年9月、病院で脳に腫瘍があると指摘された。腫瘍は右前頭葉にあり、脳腫瘍の一種である「グリオーマ」の可能性が高いという。前頭葉は脳の前半を占め、意欲や行動などに関わる脳の司令塔だ。夫(57)は腎臓病とリウマチをわずらっていて、母もがんの手術を受けたばかりだった。もし、病名を聞いたら、夫や母親がどれほどショックを受けるだろう・・・。そう感じた女性は「家族には、良性腫瘍ということにしていただけませんか」と入院先の病院の主治医に(56)にお願いした。だが、医師は「一生つきあっていかなければいけない病気です。ご家族の支えが、どうしても必要です」と答えた。「治らないという意味なのか」と、怖くて聞き返せなかった。入院から9日目、家族も交えて主治医から詳しい説明を受けた。MRIの画像を見て、女性は息をのんだ。「大きい」。腫瘍は7センチで、右の脳にはっきりと白く見えた。まだ、意識にかすみがかかったようで、ひとごとのように現実感がない感じがした。主治医は「砂地にインクを落としたように広がっていくタイプの腫瘍です」と説明した。腫瘍は、脳の中心部にある視床下部まで広がっているという。そして、言いにくそうにこう続けた。「視床下部は体温やホルモン調節など身体の大切な機能を維持している部分なので、切除はできません」。ペンを持つ手が止まり、思わず、夫を見た。ほおが紅潮しているのが分かった。手術で切り取られるのは、腫瘍全体の6~7割という。できる限り切除し、さらに抗がん剤の治療を受けるよう勧められた。「できる限り取った場合、どんな後遺症が残りますか?」。女性の質問に、医師は「人格が変ったり、意欲がなくなったりして、社会生活に影響が出る場合もあります」と答えた。人格が変ったらこれまで築きあげてきた人間関係はどうなるのだろう。自分が自分でなくなってしまう・・・。そんな不安が、頭をよぎった。(9月16日 朝日新聞 患者を生きる 脳の機能を残すより)
Oct 01, 2015 08:33


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